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あなたの妻はもう辞めます、外交文書も妻の座もお断りして侯爵家を出ます  作者: 小竹X


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第27話 サラの初めての署名/離縁判決

サラが初めて正式な署名をしたのは、見習い登録の日だった。多言語文書監査官の見習い枠が三名設けられ、その一人としてサラが採用された。年齢は若い。学歴もない。けれど、川町の混合言語を読み聞きできる人材は貴重だった。


 本人は朝から落ち着かなかった。


「わたし、本当にいいんですか」


「登録審査に通りました」


「でも、字がまだ遅いです」


「遅くても正確なら、速くて雑な字より役に立ちます」


「でも、姓がありません」


 サラはそのことを一番気にしていた。避難民名簿には、サラ・川町出身としか記録されていない。家族を失い、家名を確認できる書類もない。正式な登録用紙には、姓名欄がある。


「姓欄は空欄でも登録できます」


「空欄だと、何か足りないみたいです」


 彼女は小さな声で言った。私は考えた。名を失う痛みは、形が違っても分かる。


「仮登録では、出身地名を添えることができます。サラ・リヴァージュ。川辺という意味です」


「リヴァージュ」


「嫌なら別の言葉にしましょう」


 サラは何度か口の中で繰り返した。


「川町っぽいです」


「ええ」


「じゃあ、これにします。いつか本当の家名が分かったら、変えられますか」


「変えられます。名前は牢ではありません」


 サラは真剣に頷いた。登録室には、オリーヌ、マルタ、グレタまで来ていた。クロイツ公爵も、なぜか外務院への用事のついでとして姿を見せた。


「ついでにしては、登録時間をご存じでしたね」


 私が言うと、公爵は真顔で答えた。


「招待された」


 サラが胸を張った。


「はい。わたしが呼びました」


「そうでしたか」


 彼女は登録用紙の前に座った。名前欄に、ゆっくり書く。サラ・リヴァージュ。字はまだ少し不揃いだ。けれど、最後まで自分で書いた。次に、見習いとして守る規則へ署名する。文書を勝手に持ち出さない。読めない時は読めないと言う。人の名を省かない。現場の言葉を軽んじない。


 サラは一つずつ読み、分からない単語を尋ねた。


「軽んじないって、馬鹿にしないってことですか」


「そうです。大事に扱うこと」


「分かりました」


 彼女は署名欄へもう一度名前を書いた。登録官が印を押す。その小さな音で、サラは正式な見習いになった。彼女はしばらく紙を見つめ、突然泣き出した。


「すみません」


「謝らなくていいわ」


「だって、名前が、紙に」


 私は彼女の肩に手を置いた。その感覚を、私は知っている。紙の上に自分の名があるだけで、世界の端から少し中央へ引き戻されるような感覚。クロイツ公爵が静かに言った。


「おめでとう、サラ・リヴァージュ見習い」


 サラは泣きながら笑った。登録室の窓から、淡い光が差している。サラの署名は、まだ小さな一歩だ。けれど、小さな名が正しく記録される制度こそ、私たちが作ろうとしているものだった。


 ◇


離縁判決の日、私は朝から落ち着かなかった。仕事の書類を開いても、同じ行を二度読んでしまう。サラに指摘され、オリーヌに茶を渡され、マルタには早めに外套を着せられた。


「今日は仕事ではありません」


 マルタが言った。


「裁判も仕事のようなものです」


「そう言えば落ち着くのは分かりますが、今日は奥様ご自身のことです」


「奥様ではないわ」


「もうすぐ、正式にもそうなります」


 その言葉に、胸が静かに鳴った。裁判所の小法廷には、アルマン、弁護士、私、マルタ、そして書記官がいた。リリーヌは証言書を提出した後、実家へ戻っている。裁判官は長い判決文を読み上げた。婚姻契約第五項の適用は、家庭内の通常補助を超える専門労務には及ばない。


 イザベル・レヴィエの外交文書作成、翻訳、交渉草案作成は専門労務である。ヴァルニエ侯爵は、その労務の名誉、報酬、記録を不当に自らへ帰属させた。別居および離縁請求は相当である。婚姻を解消する。その一文が読まれた時、私は息を止めていたことに気づいた。


 婚姻を解消する。短い文だった。十年を終わらせるには、あまりにも短い。けれど法は、短い文で人を解放することもある。アルマンは目を閉じていた。怒鳴らなかった。彼の弁護士が補償金の算定へ移る手続きを確認し、裁判官が次の期日を告げる。


 離縁そのものは、今日成立した。法廷を出ると、廊下にクロイツ公爵がいた。彼は礼装ではなく、黒い外套を着ている。仕事の途中で来たのだろう。


「終わったか」


「はい」


 私はその言葉を口にして、ようやく実感した。終わった。私はもう、誰かの妻ではない。足元が軽くなると思っていた。けれど実際には、少しぐらついた。長く付けていた鎖が外れた時、足はすぐには歩き方を思い出さない。公爵は手を差し出しかけ、止めた。


「触れてもいいか」


 その確認が、胸に響いた。


「はい」


 彼は私の手を取った。強く握らない。ただ、支えるように。私はその手を握り返した。廊下の窓から、冬の光が差している。白く、冷たく、それでも眩しい。


「イザベル・レヴィエ殿」


 公爵が言った。


「はい」


「今日は、仕事の話をしない」


「難しいですね」


「努力する」


 私は少し笑った。笑うと、目の奥が熱くなった。泣かないつもりだった。けれど、涙は少しだけ出た。公爵は何も言わず、私の手を離さなかった。その沈黙の中で、私は長い婚姻の終わりを受け取った。悲しみも、怒りも、安堵も、すべて同じ胸の中にあった。


 もう妻ではない。その事実は、思っていたより静かで、思っていたより大きかった。

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