表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/16

第8話 待機

 マジノ線は無視され、エバン・エマールは機能停止。

 フランス軍の通信網は錯綜し、パリには「ドイツ軍の姿が見えない」「いや、パリ直近にいる」という支離滅裂な報告が届き始める。


 フランス軍の装甲師団(第1、第2、第3軽機械化師団)は、前線に向かいたくとも渋滞する道路で立ち往生し、無駄に燃料を消費し尽くしていた。

 フランスという名の巨大な要塞は、目に見える防壁よりも先に、その「軍事的論理」から崩壊していたのだ。


 

 同日

 シュミットの小隊は、第1装甲師団第1戦車連隊の野営地へと到着していた。

 そこへ歩み寄ってきたのが、第6中隊の中隊長カール・シュナイダー中尉だ。

 「死神の道標」と恐れられる中隊の顔である。

 シュナイダーは、シュミットの乗る「101号車」の装甲を拳で小気味よく叩いた。


「シュミット少尉、やっと会えたな。グーデリアン中将から『特別』だと耳にタコができるほど聞かされていたが……随分と若く見える。戦車の天才だと聞いていたが?」

 シュナイダーは挑発的に笑った。シュミットは直立不動のまま、氷のような視線で中隊長を射抜く。


「……私の動きを見てください。自分ではそんな才能だとは思いません」


「はは、堅いな。いいさ、天才には天才の歩き方がある。だがな、シュミット。お前は俺の第六中隊(6. Kompanie )通称:死神の道標 (Todesweiser)の看板だ。俺たちは歴史を塗り替える精鋭だ。せいぜい、期待に応えてくれよ」


 中隊の面々が遠巻きに見守る中、小隊のメンバーが集結する。

 102号車のフランツ・クライン軍曹は、シュミットの大学時代からの友だ。

 「無茶をするなよ、ハインリヒ」と、彼は小さく呟く。

 だがその目には、兄貴分としての誇りが宿っていた。

 103号車のハルト伍長は、いかにも自信家然とした態度で鼻を鳴らす。

 「小隊長のお手並み、拝見させてもらうぜ」と毒づくが、その目からは期待が隠せていない。

 104号車のシュタイン伍長は、怯えたように震えている。

 だが、シュミットが視線を向けると、彼は必死に直立の姿勢を保った。

 105号車のグリム上等兵は、戦場を遠足のように捉えている。

 彼は小隊のムードメーカーだが、戦いになれば、その楽観さが戦況を左右する武器になることを、まだ誰も知らない。


 アルデンヌの森に、鋼鉄の奔流が突き立てられた。

 しかし、シュミットたちの101小隊に下された命令は、「予備戦力としての待機」だった。


 フランス北部、セダン近郊。

 戦線後方の泥濘を、彼らのIV号戦車たちは坦々と進む。

 前方の戦域からは、断続的に重砲の轟音と、スツーカの咆哮が聞こえてくる。

 戦場の熱気がこちらまで伝わってくるというのに、彼らはただ砂塵を被って走るだけだ。


「……またか。三度目の停止命令だ」

 101号車の操縦席で、カール・シュミット伍長がエンジンの回転数を落としながら悪態をついた。

 彼の操る戦車は、まるで正確なダイヤ通りに動く地下鉄のように滑らかだ。

 しかし、この『停止』という無意味なダイヤは、彼を苛立たせる。


「少尉、前の部隊が立ち往生しています。また道が塞がっているようです」

 砲手のベルガー伍長が報告した。

 かつて時計店を営んでいた彼は、無数の歯車が噛み合う瞬間の静寂を愛している。

「ベルガー、今は待て。これは無駄な時間ではない」

 シュミットはキューポラから上半身を出す。

「グーデリアン中将は、我々を『切り札』として磨いている。紙の命令書を待つフランス軍とは違う。彼が我々を呼び出す時は、きっと楽しい計算が待っている」


 苛立ちを隠せないハルトの無線が飛び込んでくる。

「いつまでこうして埃を被っているんですか! 103号車、燃料の無駄遣いに耐えかねます!」

「待機しろ、ハルト。獲物は逃げない」

 シュミットの声は平坦だ。

「あ……あの……」

 だが、104号車のシュタインが無線で泣き言を漏らす気配を察し、彼は付け加える。

「……シュタイン、お前の生存本能は正しい。今、突出する事に意味は無い。味方の渋滞に巻き込まれるだけだ」


 シュミットがハッチを閉めると、狭い戦闘室に油と金属の香りが満ちる。

 彼は退屈しているのではない。

 自分を解き放つべきその時のために、鋼鉄の獣の牙を研いでいるのだ。

 

 アルデンヌの深い森を抜け、シュミット少尉のIV号戦車がフランスの国境を越えようとしていた。

 戦車のハッチから見渡す森は、今はまだ春の陽光に溢れている。

 だが、この先に待ち受けるのは、数百万人の運命を変える「破滅の方程式」だ。


「少尉、なぜフランスなのですか」

 装填手のハンスが、砲塔の中で無造作にそう尋ねた。

 ベルリンの街頭で、パン一つに札束を投げつけていた頃の彼らには、国際情勢など理解の外だった。


 シュミットは戦車砲のグリップを握りしめ、静かに語り始める。


「いいか、ハンス。俺たちは、ただの戦争をしに来たわけじゃない。『ヴェルサイユ条約』という名の、首に巻かれた鎖を焼き切るために来たのだ」


「第一次世界大戦の敗北後、フランスとイギリスは我々から領土を奪い、賠償金で首を絞め続けた。ベルリンで餓えに苦しんだあの地獄……あれは彼らが我々に与えた『勝者の正義』の代償だ。今のドイツの指導者は、こう教えた。『戦勝者の蹂躙を放っておいたら、我らは死滅する。立ち上がれ』とな」


「それに、奴らは我々を封じ込める包囲網を築いた。フランスが強大である限り、ドイツはいつでも喉元にナイフを突きつけられている状態だ。ならば、奴らが我らを蹂躙する前に倒すしかない」


「では、イギリスやベルギーは?」

 ハンスの問いに、シュミットは乾いた笑みを浮かべる。


「イギリスは『欧州の天秤』を壊されたくないのさ。ドイツが大陸を支配すれば、彼らの制海権は脅かされる。だから、フランスという砦が落ちることを防ぐために、嫌でも戦わざるを得ない。そしてベルギー……あいつらは運が悪かった。フランスに同調せずに中立を守ろうとしていたからな……『イギリスとフランスから、ベルギーの中立を守るために予防占領が必要』という事らしいぞ」


 シュミット少尉は、キューポラから見える空を見上げた。


「フランスを倒せば、すべてが終わる……もう少し……もう少しなんだ」

 

 フランス北部、セダン近郊。

 戦線後方の泥濘を、シュミット少尉が率いる「第一小隊」の精鋭たちは、ただ坦々と進んでいた。

 前方の戦域からは、断続的に重砲の轟音と、スツーカの咆哮が聞こえてくる。

 戦場の熱気がこちらまで伝わってくるというのに、彼らに下された命令はただ一つ、「待機」。


 グーデリアン中将の「総予備」。

 その重すぎる肩書きが、今は足枷となって彼らを縛り付けている。


「……またか。四度目の停止命令だ」


 キューポラから上半身を出し、シュミットは灰色の空を仰いだ。

 彼の手元には、最新の戦術図が広げられている。

 フランス軍の主力戦車、重装甲を誇るChar B1が、防衛線を構築すべく集結しつつあるという情報は、既に無線傍受でつかんでいた。


 それなのに、彼らはただの「予備戦力」として、埃を被りながら後方に留め置かれている。


「少尉、隊員たちが苛立っています。せっかくの『特別仕様』の照準器が、今のところは木々の間を流れる小川を眺めるためだけに調整されていると」

 声をかけたハンスの言葉に、シュミットは小さく鼻を鳴らした。


 シュミットの瞳には、前方の戦場に向けられた熱い野心と、それを冷徹に抑え込む論理が同居していた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ