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第6話 絶望と回想

 ポーランドの首都ワルシャワ。

 陥落直後の街は、ドイツ軍の戦勝に沸き立っていた。

 だが、広場を埋め尽くす熱狂から遮断されたII号戦車の車内には、重苦しい静寂が漂っている。 

 シュミット軍曹と二人の部下は、戦勝の喧騒をよそに、ただ鉄の密室に身を置いていた。

 沈黙を破ったのは、装填手であるハンスの独り言だった。


「軍曹、外の連中……皆あんなに熱狂している。あの若い兵士たちを見ていると……かつて我が家が時計店を畳まざるを得なかった頃の、あの地獄のような絶望を忘れたのかね。あの……あの冬を……」


 ハンスは遠い目をして、砲塔の装填機をまるで愛おしいものでも撫でるようにさすった。


「あの頃、ドイツの通貨は紙屑だった。貯金は一夜にして消え、パンを買うための札束が足りなくなる。パンなんてもう買えないから、少しずつちぎって何日も持たせるんだ。カビが生えても捨てられなかった……」


「ああ……うちはパンなぞ買えない。食べていたのはジャガイモの皮だ。腐った後に干からびたカブの破片を水で煮ただけのスープ……『カブの冬』と呼ばれたが、実態はカブの屑だ。あれは飯じゃない、家畜すら食べやしない……ゴミを食べてたんだ。俺たちは……」


 シュミットも部下の話を聞き、遠い目で過去の闇を覗き込んだ。


「そうだな……父は誇りを失い、母は一日中泣いていた。学校へ行っても友だちはみんな骨と皮だけ。授業どころじゃない。みんな空腹で次々に気絶するんだ。帰宅したら親父が死んでいた……次の日には母さんも。餓死だった……。俺たち子供に食料を少しでも……いや、すまない」


 ベルガーはシュミットの震える声を遮るように、無骨な手でその肩を強く叩いた。


「街は失業者だらけだ。俺たちは『敗戦国の国民』として世界中から蔑まれていた。世界で一番、卑怯で汚い民族……そう言われ、未来なんてどこにもなかったんだ」


 カールが操縦席から割り込み、シフトレバーを荒々しく動かす。

 カールが配ったタバコを二人が受け取ると紫煙が漂いはじめた。

「そうさ。俺は地下鉄の信号係をしていたが、客は皆、幽霊みたいな顔をしていた。食べるものもなく、ただ死ぬのを待っている顔だ。その時だ。総統が現れたのは」


 シュミットはペリスコープから広場を見た。

 そこでは、ドイツ兵たちがポーランドの市民を尻目に、誇らしげに行進している。


「ハンス、カール。総統は俺たちに『誇り』と『パン』を同時に与えた。失業を撲滅し、高速道路を作り、何より『我々は最強だ』という言葉をくれた。あの頃、俺たちにとってナチスや総統は、沈没する船を浮上させる唯一の救世主だったんだ」


 カールが深く頷く。


「そうだ。あの圧倒的な演説と力強い行進は、麻薬のように俺たちの乾いた心に染み渡った。ナチスが何をしようと、少なくとも俺たちはもう『敗戦国の乞食』じゃなくなった。総統は、奪われたドイツの尊厳を取り戻してくれたんだ」


「ポーランド侵攻だってそうだ」シュミットが冷徹に付け加える。


「なぜ我々は戦うのか。総統は言った。ドイツは周囲を敵に囲まれ、窒息死しそうになっていると。東にある『回廊』は、ドイツの心臓を縛る首輪だ。それを力で引きちぎり、我々が生きるための『生存圏』を確保する。それは国民の命を守るための、避けては通れない『外科手術』だとな」


「ああ、自国の東側へ行くのになぜ他国の許可がいる。狂っているとしか思えん。俺たちの国は『ポーランドに港をくれてやる』という大義名分のために、切り裂かれたんだ」


「俺の祖父さんは東側に住んでいた。……一度、本土から会いに行ったことがあってな。地獄だったよ。ポーランド領内に入った途端、列車はシャッターを完全に下ろされ、施錠される。窓の外を見ることも、新鮮な空気を吸うことも許されない」


「蒸し風呂のような車内で、ただ死の恐怖に耐えるだけだ。停車するたびに、外からは俺たちを嘲笑う声が聞こえてくる。わざとらしく食事を楽しむ音が耳に刺さる。しまいには車体に向かって石が投げられ、罵声が浴びせられるんだ。ポーランドの役人が乗り込んできたら、最後だ。荷物はすべてひっくり返され、金目の物は根こそぎ奪われる。その上で、支払えるはずのない法外な通行料を請求されるんだ。拒めばその場で蹴り落とされ、荒野に置き去りだ。……あの過酷な車輌の中で、俺が骨折させられた母と蹴り落とされた時には、すでに何人も死んでいたよ」


 ハンスの表情には、「ポーランド侵攻は当然だ」と言う納得感が浮かんでいた。


「あの地獄から救い出してくれた総統の命だ。ポーランドが我々を邪魔するなら、排除する以外に道はない。……俺たちにとって、ポーランド戦の勝利は、単なる戦争の勝利じゃない。我々を再び『誇り高きドイツ国民』に戻してくれた、総統への恩返しなんだ」


 「軍曹」

 ハンスが、装填したばかりの弾薬を見つめながら問いかける。

「でも、ポーランド側は俺たちに対して、具体的に何をしたんです? 宣戦布告でもしたわけじゃないんだろう?」


 シュミットは鼻で笑い、冷ややかな瞳を車内に向けた。


「馬鹿を言うなハンス。奴らは俺達の土地を切り取り、それを利用しながら同胞を蹴り飛ばしてるんだぞ?それだけで何人死んだ?ヴェルサイユ(条約)の地図を見ろ。あの回廊があるせいで、ドイツの東部領土は本土から切り離されている。俺たちが貿易どころか、移動しようにも、ポーランドの許可が必要だ。奴らが回廊を塞いでいる限り、ドイツという国はいずれ死ぬんだ」


「……つまり、我々から不当に奪った土地で我々の富を奪い続けているって事ですね」


 カールが操縦席から低く呟く。

「命もだ」


「そうだ。それに『ドイツ系住民が迫害されている』という総統の演説を聞いたろう? 俺たちの同胞が、あんな連中に支配されているという『屈辱』を、国民が許さなくなったんだ」


 シュミットは冷酷な目で続けた。


「ポーランドが何かをしたか? いや、何もしていないとでも思っているのか?奴らは」

 シュミットは冷酷な目で、ハンスとカールを見た。

 その目には餓死した両親の無念と怒りが映り込んでいるようだった。


 部下達との会話はシュミットの記憶の中でも、深く、触れ難いトラウマを抉り出していたのだ。


 冬のベルリン。

 当時17歳だったシュミットが記憶しているのは、街全体をどんよりと覆う「灰色」の空気と、胃袋を内側から鷲掴みにされるような、あの焼けつく飢えの感覚だ。


「おい、シュミット。今日はパンが買えたのか?」


 隣人の老人が、枯れ枝のような指を震わせながら声をかけてくる。

 シュミットの手には、もはや紙屑同然と化した数億マルクの札束が握りしめられていた。

 前の大きな戦争に敗れた代償として、ドイツは天文学的な賠償金を背負わされ、金銭の価値は一晩にして霧散した。

 パンひとつ買うために、山のような札束をリヤカーに積んで運ばなければならない。

 そんな狂気じみた地獄が、俺たちの日常だった。

 父親は仕事を探して街を彷徨い歩き、母親は薄いスープの具をわずかでも増やすために、公園の隅で泥だらけの雑草を摘んでいた。


「……ドイツ人は、いつから誇りまでゴミ箱に捨てたんだ?」


 大人たちが絶望して安酒に溺れ、共産主義者と右翼の暴力団が街角で連日、血みどろの殴り合いを演じている。

 そんな壊れた世界に、「彼」は現れたのだ。


 街に、奇妙な活気が戻り始めた。

 ナチス——国家社会主義ドイツ労働者党。

 彼らが掲げる「ハカンの十字スワスチカ」の赤旗が、ベルリンの冬空を塗りつぶしていく。


「シュミット、見ろよ! 兄貴が仕事を見つけたんだ。総統が作った新しい高速道路を作る仕事だそうだ!」


 友人が、自分たちの腹がいっぱいになる未来を確信して、子供のように笑っていた。

 アドルフ・ヒトラーという男は、絶望の淵にいた俺たちにとって、救世主そのものだった。

 彼は演説で、俺たちが一番欲しかった言葉を、甘い蜜のように囁いた。


「君たちは悪くない。悪いのは、我々を裏切った奴らと、外から圧力をかける国々だ。強いドイツを取り戻そう。君たちの食卓に、かつてのようなパンと肉を戻してやる」


 17歳の目には、その言葉がまばゆい救済の光に見えた。

 事実、街からは浮浪者が消え、新しい制服を着た若者たちが胸を張って闊歩するようになった。 

 これが、俺たちの誇り高き「ドイツ第三帝国」の始まりだったのだ。

 人々は自由を少しずつ差し出し、代わりに「安心」と「明日への食事」を買い取った。

 不穏な空気——近所のユダヤ人の店が閉まり、誰かが夜中に連れ去られる音——には、みんながわざと耳を塞いだ。


 1945年4月

 ベルリンは燃え盛る炎に包まれていた。

 ハインリヒがリーゼロッテと過ごした、温もりに包まれた家はすでに薪になった。

 

 ハインリヒ・シュミットは、重駆逐戦車エレファント(Sd. Kfz. 184)のハッチから、業火に包まれるベルリンをただ静かに見下ろしていた。

 88mmの長砲身と、200mmを誇る重装甲。

 シュミットの計算上、正面からこの鋼鉄の怪物に挑める連合軍の戦車は存在しない。

 ……だが、どれほど完璧な装甲も、国家の崩壊という不可避な数式を遮ることはできなかった。


「腹が減っている時、正義なんてものは後回しになる…… それが、俺たちの犯した最初の計算ミスだったのかもしれない」


 瓦礫の山となった街角で、かつて17歳の自分を回想していた。

 かつての飢えを癒やすために選んだ「救世主」への道は、結局、国そのものを炎の中に放り込むという、あまりに巨大な「計算違い」だったのだ。


 シュミットは乾いた笑みを浮かべ、照準器から手を離した。

 激しく歪んだ数式は、もう誰にも解けない。



※ この小説は資料により、当時のドイツ側民衆の立場から語っています。

 彼らの独白には、ナチスドイツのプロパガンダの影響が深く関係していますので、正しい正史と認識しないでください。


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