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第4話 撃破数0のエース

 空は低く垂れ込め、地表には硝煙と、腐った泥の匂いが停滞していた。

 ポーランドの空の下、ブズラ河畔はドイツ軍の「電撃戦」という名の暴力が、敵軍の泥臭い抵抗によって汚されようとしている歴史の特異点だった。


「シュミット、前方の村……プウォツク付近に敵装甲部隊だ! 数が多すぎる。7TPが十数台、それに装甲車が……数えきれん!」


 7TPとは当時のポーランド軍の主力戦車である。

 ドイツ軍の戦車と比べて攻撃力は高かったものの、重い装甲と巨大なエンジンを無理に詰め込んだため、故障が多く、動き回るには少し不器用な『力持ちの頑固者』といった存在であった。


 カールの悲鳴に近い報告が、II号戦車C型の車内に響く。

 シュミット軍曹はペリスコープ (遠望窓)接眼部に吸い付くようにして、前方を凝視した。

 湿地帯特有の粘り気のある泥が、II号戦車の狭い履帯を掴んで離さない。

 エンジンの回転数が不規則に変動し、金属の軋みが悲鳴のように車体を通じて背中に伝わってくる。


「……計算しろ。敵の動きを……研ぎ澄ませ……」


 シュミットの声は、氷のように冷たく、刃物のように鋭い。

 前方、1,000メートル。

 ポーランド軍の誇る7TP軽戦車が、泥を跳ね上げながら咆哮を上げている。

 奴らのボフォース37mm対戦車砲は、この距離でも2号戦車の正面装甲を容易に「貫通」し、紙屑に変えてしまうだろう。


「ベルガー、徹甲弾を用意しろ。……いいか、狙うのは砲塔でも車体でもない。奴らがこの泥濘から這い上がろうとする際、最も負荷がかかる『起動輪の歯』だ」


「起動輪ですか……。相変わらず、無茶な指示ですね」


 ベルガーが苦笑しながら呟く。

 時計職人であった彼にとって、機械の急所を突くような細やかな作業は、「大好物」であった。


 シュミットが合図を出すと、カールが操縦桿を軽く操作する。

 II号戦車が泥に足を取られながらも、蛇のような滑らかな蛇行を開始した。


 カカッ! カカッ!

 20mm機関砲が、小気味よい断続的なリズムを刻む。

 一発目の20mm弾が、先頭の7TPの右起動輪に命中した。

 貫通はしない。

 だが、その衝撃がスプロケット (キャタピラの最後方にあり、エンジンの動力を伝える『起動輪』とも言われる)の歯をわずかに歪ませた。

 二発目。

 歪んだ歯に、今度は泥にまみれた履帯のピンが強引に噛み合おうとする。

 瞬間、数トンの出力が逆流し、7TPの駆動系が内部から自壊した。


「一台目、停止。……駆動系、完全に沈黙」


 ベルガーが報告する。

 シュミットは眉ひとつ動かさない。

「二台目もだ。奴らが避ける隙間を計算済みだ」


 止まった先頭車両を避けようと、後続の7TPが慌てて急旋回を試みる。

 その動揺こそが、シュミットの望んだ次なる変数だった。

 泥濘地での強引な急旋回は、履帯に耐え難い横方向の応力をかける。


「今だ。左3度、修正。……射て!」


 ガガガガガッ!

 20mm弾が、敵の履帯の外側にあるテンション・ホイールの軸を正確に叩いた。

 張り詰めていた鋼鉄の帯が、弾けるような音を立てて外れ、泥の中に沈んでいく。

 二台目も、その場に跪くようにして動けなくなった。

 僚車や友軍戦車、追従していたハーフトラックが、ここぞとばかりにトドメを刺していた。

 シュミット自身の撃破数はゼロ。

「……これで目標だった村の入り口の封鎖は完了した」


 そこにあるのは、激しい炎を上げ、完璧なまでに脚を奪われ、互いの車体に阻まれて砲塔すら回せなくなった鋼鉄の迷路だった。


 シュミットのII号戦車は、敵弾を浴びることなく、ただ冷徹に、外科手術のような精密さで敵の機動力だけを切り落としていく。

 ブズラ河の激戦地において、これほどまでに美しく、そして無傷で前線にいた車両はこの一台だけであった。


「今日の行動はここまでだ。……明日は、あの森の深部へ踏み込む。少々、解きがいのある計算になりそうだ」


 シュミットの言葉に、カールが皮肉げに口角を上げる。

「解きがい、ですか……。相変わらずお気楽ですね、軍曹」

「ああ……楽しみだ」


 II号戦車は、静かに鼓動を止めた。

 先ほど強引な機動で負荷をかけた駆動系には、それなりの整備が必要となる。

 だが、その時間すらもシュミットの「行程表」という名の数式には、あらかじめ織り込み済みであった。


 数日が過ぎた9月17日、ブズラ河の包囲網。

 ワルシャワへの脱出を図るポーランド軍の残存部隊が、泥濘の森を抜けて平原へ躍り出ようとしていた。

 その数、歩兵一個大隊、そして殿を務めるルノーR35戦車が三台。

 対するは、燃料も弾薬も底をつきかけ、装甲のあちこちに弾痕を刻んだシュミットのII号戦車。 

 ただ一台であった。

 僚車や小隊は午前中の戦いで離散していたのだ。


「軍曹!無茶だ! 弾は20mmが残り一連しかない! 燃料計もレッドゾーンだぞ!」


 ベルガーの怒号が狭い車内に響く。

 だが、シュミットの瞳には焦りも恐怖もない。 

 ただ、目の前の泥濘と樹木の配置、そして敵の旋回半径が、透き通った美しい計算式として脳内に展開されていた。


「……三台なら計算の範疇だ。ベルガー、回転数を落とすな。カールの操縦が計算通りならば、いつも通りだ」


 シュミットはハッチを閉鎖し、ペリスコープに目を押し当てた。

 緊張が走る。車内の湿度は限界まで高まり、鉄と油、そして男たちの冷や汗が混じり合った独特の匂いが充満する。


「……加速だ。1時方向、その後30秒後に3時方向」

 マイバッハエンジンが、獣のような咆哮を上げた。

 2号戦車は泥を三メートルも撥ね除け、ルノー戦車隊の正面へと突っ込む。

 ルノーR35の37mm砲が火を噴く。

 だが、シュミットはその瞬間、わずかな泥の凹凸を利用して車体を左へ傾け、弾道を紙一枚の差で回避した。


「ここだ!」

 シュミットのII号戦車が、敵の懐で踊るように超信地旋回 (左の履帯を「前進」させ、同時に右の履帯を「後退」させる)を決める。


 ガガッ、ガガッ!

 20mm機関砲が、二発ずつの点射を放つ。

 狙いは装甲ではない。

 R35の右履帯を繋ぐ連結ピンの、わずか数ミリの露出部だ。

 火花が散り、鋼鉄のピンが弾け飛ぶ。

 一台目のR35が、自らの重量に耐えきれず、右履帯を蛇のように脱ぎ捨てて泥にのめった。


「奴はもう一歩も動けん」


 二台目のR35が、動かなくなった僚機を避けようと右に舵を切る。

 シュミットはその隙を見逃さない。

 機動性を活かし、敵の砲塔旋回速度を上回る速度でその背後へ回り込む。


 カカッ!

 再びの二連射。

 今度はアイドラーホイール(戦車の最前方に位置してキャタピラのガイド役をしている)の軸受を正確に粉砕した。

 二台目の履帯がだらりと垂れ下がり、駆動力を喪失して空転を始める。


「……次だ」


 最後の一台が、狂ったように機関銃を乱射しながら突撃してくる。

 主砲を急いでII号戦車に合わせようとするルノーに対して、シュミットはあえて速度を落とし、敵を誘い込んだ。


「左ブレーキ全開! 全速後退!」


 II号戦車が、物理法則を無視したような挙動でスライドする。

 突っ込んできたR35は、シュミットのいた空間を虚しく突き抜け、湿地の深みに車体を大きく左側に傾斜させた。

 そこへシュミットが、残った最後の弾丸を、敵の右履帯の継ぎ目に叩き込んだ。


 カッ、カッ、カッ

 20mm弾を全て使い切った事を示す高音が車内に響き渡る。

 この戦場には、まだ一人の死者も出ていない。

 爆発音も、炎上する黒煙もない。

 あるのは、履帯をズタズタに引き裂かれ、自らの重さで泥に沈み、壊れたキャタピラを虚しく回し続けるだけの三台の鉄屑と、その周囲で戦意を喪失して立ち尽くすポーランド軍の歩兵たちだけだった。


 追いついた数両のハーフトラックから、バラバラと一個中隊規模の装甲擲弾兵が流水のように流れ出てきた。


 彼らはただの歩兵ではない。

 ハーフトラックという鋼鉄の箱を足に持ち、戦車が突き破った『戦場の隙間』に、飛び込む専門家たちだ。


 シュミットは戦場の視界鏡越しに、降車を開始した彼らを見下ろした。

 戦車が物理的な破壊を担うならば、彼らはその後の『物理的な支配』を担う。

 戦車という鈍重な塊が突破できない密林や廃墟といった制圧を、歩兵という名の最小単位へと委ねる。


「助かったな。歩兵の突撃は、戦場を平定する最終的な『解』だ。ベルガー、彼らが制圧し終えるまで、この位置を維持する」


「了解、軍曹。今、弾薬の残弾0なのも装甲擲弾兵が展開する事を読んだ計算の範疇なので?」

「いや……運が良かったな……助かった」

「「ガッハッハッハ」」


 二人の豪快な笑い声をよそにシュミットはポツリと呟いた。

「……弾薬、消費完了。燃料、帰還分のみ……計算通りだ……」


 

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