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第3話 数学バカ

 空は焦げた火薬と死の灰に塗り潰され、地平線まで続く泥濘が大地を腐らせていた。

 その荒野を、数台の鉄の箱が泥を跳ね上げながら進む。

 その中の一台――ドイツ軍II号戦車C型。

 ハインリヒ・シュミット少尉にとって、この戦車は単なる兵器ではなかった。

 それは、泥濘と起伏を完璧に把握し、車体という機械の潜在能力を極限まで引き出すための「精密な運動演算装置」であった。


 少し踏み込んだだけでエンジンが、狭い車内で甲高い咆哮を上げる。

 一四〇馬力の心臓が、わずか10トン足らずの車体を暴力的に押し出す。

 この軽量な車体こそが、ハインリヒの戦場における「解」を物理空間へ投影するための最適解であった。


 ハインリヒはハッチから半身を出し、外部の状況を警戒しながら、ふとハイデルベルク大学の講義室を思い出していた。

 教授が黒板を叩きながら吐き捨てた「数学バカ」という蔑称。

 当時のハインリヒは、自分が真理に最も近い場所にいると確信していた。

 だが、紙の上の数式はどこまでも静かで、物理的な破壊を伴わない。

 彼が求めていたのは、数学による現実世界での証明そのものであった。


 ナチスの軍事徴募が始まったとき、彼に迷いはなかった。

 戦車という兵科は、まさに彼の理論を試すための、巨大で動く計算機に他ならない。


 敵主力であるはずのルノーR35戦車は、おろかにも全体を露出させながら、履帯を深い泥濘に絡め取られるような、速度の遅くなる経路を走っている。


「カール、右前方、ルノーR35。五台だ。3時方向」


ハインリヒの冷徹な声が、車内のインカムを通じて響く。

 彼の中では、泥濘の荒野を駆けるII号戦車の機動は、地下鉄のダイヤ調整と同じものを感じていた。


「了解だ。奴らをその進路へ追い込みますよ」


 カールの手足は、エンジンの回転数とサスペンションのストローク量を、瞬時に「物理的回答」へと変換していく。


 左右の森から現れたR35は、II号戦車を十字砲火の檻に閉じ込めたと確信していた。

 彼らの最大装甲は40mm。

 シュミットの愛車である2号戦車の主砲、20mm機関砲KwK 30の徹甲弾にとって、それは「貫通不可能」な絶望の壁を意味する。


 真正面から撃ち合えば、奴らの37mm砲がII号戦車の14.5mm (現代の乗用車の運転席ドアよりは少し厚い)の車体を一撃で紙屑に変えるだろう。

 だが、ハインリヒの脳内では、物理的な防御力は、折込済みの変数の一つだ。

 しかし彼が集中して見ているのは、敵戦車という「巨大な質量の慣性と、それを支える脆弱な足回り」という数式だ。


「ハンス、装甲など抜く必要はない。第一転輪の軸受けを狙え。そこが崩れれば、残りは重力に従って積み上がる」


「了解」

 砲塔内に座るハンス・ベルガーが、照準器の目盛りを微調整する。

 ハインリヒが紡ぎ出す冷徹な数式は、ハンスにとって狂いの生じない精密機械の一部であった。


「距離400、軸受……捕捉……!」

「て!」

 ガガガガガガッ!!

 20mm機関砲が火を噴く。

 鋭い金属音が砲塔内で反響し、火薬の焦げた匂いと油の熱気がハインリヒの肺を焼く。

 砲弾は、右端の一台目の第一転輪の付け根、強固な装甲板が僅かに途切れるベアリングの隙間を精密に粉砕した。

 硬質な火花が散り、鋼鉄が悲鳴を上げる。

 転輪が固着し、機動力を失った一台目のR35がその場で旋回し、隣の車両と接触して隊列が歪む。


「次は左の二台だ。カール、11時方向、砲塔旋回速度の『死角』に滑り込め!」


 ハインリヒの指示に従い、カールは車体を速やかに転身させる。

 II号戦車の装甲を守るのは薄い鋼鉄よりも、ハインリヒの指示が弾き出す「敵の死角へ誘導する計算された機動」であった。

 R35の手動砲塔は、II号戦車の急激な接近に対応できない。


「て!」

 射撃命令に合わせ、ハンスが再びトリガーを絞る。

 二台目の転輪がバラバラに砕け散り、三台目は操縦席のハッチに直撃を受けて機能停止した。

 戦車が互いに衝突し、狭い泥濘路が「鉄の墓標」によって塞がれていく。


「すげえな……軍曹の計算は!」


 ハンスの感嘆の声を聞きながら、ハインリヒはハッチから外部を凝視し続ける。

 これは偶然ではない。

 脳内で数式が導き出した、必然の「答え」だ。 

 大学の講義室では決して得られなかった、破壊と証明が同時に成される悦びが、彼の冷徹な心にわずかな熱を灯す。


「残り二台。右後方から回り込むぞ!」

「軍曹、距離が近すぎます! 奴らの砲塔が間に合う!」


 ハンスの叫びを、ハインリヒは鼻で笑い飛ばした。


「間に合わせる。奴らの砲塔が動くより早く、俺たちが『旋回』を完成させる。カール、超信地旋回!」

「了解! だと思いましたよ!」


 II号戦車がその場で激しく回転を開始した。

 車体が悲鳴を上げ、砲塔が敵の動きを置き去りにして加速する。

 敵の砲弾が装甲を掠めるが、ハインリヒはそれを「計算済み」の誤差として無視した。

 至近距離、五メートル。

 四台目の駆動系を粉砕。

 動かなくなった敵戦車が巨大な障害物となり、最後の五台目の視界を遮る。


「最後の一台。……終わりだ」


 戦場に機関砲の咆哮が止み、再び泥濘の静寂が戻ってきた。

 そこには、一発も装甲を貫通されることなく、しかしその存在意義を完全に奪われた五台の鉄の塊があるだけだった。

 互いに道を塞ぎ、砲塔を虚空に向けた無力な屍。

 追い打ちをかけるように高射速のMG34のドラム給弾の音が響く。

 さらに後方から、Ⅲ号戦車E型の放った主砲弾の乾いた発射音が重なり、金属塊が装甲を突き破る湿った衝撃音が響く――それこそがシュミットの計算の『解』であった。

 ドン!ガキン! 


 トトトトト!!


 ガキン!ガン!

 ドゴォォォォォォォォォォォオン

「燃料消費、計算通り。弾薬消費計算内。今日の行動完了だ」


 ハインリヒはハッチから上半身を乗り出し、冷めた瞳でその光景を眺めた。

 車内の温度は極限まで上昇し、鉄と火薬、そして男たちの冷や汗の匂いが混じり合う。

 ハンスは荒い息を吐きながら、薬莢を足元に蹴飛ばした。


「ハンス、II号戦車の可動特性を正確に把握しておけ。こいつは効率的な道具だ。しかしな……変数が多すぎる。計算を楽にするには、この主砲はあまりに非力だ。それに装甲はあまりに薄すぎる……」


 ハインリヒはエンジンを止め、その「鉄の檻」を置き去りにして、泥の向こう側……前進した自軍の待機陣地へと姿を消した。

 

 今日の食事は何が出るのだろうか。

 

 彼らの思考は兵士ではなかった。

 戦場という実験場で、鋼鉄の塊を使って戦場の証明を続ける「計算者」であった。

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