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第13話 ウェイガン・ライン

 1940年6月4日、ソンム川北岸。


 ダンケルクの虚無を背負い、南下を続けた第19装甲軍団は、フランス軍が再編した最後の希望、「ウェイガン・ライン」の前に立ち尽くしていた。

 かつての電撃戦の疾走感は、今はどこにもない。

 あるのは、泥と硝煙、そして前線の停滞という名の重苦しい沈黙だけだった。


 シュミット少尉は、III号指揮戦車のハッチから前方を見据える。

 ソンム川を挟んで、フランス軍の防衛線が強固な牙を剥いている。

 対戦車砲の火線が交互に走り、進撃を試みた味方の先鋒部隊が、土手の手前で次々と無力化されていた。


「……前線が動かない」

 シュミットの声には、苛立ちすら消えていた。ただ、機械的な分析があるだけだ。


「ダンケルクで足止めを食らった二日間が、敵にこれだけの準備期間を与えた。今、彼らは要塞のような守りを固めている。我々が動かなければ、突破に要するコストが割に合わない」

 ハッチから顔を出したヴァルテンベルク大佐は、双眼鏡を覗きながら深いため息をついた。


 その横顔には、貴族的な誇りが疲労によって形を崩しつつあるのが見て取れた。

「軍団司令部からの通達では、グーデリアン将軍はすでに総統大本営に対し、予備戦力の投入を強く進言しているそうだ。だが……ベルリンの連中にとって、装甲師団はただの数字に過ぎない。現在の敵の脅威をまともに評価出来ているか疑問だ」


 シュミットは、泥にまみれた地図を指でなぞる。

「もし明日、総予備が投入されなければ、我々はここで防衛線の突破に失敗する。失敗すれば、敵は反撃の機会を得るでしょう。……ダンケルクで逃がした英軍が、今頃何をしているか……考えただけで吐き気がします」


 エーヌ川からソンム川へと連なるフランス軍の最終防衛線、通称「ウェイガン・ライン」の最前線は、初夏の午後の陽光とは裏腹に、粘りつくような死の沈黙と断続的な咆哮に支配されていた。


 第1装甲師団。

 突破を担うはずのシュミット中尉たちの車列は、前線からわずか数キロ後方の林道で、不自然な休止を強いられていた。


「……何というムダな……」

 IV号戦車101号車のハッチから身を乗り出し、シュミットは手元の作戦図と、遠くで上がる黒煙を交互に見つめた。

 彼の耳には、前方の歩兵師団から絶え間なく届く支援要請は、もはや戦術的な通信ではなく、見捨てられた歩兵たちの断末魔そのものに感じた。

 村々を改造した急造のレジスタンス・センター(抵抗拠点)の石壁からは、フランス軍の75ミリ野砲や対戦車砲が正確な火網を形成していた。

 一歩進むごとに、ドイツ軍の歩兵はなぎ倒され、軽装甲のI号、II号戦車が次々と火を噴く鉄の箱へと変わっていく。


「大佐殿。歩兵連隊からまた悲鳴のような無線が入っています。『装甲部隊の支援はまだか』と」

 シュミット少尉が、苦渋に満ちた声を上げた。


 ヴァルテンベルク大佐の指が、作戦図上の「現在地」を強く叩く。

「我々第1師団は、この防衛線を切り裂くためにここにいる。だが、OKW(国防軍最高司令部)からの命令書には『総予備として待機。次命あるまで一歩も動くな』とある。……この停滞は、戦術的な合理性を完全に欠いている」

 OKWの命令は、グーデリアンの『必殺の総予備』である第一師団の動きを意味無く制限していたのだ。

 総統命で出された指示は、グーデリアンの独断で動かすことは不可能である。

 シュミットの脳内では、リアルタイムの損耗率が弾き出されていた。

 投入すべき瞬間に「最強の変数」である装甲師団を温存することは、前線の兵士たちの命を無意味にドブに捨てることに等しい。

 OKWのヨードルやカイテルたちが、ベルリンの清潔な作戦室で引いた「大事な戦車の温存」という名の境界線が、現場の兵士たちの血で赤く染まっていく。


 前線から届く悲鳴のような電文を、ベルリンの机上で握りつぶす男たちがいた。

 

 国防軍最高司令部(OKW)の総長ヴィルヘルム・カイテル。

 常に総統の顔色を窺い、その機嫌を損ねぬことだけに腐心する彼は、前線の将兵から「レキ(箒)」と蔑まれていた。

 総統の言葉を無能なりに忖度した挙句、軍事的な妥当性など微塵もない「命令」へと仕立て上げる、階級章をつけただけの事務屋だ。

 そして作戦局長アルフレート・ヨードル。

 戦場の泥も硝煙も知らぬまま、地図の上で駒を動かす数字遊びに耽る傲慢な理論家。

 彼の「消耗を忌避する」という名の臆病な計算が勝機を逃し、兵士たちを無意味な消耗戦へと叩き込んでいた。


 この二人の無能が、あろうことか「総統命令」という虎の威を借りて発した総予備温存命令は、前線にとって害悪以外の何物でもなかった。


「何のために温存しているのです? パリはもう目の前だというのに」

 シュミットは、第1装甲連隊長ヴァルテンベルク大佐の鋭い青い目を見つめ、隠しきれない落胆を、しかし極めて静かなトーンで口にした。


「……『総統の意向』だと彼らは言う。だが、ベルリンの事務屋どもがこれほどまでに慎重なのは、進撃を止めているのが閣下自身だからだ」


 大佐は吐き捨てるように続け、雨に煙る前線を見つめた。

「総統による『消耗抑制命令』に、さらに輪をかけた過剰な自重命令が降ってくる。閣下は兵力の損耗を極端に嫌っておられるが、今、機を逃すことがさらなる破滅的な消耗を招くという戦場のロジックを、あの方は理解しておられないのだ……」


 大佐の苦渋に満ちた言葉――「総統命令」という名の絶対的な足枷――を耳にすると、シュミットは、苛立ちを隠せず煙草を木の幹に投げつける。

 迫り来る夕闇が、間も無く今日の戦闘の終わりを告げそうになっていた。

 

 遠く、ハリネズミのように陣地化された村から、再び重厚な砲声が響く。

 ドイツ軍のIII号戦車が一両、履帯を吹き飛ばされ、もがき苦しむ虫のようにその場に立ち往生した。

 そこへフランス軍の容赦ない追撃弾が降り注ぐ。


 シュミットは、止まったままの車列の先、硝煙に煙るウェイガン・ラインを凝視した。

 彼の手は、無意識に無線機のスイッチへと伸びていた。

 抗命による一個小隊の突撃許可――それは、一少尉という立場を越え、帝国の腐敗した指揮系統に対して放たれる、許されざる一撃になる筈であった。


 その時、無線機が短い信号音を刻んだ。

『各隊へ。総予備の投入を許可する。明暁、全師団は一斉にソンム川を渡河する』


 それは、グーデリアンの執念が生んだ命令だった。

 しかし、シュミットはその命令を聞いても、高揚感を感じなかった。


「……ついに投入ですか。……何と遅いのでしょう。本来なら、ダンケルクで敵の息の根を止めるために使われるべきだった『切り札』が、またしても、使うべき時を逸してから使われるのですね」


 彼は冷徹に言い放ち、愛機の砲塔を撫でる。

 その手は微かに震えていたが、それは恐怖からではない。

 この師団が、本来あるべき姿から大きく逸脱し、ただの「政治家の遊ぶ、『戦争』と言う名のゲーム盤の駒」へと変質していることへの拒絶であった。


「シュミット少尉」

 大佐が、低く厳かな声で呼んだ。

「我々が明日、命を賭して突破する防衛線は、機を逃したために抵抗は激しい……気をつけろよ」


「承知しています、大佐殿。停止なく突入していたら、右往左往する敵を蹂躙するだけだったんですがね」


 シュミットはハッチを閉め、狭い戦車内へ潜り込んだ。

 外では、総予備として待機していた師団所属の戦車群のエンジンが、夜の帳を切り裂くように咆哮を上げ始める。

 それは勝利の凱歌ではなく、泥沼へ引きずり込まれる獣たちの苛立ちの咆哮のように響いた。


 彼は計器の針を確認する。

 明日の明け方、この鉄の棺桶はソンム川という名の墓場へ突入する。

 総予備という名の最後の手札を、彼らはあまりに遅いタイミングで、あまりに不毛な場所で切らされるのだ。


「全車、弾薬を確認せよ」

 シュミットはマイク越しに告げた。

「明日は、ひたすらに泥を噛む日になる」


 戦車内の狭い空間に、鉛のような沈黙が降りた。

 外では激しい雨が降り始め、フランスの乾いた大地を冷たい泥の海へと変えていく。


 この先に待ち受けているのは、確かに「勝利」という名の結末だろう。

 しかしそれは、真に討つべき大敵を逃した、あまりに不完全な仮初の勝利に過ぎない。


 シュミットたちは、ベルリンの気まぐれが招いた歴史の計算狂いを、修正などできる術もある筈なく、ただ前進を続けるしかなかった。


 翌日。

 1940年6月5日、払暁。

 ソンム川南岸、ウェイガン・ライン。


 大気を震わせる重低音が、泥濘の大地を底から揺さぶっていた。

 マイバッハHL120TRM・V型12気筒エンジンの咆哮。

 それが数十両、数百両と重なり合い、巨大な鉄の波となって前線へ押し寄せている。

 第2戦車大隊『鉄の牙』、そして第6中隊 別名『死神の道標』。

 ダンケルクで鎖に繋がれていた「総予備」という名の飢えた獣たちが、ついに解き放たれた瞬間であった。


「……第1小隊、フォルヴェルツ!(前進せよ)。目標、正面の稜線に陣取る敵対戦車陣地。距離1200」


 IV号戦車D型、101号車の砲塔内。

 車長のハインリヒ・シュミット少尉は、車長用キューポラから双眼鏡を下ろし、冷徹な声で無線機に命じた。

 彼の脳内ではすでに、敵陣地の座標、風速、味方車両の機動ベクトルが、一枚の巨大な幾何学模様の計算式として展開されている。


「「「ツー・ベフェール!ヘア・ロイナント!(了解、少尉殿」」」

 小隊が待ちくたびれたとばかりに応じる。

 彼らは20トンを超える鉄の塊を、まるで鋼鉄の生き物が意志を持っているかの如く精密に操っていた。

 彼らは、シュミットの緻密な指示の元、泥濘の深さをケッテン(履帯)の抵抗から読み取り、最もロスが少なく、かつ敵の射線を「回避」できるミリ単位のルートを瞬時に選択していく。


「シュミット小隊、各車散開。突撃砲はハルダウンを維持しつつ前進せよ」

 右翼を固める102号車から、クライン軍曹の落ち着いた声が無線に響く。

 実直な彼は、シュミットの指示を即座に戦術行動へ移し、小隊の陣形を完璧なV字へと整えた。


 先頭に立つシュミットの101号車が、鋭利な槍の「穂先」となり、後続の戦車たちがその重みを支える「柄」となる。

 バラバラに突撃すれば一斉射撃の餌食になるが、この重厚な三角形の塊となって突き進めば、敵の防衛線という名の堅い岩盤に、無理やり割れ目をこじ開けることができるのだ。


 正面から見れば、それはこちらに迫りくる巨大な鋼鉄の矢尻そのものだった。


「なるほど、これなら敵の火力を一点に集中させず、逆にこちらの砲火は正面へ集中できる……。まさに、力でこじ開けるための陣形ですね」

 操縦手のカールが、加速するエンジンの振動を感じながら独り言のように呟いた。


「そうだ。この『楔』が深ければ深いほど、敵の陣地は内側から崩壊する。……全車、速度を落とすな。このままウェイガン・ラインの心臓部を叩き割るぞ!」


 雨に煙るフランスの平原に、巨大な「V字」の轍が刻まれていく。

 それは、停滞を嫌う若き指揮官が放った、防衛線を一撃で粉砕するための「解」であった。


 稜線を越えた瞬間、フランス軍の47ミリ対戦車砲が火を噴いた。

 鋭い飛翔音が101号車の右側面を掠める。


「敵砲座、11時の方向。距離850」シュミットが数値を叩き出す。

「……照準器(TZF5b)、ミル・ドット適合。俯仰角良し」


 砲手ハンス・ベルガー伍長の手元で、照準用の旋回ハンドルが滑らかに回る。

 かつて時計の歯車を組み合わせていたその指先は、今や7.5センチKwK37戦車砲の巨大な薬室を因果の起点としていた。

「シュプレンググラナーテ(榴弾)、装填完了」

「フォイアー!(撃て)」


 シュミットが選んだのは、敵の装甲を撃ち抜くための鋭い「徹甲弾」ではなく、陣地そのものを粉砕するための「榴弾りゅうだん」だった。

 徹甲弾が「針」のように一点を貫くものだとしたら、この榴弾は「鋼鉄の外殻に包まれた火薬の塊」だ。

 命中した瞬間にその外殻が数千の鋭い破片となって飛び散り、内部に詰まった猛烈な爆薬が周囲の空気を一瞬で焼き尽くす。


 鼓膜を破る轟音と共に、短砲身から放たれた7.5センチ榴弾が放物線を描き、850メートル先のフランス軍対戦車砲の防盾を正確に粉砕した。

 爆炎と土砂が舞い上がり、敵の脅威が「数式」から一つ消去される。

 半自動鎖栓が金属音を立てて開き、硝煙と共に空薬莢が床に転がり落ちた。


「無駄のない動きだ、シュミット。だが、左翼のトーチカがまだ生きているぞ!」

 中隊長シュナイダー中尉の通信が入る。

 彼は後方から、この「天才」の指揮する小隊の芸術的な機動に魅入られていた。


「問題ありません。シュトゥルムゲシュッツ(突撃砲)が出ます」

 シュミットの冷たい声と同時に、左翼から地を這うような低いシルエットが飛び出した。

 砲塔を持たず、前面50ミリの重装甲を備えたIII号突撃砲A型の3両である。


「103号車、突っ込むぞ! カスパル、合わせろ!」

 ハルト伍長が怒鳴る。

 操縦手のシュルツがマイバッハ・エンジンを限界まで吹かし、泥を巻き上げながら、ウェイガン・ラインの火網を強引に突き進む。

 敵の徹甲弾が厚い前面傾斜装甲を叩き、甲高い金属音とともに火花を散らして弾かれた。

 その衝撃の直後、砲手のカスパルが機動中のわずかな「静止」――シュルツが計算ずくで一瞬だけブレーキを緩めたタイミングを逃さず、7.5cm砲の引き金を引いた。


「フォイヤー(撃て)!」


 至近距離から放たれた榴弾が、コンクリート・トーチカの狭い銃眼を正確にえぐり取る。

 内部で爆圧が狂い咲き、先ほどまで歩兵たちをなぎ倒していた機銃の咆哮が、断末魔の爆音とともに霧散した。


「104号車、配置につきました」

 怯えを克服しつつあるシュタイン伍長の声が響く。

 操縦手ミュラーが、地形の僅かな起伏を利用して車体を隠す天性の直感を発揮し、被弾面積を最小限に抑える完璧なハルダウンを構築していた。

「マイヤー、バイザーを狙えますか?」

「……見えてるよ」

 砲手マイヤーは、光学照準器越しに敵の重機関銃座の僅かな隙間を捉えていた。

 一発の砲弾が、針の穴を通すような恐るべき精度で敵陣に吸い込まれていく。


「ははっ! 105号車も行くぜ!」

 右翼では、アルフレート・グリム上等兵が陽気に笑っていた。

 操縦手ヘスが車体を荒々しくドリフト気味に旋回させ、敵の予測射線を完全に狂わせる。

「ゼーリヒ、あそこの土煙の奥、適当にぶち込め!」

「了解〜、ふふふ〜ん」

 鼻歌交じりに放たれたゼーリヒの大雑把な一撃は、奇跡的な放物線を描き、土煙の奥に隠れていたフランス軍の弾薬集積所に直撃。

 巨大な誘爆の火柱が上がり、敵の防衛線に決定的な破孔を穿った。


「……第1小隊、よくやった。全弾命中を確認した。101から中隊長。敵防衛線に突破口を形成しました」

「第一小隊よくやった、中隊全車に告ぐ。中央突入は別部隊だ。道を開けろ」

 カール・シュナイダー中尉の指示が飛ぶ。


 シュミットは無線のスイッチを切り、車内の硝煙の匂いを深く吸い込んだ。


大隊長ヴェーバー少佐の乗る指揮戦車が横を通り過ぎながら、小隊の完璧な制圧劇を前に信号弾を打ち上げる。

 総予備の全戦力が、シュミットたちがこじ開けた穴から雪崩を打ってフランスの深部へと流れ込んでいく。


 キャタピラが泥と敵の残骸を轢き潰す軋み音が、戦場に響き渡る。

 しかし、車長席のシュミットの青い瞳に、歓喜の色は欠片もなかった。

「……遅すぎる」

 彼は独りごちた。

 これほどの圧倒的な破壊力、完璧に統率された運動方程式。

 これをなぜ、あのダンケルクの砂浜で実行させなかったのか。

 彼らが今ここで見せている「奇跡的な突破劇」は、戦略的に見れば、二週間の遅れを取り戻すためのただの「無駄な浪費」に過ぎないのだ。


 IV号戦車D型のマイバッハエンジンが再び唸りを上げ、彼らは泥濘と虚無の先へ、深く、深く進撃していった。

 首都パリを防衛するはずの、最後のフランス軍防衛線は明らかに後退していた。

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