第10話 グーデリアンの懐刀
グーデリアン中将の躍動する声は、無線機を通して戦場の喧騒を飛び越え、第一戦車連隊の指揮車にいたヴァルテンベルク大佐の耳に飛び込んできた。
「……ヴァルテンベルク! 見事だ! 貴官の連隊が叩き出した楔のおかげで、フランスの防衛線は今やただの穴あきチーズだ!」
中将の言葉には、規律を尊ぶ大佐でさえも抗えないほどの高揚感が混じっている。
大佐は背筋を伸ばし、受話器を握りしめた。
「ハッ、お褒めにあずかり光栄です、閣下。我が部隊の将兵、そして件のシュミット少尉も期待に応えてくれました」
「うむ。……だが、パリへの進撃はここからが本番だ。第一戦車連隊を即刻後方へ下げよ。徹底した整備と補給を命じる。貴官らは我が直属の『総予備』だ。――次の報を待て」
回線が切れた後、ヴァルテンベルク大佐は満足げに深く息を吐いた。
彼の貴族的な矜持にとって、シュミットという「規格外の天才」は、もはや部下というよりは、自らの連隊が手にした最高の宝刀であった。
戦場の激しさが嘘のように、後方の泥濘は静まり返っていた。
重苦しい鉛色の雲の下、整備車両が列をなす仮設キャンプに、一台の司令部用乗用車が土を跳ね上げて滑り込んでくる。
車を降りたのは、第一戦車連隊長フォン・ヴァルテンベルク大佐だ。
端正に整えられた軍服、背筋の通った姿勢。
硝煙と泥にまみれた戦場の空気にありながら、彼はその貴族的な気品を微塵も損なっていなかった。
周囲の整備兵や歩兵たちが、その人影を見て思わず作業の手を止め、敬礼を捧げる。
大佐はそれらを軽く一瞥すると、迷いのない足取りで、前線から戻ったばかりのシュミットの愛機、101号車の前へと歩み寄った。
ハッチが開き、シュミット少尉が泥と油に塗れた顔を出す。
彼は慌てて身を乗り出し、敬礼をしようとした。
「少尉、堅苦しい挨拶は不要だ」
大佐は手を挙げてそれを制した。
歩み寄った彼は、戦火を潜り抜けたばかりの101号車の装甲に手を置いた。
熱を帯びた鋼鉄の感触を慈しむように、大佐の指先が装甲の傷を撫でる。
その眼差しには、厳しい規律の奥に隠された、我が子を愛でる父親のような温かみが宿っていた。
「素晴らしい戦いぶりだった。貴官の導き出した『戦術』……グーデリアン中将も、無線越しに歓喜の声を上げておられたよ。我が連隊、いや、我が軍の歴史に、また一つ輝かしい頁を刻んだ。見事だ、シュミット」
大佐は言葉を切り、シュミットの瞳を射抜くように真っ直ぐに見据える。
その碧い瞳には、純粋な称賛の色が浮かんでいた。
「シュミット少尉。貴官のような天才を、最前線の消耗戦で単なる『刃』として摩耗させるのは、軍の損失に等しい。……閣下から直々に命令が下った。我々の連隊はこれよりグーデリアン閣下直轄の『総予備』となり、前線を離れる」
周囲の兵士たちがどよめく。
それは、連隊全体が「特別な駒」として公式に認定されたことを意味していたからだ。
「まずは車両を完璧に整備し、将兵たちに十分な休息を与えよ。……貴官の頭脳がパリへの道筋を再び描くときまで、心身を万全に整えておくのだ。これは休暇ではない。次の『芸術』を完成させるための、準備だと思ってくれ。
大佐はシュミットの肩を、ポンと力強く叩いた。
「……少尉。生きて帰ってくれて本当に良かった。我が連隊の至宝を、そう易々と死なせるわけにはいかんからな」
シュミットは驚きに目を見開いた。
規律を何よりも重んじる、あの厳格なヴァルテンベルク大佐が、部下の前で「至宝」とまで言い放つとは。
その言葉に込められた重みと信頼を感じ、シュミットは深く息を吐き出すと、改めて背筋を伸ばし、鋼のような声で答えた。
「ヤボール……光栄の極みです、大佐。次に私が牙を剥くときは、必ずや大佐殿の期待を遥かに上回る『解』を提示いたします」
「期待しているぞ」
ヴァルテンベルク大佐は満足げに頷くと、踵を返し、司令部へと戻っていった。
その凛とした背中を見送りながら、シュミットは改めて自分の小隊員たちを見渡す。
ハルトの獰猛な笑み、シュタインの静かな眼光、そしてグリムたちの屈託のない顔。
「聞いたな、お前たち。……少しの間、休息だ。だが、すぐに次の戦場が待っている。今のうちに、油と弾薬を揃えておけ……食事もだな」
シュミットの淡々とした命令に、小隊の面々からは疲れを忘れたような笑みがこぼれる。
泥と硝煙の戦場を書き換える「エリート戦車兵」たちにとって、この束の間の休息は、次の舞踏会に向けた準備時間に過ぎなかった。
彼らは静かに、しかし確実に、さらなる「シュミットの解」を求めて研ぎ澄まされていく。
1940年5月22日、アミアン北方。
第一戦車連隊の仮設陣地には、鋼鉄の獣たちが飢えた獣のようにうずくまっていた。
連隊長フォン・ヴァルテンベルク大佐は、指揮車内で地図を睨みつけていた。
周囲の通信機からは、前線で足止めを食らっている第二、第八戦車師団の悲鳴に近い報告が絶え間なく聞こえてくる。
「……連隊長、第二師団より入電! 正面からの猛攻により、防衛線の突破が困難とのこと。第八師団も敵の重砲陣地に釘付けにされています。このままでは攻撃が頓挫します。総予備である我が連隊の投入を要請されていますが……」
副官の声には、焦燥が滲んでいた。
連隊全体が「総予備」として温存されていることは、裏を返せば、全軍が最も必要としている決定的な瞬間まで動けないという足枷でもあった。
(我々は、グーデリアン閣下の指示なしに動くわけにはいかない……)
ヴァルテンベルク大佐は、受話器を握りしめたまま考え込む。
彼にとって連隊は、「グーデリアンの意思を体現する剣」である。
それを今、火消しとして投入してしまえば、グーデリアン中将が描いているであろう「深奥の戦略」が崩れるのではないかという懸念があった。
その時、無線機が鋭い電子音を立てて繋がった。
グーデリアン中将本人からの直通である。
「ヴァルテンベルクか! 貴官の連隊の現状はどうなっている!」
中将の声には、普段の冷静さとは異なる、激しい熱情が宿っていた。
「閣下、全車両の点検完了。いつでも出撃可能です。しかし……第二、第八師団が苦戦しております。これ以上の遅滞は戦術的な致命傷になりかねません。総予備としての待機を解き、今すぐ突入させるべきかと」
グーデリアンは短く吐き捨てるように答えた。
「突入させろ。……いや『粉砕』だ。正面の敵防衛線など、貴官の連隊の履帯で踏み潰し、その勢いのまま、敵の指揮系統の中枢を抉り出せ。……シュミットの小隊を先鋒に据えろ。貴官の連隊という質量で、それを物理的に確定させるのだ!」
「ヤボール、閣下!」
回線が切れると、大佐は居住まいを正し、ハッチの外にいた伝令へと声を張り上げた。
「全車に伝えろ! 総予備の待機は終わりだ! 第一戦車連隊、前線へ突入する! 目標は敵防衛線の中枢、第二・第八師団を阻む全火砲だ! ……シュミット少尉、貴官の小隊が道を拓け!」
101号車のハッチから、シュミットは戦場を見渡した。
遠くで爆炎が上がり、ドイツ軍の戦車が炎上しているのが見える。
「……計算が早まったな」
シュミットは手袋を締め直し、冷静に計器を確認する。
「第二、第八師団が残した『空白』を、我々が埋める。……ハルト、カスパル、ついて来い。数式は変わった。我々は最先鋒だ」
「少尉、面白くなってきましたね!」
ハルトが戦車長ハッチから顔を出し、不敵な笑みを浮かべる。
「全車、エンジン始動! 鉄の牙、これより狩りに出るぞ!」
百数十両のIV号、III号戦車が一斉にエンジンの咆哮を上げる。
その大地を揺るがす地響きは、それだけでフランス軍にとっての死刑宣告だった。
第一戦車連隊は、泥沼の戦場を切り裂き、轟音とともに突撃を開始した。
それは単なる増援ではない。戦局そのものを塗り替える、巨大な鋼鉄の奔流であった。
ヴァルテンベルク大佐は、先頭を行くシュミットの101号車を視界に捉え、静かに誇らしげに呟く。
「行け、至宝よ。貴官の導く先にこそ、勝利がある」
フランス北部。
第一戦車連隊の突撃は、濁流のように敵陣を飲み込んだ。
第二、第八師団が数時間にわたり足止めを食らっていたフランス軍の強固な防衛線は、百数十両の鋼鉄の塊が織りなす圧倒的な質量と、シュミット少尉の「数式」によって、瞬く間にその均衡を崩し始める。
先頭を進むのは、101号車を筆頭としたシュミット小隊、そしてそれを追従する連隊の各中隊だ。
シュミットの無線からは、感情を一切含まない、しかし絶対的な精度を持つ命令が飛び交う。
「102号車、右翼へ六〇メートル展開、散開速度を維持。104号車はそこの対戦車砲を優先的に沈黙させろ。……砲兵の狙いはその一点だ。二秒後に煙幕を張る。その間に『点』と『点』の間を縫え」
彼の命令は、まるで巨大なオーケストラの指揮者のようだった。
小隊規模の戦車が、それぞれ異なる役割を与えられ、寸分たがわぬ動きで戦場を駆け抜け、連隊の通り道を切り開いている。
101号車の砲塔は、ほとんど回転しない。
シュミットの砲手カスパルは、自ら引き金を引く機会を失い、しかしその代わりに、彼の耳は少尉の指示を逃すまいと全神経を集中させていた。
シュミットは自ら撃つ代わりに、小隊への指示のみで、連隊という巨大な「力」を操っていたのだ。
「103号車目標は三時の方向。敵戦車、二両。側面装甲は薄い。104号車が回り込んでいる挟撃できるはずだ」
グオォォォォン!
ドゴォォォォォン!
轟音と爆炎が、戦場を支配する。
シュミットの指示を受けた各戦車は、まるで生き物のように敵の弱点を突き、次々とフランス軍の戦車を沈黙させていく。
彼らの機動は、個々の判断に任されているようで、しかし全体としてはシュミットが描いた「巨大な数式」の一部分だった。
「カスパル、101号の砲を二時の方向へ。敵兵が林の中に潜んでいる。榴弾を一発。威嚇射撃で十分だ」
「了解!」
砲弾が放たれると同時に、敵の擲弾兵は散り散りになる。
シュミットは、無駄な破壊を嫌い、最小限の力で最大限の戦果を上げることを常に求めていた。
その時、前線から悲鳴のような報告が入る。
「連隊長! 第二防衛線の奥から、ソミュアS35重戦車が三両出現! 我がIV号の砲では抜けない! 進撃が止まります!」
通信官の声が、わずかに震えている。ソミュアS35。
フランス軍が誇る重戦車であり、その堅牢な装甲はドイツの主力戦車の砲撃をも弾き返す。
連隊長、フォン・ヴァルテンベルク大佐の無線が、一瞬だけ沈黙した。連隊全体に、不吉な緊張が走る。
「……ソミュアS35、か。シュミット小隊。行けるか?」
「ヤボール。ソミュアS35は予想された変数の範疇です。お任せを」
シュミットは静かに呟いた。その声には、わずかな高揚感が混じっているように聞こえた。
「102号車、後方へ五〇メートル後退。103、104は火力を集中させ、奴らを一点に釘付けにしろ。……だが、決して正面には撃ち込むな。奴らの注意を『最大効率』で惹きつけろ」
小隊の戦車が、シュミットの命令通りソミュアS35の周囲を円を描くように走り回る。
敵の重戦車は、まるで巨大な鈍器のように、ゆっくりと砲塔を回転させては、的を絞れないまま空しく砲弾を放っていた。
「……ハルト、カスパル。出るぞ」
シュミットは静かに命じた。
「我々で、あの『堅牢な壁』を解体する」
101号車が、猛然と加速した。
まるで空気を切り裂くような速度で、101号車は連隊の作り出した包囲網の中央、ソミュアS35へと向かっていく。
それは自殺行為に見えた。ドイツ戦車の主力砲でも抜けない重装甲に、たった一両で突っ込むなど、狂気の沙汰だ。
しかし、シュミットの機動は、狂気ではない。「数式」だった。
101号車は、ソミュアS35が旋回砲塔の隙間をわずかに見せた一瞬を捉え、その巨体の間を縫うように突進した。
車体が傾き、履帯が泥を激しく跳ね上げる。
101号車は、ソミュアS35の巨体を正面からすり抜け、そのまま急旋回。
砲塔をわずかに傾けたまま、その側面下部、履帯と車体の境界線にあるわずかな空間へと、7.5cm短砲身を押し付けるように突き刺したのだ。
バァァァァァァン!!
ゼロ距離射撃。
ドイツ戦車の砲弾は、通常抜けない装甲をも、物理的な近さと、装甲のわずかな弱点を突くことで貫き得る。
轟音とともに、ソミュアS35の分厚い装甲が内側から吹き飛んだ。
巨大な鋼鉄の塊は、内部で爆発を起こし、ゆっくりと炎上を始める。
シュミットは101号車を反転させ、残る二両のソミュアS35へ猛然と突き進んだ。
仲間の一両が、一瞬にして鉄の棺桶と化した光景を目の当たりにし、フランス軍の乗員たちは激しく動揺している。
彼らは必死に砲塔を旋回させ、この神出鬼没な「死神」を捉えようと足掻く。
だが、その砲口が向けられる先には、すでに影も形もない。
戦場には、103号車と104号車が絶妙な間隔で圧力をかけていた。
執拗に側面や背後を突こうとする二両のⅣ号戦車に翻弄され、重厚なソミュアの車体はガタガタと不格好に揺れる。
敵戦車長のパニックが、戦車という巨大な機械の動きを鈍らせていた。
その混乱の渦中、シュミットの機動は、もはや理屈を超越していた。
101号車は、まるで滑るようにソミュアS35の背後へ回り込み、エンジンルームの吸気口に7.5cm砲を叩き込む。
火炎が噴き上がり、機能を停止した。
戦場の端で泥濘に足を取られ続けていた一両が、恐怖で戦場を横切り、後方へ逃げようとしていた。
戦場の端、ぬかるんだ泥濘に足を取られた一両のソミュアS35が、亀のような鈍さで呻きを上げていた。
戦車長であるジャン=ピエール・ルノワール少尉は、激しく振動する車内で、拳を白く変色するほど強く握りしめていた。
この戦闘が始まった直後、この重い巨体は地獄の泥に捕らわれた。
脱出を試みるたびに履帯は空回りし、その間に、味方であるはずの鋼鉄の塊たちが次々とシュミット小隊の精緻な砲撃に沈んでいく。
愛車が泥に沈み込むたびに、ジャン=ピエールには自分の魂がゆっくりと地底へ引きずり込まれるような錯覚があった。
もはや、彼に戦う意志など残ってはいない。
この泥の底で、ジャン=ピエールは目を閉じた。
浮かび上がるのは、先月生まれたばかりの娘、マリーの姿だ。
まだ抱き上げた時の温もりが手に残っている。
あの小さな唇、柔らかい頬、自分を待つはずの妻が育てている赤い薔薇が薫る我が家。
(マリー……。パパは、なぜこんな泥の中にいるんだろうな)
フランス戦車兵としての矜持だけが、唯一の楔として彼を戦場に繋ぎ止めていた。
ドイツ軍に降伏すること。
それは彼にとって、軍人としての最後のプライドをドブに捨てることに等しかった。
もし降伏してしまえば、自分はただの「負け犬」となり、マリーの父親である資格すら失ってしまうのではないか。
その恐怖が、死の恐怖をわずかに上回っていた。
だが、それはシュミットの描いた「数式」の中の予定された変数であった。
「ハルト、カスパル。残り一両は、第3小隊に譲ってやろう」
シュミットは冷徹に言い放った。
後方でその様子を見ていた第3小隊の各戦車は、士気を爆発させ、集中砲火を浴びせる。
逃げようとするソミュアS35は、無数の砲弾を浴びて、ついにその巨体を爆砕させた。
無垢な赤ん坊の写真は戦車の中で静かに灰に変わる。
ヴァルテンベルク大佐は、指揮車の中でこの信じられない光景を目撃し、深々と息を吐いた。
「……見事だ。シュミット少尉。貴官は、戦場における『神の数式』を、自らの手で書き換えることができるのだな」
グーデリアンが第一戦車連隊に下した「粉砕」の命。
それはシュミットという一点の天才の指揮により、完璧なまでに遂行された。
百数十両の鋼鉄の獣と、ただ一人の冷徹な軍師。
この比類なき融合は、フランス軍の防衛線を文字通り塵芥へと変え、戦場の地図を塗り替えた。
ダンケルクへと雪崩れ込む敗残兵を完全に粉砕すれば、イギリスとフランスという二大国が屈服するまで、もはやあと一歩――。
常備軍の大半を大陸へ吐き出したイギリスは、今後数年間の継戦能力を根底から粉砕されるはずであった。
同時に、フランスは防衛の要であった主力部隊を失い、パリを死守する兵力さえも喪失する運命にあった。
歴史の歯車は、勝利という名の確定した未来に向かって、重厚な音を立てて回り始めていた。
欧州の運命は、第三帝国の輝かしい未来へと突き進んでゆく――はずだった。




