第2章 試される音色
リナは、布の向こうで誰かの足音が止まったことに気付く。
――次に来るのは、判断を下す人に違いない。
そう直感していた。
テントの布が持ち上げられ、光が差し込む。
リナは無意識に背筋を伸ばした。
入ってきた人物の姿を一目見て、分かったことがある。
服の色も刺繍も、歩き方も、他の兵士とは違う。
誰もが一歩下がる。空気が、自然に静まった気がする。
目は細く、何かを量るようにこちらを見ている感じがする。
圧倒されてちゃんと顔を見ることができない。
「名前は?」
芯のある声で、静かにそう尋ねてくる。
「り……リナです」
「リナとやら、ここに来た理由は?」
喉が、ひくりと鳴った。
考えていたはずの言葉が、うまく形にならない。
理由、と言われても――本当のことを言っても信じてもらえないだろうし、かといって、もっともらしい嘘も思いつかない。
「……気づいたら、ここにいました」
やっと、それだけを絞り出す。
男の眉が、わずかに動いた。
「来た覚えはない、と?」
問い詰める調子ではない。
ただ、逃げ道を塞ぐような、静かな確認だった。
「はい……」
短く答えると、視線が自然と足元に落ちる。
沈黙が続く。
この男は何も言わず、しばらくリナを見ている。
「かつて、この世界には、違う世界からやってきたという人物がいたことがあった」
不意に、男はそう言った。
突然の内容に、思わずリナは顔を上げる。
「リナ、君ももしかしてそうなのではないか、と思ったのだが」
その言葉を、すぐには否定できなかった。
違う世界。
太陽が二つあるのを見たら、この地球のどこかと考えるのは、少し無理があるだろう。
「……そう、かもしれません」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「でも、確かなことは分かりません」
視線を落とす。
「気づいたら、ここにいて……何が起きたのかが本当にわからなくて。……人を探そうと歩き回ってました」
男は、表情を変えなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではない。
「それで、この拠点にたどり着いたということか」
低く、確かめるように言う。
リナは小さくうなずく。
「……はい」
男は一度だけ視線を外し、考えるように口を閉ざす。
その仕草に、決断の重さが滲んでいた。
「ならば、もう一つ聞こう」
再び向けられた視線は、鋭いが冷たくはない。
「お前は、ここで何ができる」
試されている、とリナは感じた。
捨てられないようにするためにも、何かを示さなければならない。
さっきの槍の兵士との会話から、言い方を学んだ。
「私は、音色を奏でる鳴器を演奏することで、人を落ち着かせることができると思います」
「それは、治療ということか?」
「いいえ。傷を治すことはできません」
少し間を置いて、言葉を選ぶ。
「でも……恐怖とか、動揺とか。そういうものを、和らげることは……たぶん」
“たぶん”という言葉が、自分でも弱いと分かる。
それでも、嘘ではない。
男の眉が、ほんのわずかに動いた。
そのとき、テントの外から、かすれた呻き声が聞こえた。
押し殺した痛みの音。
男は何も言わず、布の向こうを見る。
一瞬だけ、迷ったような表情をしたように見えた。
「戦友を失った兵がいる」
淡々とした声だった。
「身体の傷は軽くはないが、命に関わるものではない。だが、心の傷の方が問題でな」
再び、リナを見る。
「お前の“音”が、偽りでないのなら――」
言葉を切り、短く息を吐く。
「できるか」
リナは、一瞬だけ唇を噛む。
確信はない。
それでも――逃げる理由は、もうなかった。
「……やってみます」
男は、わずかにうなずいた。
「鳴器を返してやれ」
外で人が動く気配がする。
胸の鼓動が速くなる。
「……名を言っていなかったな。アマギだ。この拠点の指揮を預かっている。……期待してるぞ」
そう言ってアマギは天幕の外に出る。
その光景が以前の世界の記憶とダブる。
吹奏楽部の合奏で、リナだけ失敗してしまったことがある。
呼び出された時、叱られるものだとばかり思い込んでいた。
しかし先生は、期待してるぞ、と声をかけてくれたのだ。
天幕が再び開き、槍の兵士がフルートを大事そうに持ってきてくれた。
「あ、ありがとうございます」
受け取ったフルートを確認するが、壊されたり雑に扱われたりといった様子は見られない。
管に息を通し、自らの心を落ち着かせる。
外に出ると、日が少しだけ傾いただろうか?
テントの影の形が、先ほどよりも大きくなっている。
「こっちだ」
アマギが示したのは隣のテントだった。
リナの後ろを槍の兵士や、最初に報告しにいった兵士が続く。
もはや監視という空気ではなく、リナの行う事が気になる様子だった。
兵士の一人が天幕を上げると、アマギは中に入る。
リナもそれに続く。
中央に簡易の寝台がひとつ。
その上に、若い兵士が横たわっていた。
腕や腰に包帯は巻かれているが、血は滲んでいない。
胸も、きちんと上下している。
生きている。
それは一目で分かった。
「うぅ……」
呻き声が再び聞こえる。
うなされているのだろうか。
目も開くことがあるが、焦点が合っていないように感じる。
「いけるか?」
アマギの問いに、リナは頷く。
そして、目を閉じて集中する。
テンポはゆっくり。
音量や音程の変化も穏やかでよい。
フレーズも繰り返したりする単純なもの。
それでいて心に訴えかけるメロディを。
そして吹き始める。
この兵士は仲間を戦場で失ったと言っていた。
戦いの場では何が起こるか分からない。
きっと、言葉で説明する以上の深い心の負担があったのだろう。
それが何かはリナには分からない。
それでも……、この兵士の心の傷が和らぐように祈る。
音色がテント内に満たされていく。
暖かいものが、静かに広がっていく――、そんな感覚に陥った。
「なに、……」
「これは……」
「……嘘だろ」
三者三様の声が聞こえる。
ざわめきが、耳に届いた。
驚きなのか、戸惑いなのかは分からない。ただ、この音は拒まれてはいない――そんな感覚だけが残った。
どのくらい演奏していただろうか。
メロディが一区切りついた所で、リナは吹くのをやめて目を開ける。
その兵士の呻き声は聞こえなくなり、顔の筋肉の硬直も治ったように見える。
いや、実際にどうなのかは分からないが、誰も何も言葉を出さずにいた。
「……リナ、君は何者だ?」
その問いに、リナはきょとんとした。
「え……?」
何をアマギに聞かれているのか、すぐには分からなかった。
ただ、吹き終えた後の静けさが、少し気まずくて――。
「えっと……その……」
手に持っていたフルートを近くにあった棚に置く。
「普通の……学生、です?」
そう答えながら、自分でも首をかしげていた。
さっきまでの演奏は、特別なことをしたつもりはない。
いつも通り、落ち着いてもらえたらいいなと思って吹いただけだ。
アマギは、返事をせずに横になっている兵士の方へ視線を向ける。
寝台の上の兵士が、小さく息を吸った。
――はっ。
今までとは違う、はっきりした呼吸音だった。
「……あ?」
低く、掠れた声。
兵士のまぶたが、ゆっくりと開く。
焦点の合わなかった瞳が、天幕の内側を彷徨い、やがて天井で止まった。
「……ここは……」
自分の声に驚いたように、兵士は喉を鳴らす。
次いで、身体を起こそうとして、小さく顔を歪めた。
「無理に動くな」
すぐそばで、槍の兵士が制する。
「……俺は……」
兵士は一度、目を閉じた。
深く息を吐き、もう一度、ゆっくりと吸い込む。
「……生きて、る……?」
その言葉に、天幕の中の空気が変わった。
誰かが、息を呑む音。
誰かが、肩の力を抜く気配。
アマギは、寝台に近づき、低い声で答える。
「ああ。よく戻ってきたな」
兵士は、しばらくぼんやりと天井を見つめていたが、
やがて、何かを思い出したように眉をひそめた。
「……夢を、見ていた気がする」
言葉を探すように、しばらく無言になる。
「上から押さえつけられて、息もできなくなって……、そうしたら聞こえてきたんだ。……歌?音?」
「その苦しみから解放する音を出していたのが、このリナだ」
「……この子、が?」
兵士はゆっくりと視線を動かし、リナの方を見た。
焦点は先ほどまでの虚ろさはない。
「聞こえてくる音が……暖かくて……。遠くで、誰かが呼んでるみたいで……」
言葉を紡ぐたびに、呼吸が落ち着いていくのが分かる。
胸の上下が、先ほどよりも深く、規則正しい。
「そうか、君が呼び戻してくれたんだね。……ありがとう」
「あ、いえ……。お元気になられて本当に良かったです」
リナはペコリとお辞儀し、テントを出ることにする。
そして思わず伸びをしてしまう。
自分の音楽が、この世界で通用した。
その事実がリナを高揚させていた。
演奏で息を使いすぎたせいか、少し酸欠状態になっていたので、新鮮な空気が吸いたかった。
血の臭いのするこの拠点は、お世辞にも深呼吸に適した場所とは言えないので、少しだけ離れたつもりだった。
二つある太陽は沈みかけており、夜の訪れを予感させていた。
戦場の緊張が、ほんのわずか遠のいたような感覚。
胸の奥が、じんわりと温かい。
――できた。
その実感に、気が緩んだのだろう。
その選択が何を意味するのか、リナはまだ知らなかった。
「!!」
草を踏む、異質な音がした。
軽い。
だが、人の足音とは違う。
リナは、反射的に身を固くした。
風でも、小動物でもない。一定のリズムがある。
ゆっくりと振り向く。
そこにいたのは――人に似ていて、人ではないものだった。
背丈は低い。
大人の男性ほどはなく、子どもよりは大きい。
だが、体つきは歪で、手足の比率がどこかおかしい。
皮膚はくすんだ緑色。
土と汗が混ざったような色合いで、光を鈍く反射している。
服と呼べるかも怪しい布切れを腰に巻きつけているだけだった。
顔を見て、喉がひくりと鳴る。
鼻は潰れ、口は横に裂けるように大きい。
その奥に、不揃いな歯がぎっしりと並んでいるのが見えた。
目は黄色がかった白目に、黒い点のような瞳。
――見られている。
それだけで、体がすくむ。
短い腕の先には、刃こぼれした刃物が握られている。
それを構えて、静かにこちらを見ていた。
リナは、息を吸うことすら忘れていた。
逃げる?
叫ぶ?
頭では分かっているのに、体が言うことを聞かない。
次の瞬間、その緑色の生き物が動いた。
リナを目掛けて刃物を振り下ろす。
キーン
金属音が鳴り響く。
「姫、無事か!?」
誰かが助けてくれた。
覚えのない呼ばれ方。
「え!?」
ゆっくりと目をあけたリナは、その光景に思考が追いつかない。
腰と腕に包帯を巻いたままの兵士が、目の前に立っていた。




