2-3 僕の中の、最初の音
いつになく、カーテンの隙間から強く射す日差しで目が覚めた。
カーテンレールがぶつかる音が、昨日の“あの音”と錯覚する。一瞬、心臓が跳ねた。
でも、何も起きていない。
リビングに降りると、いつものように整いすぎた—まるで撮影スタジオみたいに完璧な食卓が並んでいた。焼きたてのトースト、鮮やかなサラダ、湯気の立つスープ。誰も間違っていない。でも、それが“昨日と同じ”なのが、今日は少しだけ怖かった。
母さんに進路調査票のことを聞かれないうちに、僕は焼きたてのパンを早々に口へ運び、そそくさと朝食を終えた。トーストの温かさが、逆に気まずくて仕方なかった。背中を見送る母の声が届く前に、玄関を出る。
──昨日の“音”を、まだ持ったまま。
今日は、うまくやれそうになかった。
いつもより早く家を出たのに、駅までの道で自転車のチェーンが外れた。油で指を汚しながら直した頃には、もういつもと同じ時間だった。
(……せっかく早く出たのに)
なんでもない出来事。でも、その「なんでもなさ」が妙に引っかかっていた。今日に限って、空の色もどこか薄かった。
昼休み、僕たちはいつものように購買で買ったパンを並べる。でも今日は、なんとなく“いつも通り”に入り込めない気がしていた。
「……あ、これ見て」
白石がパンをかじりながら、スマホの画面を見せてくる。
「この大学、研究室面白そうじゃない?UIとかデータ分析とか、けっこう自由っぽい」画面には、情報系の大学の学
部サイトが映っていた。
「へぇ。白石、そっち系いくんだっけ?」
「うん、まぁ……研究とかできたらいいなーって思ってて。SEとかじゃなくて、もっと“人の動き”とか、癖とかをデータで見たい感じ」
「人の動き?」
「うん、なんか、選択肢の出し方で回答率変わるとか、そういうの面白くない?
——って、まぁ親には“潰しが効く”って説明してるけどね」
白石はさらっと笑った。でも、笑いの裏側にほんの少し“探ってる”ような目があった。
「……お前、そういうの、前から興味あったっけ?」
「どうだろ。なんか、気づいたら“ありかも”って思っただけ」
なんとなく流れで選んでる。でも、それなりに納得してる。
そんなバランスの上で白石は立ってる気がした。
「お前らしくていいな」航平がパンを口に放り込みながら言う。
「俺は教育系。小学校の先生とか、向いてるかもなーって。なんかさ、そういう未来って、“描きやすい”んだよね」
「前に、先生になるの夢だったっけ?」
「夢っていうより、“現実に落とし込める夢”って感じ。中学のときの担任、すげー熱い人でさ。ああいう大人になれたらカッコいいなって思ったこと、あったんだよ」
「……それで、今も?」
「……うーん、まあ、推薦取れそうってのもあるしな。笑」
その言葉に、僕は少しだけ目を伏せた。
「佐久間はどうするんだ?」
「僕は……」
その瞬間、喉の奥がぎゅっと締まった。言葉が出てこない。
言いかけたところでチャイムが鳴り、午後の始まりを告げる。
航平や白石と話していても、少しずつ、言葉の端に“ズレ”が残る。昨日まで気づかなかったそれが、今日は妙に耳に残った。
──“音”の違い。それは、どこか自分の方が変わってしまったような、そんな感覚だった。
放課後、廊下を歩いていると、ふいに背後から軽い足音が響いた。
振り返ると、結が手を振っていた。
昨日の穏やかな笑顔。
だけど—その歩みに、また“何か”が混じっている気がして。
掲示板の前で聴いたあの音が、ふっと頭をよぎった。
「そういえば、佐久間くんは進路調査票にはなんて書いたの?」
「昨日は私の話ばっかりだったから。」
そういう結の声は、昨日とは少し違って聞こえた。まるで一晩かけて、ちゃんと別の場所から”芽吹こう”としているみたいに。
僕は少しだけ考えて、静かに答える。
「……まだ、はっきりは決めてないけど。でも、“誰かの答え”じゃなくて、自分で選びたいなって思ってる。」
結は驚いたように目を丸くして、それから、ふっと笑った。その笑顔には、昨日の“揺らぎ”が、ほんの少しだけ溶けていた。
「そっか。……なんか、そういうのっていいね。」
「咲きたいのに、うまく咲けない人っているんだよね。
そういう人に気づける人って、たぶん少ない。
……だから、気づいたなら、守ってあげてね」
結のその声は、静かな中にも強く、確かに芯のある声だった。
チャイムが鳴る直前の、誰もいない廊下。
その静けさの中で、僕は自分の中の“音”を、
ほんの少しだけ、聴けた気がした。
「やっと向き合ったね、その音に」
ナギの声は、風のように小さくて、でも妙にリアルだった。
僕は少しだけ、笑った気がする。気のせいかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
この後—
教室のドアを開けた瞬間、
ばきっ。
数日前に一度だけ、聞いたことのある強い音が、空気を裂いた。耳ではない。
なのに、鼓膜が震えるような、乾いた“衝撃”のような音。
教室の奥で友人と会話するその背中は、世界のどこにも属していないように見えた。