2-1 “見るだけ”のページに印をつけて
「ねえ、最近よく聞こえるでしょ?」
静かな教室に、ぽたりと音を落とすみたいに、冷たくも芯のある声が響いた。僕は顔を上げない。
ただ、本の続きを読み進める。
「この間から、“誰の音?”って思ってたでしょ。でも違うよ。それ、きっと——君の中で鳴ってるやつだよ」
……うるさい。いいじゃないか。真面目でも、いい子でも。
その言葉が、心の内側で何度も反響していた。
「……君の中で鳴ってるやつだよ」
うるさい、と思った。でも、どうしてだろう。その“うるさい”も、自分の中から出てきた気がした。
僕は本を閉じた。その瞬間、教室の空気が、ぴたりと止まったように感じた。
「おい、佐久間」
いつものように、航平が笑いながら僕の肩を軽く叩く。
そのとき、確かに“笑っている”ようには見えた。
でも、声が音にならなかった。水の中から見ているみたいに、言葉だけがぼやけて、意味をすり抜けていく。
「……あのさ」
ふいに、前の席の白石がこちらを振り返る。
何かを話しかけてくれているのはわかる。
でも、その口の動きに、感情の音が乗ってこない。タブレットの画面の中に流れる自動音声みたいだった。
—でも、本当に“聞こえない”のは、もしかしたら僕のほうかもしれない。
「みんな、生きてるように見えるけど、 もう死んでるのかもしれないよ?」
ナギの声が、教室の空気にひびを入れるみたいに届いた。その声だけは、まるで耳の奥に直接落ちてくる。
言葉が、意味を持って響く感覚を、久しぶりに思い出す。
……そのときだった。
教室のドアが、かすかに開く。小さな気配が、すうっと空気を押し分けるように入ってきた。
ひとりの女生徒が、静かに歩いていく。その歩みが通り過ぎた瞬間—教室の空気が、かすかに揺れた。
ぱちん。
耳ではなかった。けれど確かに、胸の奥で何かがはぜるような感覚があった。思い違いかもしれない。
でも、もしあれが何かの始まりの合図だとしたら―僕は、それを今、初めて“ちゃんと聞いた”のかもしれなかった。
教室のドアがかすかに閉まりかけ、その隙間から、ひとりの女生徒が歩いていく。
スカートの裾が揺れて、そのあとを追いかけるように、あの小さな音が残っていた。
割れたわけでも、軋んだわけでもない。ただ、世界のどこかがふっとほどけたような……そんな手ざわり。
名前は、たしか、西野 結。
「理想の優等生」。たぶん、それで完結してるはずの人間。
なのに。
今、僕の中に――ほんの一瞬、ひっかかりが残った。その理由はわからない。
でも、静かすぎる日常の中で、なぜだか、その背中だけが“音”を引き連れているように見えた。
チャイムがいつものように、「うまくやる」日常の始まりを告げる。僕は目を伏せて、ノートを開く。
ページの罫線が、見慣れたはずの形をしていなかった。あの背中を見たあとでは、何もかもが“正しく整いすぎて”見えた。
—たぶん、このころから、僕は気づき始めていた。
その日の放課後、ふと校舎の掲示板の前で足を止めた。
「進路希望調査、未提出の人は至急」
と赤い印刷で貼られた紙。その下に、各大学のパンフレットが並んでいる。
僕はとくに目的もなく手に取って、めくる。
でも、指先の動きはどこかぎこちなかった。
—これ、本当に“自分が選んでる”進路なのかな?
そのとき、ふと誰かの視線を感じた。横に目を向けると、西野 結がいた。
手に持っていたのは、「心理学」で有名な私大のパンフレット。
彼女はページをゆっくりめくりながら、何度も同じところを見返していた。
静かな表情。でも、ほんの一瞬だけ、指先が止まった。
彼女が見ているパンフレットへ注意をやると、合格者向けの案内じゃなかった。
ページの角には、「入学説明会」と書かれた文字が小さく載っていた。
それが、合格者向けじゃなく、「受験生向け」だったって気づいたとき、僕の胸のどこかが、かすかに軋んだ。
ぱちん。
また、あの音がした。
今度は、結の胸の奥から―何かが、ゆっくりと崩れ落ちるような音だった。
「……その大学、有名だよね。心理学強いって」
「うん。……昔から興味あって。でも……見るだけ、だよ。ほんとに」
見るだけ。なのに、ページには折り目がつけられ、日付には印が書かれていた。
小さな印。でも、それはきっと、声よりも大きな“願いの跡”だった。
それを見たとき、僕の中でまた何かが、はぜた。
彼女はページをめくり続ける。小さな文字に、何かを探すような目で。
でも、手元の指先は少し震えていた。
僕はつい口にする。
「……もう、公務員って決まってるんだよね」僕の言葉に、結はふっと笑った。
小さな吐息みたいな笑みだった。
「うん。受かった。だから……これは、ただの記念だよ」
彼女はそう言って、パンフレットのページをゆっくり閉じた。その表紙には、小さな折り目がついていた。
「……昔、本気で目指してたんだよね」
「心理学。人の気持ちとか、自分の気持ちとか、もっと知りたくて」
そこで、一度だけ彼女の目が揺れた。でも、すぐに表情が整って、きれいな“理想の結”に戻る。
「でも、3者面談で結さんは成績優秀で真面目だから“そんなのもったいない”って言われて」
「“女の子なんだから、安定してるほうがいい”って、先生にも親にも言われた」
「……だから、やめた。ううん、“忘れた”のかも」
その音は、芽が開く音じゃなかった。
ふるえるように、静かに、しぼんでいく──そんな音だった。