1-5 その時は楽しかった気がする。
朝の食卓は、完璧に整ったまるで撮影スタジオのように整っていたみたいだった。焼きたてのパンにハムエッグ、彩りのいいサラダ、湯気の立つスープ。
母の声は、いつもどおり明るく響く。テレビからはニュースの音。父はそれを見て、「うん、うん」とだけ言っている。誰も間違っていない。でも、どこかで全部“正しすぎる”気がした。
それぞれの席に着き、他愛もない会話を交わす。僕は頷いたり、笑ったり、ちょうどいいタイミングで相槌をうった。
そうして、いつも通り「うまくやる」日常が始まる。……だけどふと、パンをちぎった指先に、感情がちゃんと乗っているか不安になる。
いつもの朝、いつもの食卓。でも、僕の中だけが少しずつズレている気がした。
(……やっぱり、透は聞こえているんだね)澄の呟く声だけが、何度も何度も、頭の中で反響していた。
いつも通り、ちょっと早めに教室へつき、読書をする。
「……また、うまくやってるんだ」
「ほんとは、ちょっとだけ苦しいくせに」
−ナギの声。
僕は返事をしなかった。できなかった、のかもしれない。
チャイムがなり、廊下から響く、購買へ向かう足音が昼休みの始まりを告げる。
僕は、航平とそれから一人でタブレットと向き合っていた白石に声をかけ、三人でパンを食べる。
他愛ない話。最近ハマってるゲームのこととか、授業の小ネタとか。
「マジさぁ…あの先生、“変換ミスでした”で全てを水に流そうとしすぎじゃね?」航平がパンの袋をくしゃくしゃとたたみながら、墓標のようなトーンでつぶやいた。
白石はタブレットの画面からスッと目を上げ、静かに言った。「いや、この前なんて“課題を提出してください”って打とうとして、“課題を提出物にしてください”って送ってきたからね」
「…え、それはギリ意味通じるやつじゃん?」
「いや、問題はその次。送られてきた追記が――“にゅうしお待ちしてます”」
「え、何?入試?急に人生賭けさせてくるやん」
「そう。“入手”って打ちたかったらしい。けど、いきなり受験戦争のゴング鳴らされた。Googleが。」
「ってか“変換ミスでした”って万能魔法すぎない?普通にミサイル発射して“あ、ごめん、変換ミスでした”って言われても許される勢いなんだが」
「マジで。最近じゃ先生が話すたびに、言葉が人格から脱走してる感すごい」
「てかあの授業、もう“誤変換学”って名前にして単位くれよ」
「それはそれで聞いてみたいけどね」
僕も笑って返した。
「透ってさ、そういうので一回も赤点取ったことないでしょ?まじ真面目」
「いやいや、ただの運だって」
笑いながら言ったけど、
その“真面目”って言葉が、なぜか胸に引っかかった。
確かに、僕は“ちゃんとやってる”側の人間かもしれない。
でも、それって…自分で選んだことだったっけ?
笑ってるこの時間が、ちゃんと楽しかったのか。
今でも、うまく思い出せない。
—“そのときは”楽しかった気がする。
「楽しそうで、よかったね」
誰の声でもない声が、頭の中を横切った。
不意にパンの味が薄くなった気がして、僕はミネラルウォーターをひと口飲んだ。喉を通る冷たさだけが、確かだった。
今日、あれだけ笑ったのに。今、急に音がしなくなった気がした。
「透ってさ、ほんと、いい子だよね」また、あの声がした。今度は、すぐ耳元で。冷たいようで芯のある。でも、鼓膜を撫でるような、息をひそめた声だった。
「ちゃんと空気読んで、相槌打って……みんなと仲良くしてさ」
……優しそうに聞こえるのに、どこか“観察している”ような響きだった。
「でも、透がいなくても、あの時間は同じように進むよ?」
―笑ってるのか、責めてるのか、わからなかった。
僕は何も言えなかった。ペットボトルがただ、ぱきんと音を立てていた。
それだけが、“本当の音”だったのかもしれない。