1-4 透けた手触り
あれから、澄とは少しずつ話すようになった。
最初は、「おはよう」と挨拶を交わすだけ。次に、読んでいる本をちょっと見せ合うようになって、気づけば、昼休みに図書室へ一緒に行くのが“ふつう”になっていた。
それから、“うまくやる”だけだった僕の日常は、
澄という静かな彩りによって、ほんの少しだけ軌道を外れはじめた。
放課後の教室。
窓の外は少しだけ夕焼けが滲んでいて、澄は本を片手に、ページをめくる音だけを鳴らしていた。
「……透ってさ、何か書いたりしないの?」
「え?」
「読んでばっかじゃなくて。感想とか、メモとか、日記とか」「うーん……しないかも」
「そっか。じゃあ、今度、感想戦しようよ。お互いの言葉で」
僕はちょっと笑って、うなずいた。それだけのやりとりなのに、なぜだか、すっと心が軽くなった。
澄は、本を読み終わると、しばらく表紙を見つめていた。指先でページの端をなぞるようにして、ふうっと短く息をつく。
「……この主人公ってさ、あんまり他人の言うこと聞かないんだよね」不意に、そんなことを言った。
「でも、自分の中の声には、すごく敏感」
「こっちがちょっと心配になるくらい、自分の内側にだけ、ちゃんと耳を傾けてる感じがしてさ」
僕はうまく返せずに、「へえ」とだけ言った。
でも澄は、別に答えを求めていたわけじゃないみたいだった。
「もちろん、それだけの話じゃないんだけど」と、言葉を繋ぎながら、ふっと笑う。
「でもさ、自分の声を聞くって、結構むずかしいんだよね。
自分は……たまに、どれが“本当の声”なのか、よくわかんなくなるときがある」
僕は、ノートの上に視線を落とした。
それは、授業で使うどんな文章よりも、耳に残る言葉だった。
澄の言葉は、いつもどこか“芯”を感じる。
たぶん、自分の言葉をちゃんと使っている人だけが持てる音だった。
じゃあ、僕の言葉は
—誰のものだったんだろう。
誰かが言ってた気の利いた一言。先生が言った、正しい答え。
SNSで見かけた、ちょっとバズってた感想。
僕はずっと、“借り物”の言葉で話してきた気がする。
それが普通で、恥ずかしいとも思ってなかった。
でも、澄と話すたびに、自分の中に何も持ってないことだけが、透けて見えていくような気がした。
「ねえ透、今週末、空いてる?」
帰り道、校門を出たところで、澄が不意に言った。あたりは日が落ち街灯に虫だけが集まってきている。
「たまには学校外で遊びに行かない?」
僕が「いいよ」と答えると、澄はちょっと満足そうに笑った。
僕の中に、うまく言葉にならない“なにか”が芽のように残ったまま、
その週末を、僕は静かに待っていた。
そして、約束の日。
約束の時間ぴったりに待ち合わせ場所へ着くと、澄はすでに来ていた。
いつもの制服じゃなく、シンプルな白のシャツに、くたっとしたトートバッグを肩にかけている。
「おまたせ」
「ううん、今来たところ」
それだけのやり取りなのに、いつもより澄が遠く見えた。
「まずは本屋、寄っていい?」
そう言って澄が歩き出す。僕はその少し後ろをついていく。
駅前の大型書店。
店内に入ると、僕は反射的にランキングコーナーへ向かっていた
「“もう一度、君に会いたい。”」
「“ラスト一行で涙する青春サスペンス。”」
「“あなたの中にもいる—見えないふりをしてきた自分へ。”」
平積みされた本たちは、どれもキャッチーな帯と言葉で“感情”を売っていた。
僕はその中から、1冊の本を手に取る。
どこか“今の自分”に近い気がして。
……いや、もしかすると、「わかってる風」に見えるから、選んだのかもしれない。
でも、気づけば澄はもう違う場所にいた。
文芸書の棚の一角、あまり人のいない場所で、しゃがみ込んで一冊の本を手に取っている。
「これ、最近また読み返しててさ。自分がちょっとずつ変わってくると、読むとこも変わるんだよ」
表紙には見覚えのないタイトル。でも澄は、迷いなくページをめくっていた。
「透は? 気になるの、あった?」
「うん、まあ……ベストセラーのコーナーにあったやつとか」
「そっか。そういうの、失敗しにくいもんね」
笑いながら言ったその声に、棘はない。
でも、どこかで僕の“選び方”がすっと透けた気がした。
「本も買えたし、お昼食べよか」
澄が何を食べようかなーとワクワクした表情で、声をかけてくる。
僕はすかさず、スマホで高評価のラーメン屋とパスタ屋を検索する。
でも、澄は商店街の小さなカフェの前で立ち止まった。
「なんか、いい匂いしない?ここ、入ってみない?」
僕は一瞬、画面に表示された評価☆3.8と睨み合ってから、
顔を上げて「いいよ」と答えた。
席に着くと、店内は少し古くて、メニューも手書きだった。
でも、どこか落ち着く空間だった。
「このお店さ、なんか時間の流れがちょっとだけ違う気がするんだよね」
澄はそう言って桜海老と芽キャベツのペペロンチーノを「これ、美味しそう」と指さし、紅茶と一緒に注文する。
僕はというと、「季節限定のハーブチキンサンド」が気になったけど、“ハーブって癖強そう”という理由で、無難なタマゴサンドとアイスコーヒーに落ち着いた。
「透って、カフェとか来るの?」
「……あんまり。普段は口コミがいいラーメン店とかの方が安心っていうか」
「そっか。でも、安心ってさ、“失敗しない選択”って意味でもあるよね」
そう言って、澄は小さなカップを両手で包むようにして、紅茶をひと口飲んだ。
湯気の向こうで笑ってるけど、どこか、その目だけは真っすぐだった。
「透の“ほんとはこうしたい”ってやつ、聞いたことない気がする」
不意に、そう言われた。笑ってるけど、その言葉はまっすぐで、柔らかくて、
でも逃げ場がなかった。
僕は一瞬、何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「え……?」
一言が出てくるまでに、ほんの少し間が空いた。
「いや、ごはんも本も、いつも“いいよ”って合わせてくれるし、話題のものもいろいろ教えてくれるけどさ」
「透の“好き”とか“行きたい”とか、そういうの、ちゃんと聞いたことないかもなって」
僕は返事ができなかった。
気づけば、自分の“したいこと”がすぐに出てこないことに気づいていた。
「だから今日は、透の“したいこと”して帰ろうよ」
「なにかある? 思いつかなくても、それが“今の声”かもよ」
そう言って笑う澄の声は、いつものように芯があって、でも、どこかあたたかかった。
「したいこと……か」
食事を終えて、店のトイレに入る。
鍵をかけて、ため息をひとつ。
うっすらと響く水音の中で、僕はスマホを取り出し、検索窓を開いた。
「やりたいこと 見つけ方」
「高校生 遊び 楽しい」
「自分の本音 探し方」
—しょうもないワードばかりだ。
でも、それが今の僕の“本音”だった。
画面に並ぶのは、自己分析アプリに、名言まとめ、
「あなたに向いてる職業30選」なんてリンクをタップしかけて、あわてて戻る。
(……いやいや、そういうことじゃなくて)
たぶん僕は、“ちゃんとした理由”を、誰かに提示できる何かを探してただけだ。
「したいことって、どうやって見つけるんだろう……」
小さく呟いたとき、画面の光の奥に、澄の笑った顔がふっと浮かんだ気がした。
「なにかある? 思いつかなくても、それが“今の声”かもよ」
(……じゃあ、“ない”っていうのも、今の僕、なのかもしれない)
席に戻り、静かにテーブルに肘をつく。レモンの入った水を一口飲むと、氷がカランと鳴った。
「どう? 見つかった? やりたいこと」
澄の声に、ドキッとする。さっきの言葉が、まだ胸の奥に残っているのに。
「………うーん」
僕が濁すと、澄は少し笑ったあと、言葉を継いだ。
「ないのもいいんだよ。……じゃあさ、“今のしたくないこと”とかってある?」
「え?」
「“やりたいこと”ってさ、キラキラしてて見つけにくいけど、“やりたくないこと”って、意外とすぐ出てこない?」
僕は、少しだけ考える。
「たとえば、誰かの“正解”に合わせるとか、“楽しそうなふり”するとか。……“無理する”とかさ。それって、透の“したいこと”の反対側にあるやつかもしれないよ」
優しくて、でもまっすぐなその言葉に、さっきよりほんの少しだけ、胸の奥が動いた気がした。
「……確かに。でも、やっぱりパッとは思い浮かばないや」
カップの縁を指でなぞりながら、ふと口をついて出た。
「とりあえず……思いついたままに散歩してみたいかも」
そう言った僕に、澄はふっと目を細めて、「いいね」と頷いた。
カフェを出ると、通りには夕方の光が斜めに差し込んでいて、アスファルトの上に、二人分の影が長く伸びていた。
しばらく無言のまま、街を歩く。
横断歩道を渡って、川沿いの道へ抜ける。春の風は少しだけ冷たくて、でもその冷たさが心地よかった。
「こうして歩くの、なんか久しぶりかも」
ぽつりと、僕が言う。
「久しぶり?」
「うん。何も決めずに、ただ歩くのって。
いつもは、目的地がないと落ち着かなくて」
「それって、“真面目”ってやつだね」
澄は笑いながら、前を向いたまま言った。
僕は少しだけ黙って、足元の影を見つめた。
そして、気づけばこんなことを呟いていた。
「なんかさ……最近、自分がどこにいるのか、よくわかんなくなるときがあるんだよね」
「うまくやってるはずなのに、ちょっとずつ置いてかれてる気がして」
「みんなが進んでるのに、自分だけ止まってる感じっていうか……」
言ってから、「やば、重かったかな」
と思って澄の顔を見ると、澄は特に驚いた様子もなく、ただ
「やっぱり、透は聞こえているんだね」
とだけ言った。
僕は足を止めた。
「……聞こえてるって、何が?」
問い返す声は、自分でも驚くくらい小さかった。
澄は立ち止まったまま、ゆっくり振り返る。
「透はたぶん、“音”に気づいてるんだと思う」
「周りのノイズに紛れて、それでもちゃんと自分の中にある音に」
僕は何も言えなかった。
でも、心のどこかで—ずっと聞こえていた音が、確かにあった気がした。
「気づかないふりって、できるからね。 でも、それってずっと続けてると、どっちが“ふり”でどっちが“ほんと”か、 わかんなくなるんだよ」
澄は、ふっと風のような声で笑った。
「……ま、あくまで“気がする”ってだけだけどね」
—あのときの空気のやわらかさが、ノートの端からじんわり滲んでくる。
「透!朝ごはんできたよ!遅刻するよ!」
母の一声が、夢のような記憶を断ち切った。
僕はノートを閉じ、少しだけ現実の手触りを確かめるように机に手をついた。