1-3 言葉になる前の声
その夜、夢を見た。
僕は白い廊下を歩いている。
足音が吸い込まれるように響いて、どこまでも続く。
ぼんやりと、それでいて懐かしい人影が見える。
「抜け道、見つかった?」
人影が声をかけてくる。
「まだだよ。っていうか、あったの?」
意識する間も無く、僕は答える。
「さぁ。あるって思ってる人だけが、見つけられるのかもね」
あたりがぼやけて行く──
澄の声が風に溶けて、目の前の廊下がすうっと消えていく。
カーテンの隙間から、柔らかい日差しが差し込んでいた。
目を開けると、胸の奥にぼんやりとした懐かしさが残っていた。
澄が死んだあの日から、一度も触れていなかったノート。
僕は引き出しを開けて、それをそっと取り出した。
ノートを開くと、文字が少し歪んでにじんでいた。
澄の癖のある筆跡。どこか、浮かれてるような、でも急いでいたような字だった。
ページの隅に、小さく落書きみたいな絵が描いてある。
僕と澄と、あと、もう一人。
誰だったっけ。
忘れたふりをしていた記憶が、ぼんやり浮かび上がってきた。
夢の中で澄に会ってから、なんだか胸がざわついていた。
「抜け道」という言葉が頭の中にこびりついて離れない。
パラパラとめくったページの隅に—その記憶が、いた。
ふと、教室の隅へ目をやると、珍しく読書をしているやつがいる。同じクラスの「高瀬 澄」だ。読んでいる本の表紙には、夜の街と、影のようなものが描かれていた。
「それ……前に書店で見かけた気がする。 “夜になると怪物になる”みたいなやつ、だよね?」
僕は読書好きの仲間がいることが嬉しくて、思わず声をかける。
澄は顔を上げて、すこし驚いたように笑った。
「そう。 昼はうまくやってるのに、夜になると“ほんとの自分”が出ちゃうやつ。」
僕は隣の席に腰を下ろしながら、思わず口にする。
「……自分を偽るって、誰でもやってるよね。 ある意味、しょうがないことだと思う」
「うん、そうだね」
ページを閉じて、澄は静かに言った。
「でもね、ずっと偽ってると、 本当の自分の声が、聞こえなくなる気がするんだよね。 それって、ちょっと寂しくない?」
澄の口からこぼれた儚くも確かに芯のある、その言葉が、胸の奥に残った。
澄の指先が、本の角をゆっくりなぞっていた。教室のざわめきの中で、そのしぐさだけが、不思議と静かに見えた。
「本当の自分の声、か……」
僕は澄の横顔を見ながら、こぼれるように呟いた。
「それって、簡単に聞こえるものなのかな」
「ううん。簡単じゃないよ。でも……」
少し考えるように目を伏せてから、彼は言った。
「聞こうとしなかったら、たぶん一生、聞こえない気がする」
それが、澄との最初の会話だった。あの時の僕にはまだ、その言葉の真意が、ちゃんとはわかっていなかった。