1-1 正しい景色の外側で
なんだか最近、いろんなものの音が小さくなってきている気がする。
駅のホームで流れるアナウンスも、教室で鳴るチャイムも、先生が黒板を叩く音も。全部、前よりくぐもって聞こえるようになった。
最初はイヤホンの調子が悪いのかと思ったけど、耳鼻科に行っても異常はないって言われた。
母さんにも「思春期って、そんなもんよ」と笑われた。
たぶん、僕の耳じゃなくて、世界の方が静かになったんだと思う。
—というのは、たぶん真実ではない。自分が、本当に聞こうとしていないだけなのかもしれない。聞かなくても生きていけるなら、それでいいんじゃないかって、最近はよく思う。
でも、時々ふと思う。 あの音は、もう二度と聞こえないのかなって。
担任の先生は、相変わらずスーツの袖をまくって「今は努力する時期受験を乗り越えて立派な大人になれ」と言っている。
僕たちはノートをとる。教室の空気は整っていて、みんな静かにうなずいている。
正しい光景だと思う。写真に撮っても、きっと“いい学校”に見えると思う。
でも、教室の中で、かすかに響く“ぱきん”という音が、僕には気になって仕方がなかった。
それを“音”と認識しはじめたのは、澄が 彼が“死んだ”ときからだった。
あの日、僕は確かに聞いた。 ざらざらと、どこか温かく、でも痛みを伴うような音。
あれは—芽吹く音だったんだと思う。
誰にも言っていない。 言っても、誰にもわからないと思ったから。
放課後、教室に一人で残っていると、ナギが語りかけてくる。
「また聞こえたんでしょ、あの音。澄のこと、忘れたつもり?」
やめてくれ、と思う。 でも、その声を否定できない自分が、いちばん嫌だった。
「芽、出そうとしてるのに。気づいてないふり、うまいね。さすが優等生」
やめてくれ、と思いながら、
心のどこかでは、ずっと待っていた気もしていた。
次の日、僕は「うまくやった」。
いつものように時間通りに登校して、踊り場でクラスメイトと軽く会釈を交わす。教室に入れば、席に座って最近読んでいる「西の魔女が死んだ」をホームルームの時間まで広げる。
「お、また本? 透ってほんとそういうの好きだよなー」
後ろから”ヤマダコウヘイ”が声をかけてくる。
いかにも朝早くからセットしてきた、髪を手ぐしで整えながら、僕の机に片肘をつく。
「何読んでんの? “魔女が死ぬやつ”?」
「うん、『西の魔女が死んだ』っていう本。結構有名。静かだけど。航平は読んだら寝ちゃいそうだね。」
「まじでそれ、タイトルでオチ言ってない?
俺だったら冒頭で魔女の生き返り期待して読むわ」
僕は少し笑って、本を閉じた。
「たぶん、それは起きないと思うよ」
ちょうどそのとき、チャイムが鳴った。短く、でもぴしりと音を立てて、日常の開始を告げる。
航平は「やべっ」と言いながら席に戻っていった。僕はもう一度、本の表紙を指でなぞってから、机にしまった。
今日も、ちゃんと“始まる”らしい。
その日も先生に当てられれば、それなりの答えを出す。休み時間には、無難な話題に乗っかって、深くは踏み込まない。
ふと、誰かの笑い声の奥で、“ぱきん”という音がしたような気がした。でも、すぐに教室のざわめきに飲み込まれて消えた。
それで何も問題は起きない。僕は、そういうふうに生きている。
また、次の日も、僕は「うまくやった」。
教室に入ると、シライシユウマがすでに席に座っていた。
タブレットを開いて、タイピングの音だけが小さく響いている。
「おはよう、佐久間くん」目を合わせずに、でも礼儀正しく挨拶してくる。
「おはよう」僕も同じように返す。
彼は、誰に対しても“正しい距離”を保っている。失礼なことは言わないし、感情的な言い合いにもならない。だから、先生からは気に入られている。
でも、それはどこか「人と関わっている」というより、“予定通り進んでいる”という感じだった。
「昨日の数学の課題、平均点は65点だったらしいよ」突然そう言って、白石はタブレットの画面をこちらに向けてきた。
その数字が自分にとって何を意味するのかはよくわからなかった。
「僕は90点。あと5点くらいは詰められたかな」白石は、計算式のページをめくりながらそう言った。まるで、心拍数でも整えているみたいに淡々としていた。
そしてチャイムが、日常の開始を告げる。
教室では、今日もまたどこからともなく、かすかに“ぱちっ”という音がした気がした。空調の音か、椅子のきしみか—そう思って、すぐに流した。
そんなふうに、日々のノイズに紛れて、小さな何かが鳴っている。
でも、それがどこから聞こえるのかは、まだわからなかった。
「また鳴ってるんだ?」
ナギが言う。
「気づかないふりしてるだけじゃ、止まらないよ。 それ、もう“音”っていうより“兆し”なんじゃないの?」
「うまくやるって、“聞かないふり”のことだっけ?」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
それが普通のことだとわかっていても、なんとなく落ち着かなかった。
彼の中には、芽吹く種も、揺れる枝も、何もないように見えた。
次の日は、どうもうまくやれなかった。
朝はいつもより少し遅れて登校した。踊り場での会釈も、なんだかぎこちなくなってしまって、教室に入った時には、すでにみんなの会話の輪ができていた。
席に向かう途中で、“ぱちっ”という”はっきり”とした音が、頭の奥に強く弾けた。
ー今までとは、まるで違う。一瞬、目の前の空気が歪んだような感覚すらあった。
音の方向を振り返ると、ちょうど教室のドアが閉まりかけるところだった。
その隙間から、一人の女子生徒の背中が見えた。細い髪がふわりと揺れて、淡い光をはね返していた。
透野 若菜。たしか、隣のクラスの子だ。
あの“音”が、彼女から鳴ったような気がした。でも、それを確かめる術はなかった。
僕は黙って席に座った。本を開いたけれど、文字がまるで頭に入ってこなかった。
今日だけは、“うまくやる”ことができそうになかった。
家に帰ると、母さんの「おかえり」が聞こえた。明るい声。いつも通りのテンション。
「ごはん炊けてるよ〜。今日、お父さん早いって。ラッキーだね」
リビングから、キッチンの匂いがした。きんぴらごぼうと味噌汁の匂い。
今日もバランスの良い「夕食」が用意されている。
僕は制服のまま椅子に座る。母さんはエプロンをつけたまま、テレビを見ていた。
クイズ番組で、芸能人が楽しそうに笑っている。その音声に、母さんもつられて「ふふっ」と笑った。
今の僕には、その笑い声が、どこか遠くの方から聞こえるような気がした。
父さんが帰ってくる音がして、ドアが開いた。ネクタイをゆるめながら、「おう、ただいま」と声をかける。
母さんが「おかえり! 今日どうだった?」と返す。その声のやり取りは、完璧な脚本みたいに滑らかだった。
「この人たちは、ちゃんと“生きてる”んだろうか。
笑って、働いて、ごはんを作って、ちゃんと生活してる。でも、その全部が“死”のように静かに、丁寧に、繰り返されている気がする。」
ーナギがいう。
母さんが皿を並べながら言った。
「透、最近ちょっと元気ないんじゃない?」
僕は笑って返した。
「そう? 気のせいだと思うよ」
その“気のせい”は、誰のものだったんだろう。
僕はそれを、自分でもうまく掴めないまま、味噌汁の味だけを確かめた。