貴女のうなじをつたう汗になりたい
『彼女』は僕の同級生で、17歳で女子テニス部で快活で、笑うと淡い桃色の頬に浮かぶえくぼがとても似合っていて、つまるところ最強だった。
テニスコートに滴る『彼女』の汗さえ宝石である。
展開の都合上、夏休みに書き始めた僕の手記を読んでもらうことから、この物語は始まる。
『R5 8/1 12:44 県立森見山高校 東棟』
目尻の一番色っぽい位置に都合よく形の良いほくろを持つ『彼女』は、きっと神か仏に愛されている。もしくは『彼女』の色香に狂って、両者はすでに地獄に落ちてて全然おかしくない。
もしそうなれば『彼女』は新世界の神になる。是非ともそんな世界で深呼吸してみたいなあと益体のないことを考えたが、よく考えれば『彼女』のファンクラブは校内校外合わせて100人を超えるらしく、『彼女』の神格化は非現実的ではないどころか、半分くらい実現しているような気もする。
あまり良くない噂も聞く。『彼女』によりつく悪い虫を発見しようものなら物理的な制裁を加える過激派が、ここ数週間、組織内の勢力図を着々と塗り替えているという。その過激派メンバーの過半数が女子であるという事実が、ただ男ウケする可愛らしさだけではないという証左が、『彼女』の底なしの魅力を如実に示している。
(ちなみに僕は当該ファンクラブには参加していない。『彼女』自身の、崇め奉られることへの解釈が是か非か知らないからだ。それに、一人だと恥ずかしくて言えない好意を、集団に属して初めて言えるようになるというのは、一人の人間としてなんとなく筋が通っていないような気がする。個を否定されてまで自分に素直になる必要性を感じない。僕は、自尊心が強すぎるのかもしれない)
恐るべし『彼女』こと、春宮香純。
名前からして、ずるいと思う。フルネームからスイートピーの香りがする。
テニスコートで躍動する彼女を観察する。僕は震え、そして悶える。
彼女のことをほとんど何も知らないまま、僕の呼吸だけが乱されている。
思いついたので一句詠む。
『学び舎の 窓越し見下ろす 君の汗 ラケットふやけて 絹髪揺れて』
名もなき傍観者 夏の短歌
※季語:『君の汗』
私がどこの馬骨野郎なのかは、読者諸君は知らなくていい。
在校生で、男子で、彼女と同学年で、年相応にイモ臭い学ラン姿を想像してもらえたらそれでいい。
なんせ昼下がりの校庭を全開の窓越しに見下ろしつつ彼女に見惚れて視線が釘付けになっている男が、10ある同級の教室にどうせそれぞれ一人はいるのだ。そのうちのいずれかの個体だと思ってもらえたらいい。
籍のない学校に忍び込み少女の体液で季語を捏造しつつ一句詠んでいる部外者でないことだけ伝われば幸いである。いや、半分は真実だった。我ながら救いようがなくて困る。
客観視して、かつてないほど自分を気持ち悪く思う。どうも脱水症状というのは体液と一緒に己の変態性まで濃縮させるらしいので、スポーツドリンクを喉を鳴らして飲んでおく。彼女の汗を見ながら飲みほす塩気のあるドリンクは格別で、いつもよりおいしく感じる……僕、世のため人のために今ここで死んでおいたほうが良いのかもしれない。僕の脊髄液には多分、『変態』という物質がふくまれている。
彼女がよく話している彼女の友達のうち、僕が気安く話しかけられるメンバーは居ない。
僕が恋焦がれている彼女は、僕のことなど好きにはならない。
僕と彼女の人生ルートはねじれの位置の関係になっていて、一生交わることはない。
彼女の歩む人間交差点上に、僕はいない。
彼女の視線が前を向くとき、僕の視線は宙を泳いで地に落ちる。
彼女は美しい。僕は汚い。
彼女は———
スパァン。硬式球が疾風のごとくコートの内側を駆け抜ける。
春宮香純のリターンエース。
ゲームセット。
彼女がセェイと勝利のおたけびを上げる。ラケットを持ったまま、W杯でゴールネットを揺らしたサッカー選手さながらの小躍りをはじめた。かわいらしすぎて困ってしまう。
白いテニスキャップで抑えられているはずの、肩口までのボブカットが揺れる揺れる揺れる。艶やかな黒髪が跳ねて、グラウンドの黄色い砂と水色のテニスウェアによく映える。
コート外のチームメイトに向けて、彼女がおどける。わざとらしく首元にかかる髪をふわさっとはためかせて、決めポーズ。
彼女の、うなじがのぞく。
健康的な白さと、刈りそろえられた生え際。
髪を触った後、手指の爪を気にしている。
テニスキャップを外して少し乱れた前髪は、チョイチョイと手直しをすると魔法がかかったように再び固まった。
窓越しに幾度も見てきた彼女の姿が、今日は少し違って見える。
僕は自分の身だしなみを特に気にしたことがなくて、夏休み中に日焼け止めも塗ったことがない。
洗顔は薬局で買える一番安いやつを適当に使う。
1000円カット以外は利用したことがない。
校内での服装のうち唯一自由なベルトも、くたびれて表面が毛羽立った父の使い古しを使っている。
今のような真夏の時期であれば制汗スプレーくらいは使うけど、それだって母と妹が男子高校生たる己の体臭は自覚しとけとやかましいからだった。
ほんの少し彼女のことを知る余地があるのを感じる。
僕が冴えないのと同じかそれ以上の数だけ、彼女の可憐さには理由があるんだろう。
同時に、彼女が僕にとってどれほどの高嶺の花なのかを、実感させられる。
自分との距離が、ありありと、測ることができるようになってしまった。
(R5 10/1現在、加筆なし)
◆◆◆
「また春宮さんのこと見てんのか」
僕の隣の席で弁当をほおばりながら佐藤が問うてきた。
チッ。
「別に見てねえよ。テニス部の練習みてただけ」
「そっか、てっきり。ねえ、今舌打ちした?」
「してないけど。ていうかお前いたんだ」
「ええ……そっちが一緒に弁当食おうって誘ったんじゃん……」
「そっか。今集中してるからあっち行ってて」カァ――ッペッ。
「教室内でタン吐くなや!ていうか人に向けてタン吐くなや!」
「さすがの僕も室内で吐かないよ。そこまで性根は腐ってねーから」チッ。
「舌打ちの頻度からして、それもかなり怪しいけど!?」
ひでーよぉ!痰を吐きかける真似をした僕を非難しながら、佐藤はくねくねと身もだえする。
彼は小学校からの腐れ縁で、今でもそれなりに仲がいい。
ただしそれは2人で過ごすときに限られていて、僕らは普段教室内の違うヒエラルキーに属している。
テニス部佐藤は運動部で集まるグループの中心。
僕のような目立たないクラスメートにも1on1で構ってくれる、今どき珍しい好青年。
周囲からいじられ、ひどい扱いを受けている時に最も輝くのが彼である。
彼の周りには笑顔が多い。彼自身も、おちゃらけながらも場の雰囲気にいつも気を遣っている印象がある。昔からずっとそうなのだ。彼の笑いのセンスは人を傷つけないから、自然と周りに人が集まっていく。
と、僕以外のクラスメートの誰もが思っている。
一方で僕は休憩時間に基本、一人で過ごす。
本を読み、英単語小テストの勉強をし、昼寝をする。
寂しいとは思わない。日々は充実している。
ただし、人望はない。佐藤が持つ、人を惹きつける引力のようなものを、僕はとんと持ち合わせていない。先ほどの佐藤とのやり取りをもし誰かが傍目に聴いていたら、不快感を与えてしまうかもしれない。僕は冗談のつもりだったし佐藤もそれを分かってくれているけど、これは結局甘えなのだ。
佐藤はにやりといやらしい笑みを浮かべる。
「お前って冴えない癖に、陰険さだけは際立ってるよな」突如、言葉で刺してきた。
「おい、言葉に気をつけろ。うっかり登校拒否するぞ」僕は脅す口調で白旗を上げた。
「言葉が人を作るんだ。いつも他人を、ていうか俺を腐してるお前の心が穢れてないわけがないんだよ」「佐藤……お前らしくもない。俺の眼をよく見ろ。眼差しにはその人の心の在り方が現れるんだ。どれだけ俺の心が澄んでいるか、俺の眼をみればわかるはずだ」「目やに、ついてるけど」「ちょっと待って、今のなし。拭く。ほら、これでどうだ」「死んだ魚の眼だ。性根が根腐れしてますね」「眼科の受診を強くお勧めします。こんなに澄んだ瞳は他にありません。一点の濁りもありません。僕の瞳は冬の夜明け前の空です」「あ、そう。じゃあ、春宮さんの眼差しを、あなたは何に例えますか?」「春の安曇野の清流です」
互いに気の利いた冗談を言おうとしすぎて、もはや互いに何を言いたいのかわからないまま無意味な台詞の応酬が続く。佐藤との時間の潰し方はいつもこうだった。
楽しい時間だ。
僕好みの毒を含んだ会話に目線を合わせてくれる佐藤は、やはりいい奴なんだろうと思う。
佐藤の恐ろしいところは、相手の感性に合わせて何物にも変化することができるらしいところだった。
大勢の前でちょけている時の彼とは違う一面を、僕にだけは見せてくれる。
と、たぶん彼と関わる誰もが思っている。本当、恐ろしい奴。
佐藤が自席から立ち上がり、窓に腰かける。そして、校庭を見下ろす。
「話し戻すけど、やめといたほうがいいよ。春宮は」
佐藤が唐突に話を戻した。
いつも反射的に返答するところを、僕としたことが言葉に詰まってしまう。
佐藤の眼が真剣になる。
「可愛いのは校内の全員が知ってるよ。それが見た目だけの話じゃないっていうのも。でも、彼女だけは本当にやめたほうがいい」
「なんで?ファンクラブの連中に目をつけられるから?」
僕は冗談めかしていった。
でも、期待していたような言葉のラリーは続かなかった。
「単なる噂の範疇だと思って聞いてほしい。あれは、どうやらただのファンクラブじゃない」
「……へえ。まあ……入会してる人が楽しんでるなら、いいんじゃないの」
いつもしょうもないことしか発せない僕の口がやむを得ず一般論を口にせざるを得ないほど、佐藤の口調は重々しかった。
「狂信的すぎるんだよ。関わらないほうがいい」
「全員、春宮に恋焦がれてんのかな?もしかしたら、全員が彼女のパートナーになりたくてうずうずしてるのかもしれない」
「お前もその一人か?」
「そうかも」我ながら妙に潔く、答えた。半分は素直で、半分は冗談のつもりだった。
自分の中の彼女の存在の大きさを、僕自身も正確にとらえられない。
「春宮さんと喋ったことあんの?」
「あるよ」
「え、まじ?」問うておきながら、佐藤は意表を突かれたような声を上げる。失礼な奴め。
「前に一度、話かけてもらったことがある。『ごめん、ちょっとそこどいて』って、トイレの前で」
「そうか、よくわかった」一気に興ざめする佐藤。「ていうかトイレの入り口で立ち尽くすなよ気持ち悪い奴」
「佐藤が心配しなくても、入会する予定はないよ」
「うん、お前はそんな感じがする。じゃあ、春宮と付き合いたいって気持ちは?」
「それは……ねぇ……」直球な質問に、しどろもどろになってしまった。もう自白しているようなものだ。
「うん、お前はそんな感じがする」佐藤は驚かなかった。茶化しもしなかった。
思ったより僕に対する佐藤の理解度が高いことが癪でもあり、少し嬉しくもあった。
「で?告白すんの?」
思いのほか、僕の恋愛事情について知りたがる佐藤。
「さぁ……」「さぁって何よ」「告白は、しないよ」「なんで」「想像つくだろ」「つかん」「あっそ。簡単に言うと、期待値が低いからだよ。僕が思いを伝えたところで、振り向いてもらえるとは思えない」「そういうもんかね」「そういうもんだよ」
佐藤への説明は多分、僕の本心をいくらか的を外して、わかりやすく言い換えた言葉のような気がする。正確には、期待値が低いのが問題なんじゃない。問題なのは、告白に失敗しても僕と彼女の学校生活が変わらず続いていくということだ。
『僕と付き合ってください』が『ごめんなさい』で返されてしまった場合、お互いの学校生活にはどうしたって気まずさが残ってしまう。僕は安易に彼女を見ることができなくなってしまうし、廊下ですれ違う時、僕だけでなく春宮さんも気まずい思いをする羽目になる。冴えない男子に告白されたことを
『ダメでもともとだから告白してみよう』と安易に考えられるのは、よほど刹那的に生きているかおつむが悪いかのどちらかだと思う。
それに、彼女には僕は似合わない。
僕が恋焦がれた彼女は、僕のような人間を好きにはならない。
付き合えたとして、対等な関係になるとは思えない。
彼女が僕をどう思おうと、今より良い状況になるビジョンが見えない。
……。
いや違うな、これは言い訳だ。僕の本心じゃない。
簡単じゃないことは知っている。
手を伸ばせばつかめるものじゃないこともわかっている。
それでも僕は、身の丈に合わない幸せを求めるべきだと思う。
ひとまず、この恋に人生をかけてみよう。
もともとあってないような尊厳だ。春宮さんにフラれて壊れても、そう高くはつかないだろう。
春宮さんにとっても彼女の知り合いにとっても、彼女にふさわしいと思ってもらえる男になろう。
猫背を矯正しよう。
口を開くたびに、間合いを測るように「あ、」と言わないようにしよう。
ちょっといい香水と整髪料を買おう。
彼女に、快適な会話を提供できるようになろう。
愚痴のはけ口にされながらも、余裕で笑ってられる男になろう。
彼女が『みんなの春宮』であるには、それ以外の部分を受け止める場所が必要だ。
春宮から『その場所』に選んでもらえるような、そういう男になろう。
「いや、やっぱ嘘嘘。僕、春宮さんに告白するわ」
再び弁当に手を付けようとした佐藤は、これを聞いて『はぁ?』という顔をする。
心理学的な話で、言動に一貫性のない人間は男にも女にも好かれにくいという学説があるらしい。
どうという事はない。だったら僕は僕自身で、その学説の反例になればよいだけである。
僕は決意する。
現状を変えるヒントは、多分すぐ近くにあるはずだ――あれ、そういえば。
「佐藤、質問!」
「200円」
佐藤はにべもなく金を要求した。僕はすぐさま100円玉を二枚取り出す。
佐藤は僕に訝しげな視線を送ってくる。「いや冗談。そのお金しまって」
金を惜しまない姿勢から僕の本気度を感じ取ったらしく、彼は真剣な表情をつくる。
「なに、質問って」
「今年度、何人から告白された?」
「なんだその質問。下世話かよ。やっぱその金よこせ」
僕の財布に戻されようとしていた質問料を再度徴収し、彼は答えた。
「6人。男子を含めて8人」
「弟子にしてくれ」僕は、今ここでプライドをかなぐり捨てる決意をした。背水の陣である。
「やなこった」佐藤はまた断る。
「お願い!力貸して!」僕は引かない。
「5000円だ。びた一文負からんぞ」佐藤が『ぞ』を発音したとき既に、僕は財布から樋口一葉を取り出し終わっていた。「もう少し逡巡しろよ。仮にも金をせびられたんだぞ」佐藤は呆れている。
「後でLINE確認しといて。俺が普段使ってる美容室とワックスと制汗剤のサイトリンク送っといたから、薬局に行ってその金で買え。あと、俺以外にはもう少しはきはき喋るよう練習しろ」
僕が渡そうとする金を、佐藤は手で制した。
やっぱり周囲の多くから魅力的だと思われる人間は、普段から目に見えない努力をしているものらしい。
「使うのになれたら、中央商店街で22時くらいに100回ナンパしろ。それだけ回数こなせば、春宮さんと話すときも挙動不審にはならないだろ」「一日3,4人に声掛ければ、30日か。まあ、なんとかなるか」「やる気なのかよ」「もうやるしかない」佐藤は、羽化しないまま死んだはずのアゲハ蝶のさなぎが5年越しに蠢くのを目撃したように眉を潜めた。「なんでそんな急にやる気に?そんなアグレッシブなタイプでもないだろ」「なんか、よく考えたら失うもの何もないなあと思って」「お前が自尊心失ったら、他に何も残らないような気もするけど」
佐藤は何か大切なものを諦めたようにため息をついた。
「わかったよ。本気なんだな」
「おうよ」
「応援するよ。人生かける覚悟で臨めよ」
「おうよ……は?人生?」
「お前が春宮とくっつくのを、俺が応援するっていうのはそういうことなんだよ」
よくわからないことを言う佐藤。
協力してくれようとしている者に対して勝手極まりないが、何言ってんだこいつと思った。確かに僕もたった今、心の中でこの恋に人生を賭けようとか思っていた。けれども、それを自分以外の口から聞くと、なんだか滾っていた心が冷めてしまう。自分よりもハイな奴を見てしまうとこちらがやけに冷静になってしまうこの現象には、心理学的な名称があるのかもしれない。
佐藤は続ける。
「変なこと言ってんのは自分でもわかってる。でも、ちょっと聞いてほしい。ファンクラブに春宮の実家が関わってるのは確かなんだよ。先月、春宮家で宗教法人が登記されたんだ。春宮香純を中心に、それだけでかいカネの動きがあるってことだ」
いよいよ妙なことを口走りはじめた佐藤。大丈夫かこいつ……。
「……そうか。春宮も大変かもな。水、飲むだろ?買ってくるよ」僕は佐藤をなだめる。
「噂なんだよ。単なる噂」しつこく念を押す佐藤の眼は妙に澄んでいて、笑っていなかった。「今日が8月1日。4月からたったの4カ月で校長が二回退任して、今3人目だ。十中八九、例のファンクラブが校内で起こしたトラブルが原因だ。会員同士が、ファンクラブの今後の方向性でもめて、会員の何人かが病院送りになってる。それも、一度や二度じゃない」
「なんじゃそりゃ。あくまでも噂なんだろ?もちろん僕も、今年度に何度か校内に救急車が入ってくるたびに妙に治安が悪いなーとは思ってたよ。でも、それが例のファンクラブのあれこれと関わってるとは限らんだろ」
「病院に担ぎ込まれた奴から直接聞いたんだ。俺と同じテニス部で、よく知ってる奴だ。そういう冗談を言うタイプじゃない」
「なにかの間違いだろ。校内のクラブ活動が暴行事件に発展したのが本当なら、今も表立って活動できてるわけがない。何か月かの謹慎処分ならまだいいけど、クラブ自体が解体されたって文句言えないぞ」
例のファンクラブはつい2,3日前も活動しているのを見かけた。下校するべく校内を移動する途中、会員が集まって空き教室を利用しているのを見かけたのだ(活動中、彼らはピンク色のはっぴとハチマキを装着しているので、すぐにわかる)。横断幕のデザインについて議論を交わしていたらしい。多分、テニス部の夏の選手権の応援にでも使う予定なんだろう。
「その話にはどうも現実味がない気がするなあ、正直なところ」
「お前が仮に、血のにじむような努力ののちに春宮さんへの告白に成功したとする。その日の夜、お前から成功報告をもらい、俺はきっとそれを我がことのように喜べるだろう。でもそのかわりにその翌日、お前が次の被害者として死体で発見されるかもしれないぜ?」
「いい加減にしろよ。今日のお前、やっぱりちょっとおかしいぞ。発想が飛躍しすぎだよ」佐藤が憶測で他人のイメージを下げるのを、これ以上見たくはなかった。たとえそれが僕を本気で心配したからであっても、である。「校内の暴力事件だって、興奮して手を上げてしまったやつがたまたまファンクラブに所属してただけだと考えるほうが自然だろ、ファンクラブ会員の母数を考えれば。……ちょっと落ち着けよ」
「入院してたテニス部のそいつ、ついこの間死んだんだ。田中ってやつだよ。学期末に、全校集会で追悼しただろ。入院直後は、二の腕にひびが入っただけだったのに。毎日見舞いをしていた奴らは、決まってファンクラブの面子だったらしい。あいつ、俺が見舞った日にも、あいつらが来るから佐藤は帰ったほうがいいって。田中、怯えてたよ。会員の奴らが田中を見舞うたびにどんな会話をしてたのか、田中は最後まで俺に教えてくれなかった。部活を休むこともほとんどなかったのに、なんでだか死因は肺炎だったらしい」
佐藤の表情は泣きそうなほど沈鬱だった。
同学年のテニス部の田中と直接喋ったことはほとんどなかった。でも、さすがに顔や名前や表面上の性格は知っていた。短髪で背筋が伸びていてはきはき喋る、明るい男子。佐藤とじゃれ合っている場面も何度も見てきている。
はっきり覚えている。全校集会で礼拝する際、壇上に飾られていた田中の遺影も。
「あいつも、春宮に告白しようとしてたんだ。俺に相談してきたのが1か月くらい前だった」
佐藤の気持ちは、想像するに余りある。田中くんのお通夜と葬儀に僕は参加していないが、彼のクラスメートやテニス部は参加していたはずだ。それに、葬式に参加した後何日か、佐藤は学校を休んでいたことを、僕は今になって思い出す。
彼の死が、存在が、それだけ佐藤にとってはショックだったんだろう。
人間ひとりの死は、決して軽くない。
だとすると尚更、いちファンクラブや家族経営の法人が、人間一人の死因に干渉できるものなのだろうか?春宮さんの両親が首謀者だとして、娘のファンクラブ会員を利用して?……ありえないだろ。
安っぽいサスペンスドラマじゃあるまいし。あまりにも現実的じゃ無さすぎる。
それほどまで倫理観を失った組織を母体としたクラブが校内に存在するなんて、想像したくもない。
「死んだ田中くんの気持ちも、残された佐藤の気持ちも、僕は理解はしてあげられないよ。想像することしかできない。でも僕は、佐藤には自分を責めてほしくはないよ。お前、多分疲れてるんだよ」僕は僕の精一杯を佐藤に伝えることしかできない。これ以上会話を続けても、実りある話し合いはできないであろうことはわかっていた。「田中くんが亡くなったのだって、確実に春宮商会の見舞いが原因だと決まったわけじゃ――」
「決まってるんだよ。俺の妹は春宮ファンクラブの――」
必死に訴える佐藤の眼が、視界の端にある何かの動きを捉えたらしい動きをした。
刹那、彼の顔が呆けて、引き攣って、泣き笑いのような表情に変わる。
「聞かれたか」呟いた。どうやら、教室後方の廊下への出入り口に誰かいたらしい。「振り向くな」僕が顔を向けようとするより一瞬早く、佐藤が小声で鋭く言った。僕は固まる。
「簡潔にまとめるから、聞き逃すなよ」
視線だけを俺に戻して、佐藤は言う。
「俺は先週、訳あって春宮商会に入会した。春宮香純に対して性的な下心をもつ人間は、男女問わず商会の勢力を上げて社会的に抹消することになってる」
「何言ってんのお前」僕は乾いた笑いをあげる。意味が分からない。
佐藤も、不自然に声をあげて笑った。目が笑っていない。
窓から吹き込む風が、生ぬるい。
ひとしきり笑い終わり、彼は言う。「今回俺が会員以外にこのことを教えたのを目撃したのが、ヒラ会員ならまだ何とかなったんだ。けど、よりにもよって見たのがうちの妹だ。もう誤魔化しは訊かない」佐藤は下唇を噛む。「春宮さんを彼女にしたいなら、俺はお前を止めない。でも、今の話を聞いて少しでも迷いが生じたら、一生彼女に関わるな。それと、俺の妹にもな。いいか、3秒後に、俺はお前を拘束する。合図したら、俺が襲い掛かると同時に逃げろ」目の前にいる僕が辛うじて聞こえる声量だった。
何を言ってるのかわからない。理解するのを頭が拒否している。
耳から流れ込んでくる情報の荒唐無稽さと佐藤の真剣さのギャップで、僕はもう引き笑いを浮かべるしかない。
「特別サービスだぞ。逃がしたら俺もただじゃすまない」佐藤が目配せし、僕は全身に冷や汗をかく。「ゼロだ」佐藤が右拳を振りかぶる。
ここからの自分の対応力を、僕は自分でほめたたえたい。
慣れていない様子で放たれた右ストレートを、僕は上体をのけ反って辛うじてかわす。とっさに食いかけの弁当箱を佐藤の顔面に投げてひるませ(佐藤まじごめん)、机を倒して彼との間に障害をつくる。最後に、佐藤にあたらないように机をぶん投げて威嚇し、一目散に教室から飛び出した。
格闘技経験ゼロ同士の、キレのないみっともない取っ組み合いに発展する前に逃げるのが得策だ。
教卓側の出入口から教室を出たので、その際に教卓から遠い側の出入口を一瞬盗み見た。しかしそこには既に、佐藤いわく彼と僕を監視していたらしい人物は居なかった。
佐藤は、教室から出てこない。もう追うつもりはないのかもしれない。
彼の意図はわからない。春宮商会うんぬんの話は質の低いドッキリで、僕が信じ始めたあたりでネタバラシするつもりだった可能性も捨てきれない。でも、彼のことを昔から知っている僕にはわかる。そんなしょうもない冗談を言うような人間ではない。……いや違う、しょうもない冗談は吐いて捨てるほど言うけど、特定の人物のイメージを左右するようなことを、例え冗談であろうというはずがないことは確信できた。
彼の言う冗談で道化にされるとすれば、それは常に彼自身だ。だからこそ、彼にはいつも人が集まる。誰かを傷つけて笑いをとって、『冗談だよ』の一言でその件をなかったことにするようなカスではない(僕は佐藤に罵倒されて構ってもらうのが大好きなので、今日もいつも通りの扱いを受けている。彼からはマゾ野郎だと思われているのかもしれない。実に遺憾である)。
彼の眼は真剣だった。その突拍子もない内容が、逆に彼の言葉に真実味を帯びさせている。
悩んでも仕方ない。
『逃げ方、あれでよかった?詳しいことまた教えて』『てか冗談かどうかだけはっきりして』
佐藤にLINEを送っておく。今日はとりあえずこれでいいや。
後にして思えば、これは悪手だった。深く考えずに佐藤に連絡するべきではなかった。
僕は校庭脇の駐輪場からとった自転車をこぎ、帰宅する。結局佐藤にも、当然他の追手(?)にも会うことはなかった。
今日はさっさとシャワー浴びて早めに寝よう。
……一応、自室の部屋の扉と窓の鍵はかけておこう。
以降しばらく、僕は登校しなくなった。佐藤の忠告が、支離滅裂にもかかわらず、妙な真実味を帯びていたからだ。夏休みだから不登校で後ろめたく感じる必要もないんだけど、春宮さんの部活姿を見られなくなるのは残念である。
佐藤は失踪した。僕とその場限りの逃亡劇を演じた日の朝以来、帰宅していないらしかった。
佐藤の妹が春宮創生会の幹部であることを知ったのは、佐藤の失踪から1週間もたたない頃だった。
家電話を受けた母によれば、クラスの連絡網で彼の失踪報告と目撃情報の共有要請、夜間は不用意に出歩かないことなど、当たり障りない内容を忠告されたことをのちに聞いた。
◆◆◆
結論から言うと、その日8/1の午後から半年間で、事態は怒涛の収束を見せる。
僕は間接的に佐藤に巻き込まれ、あれこれあって心を折られ、その後確信犯的に佐藤を巻き込んだ。
1週間ぶりの自習投稿。
派手なくしゃみをして顔を隠し、赤面する彼女。わずかにこぼれる学食うどん。萌えて悶える僕。
『単なる噂』。
春宮香純ファンクラブと春宮商会。
何も知らない冴えない男子高校生。
初めての愛の告白。初めての悲恋。初めての拉致。初めてのクロロホルム。
隠し階段、地下祭壇。四国八十八か所巡りの功罪。
娘を祀る新興宗教。処女受胎信仰——17歳。
陰謀と陰毛と怨恨と婚姻。
背信者の監禁。粛清の静脈注射。
異臭騒ぎ。あるはずのない大量の有機溶剤。肉包丁。一夜で倍に殖える森見山校内の野良猫。
薬物取締法。春宮香純の母親の逮捕。注目を集める、薄幸の美少女。
春宮香純に目をつける報道機関、芸能事務所、人気動画クリエイター。
消防署に事実上黙殺された3件の放火事件。
初めてできた僕の親友の躍動。諜報。二重スパイ。起死回生の佐藤。
警察署長からの表彰。メディア掲載。
2度目の告白、2度目の悲恋。
神道の解体と再構築。真解釈。
単推し一神教、カプ厨、解釈違い。
使徒箱推し、ユダ受け、堕天萌え。
両陣営、女傑の台頭。内部抗争。春宮母との決着。佐藤の腹違いの妹による、愛と正義の無血革命。
3度目の告白、初めての求婚。
これは冴えない僕が幾星霜の障害を乗り越え、彼女の肌着より彼女に近い存在になるまでの物語。
お代はいらない。一読の価値あり。
読んで、後悔はさせない。
初投稿です。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
読後感、知りたいです。コメントで教えてもらえるとありがたいです。
これは短編として書いたので続編は多分ありませんが、今後もいろいろ書きたいと思ってます。
よろしくお願いいたします。
どろぐば