流れ星のハチ
「国境」
看板にはそう書かれていた。その周りには木の柵がぐるっと地平線の向こうまで続いている。どうやら柵の向こうが神様のいる地らしい。そしてこの木の柵が国境線。
「舐めているのか? 」
シベリアンハスキーはそう思った。
グレーのコートとハット。黒いサングラスをかけて葉巻を加えている。腰にはパンパン銃のリボルバー。
お前の格好が舐めているのかと言われそうな格好だが、もちろんシベリアンハスキーは舐めてはいない。つまりはここはそういう世界なのだ。分かれ。
木の柵の向こう側は青い芝生が広がり、こちら側には荒涼とした台地が広がっている。
隣の芝生は青いと言うが、こちらの台地には芝生すらない。どちらが良いのかは一目瞭然だった。
「…」
シベリアンハスキーは気持ちを落ち着けるため葉巻に火をつけて一息ついた。
ライターはジッポーのライターだった。
木の柵は腰のあたりまでの高さしかない。簡単に乗り越えられそうだ。そして辺りには人影もない。国境を越えたからといって誰も気づくことはないだろう。だが、あそこは神様の住まう地だ。油断は出来ない。神様なのだから人知を超える力で不正を見抜くことができるのかもしれない。
シベリアンハスキーは懐から折りたたまれた紙をとりだし広げた。
Wanted 神様 1兆憶万円
紙にはそう書かれていた。賞金首の手配書だ。顔の部分は黒い人影が書かれているだけで容姿の詳細を知ることはできなかった。
「シロクマ…」
シベリアンハスキーは故郷の幼馴染の事を思った。病気の彼女を治すには金が要る。そしてそれ以上に運命を変えなくてはならない。死ぬという運命を変えなくてはならなかった。運命を変えるならば運命を司る神を殺すしかないだろう。
誰かを殺すのは初めてではない。この世は弱肉強食。特にシベリアンハスキーはヒットマンとして優れた腕を持っていた。腰のパンパン銃で何百、何千、何万という人の命を奪っていた。
「俺はこの世で一番強い男だ。恐れることはない」
シベリアンハスキーは意を決すると柵を乗り越える。青い芝生の上に降り立った。
「ピーッ! ピッピッピッ! 」
すると同時に非難するような笛の音が響いた。
案の定と言うか。神様は不正を見抜く力があるらしい。
やって来たのは犬のお巡りさんだった。
「君君、勝手に国境を超えたらだめだよ。法律は守らなくっちゃ」
ママチャリでよろめきながらシベリアンハスキーのもとにやってくる。
周りに人影はいない。1人でやってきたようだ。
「始末するか? 」
シベリアンハスキーはそう思ったが、神は自分がこの地に来たのをすでに知っている。これ以上もめ事を起こすのは良く無いだろう。思いなおしたシベリアンハスキーは素直に頭を下げた。
「すみません。隣の芝生が青かったのでつい」
「隣の芝生は青く見えるものです。でもずっとその地にいれば嫌なものも見えてくる。よくわからないから良い物だけ見て、良く見えてしまうのかもしれませんね」
「というと、この地にも悪いことが? 」
「いいえ。この世界には悪いことはありませんよ。なにしろ親父様がいますからね」
「親父様? 貴方のお父様のことですか? 」
「いいえ、親父様は親父様です。この世界の王様で大統領で天皇陛下です」
「この国は神様の国ではないのですか? 」
「そうですよ。親父様は神様と命を共にする者です」
「親父様は神様なのですか? 」
「いいえ、親父様は総理大臣で国家主席で将軍様です」
「この国の代表ということですか? 」
「いいえ、いうなれば神様とピッコロみたいな関係です」
「それは…分かりやすいですね」
シベリアンハスキーは納得した。
「つまり親父様がなくなると神様もなくなるということですね? 」
「残念ながらそういうことです」
親父様が何者なのか、実際のところよくわからなかったが、細かいことはどうでもよかった。親父様がなくなれば神様もなくなるということが重要だった。シベリアンハスキーの狙うべき相手が決まった。一流のヒットマンのシベリアンハスキーも神様を殺せるかどうかは自信がなかったが、神様ではなく生身の相手ということならばなんの問題もない。1兆憶万円も幼馴染の命も救ったのも同然だった。
「すぐ、出ていきますので」
そうと決まれば話は速い。しかるべく準備をして出直しだ。
「その必要はありません。この必要書類を書いてもらえればこの国に入れますよ」
ところがお巡りさんが言うには書類を書けば別に出ていく必要はないと言う。
「ルールを破らないことが重要なのです。ルールを守れば居てくれて構いませんよ」
お巡りさんはそう言うとにっこりと笑った。
「貴方は私と同じ犬種みたいだし、これから仲良くなれそうな気がします。良かったらお名前を教えてくれませんか? 私の名前はシロウといいます」
「四朗さんですか? 」
「いいえ、白いからシロウです。何せ犬ですからね」
「俺の名前は…流れ星といいます。流れのホシなので」
「なるほど悪い人なのですね? 」
「幻滅しましたか? 」
「いいえ。この地に来たからには大丈夫ですよ。何せこの世界には命はみんな100個持っていますから」
「命が100個!? 」
流れ星は耳を疑った。
「そうです。そして命が減ったらこの、生き返りの水を飲めばまた命は回復します。また100個に戻ります」
「馬鹿な…この世界には誰かが死ぬということがないのですか? 」
それでは神様を親父様を殺すことが不可能になってしまう。
「死にますよ。100の命が99になれば1回死んだということじゃないですか」
「でも死ぬっていうのはそういうことじゃないじゃないですか? 永遠に会えなくなることで、歳を取って役に立たなくなった者を処理して、次の世代に世の中を渡すことじゃないですか? そうやって命は続いていくんじゃないんですか? 」
「なかなか博識ですね」
シローは感心しきりだった。
「でもこの世界には若返りの水もあるので大丈夫です」
「若返りの水!? 」
じゃあこの世界は不老不死の世界だと言うのか?
「な、なら、そうやって誰も死ななかったら増えすぎた人類は地球を食いつぶしてしまう。そうか、この世界の住人は子供を産まないから成り立っているんですね? 」
「子供もいますよ。この地を訪れた者は誰かの子供か、親にならなくてはならない。それがこの世界の決まり事です。貴方もこの世界に来たなら誰かの子供か親にならなくてはならない。そうだ。丁度私も子供が欲しいと思っていたところなんです。貴方は私の子供になりませんか? 犬同士だからいい塩梅だ」
何を言っているのか分からない。この世界は奇怪しい。狂っている。流れ星は今更ながらそのことに気が付き恐怖した。
「でも何か、都合の悪いことがありますか? 貴方は病気の幼馴染を救いたくてこの地に足を踏み入れたんですよね? それならば幼馴染もここに連れてくればいい。書類さえ書いてもらえれば、歓迎しますよ」
「どうしてそのことを…? まさか、この指名手配所は」
「それはたぶん貴方への神様からの招待状だったんですよ」
「…」
流れ星は悩んだ。確かにこの世界のルールを受け入れて幼馴染を連れてくれば、全ての問題が解決するかもしれない。でも根本的に自分と言う存在が、幼馴染と言う存在が別のルールへと置き換わってしまう。別の存在になってしまう。そんな気がした。
「別に今すぐ決めることはありません。ただ、貴方達の世界のルールでは幼馴染さんは死んでしまう。そのルールを壊すためにこの地を訪れたなら、最初から結論は決まっていると思いますけどね」
「確かにそれはそうだ。俺は運命を変えるためにこの地にやってきた。でもそれは俺たちの世界のルールで暮らしながら、運命を変えたかったんだ。世界そのものを変えたかったわけじゃない。俺は一つしかない命だったから、一瞬の命だから大切だと思えた」
「ええ、貴方はヒットマンさんじゃないですか? その貴方がそういうことを言うのですか? 」
「くっ…それは」
「でも同時にそのようにも思っている。それは幼馴染さんがいるからだ。命の大切さを知っている。だからたぶん、貴方は選ばれたんでと思います」
「どういうことだ? 」
「100も命があって歳も取らなかったら、いつしかこの世界の住人たちは命が大切だということ自体忘れてしまうでしょう? だからそれが分かっている方にこの世界の住人となって欲しいのです。私たちの世界も切実なのですよ。命の尊さを知る者にとってより良き世界であり続けるためにね。私達には貴方が必要なのです」
「俺が、必要…」
流れ星はそんなことを言われたことがなかった。自分の事を必要と言ってくれたのは幼馴染のシロクマだけだ。
「心は決まったみたいですね。ならまず貴方の名前を決めましょう。もう流れる必要はない。この世界では犯罪を犯していないから、あるいは人を殺したこと自体100の命の内の1つを殺したことになるだけだからホシでもない。ただのシベリアンハスキーだ」
「ただの、シベリアンハスキー」
そう言われるのは一体いつぶりだろう。それは悪く無い気分だった。
「名前はハチにしましょう。犬だし。シベリアンハスキーだからシベリアンハチキーで略してハチ、なんちゃって」
いや、それはどうだろうとハチは思った。