【短編版】 聖女と騎士団長の白い結婚
「戻せない、ですか……」
アデルは空を見上げて、ため息をついた。
手元にははるか南の方角にある、故郷から先程届いた手紙が広げられている。
銀色の夜闇に映える長髪をその上に垂らし、アデルは自分の希望があえなく拒絶されたことを知る。
都の王城に近い、彼女が仕える女神を奉る神殿の一室で、深い苔色の瞳をそっと閉じると彼女はがっくりと肩を落とし震わせていた。
「こんな極北とも言えるような雪国だもの、確かに誰も交代になりたいとは思わないでしょうね」
更に重たいため息が一つ口から漏れた。
あの春の都に戻りたい。そう願うことは、罪だろうか?
それでも女神様は自分の願いをかなえてくださらない。
聖女の心はいよいよ沈みこもうとしていた。
「女神様、こんな遠国に十年は酷いではないですか。せめて、一度くらい生まれ故郷に……」
そうぼやき、頬から一筋のなにか暖かいものが流れ出るのを感じ、アデルは口を閉じる。
自分は聖女だ。
付き人も周囲にはいるし、精神的に不安になればこの地を覆う女神の結界が、悪天候などをもたらしかねない。
そう思うと泣くに泣けず、怒りを外に出すこともできす、アデルの心には疲労と苛立ちが層を成して溜まっていく。
そんな彼女の心境を映してか、結界はその力を緩めてしまう。
ここ数日はいつもに増して気温は下がり、積もることの少なかった雪が異常なほどに高さを増していくのを見て、国民は逆にほっと胸をなでおろしていた。
「どうやら、聖女様が春の都に戻られることはなくなったらしい。これであと五年は安心して暮していける」
アデルの思いとは真逆に、信徒たちは感謝の念を女神に捧げるのである。
これは、あまりにも皮肉というほかなかった。
女神ラーダの大神殿はこの大陸に数多くの信徒を抱え、王族の庇護も厚く各国に支部となる神殿を建設しては、それぞれに司祭や聖女を派遣するという方式を採用していた。
聖女が一人でなく、数十人いるというのも驚きだが、凍てつく北の果てにあるこのアルハンドル王国は不人気に次ぐ不人気で、春の都とうたわれるラーダムからこの地に行きたいと望む人物はなかなかいなかった。
そんな中、アデルは十六歳で聖女に認定された。
六歳から神殿に入り、巫女見習いとして過ごして来た彼女は、世間と隔絶された環境で過ごしてきたためか、俗に言う世間知らずだった。
丁度、前任者が結婚することを口実にこの国を去りたいと願い出たこともあり、これ幸いと半ば騙されるようにして、彼女は冬の都に赴任した。
それが、十年前。
任期は五年で交代となり、次の時には誰かを派遣する。
そんな大神官との約束は形だけで、五年の派遣期間が終わる前に移動願いをだすものの、決まってなにかの理由をつけてそれらは却下された。
今回で数度目の申請は、後任がいないから。
たったその一文で締めくくられていた。
後任がこなければこの国が困ることになる。
離れたくても離れられないここは、アデルにとっていまは極北の牢獄だった。
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「国王陛下がお呼びになられている? 私をですか?」
「はい、聖女様。陛下は最近の積雪がひどい理由が聖女様の悲しみにあるのではないかと、心配しておられます。どうか一度、その理由を知りたいとそう、仰せです」
「陛下がそうまでおっしゃられるのであれば……お伺いしないわけにはいきませんね」
「では、王宮にてお待ちしております」
突然、王宮からやって来た使者はそう挨拶すると、アデルの住む神殿を後にした。
いきなりやって来て今から来い。
その理由が雪が降り積もるのは困るから、理由を説明しろ。
そういうところだろうとアデルは当たりをつけると、聖女の正装に着替えることにした。
春らしい薄桃色を基調にしたそのドレスは夜会で身に付けても、政治的な場にでても遜色ないものだった。
侍女たちに手伝わせて髪を結い上げると、化粧を済ませようやく王宮へと足を運んだのは、使者が訪れてから二時間ほど経過した後だった。
「聖女様に辞められては困るのです!」
「……陛下?」
「ですから、聖女様に交代されては困るのですよ!」
「はあ」
謁見の間に足を運び顔を合わせた直後、挨拶もそこそこにアルハンドル国王は大声でそう嘆願する。
辞められても困るとは言われても、それを決めるのは神殿本部の大神官とかそういった幹部連であって、自分のような数十人いる聖女たちの一人に言われてもどうしようもない。
アデルはそう説明するが、国王はそれでも納得がいかない顔をしていた。
「必ず残って頂きますからな!」
「そんな無理矢理……。陛下、よろしいですか? もし、このアデルが残りたいと言い張っても、神殿本部が決めれば移動することもあるのです。拒絶すれば、聖女の任を解かれるでしょう。そうなればいてもいなくても、同じことですよ?」
「ですが、聖女様。他の方が交代されてはこの国は立ち行かなくなります!」
「そんなことはありませんよ、国王陛下。これはすべて女神様が決められたことですから……」
と、押しが強すぎる国王を女神の名を出して牽制しつつ、でも頭のなかでは本当にそうだろうか、と疑問をアデルは持ってしまう。
女神様が本当にすべてをお決めになられたのなら、どうして自分がやって来てからの十年間だけこの国は常春のようになってしまったのか。
それより以前。
女神ラーダをこの王国が信奉するようになる二百年前からもそれ以前も。
この王国は深い雪に閉ざされてきた。
それがどうして今だけ――?
アデルは明確なその理由を思いつかないかった。
「いえいえ、そんなことはありません。それならば、この十年間のあなたの功績が嘘だったということになりますからな」
「ですから、それは私の功績でも何でもありません。偶然というか女神様が定められた運命によるものですから――私はただ、命じられてここにいるだけなのですよ、陛下」
「ならばちょうどいい!」
「ちょうどいい、とはどういうことですか?」
聖女とはいってもやることは一つだけ。
年の大半を、凍土と氷に閉ざされるこの国をすっぽりと覆うように張られた女神の結界を管理して、極寒の地を常春とは行かなくても、すこしばかり暖かい。
そんな世界を維持することが与えられた使命だ。
元来、気性も穏やかで温和なアデルがこの国に赴任して、はや十年。
それまでの聖女たちが勤めた時に比べて、王国は気温も上がり、作物の収穫量も増えて牧畜も盛んになった。
永遠の不凍港と呼ばれたイアル湾の氷塊は数年で溶け消えてしまい、他国との交易が陸路から海路に変わったことから、眼を見張る間に王国は発展した。
これもすべて、アデルの能力だろうと国王は考えたし、それまで名ばかりだった女神ラーダへの信仰はがらりと様子を変えた。
神殿への供物は増え、参拝に訪れる人は連日止むことを知らない。
国民の感謝の意思は、女神ではなく聖女様に向けられていると言っても過言ではないかもしれない、それが現状だった。
「会わせたい者がおるのです」
「はあ……」
国王はふふんっと意味ありげに微笑み、手を鳴らす。
すると、ずっと扉の向こうで待機していたのだろう。
一人の長身の青年が姿を現した。
「あちらは?」
「我が甥にして、この国の第二騎士団の団長を任せているラズオルです」
「騎士団長、閣下ですか。初めまして、ラズオル様」
形ばかりの挨拶もそこそこに、アデルは目の前に立つ大柄でそれでいて均整のとれた体格を持つ、黒髪の若者から目を離せなかった。
いや、見惚れていたとかそういう理由ではなく、彼の恰好がこの場に相応しくなかったからだ。
この国の騎士団は四つある。
王族にしてその一つの主に収まっているということは、将来有望な若者なのだろう。
二十六の自分と同じか、もしくはすこしだけ年下のようにも見える。
だが、彼は何故、甲冑を身に付けているのだろうか。
まるでこれから戦場に赴くような出で立ちだった。
「どうですか、我が甥は」
「どう、と言われましても――どこかで戦争でも?」
「戦争? そんなものはありませんよ。その甲冑姿はあなたの目に適いやすいように、着て来させたのです」
「はあ?」
アデルも子供ではない。
目に適うと言われて思い至るのは『見合い』、『結婚』などの行為がその後に付きまとうのだろうと理解する。
もっとも、そんなものは望んでいなかったが。
「ラズオルです、よろしく」
「はあ……」
自分は聖女ですよ、陛下?
そんな目で国王を見やれば、彼はにこにこと円満の笑みをたたえたその顔で、うんうんと頷いていた。
ラズオル騎士団長は直立不動のまま、武人らしく険しい表情をしてにこりとも微笑まない。
こんな男性だと、若い令嬢たちは気後れしたりしないのかな、とアデルは思ってしまう。
「大丈夫です、聖女様。大神殿にはきちんと許可を得ておりますから」
「許可ァ!?」
さすがに声を荒げてしまった。
許可とはどういうことか。
聖女としての任務には黙って従うが、結婚ともなれば話は別だ。
故郷の両親や親戚にも報告しなければならないし、親が首を縦にふらなければいくら当人同士が納得していても適わないことだってある。
アデルの住む文化圏に置いて、結婚は個人の一存でどうこうできるものではなかった。
それは国王や神殿がどう決めたとしても同じだ。
「そうです、聖女様の御両親にも納得頂いております。爵位も王族に入られるのですから、それに相応しいものを既に与えると約束しております。土地、財産にしても、結納金はきちんと納めていますからな」
「なっ、なんて勝手な……」
「いえいえ。家同士の決めごとですからな」
「……」
国王はもう逃げ場はありませんよ、とアデルに促していた。
彼の隣にそっと従者が差し出したその書類には、アデルの両親の筆跡によるサインが為された契約書のようなものが数枚、束になって見える。
どうやら両親はこの国王の貢ぎ物に目がくらんだらしい。
爵位や土地や金がそんなに大事なものですか、とアデルは自分の親にある意味、王国に売られたことを思い知る。
「御心配なく」
「心配する、しないの話ではありません。この現実を悲しんだ私が死ぬまで泣いて過ごしたらどうなるかを想像したりしないのですか、陛下……」
「あ、いや、それは――」
国王である自分がここまで骨を折ってやったのだから、そろそろ理解しろ。
彼は苛立ちを見せつつあった。
アデルはふうっと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。
その部屋の窓から見える空は雲もまばらだったのにいきなり黒い雷雲が立ち込めてしまい、辺りにはごろごろごろっと雷の低い音が響き渡っていた。
「受ける以外の選択肢を与えない、と!? こんな侮辱をよくも出来たものですわ、失礼しますっ」
生まれて何度目だろう。
こんなに心が騒めき立ったのは。
大神殿からのあの返事は、この国王が仕組んだものだった。
そう理解すると途端にこの国が嫌になった。
十年間も我慢して尽くしてきたことが、すべて裏切られたのだ。
もう何もかも放り出して去ってしまいたい。
……さすがにそこまでは出来ないけれど。民にまで迷惑をかけることはできないから。
怒りと理性とが半々に心に同居し、不安定な感情はそのまま天に反映されて荒れた気候を一時的だが王国全土にもたらした。
「聖女様っ!?」
立ち上がりそのまま退室するアデルの背に誰かが声をかけた気もするが、アデルは従者を従えてそのまま足早に神殿へと戻ってしまう。
王国の各地に局所的な大雨が降り、それ以前に積もっていた雪を押し流したとアデルが耳にしたのは翌日の事だった。
それから数度、国王から謝罪の使者が神殿を訪れたが、部下の神殿騎士たちがそれを追い払い、報告を受けるたびに空は黒く曇ってしまう。国民たちがその様を見て心を不安に染めるのを知り、アデルはもうどうでして良いのか判断がつかなくなってしまった。
そんなある日。
あの騎士団長が、神殿を訪れて来た。
一人の女性と共に――。
「謝罪をしたいのです」
「不要です。国王陛下にも、もう怒りはございません、とお伝えください。ですが、結婚のお話はお受けできません。大神殿には戻りませんが、私は誰とも結婚する気は無いと。そうお伝えください」
「そのことなのですが……」
ラズオルは申し訳なさそうに謝罪を陳べる。
国王が聖女にした非礼を詫び、更にあの場にいて叔父を諫めることができなかったことを彼は悔いていた。
同時に話があるという。
聞いてみたら、共にやってきた女性は彼の従者ではなく、本命の相手だということだった。
しかし、国王はアデルとの婚約を勝手に決めてしまい、本命の女性とは結婚することができない。
このままでは彼女と添い遂げることができないと悟った彼は、国を捨てることにし、謝罪のついでにそう報告しに来たのだと言った。
「国を出る?」
「……はい。あの場に呼ばれた理由を知ったのは、自分も同じくあの時だったのです。陛下はあの通りわがままで自分勝手な人格。自分が彼女を捨てることなどできません。ですが、まずは恥をかかせてしまった聖女様に謝罪を、と……」
「そうですか。しかし、国を出るとなればそちらの御令嬢共に家を捨てることにもなるのでしょう? もしかしたら、お嬢様の実家から追手など差し向けれる危険性もありますが、それはどうなさいます?」
「それは、どうにかします……ええ」
ここで口にすれば国王に密告されるとでも思ったのだろうか。
ラズオルは途端、口を閉ざしてしまった。
隣の彼の意中の人だという令嬢が、おずおずと口を開いた。
アデルを疑っているのではなく、二人ともいきなりのことで逃げる準備などしている暇が無かったこと、国王は騎士団長を逃がさないように厳しい目を向けていること、それと同じで思い人であった自分も、半ば実家に幽閉されていたことなどなど。
「そこまでしてこの王国は私を望まれる、と」
「申し訳ありません。みんな、十年前のような極寒の日々に戻りたくないのです。ですからつい、聖女様に甘えてしまうのだと思います。この十年間が恵まれていたのだということを、みんな忘れてしまった」
心から悔いているようにラズオルとその恋人、テイラーは顔を伏せてしまった。
自分にとっての苦痛だった十年が、みんなにとっての幸福な十年だった、か。
いつまでも我がままを通すより、聖女としての仕事を全うするべきなのかもしれない。
元々、聖女は王族のように公人であって、個人の想いなんてないのも同然なのだから。
ふう……。
大きく息を吸い込み吐き出すと、アデルはどこか達観したような笑みを二人に向ける。
「それでは……ラズオル様、私と結婚いたしましょう。ですが、正妻はそちらのテイラー様で結構です。このアデルは二番目、それもあなたの形だけの妻ということではどうすか? 私には神殿という居場所がありますから、あなたを求めることはありませんし、それならばテイラー様もご安心でしょうから。いかがですか?」
「……聖女様。あなたという御方は……」
自分にできることは、まずここからなのかもしれない。
そう思い、伝えた一言がそれだった。
聖女の白い結婚。
雪国を守護する自分には相応しい内容じゃない。
アデルはそう思い、女神のような微笑を浮かべるのだった。