第七章
いつも通り、型どおりの授業を受けて終わり、勇一は放課後のチャイムを耳にすると、大きな息を吐き出した。
昨日武道館に顔を出した際、しっかりと斉藤が釘を刺すように本日も出頭するように注文をつけてきたのを思い出したのだ。
「どうしたの?」
勇一の表情を見てだろう。那美が不思議そうに尋ねてくる。
「今日も行かなきゃなんねぇんだよ」
「先輩に言われて?」
「あぁ」
「じゃぁ、途中まで一緒ね」
「お前も部活出るのか?」
「あ、酷い言いぐさ。
これでも、槍術部では強いほうなんだからね」
少しばかり拗ねたような光をな那美は瞳に浮かべたが、すぐにそれをかき消してどこか不安そうに勇一を見つめた。
不思議そうに那美を見返し、勇一は那美の言葉の先を促すような視線を送りつける。
それを受け取り、那美は少しばかり顔をしかめて勇一に尋ねてきた。
「勇一、本当に大丈夫?」
「何がだ?」
「前の件があるから分かってはいるつもりだけど……何だか、ぴりぴりしてるのよね。そんな体調で行っても、あんまりいい結果が出ないと思うんだけど」
少しばかり驚いたように、勇一は那美を見つめる。
自分では気付かなかったことを言わると、幼なじみの存在はありがたいものといえるだろう。短く吐息をつき、勇一は那美を安心させるように笑ってみせた。
それでも、心配そうに那美は勇一を見つめるが、やがて諦めたように首を緩く振った。
「ほんと、あたしの周りにいる男の子は、どうしてこう察しが悪いだけじゃなくて、頑固なのが多いのかな」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味に聞こえなかった?」
意味を掴み損ねた勇一だが、すぐにそれを頭の隅に追いやると、勢いよく立ち上がりちらりと教室の後ろの扉に視線を向けた。
思った通りの光景に、勇一は軽い頭痛を覚える。
勇一の様子に、那美も扉に視線を向けて、小さな笑い声を上げる。
「おい」
「だって、よっぽど信用がないんだな、って思って」
「あのなぁ」
「先輩!」
勇一の声を遮るように元気よく呼んだのは、教室の後部に取り付けられている扉に現れた忍である。
わざわざ迎えによこさずとも、今日道場に行かなければ大将戦が確実だからだ。
軽く溜息をつき、勇一は机の横に引っかけてあった鞄を取り上げる。幾分か乱暴に教科書類を鞄に突っ込み、勇一は小さく息を吐き出して那美を見つめた。
「行くぞ」
「ちょ、待ってよ」
慌てて那美も鞄に教科書を入れると、勇一の背中を追いかけるように立ち上がり、その後を追った。
安堵の表情を浮かべる忍の近くによると、勇一は憮然とした表情を後輩に向ける。
「わざわざ来なくても、今日は道場に顔を出すつもりだったんだけどな」
「でも、一応、迎えに行けと言われたので」
「俺はそんなに信用ねぇのかよ」
「そういうわけじゃありません。
単に、逃げないように僕が先輩のところに使わされただけですから」
けろりとした顔でそう言われ、勇一は頭痛をこらえるように額を押さえ込んだ。
「おまたせ」
二人に近づいた那美が、勇一と忍の間に流れる空気にきょとんと眼を見開く。
だが、すぐに何かを察したのだろう。呆れたような表情を浮かべた後、那美は勇一の背中を軽く叩きつけた。
「ほら、さっさと行くわよ」
「あれ?那美先輩も部活に?」
「まぁ、ね。たまには槍術部に顔出ししとかないと、除籍されちゃうから」
茶目っ気を含ませた那美の言葉を聞き、忍もつられたように破顔する。
「そういえば、今度の合同試合、槍術部はエントリーしてなかったですね」
「そうなのよ。
だから、今回はギャラリーとして勇一の試合を見るつもり」
クスクスと笑いながら、那美はそう肯定しつつ、ちらりと勇一を見やった。
苦虫を噛み潰したような渋い顔と雰囲気は、部活が終了した後も続くのは明確なことだろう。そんな勇一の態度を子供っぽいと評するべきかと悩みかけるが、たまにはこのような空気も悪くないと思い返し、那美は口の端に僅かな苦笑を浮かべて思考を打ち切った。
三人そろって廊下を歩き出し、階段を途中まで降りた時だ。
「あ」
小さな声を上げ、那美がクスリと笑みを浮かべた。
階下にいた人物も、三人の姿を認めると、ぱっと顔を赤らめた後小さく頭を下げる。
「成瀬さん」
「天野先輩、この間は、すいませんでした」
そう言って再度頭を下げた真由美だが、忍の姿に一瞬困ったような光りを瞳に灯した。
両肩を縮こませ、真由美はぎこちない動きで視線を下に向けたが、直ぐに那美達の存在を思い出したらしく、慌ててそれを上に動かす。
どうしてここに忍がいるのか、という疑問よりも、那美達と一緒にいることの方に安堵したようだ。
そんな真由美に、那美は不思議そうに疑問を口にする。
「どうかしたの?」
「あ、東雲 先生に呼ばれて……その……」
あげられた教師の名に、三人が揃って顔をしかめた。
スパルタ式の教育をモットーにしているのか、質問に答えられない生徒にはすぐに怒鳴り散らす東雲は、無論のことではあるが生徒間では評判が悪い。
そんな教師だからこそ、放課後に生徒を呼び出す理由となると、授業中に間違った答えを回答したか、質問の意図をくみ取れずにまごついたかのどちらかだ。
「そっか。大変だけど、頑張ってね」
「あ、はい……ありがとうございます」
ようやく肩の力を抜いた真由美が、小さく眉尻を微笑の形に整える。たったそれだけのことではあったが、忍の身体に緊張が走るのを勇一は肌で感じた。
「ん?須田、どうした?」
「な、なんでも、あ、ありません」
片言でそう告げた忍が、とってつけたように勇一に声をかけてくる。
「せ、先輩。そろそろ行かないと」
「あ、あぁ、そうだな」
せっつくような忍の言葉に、勇一は驚きを隠さずにそう答え、階下に降りるためにゆっくりと階段に足を乗せた。
呆れたように那美が忍と勇一を眺めていたためだろう。
勇一が真由美の側を通りかかった瞬間、彼女の身体が刹那だけ強ばったのを見過ごしたのは。
ゆっくりと那美も真由美へ近づき、浮かべるその表情を観察するように真由美を見つめる。
その様子を見ることなく、勇一は渋々といった歩調で歩きながら、当然のように那美に言葉をかけた。
「那美、先に行ってるからな」
「分かった。後で、また、ね」
「あぁ」
そう答え、勇一と忍はそろって昇降口を出て行く。
二人を見送り、那美は真由美へと疑問をぶつけた。
「よかったの?あれで?」
「え?」
意味を掴み損ねたのは一瞬だ。
真由美の顔が瞬く間に真っ赤に染まり、僅かに唇をとがらせると、少々いじけたような声を上げた。
「先輩は、お見通しなんですね」
「まぁ、ね。あれだけ分かりやすくしていると、分かる人間は分かっちゃうわよ」
那美の言葉に、真由美は小さく肩を落とす。
落胆ぶりを見てだろう。那美は苦笑めいた息を吐き出すと、慰めにはなっていないと分かりつつも言を綴った。
「須田君、かなり鈍いから、自分の気持ちも成瀬さんの気持ちも分かってはいないと思うんだけど……」
「そ、それでいいんです!須田君は、あのままでいてくれれば、いいんです……」
語尾が少しずつ小さくなり、真由美は顔を更に赤らめる。
それを見られないようにするため、真由美は両手で顔を隠してしまい、那美は微笑ましい思いでそんな真由美を見つめた。
「そっか、それでいいんだ」
それ以上突っ込むことは野暮だ。隠す相手は、一人だけで十分なのだろうから。
そう考えながら、那美は何かを言いたげに唇を動かす真由美の様子に、先を促すような視線を向けた。
「天野先輩は、須田君のこと、よく知ってらっしゃるんですか?」
「うーん、よくは知らない、かな。勇一と同じ部活で、勇一を慕っている、って事ぐらいしか思い浮かばないんだけど。
安心した?」
「そ、そういう意味じゃ無いんです!」
少々意地の悪すぎる那美の質問に、真由美は慌てて顔を上げると、勢いよく頭を横に振った。
初々しい反応、といえるだろう。そんな真由美の姿に、那美は校内での須田の評判を思い出す。
「けっこう須田君もてるから、大変よ」
「分かってます。でも、やっぱり……」
「好き、なんだ」
「はい……」
今にも消え入りそうな声でそう答え、真由美は意趣返しとばかりに那美に疑問を投げつけた。
「天野先輩は、高橋先輩にどう告白されたんですか?」
「へ?」
頓狂な声を上げ、那美は真由美を見つめる。
少しばかり呆けたような那美の表情に、真由美は当然のように笑みを込めて言葉を放った。
「端から見ても、お似合いですよ」
「何で、そうなるのかな?」
「だって、ただの幼なじみにしては、天野先輩、高橋先輩の面倒よく見ているし、何時だって先輩方一緒だから」
「そ、それは、単なる腐れ縁で」
「じゃぁ、天野先輩から告白はしてないんですか?どう見たって、天野先輩は高橋先輩のこと特別視してるから」
「してないわよ!」
間髪入れずにそう答えた後、那美はしまったとばかりにバツの悪い表情を浮かべた。
そんな那美の顔に、真由美はくすりとおかしそうな笑みを漏らす。
喉の奥で含んだようなそれに、那美は一瞬ぞわりと背筋が凍るような感覚を味わう。何時だったか感じたその笑いは、つい最近自分が感じ取ったものと同質のものだと頭の隅で考えながらも、何故真由美がそんなものを漏らすのかが分からず、那美は知らず知らずのうちに真由美の名前を呼んでいた。
「成瀬、さん」
「先輩、嘘つきですね」
「え?」
「自分の心に嘘ついてるじゃないですか」
断言に近いその言葉に、那美は軽く息を飲み込む。
先程までの引っ込み思案の少女は、そこにはいない。むしろ、これは別人のような感覚を与えられ、那美は真由美の唇の動きを眼で追っていた。
「本当は、天野先輩、高橋先輩のこと、好きなんじゃありませんか?」
固まった那美よりも数穂先に歩いた真由美が、クルリと那美の方へと身体を向ける。
真由美の姿が、昇降口の窓から入る光によって逆行になってしまい、そこに浮かんでいるであろう顔立ちが分からず、那美はぎゅっ唇をを引き結ぶ。
真由美に指摘されずとも、那美は心のどこかでそれを感じていた。自分が勇一の側に一番近くにいて、その心情をいち早く察することが出来、当たり前のように横にいることが赦されている存在なのだと、どこかで優越感を持っていたことは否めない。
だが、今はどうだろうか。
勇一は、自分が置かれた立場に翻弄され、眼の前が見えない状態だ。そんな勇一の負担にならないように気をつけてはいるが、もしかしたら自分が離れた方が勇一にとってよいことではないだろうか。そんな気持ちすらもが浮かんでいるのが現状だ。
だからこそ、那美は言葉を選ぶようにしてゆっくりと口を開いた。
「……分からない、かな。
あんまり近くにいすぎたから、そんな事考えないようにしてたのは事実だけど……でもね、もしも『好き』って感情が、勇一の邪魔になるなら、それを抑えて捨てる覚悟も出来てるし、側を離れようと思う……」
自分の存在が足手まといにしかならないのは、理解している。何度も何度も、別れを告げようと口を開きかけたか分からない。でも、それが出来ないのは、別れたくないという強い感情があるせいだ。
「それは、好きだから、ですか?」
「分からない、っていうのが一番かな。一般的な好きと、恋愛感情の好きって、違うと思うから。
けど、あたしは勇一が『好き』なことは変わらない。恋人とか、友人とか、そういうレベルの話しじゃなくて……たぶん、本質が同じだったんだと思うの。心の一部、かな。そういうところで同じようなものを感じるから、きっと今の関係になってるんだろなって思うんだけど……」
自分でもとりとめの無い言葉でまとめたものだ、と、那美は思う。通じるかどうかは分からないが、それでもそれが今の那美の偽らざる気持ちだ。
真由美が、小首をかしげてそれを聞いていたが、やがて羨ましそうな声を上げた。
「先輩らしい答えですね」
「でしょうね。自分でも、何言っていいか分からないから」
僅かに苦みを帯びた声でそう答え、那美は今までの会話を振り切るように緩く頭を振った。
そして、そういえば、と真由美とここで鉢合わせたことをも出す。
「先生のところ、行かなくていいの?」
「あ、そうでした」
会話に夢中になっていたのだろう。真由美はその事をようやく思い出したと言わんばかりの口調でそう言い、ぺこりと那美に頭を下げる。
「すいません。いろいろ聞いちゃって」
「別にいいわよ」
どうせ、ここだけの話しだ。誰に聞かれているわけではなかったことに安堵しているのは、那美だけではなく真由美も同じだろう。
すいません、と一言おき、真由美は急ぎ足で職員室に向かうべく小走りのその場を後にする。
その背中を見送りつつ、那美は深く息を吐き出した。
「嘘つき、か……」
確かに、そうかもしれない。
今の勇一に、自分の心を気付かせるわけにはいかない。ただでさえ環境が激変しているのだ。そんな中で、自分の気持ちを押しつけることなど出来ないし、これ以上の足手纏いはごめんだというのが、那美の偽らざる気持ちなのだ。
今までの会話を忘れるように、那美は小さく息を吐き出す。
だが、心の隅では、真由美の言葉が小さくとげのようにして残っており、苦い表情だけが那美の顔に浮かんでいた。