第六章
暗闇の中を、勇一は走り続けていた。
右手に持つ太刀の刃には、すでに乾きかけた血がべとりと貼り付き、何時もよりさらに重さを増しているような錯覚を起こさせる。
あそんな感情を置き去りにしたように、もぞもぞと勇一の右側の闇が蠢く。
瞬間的に、勇一はそちらに向けて剣を一閃させた。
確かな手応えと、短い断末魔。そしてドサリと大地に何かが倒れ込む音が、聴覚を刺激する。
途端に、周囲を覆っていた闇がかき消えていく事を確認し、勇一は詰めていた息を吐き出した。
自分の周囲の殺意は薄れている。突撃をしてきそうな敵兵がいないと判断し、勇一は剣を軽く上下に振った。
「沙羯羅龍王」
呼ばれた名前に、勇一、いや、今は沙羯羅龍王と名乗った方がふさわしいだろう存在は、不敵な笑みを浮かべて声のした方向へと顔を向けた。
「遅かったな、阿修羅」
「思っていた以上に雑事が多くてな。
しかし、相も変わらずお前への攻撃は苛烈なものだな」
そう評され、沙羯羅龍王は苦い笑みを浮かべてしまう。
自分の周囲に転がっているのは、ほとんどが天界と呼ばれる場所から来た天人達の亡骸だ。様々な攻撃を駆使し、何とか自分達を屠ろうと息巻いていただろう天人達は、逆に沙羯羅龍王や阿修羅の剣劇から逃げることすら出来ず、他界であるこの修羅界で逝き果てていた。
そんな者達の最後の姿を眺めながら、阿修羅は沙羯羅龍王へと難しげな顔を浮かべて近寄った。
「東はどうだった?」
太刀を鞘に戻しながら、沙羯羅龍王はそう尋ねる。
始めから良い答えは期待してはいないが、それでも一縷の望みをかけてそう言葉を発してしまう。
その問いに、阿修羅は軽く首を横に振り、苦々しげに言葉を紡いだ。
「酷いものだ。奴ら、何の神力もない女、子供までも殺している。早々に何とかしなくてはならんな」
「……奴らにしてみれば、この世界に残った修羅人達は、邪悪な心を持っている者だと思って扱っているのだからな。
闘う術を知らぬ修羅人達を殺すことなど躊躇いがないし、この世界の滅亡も決定事項なのだろう」
「確かに。
奴らはこの世界に滅びを、と唱えている。それでも、やはり、な。せめて闘うことの出来ぬ修羅人を殺す事には、罪悪感を持ってほしいものだと思うのだが」
勝手なことだな。そう呟き、阿修羅は軽く唇を引き結ぶ。その動作に、沙羯羅龍王も同じ意見を示すために首を縦に振った。
そんな二人に向け、突如聞き慣れぬ声が耳朶を打ち付けた。
「これ程の神力を持ちながら、滅びは免れぬとほざくのか」
耳に届いた瞬間に剣を引き抜いた二人が、鋭い視線で声の上がった方向へと身体を向ける。
逆光で顔までは見えないが、声からしてまだ若い男だと分かる。少しばかり小高い丘の岩上に座り、悠然と二人を見下ろしている姿は、敵意など全く見せずにいるために二人は僅かに眉をしかめた。
「何者だ?」
「さて、な。
名乗るほどの者ではない。そう答えた方が面白かろう」
くつくつとおかしそうに笑う青年に、二人は険しい視線を向ける。
それだけで射殺されそうなほど強いその目線だが、青年はそれをひょうひょうと受け流して緩く肩をすくめてみせた。
「いやはや、お前達に武運があるかどうか、見に来ただけだが、期待外れの言葉を聞くとは思ってはいなかったぞ。
多少は骨のある神だと思ってはいたが、そこまで弱腰になるとはな」
「貴様……」
「まぁ、お前達の神力は見せてもらった。それだけでも重畳と言うことではあるがな」
「言いたいことを言ってくれるな」
剣の切っ先と、隠すことのない殺意めいた怒りの波動を向けているというのに、青年はそれに対して臆するどころか、楽しそうな空気をその身にまとう。
敵、というには、余りにもこの場には異質な存在だ。その為に、どう対処すべきかの判断が鈍ってしまう。
言葉尻を捉えれば、青年が天界の神であることは間違いがない。だが、自分達に敵意も殺気もないという存在は、天界では異端であり、考えを持つ神も少数派の存在だ。
一体誰だ、と言う思考を読んではいるのだろうが、青年はそれに答えを出すつもりはないらしく、ただ笑みを含ませた声音で言を綴った。
「今後どこまでやれるのか、しっかと見せてもらいたいものだが、果たしてお前達の弱腰でどこまで出来るのか、だな」
そう言うと、青年はゆっくりと立ち上がり、二人に背を向けて歩き出す。
今だに敵意や殺意はない。だからこそ沙羯羅龍王も阿修羅も何もせず、その姿が消えるのを確認するだけしか出来なかった。
ふっと青年の気配が消えると同時に、二人はそろって顔を見合わせた。
「いったい誰だったのだろうな」
「我々の行動を見るだけが目的だとすると、そう数は多くないはずだ。
しかし、今はあの男のことよりも、重大な案件がある。いちいち見知らぬ男にこだわる暇はない」
「確かに、な」
苦い気持ちを持て余しながらも、沙羯羅龍王は青年の消えた方へと視線を向ける。
武運、と青年は言った。
そんなものに頼ることは、今の状態で考えることは出来ない。むしろ、武運など始めから無いと言ってもいいのだから。
「ふざけた男だ」
呟きは、阿修羅の耳には届かなかったようだ。
だがすぐに青年の存在など消し去るように、沙羯羅龍王はゆるりと頭を横に振る。
とにかく、今は目の前にある事柄を消去していくことだけを考えなければならない。
小さく吐息をつき、沙羯羅龍王は剣を鞘へと戻した。
はっと目を覚まし、勇一は見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていることを確認すると、詰めていた息を安堵するために大きく吐き出した。
時折見る前世の夢は、今は掌からこぼれ落ちることなど無く、はっきりと脳裏に刻まれている。
それがよいのかどうかは別として、少しずつ思い出す事柄は、余り気持ちのよいものではない。持て余し気味の夢の残滓に振り回されそうで、勇一は一度強く瞼を閉じると、勢いよくそれを開いた。
「よし」
自分自身に言い聞かせるようそう言うと、勇一はベッドから起き上がり、近くにおいてあった時計に目線を向ける。何時もより早い時間を示しているため、アラーム音が鳴る前にと、勇一は手を伸ばしてそれを切ってしまう。
近頃は不快な汗をかくこともなく起き上がれるため、側に置いてあるタオルは不要なものになりつつある。折り目正しく畳まれたその存在に、思わず苦笑を浮かべながらもそれを手に取り、勇一はパジャマ姿のまま階下に降りた。
台所から上がる音に耳を傾け、勇一は洗面所に足を向ける。
ようやく母の心も落ち着いてきたようだが、何かの拍子につけて死んだ父のことを思い出すのだろう。時々遠い目をしてリビングに飾れた写真立てを見つめている姿を、勇一は何度も目にしていた。
もちろんのことだが、落ち着いたとようにみえるはいえ、今でも母の心の整理がついていないは分かっている。そんな母の姿を見ると、勇一は心が軋むような感覚に陥ってしまうのだ。
父が死んだのは、間違いなく自分が原因だ。とはいえ、真実を告げたところで、突飛な発想として母、高橋ゆかりは苦笑でそれを切り捨てるか、眦をあげて怒るだろう事は予想せずとも分かりきっている。
何も出来ない自分が嫌になりながらも、勇一は今日一日を始めるべく洗面所の扉を開けた。
生暖かな水で顔を洗い、勇一は鏡に映る自分の表情を確かめる。
何時もと変わらぬ顔だと安心し、勇一は肩にかけていたタオルで顔を拭くと、今度は着替えるために自室に戻り、壁に掛けてある制服に手を伸ばした。
ふと、今朝の夢のことを思い出す。
いったい、あの青年は何者だったのだろう。
遠い記憶であり、自分は転生し、人間界へと生まれてきた。そのため、あの青年のことなどどうでもよい些末事項ではあるのは理解している。けれども、青年の存在が気になってしまうのは仕方が無い。
「あいつは、いったい……」
阿修羅にでも尋ねようかとちらりと考えるが、阿修羅とて明確な答えを持っているとは思えない。
たった一時あっただけの、通りすがりのような行動を取った青年のことなど、阿修羅とて忘れている可能性が高いのだから、尋ねるだけ無駄のような気持ちがある。何故今思い出したのかは疑問なのだが、それでも忘れてしまえと考えた勇一は、勢いよく自分の頬を両手で叩いた。