第五章
それからしばらくは、何事もなく平穏な日々が過ぎていった。
襲う気配を見せない敵の様子に、始めの頃は神経を張り詰めていた勇一達だが、この頃の日々は警戒心に神経をすり減らすことをやめていた。安堵するのはまだ早いのだが、それでも何の攻撃もないというのは、気が緩んでしまうのは仕方の無いことだろう。
敵がその隙を突いてくる可能性も無いとは分かっているが、何時までも緊張か続くのは心身共に負担が激しい。それ故、察知能力を最低限―とはいえ、何時でも戦闘が出来るだけの余力は残しているが―に落とし込み、何時もと変わらぬ態度を装って毎日を過ごしていた。
本日も何事も無くホームルームまで終わり、めいめいが部活や帰宅すべく動き出した教室内は、平穏無事という単語がピタリと当てはまる時間帯になっていた。
そんな中だ。突如勇一に声がかけられた。
「おーい、勇一。わりぃけど、今日武道館に顔出してくれや」
大きく背もたれを借りてのびをした勇一の背後で、不穏でしかない言葉が上がる。
がくりと力のぬけた身体が、ぐるりと声を放った遠野へと向けられた。
「あのなぁ、俺はもう剣道部を退部してるし、この間の件は断っただろうが」
勇一の発言に、耳をそばだててやり取りを聞いていたクラスメート達の身体から、殺気めいたものが立ち上る。それを綺麗に無視し、勇一はじとりとした視線を遠野を向けた。
だが、そんな事で、神経の図太い遠野が恐れる事などない。
「でもよ、今、おまえ、フリーだろ」
「……まぁ、な」
一言一言を区切るようにいわれ、勇一は嫌な予感に駆られながらも、事実を認めた。
「なら、助っ人には入れるだろっ!なっ!なっ!」
「は?」
ここぞとばかりに大きな声を出し、ずかずかと勇一の前に来ると、遠野は拝むようにして手を合わせた。
大げさな仕草に、勇一は椅子から転げ落ちそうになりながらも、呆れと恨みがましい目線で遠野を見やる。
その様子を見届けていた那美が、苦笑を浮かべて話しぐらいは聞いてみるべきだ、と瞳の奥でそう語りかける。
どうやら、もはやこの場で喚いている遠野の言葉は、すでに決定しているのだと言いたげなものばかりだ。それは、その態度にもありありと表れている。勇一の眼の前で遠野は両手を合わせて頭を軽く下げているのだが、その態度は神経をザリザリと逆なですると同時に、表情がだんだんと不機嫌なものへと変化していくには十分すぎるものだ。
とはいえ、こんな茶番に付き合うつもりは無い。大仰な溜息を吐き出し、勇一は素っ気ない声で遠野の言動を切って捨てた。
「さっきも断るっつただろうが」
「そこを曲げて、頼んでるんだ」
「嫌だ、っつてんだよ。俺は」
「だってよー、エントリー表もう提出しちまったし、お前、剣道部の大将に任命されてんだぜ」
「……おい、冗談だろ?」
「ここで冗談言ってどうするんだ?」
「ちょ!まて!誰がそんな事決めたんだ!」
「剣道部の主将以外に誰がいるんだよ」
あっさりと種を明かされ、勇一は剣道部の主将である斉藤の腹黒い笑顔を思い浮かべると、苦々しい気持ちとともに遠野の朗らかな笑みに殺気を覚えてしまう。
そんな勇一をおいて、遠野は通学鞄からぺらりとホチキスで留められている数枚の紙を取り出し、それを勇一に押しつけた。
そこには今回の合同練習に参加する部がずらりと並んでおり、剣道部の欄に視線を走らせれば、確かに勇一の名前が書かれている。
思わず勇一は穴が開くほどそれを見つめ、ぐしゃりと紙の端を握りしめた。
プリントの剣道部大将の欄には、承諾した覚えも無いというのに、勇一の名前がしっかりと書かれている。もはや逃げ道すらも塞がれた状態に、勇一は乱暴に頭をかき回した。
「な、本当だろ」
「俺は、どうあっても出なきゃならないってか?」
「そうなる」
「てめぇー!」
勇一の怒りを真っ向から受け止めながらも、遠野は人の悪い笑みを浮かべるだけではなく、猫立て声をあげて勇一ににじり寄った。
「もう決まってるんだ。観念して、出てくれるよな」
「こっちにも拒否権ってもんがあんだろうが!」
「そんなものはない」
ばっさりと言い切られ、勇一の顔面がピクピクと引きつる。
そんなものなど柳に風とばかりの態度の遠野に、勇一は震えそうになる腕を必死に押さえつけながらエントリー表をその胸に押しつけると、忌々しげに舌を打ち付けた。
「ったく、わぁったよ!道場にいきゃいいんだろっ!」
「そういうことだ。んじゃ、後よろしくなー」
ひらひらと手を振りながら、遠野は勇一から遠ざかっていく。
そのやりとりを眺めていた那美が、呆れと嘆息の入り混ざった声を放つ。
「なんか、遠野のいいように引きずりこまれたわね」
「くそ」
悪態をつきつつも、勇一は立ち上がると鞄に手を伸ばした。
そんな勇一の姿を眺め、那美はのんびりとした調子で問いかけた。
「いくの?」
「行かなきゃ行かないで、後が怖いだろうが」
「まぁ、確かに」
それに、一言斉藤に言いつのらなければ、勇一としてはやっていられるか、という気持ちが大きく膨れあがっているのだから、この場合当たり前といえば当たり前だ。
同じように立ち上がった那美に向け、勇一は不機嫌を隠そうともせずに那美に話しかけた。
「那美、先に帰ってろ」
「え?でも……」
「大丈夫だ。そんなに時間もかかんねぇだろうし、自分の身ぐらいは自分で守るさ」
「ん……」
那美の心配は、先日の事を思い出してだろう。足手纏いになるのは分かっているが、それでも心配はつきることがない。
それを振り払うように那美は軽く頭を横に振ると、少しだけ強ばった笑みで勇一に視線を向け、何かを言いかけようとする。だが、言葉が見つからなかったのだろう。軽く口を開け閉めし、那美はきゅっと唇をかみしめた。
そんな那美の頭を心配するなとばかりに軽く小突き、勇一は道場に行くべく足を踏み出そうとする。
だが、それは一歩進んだだけで、その歩みを止められた。
「あれ?」
那美が不思議そうな声を上げ、教室の後ろにつけられているドアを見つめる。
そこには、一人の少女が不安そうな顔で中を見つめ、那美と視線がかち合うとほっとしたように肩を下ろした。
那美が椅子から立ち上がり、そちらに向かう。
「成瀬さん、だったわよね?」
「はい」
小さな声で肯定を示した少女、成瀬真由美は、安心したように顔面を笑みの形に作り上げる。
どこか、不自然な笑い顔だ。自然なはずのそれだというのに、どこか造られた感じがしてならない。
それ故に、那美にはその態度が引っかかってしまう。
けれども、それが何か分からず、多少の違和感を感じながらも、那美は黙って真由美に先を促すように柔らかな目線でその顔を見つめた。
「この前は、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた真由美の態度に、慌てて那美が彼女の肩を叩く。
「そんな事気にしないで。
それより、どうかしたの?」
近づいてきた勇一も、真由美の様子に軽く首をかしげる。勇一としては、違和感よりも、彼女の態度に疑問を抱いたようだ。
「あの……」
二人の顔を交互に見やり、真由美は大きく息を吸い込んだ後、意を決したように話し出した。
「すいません……あの、今日、須田君のところに行くんでしたら、一緒に、行きたいんです、けど……」
語尾がだんだんと小さくなっていき、真由美は思わずと言ったように顔を下げる。
その態度に、勇一は首を傾げて疑問符を飛ばした。
「須田に?」
「はい。この間のお礼、言いたくて」
ぱっと顔をあげてた真由美の顔は心持ち顔を赤く染まっており、先程の違和感を忘れた那美は、なるほどと苦笑を浮かべた。
意味を掴み損ねている勇一をおいて、那美は真由美に気さくにそれを請け負った。
「今日武道館に行くから、一緒に行く?」
渡りに船の提案を口にした途端、真由美の顔が明るく輝く。
何とも分かりやすい表情だ。そんな事を考えている那美へと、真由美は嬉しそうな声をあげた。
「はい!お願いします!」
「お、おい、那美」
軽く確約した那美の言葉に、勇一は慌てたように那美の肩を叩く。
どうしてこんな展開になったいるんだと不思議そうな顔をする勇一に、那美は少しだけ可笑しそうな色をを浮かべて勇一を見上げている。その表情に浮かんだ色は、分からないのか、と雄弁に物語っているのだが、勇一は何が何だか分からずに真由美と那美の顔を交互に見るだけだ。
真由美の言葉と態度は不可思議なものであり、勇一は忍が何をやったか思い返してみるのだが、何か事を起こしたわけではない、と、結論を下しいるた。
ほっとしたように小さな息を吐き出した真由美に向けて、那美は微笑みを浮かべて言葉を続けた。
「昇降口で落ち合う、で、いいかな?」
「はい!」
「じゃぁ、鞄取ってきて、一緒に行こうか」
「分かりました」
那美にとっては分かりやすいほどの嬉しさを抑えきれない返事を返して、真由美はぺこりと頭を下げるとやや早足で自分のクラスへと向かった。
それを見送った勇一だが、今だに真由美の行動が分からないどころか、那美の簡単な返事すらもが理解できずに、怪訝な声で問いを放った。
「どういうことだ?」
その疑問に、那美が呆れたような吐息をつく。
「ほんとに、分からないの?」
「あぁ」
「……まったく、これだから男の子は」
はぁ、と小さく溜息をつき、那美は真由美の走り去った方向へと眼を向けると、くすりと苦笑めいた笑みをこぼした。
ますます訳が分からないという勇一の雰囲気を無視し、那美はばしんとその背中を叩いた。
「とにかく、武道館に行きましょ」
「あ、あぁ……」
その言葉に押されるようにして、勇一は一度席に戻って机の横に引っかけてある鞄を取ると、ゆったりした動作で教室を出る為に歩き出す。廊下に出た途端に視界に入ってきたのは、一斉に出てきた生徒達の姿だ。帰宅組や部活に出るために急ぎ足で廊下を進む生徒達に、勇一は眼を細める。
そんな中に混ざりながら、先ほどの那美と真由美の会話を思い返す。何というか、女心は謎だらけだ。そんな事をつらつらと考えながら、勇一は幾分かゆっくりとした歩調を保ったまま昇降口に向かった。
明かり取りから入る西日の強さを感じながら、勇一は所在なげに佇んでいる成瀬真由美の姿を見つけると、ちらりと隣の那美に視線を送る。
その目線に、茶目っ気をたたえた光を那美は浮かべてるだけで、勇一に答えを示そうとはしない。
思わずブスリとした表情になってしまった勇一を置いて、那美は真由美に声をかけようとする。
けれども、それは背後から聞こえた声によって遮られ、二人はそろってそちらに顔を動かした。
「高橋先輩!武道館に行くんですか!」
開口一番にそう言われてしまえば、勇一としては先程の遠野のとのやり取りを思い返してしまい、不機嫌そうに鼻をならす以外に術はない。
そんな勇一にかまうこと無く、忍は眼を輝かせて勇一に視線を固定させていた。
「何でお前はそう嬉しそうなんだ?」
「だって、大将を引き受けてくれたんですよね!そうでなきゃ、武道館に行く用事が無いじゃないですか!」
「あのなぁ。俺はそれを了承したわけじゃねぇぞ」
「そうですか?もしそうであったら、ここまで先輩来なかったでしょうし、天野先輩も一緒だから、間違いなく武道館に行くもんだと」
「待て。何で那美とセットだとそういう思考に行き着くんだ?」
「天野先輩がいれば、高橋先輩は自動的に武道館に行くこと決定じゃないですか」
天然気味の忍の発言は、ぐさりぐさりと勇一の心に突き刺さる。これが悪意で言われているのならば、まだ相手に向かって牙をむくことが出来るのだが、忍の場合はこれが素なのだから、何を言っても無駄な結果になるのは目に見えている。
おもわず溜息をついた勇一だが、ふと忍が自分達ではなく、昇降口の入り口に立つ少女に視線を釘付けにしていることに気がついた。
真由美も忍の存在に気がついたのだろう。慌てて忍に頭を下げるが、耳元まで真っ赤になった真由美の姿に、勇一は軽く首を傾けて疑問符を身体中から飛ばしてしまう。
その様子に那美が軽く息を吐き出した後、真由美のそばに近寄った。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「い、いえ。
あの、その……」
もごもごと口の中で何かを呟く真由美が、突然那美へと頭を下げた。
「よ、用事を思い出したので、その……また今度一緒に行ってください!」
「い、いいけど。本当に行かなくていいの?」
「はい!」
勢いよくそう言うと、真由美は再び深々と頭を下げて、足早に那美や勇一達の横を通り過ぎていった。
一瞬だが、真由美が忍に対して、熱い眼差しを向ける。
同じように、忍も真由美の姿を視界に入れると、ぱっと顔を赤らめて視線をさまよわせた。
「須田?」
「あっと、その、先輩、早く行きましょう!」
あたふたと腕を動かしながら、須田は赤くなった顔を隠すようにトーンを大きくしてそう告げる。
その様子を見、那美は小さな溜息をつく。
「二人とも、素直なんだけどねぇー」
少しばかり呆れたような、それでも意味深な那美の言葉に、勇一は不思議そうに走り去った真由美の背中と、奇妙な行動を取る忍の姿を見やった。
そんな様子を振り払うように、那美が軽く手を叩く。
「さ、武道館に行きましょ」
「あ、あぁ」
「そうですね」
男達二人の返事に、那美は小さく笑みをこぼしてしまうと、勇一の背中をばしりと叩いて武道館に向かうため、くるりと踵を返して歩き出した。