ノブリとの暮らし
最初の一週間は僕が創成の竜から教えてもらったことを何度も繰り返しノブリへ伝えた。
何度も何度も同じことを言うけれど、理解はしてもらえない。
僕は氷竜のじいさんへ何度も訊くようなことはなかったと思うのだけれど、ノブリは同じ間違えを繰り返し、まったく前へ進む気配を感じることができなかった。
一週間を過ぎると、さすがに僕も苛つくことが多くなってくる。
「……ラプ、怒らないでよ。怖いよ」
「……」
つい苛つくと念話の中に、そんな感情が入ってしまう。
あの氷竜のじいさんも同じように苛ついていたのだろうか?
たぶん、そうなのだろう。僕もノブリと同じだったはずだ。
だけど、じいさんは僕に苛ついた感情を感じさせることはなかった。
じいさんを見習って、僕は苛ついたり怒ったりということがないように努力することにした。
一ヶ月をそんなことの繰り返しで暮らす。
努力はするけれど、やっぱり苛ついたり怒ったり、時には酷く怒鳴ってしまっていた。
僕は駄目な竜だ。なんだか自分が嫌になってくる。
ノブリは毎日、僕の言う通りに、人への変化の為に必要な魔素の扱い方を練習している。
それでも偶に不貞腐れてしまい、一日中起きることもなく丸まったまま過ごすことがあった。
「それじゃいつまでたっても人に変化なんてできないよ。がんばってよ」
そんな日はなにを言ってもノブリは起きることはなかった。
僕は苛つきや怒りを念話に出さないように気を付けてはいた。
だけど、半年を過ぎたあたりで、ついに怒りを爆発させてしまう。
その日、ノブリが不貞腐れたまま起きてこないので、いつものように僕から話し掛ける。
「ねえ。僕の教え方が悪いのは判っているけど、ノブリががんばって練習してくれないと先へ進めないんだよ。練習しようよ」
大抵は不貞腐れると、まったく返事をしなくなる。それが日常になりつつあった。
でも、諦めていては駄目なんだと自分に言い聞かせ、何度も話し掛ける。
僕はこれまでに感じた怒りとはまた違う怒りを感じた。
これまでに感じた怒りに似てはいる。だけど相手を殺してしまいたくなるような怒りではない。なんだか不思議な怒りだ。
何かが悪いのだけれど、誰が何故悪いのか、それが判らない。考えても判らず、僕はどうすればいいのか途方に暮れてしまい、その苛つきが怒りに変わっているようだった。
そしてその怒りを念話に込めてしまっていた。
「いいかげんにしろ。僕はノブリの為にアスラやヴェルと別れて暮らさなきゃいけなくなったんだぞ。僕はまだ人の世界で旅をして暮らしていたかったんだ。僕が居なくなったらノブリはまた一人で人の家畜を襲って人から殺されてしまうんだぞ」
ノブリは驚いたように目を開き、僕へと視線を向ける。
その悲しそうな表情は僕に馬鹿なことを云ったと後悔をさせた。こんな事を言うなんて僕は馬鹿だ。
こんな事を云うくらいならば、あの時ノブリを殺してアスラやヴェルと一緒に旅をするべきだったのだ。
「ごめん……。こんなこと言うつもりはなかったんだ……」
ノブリはなにも言わず、悲しそうな表情を僕へと向けつづけた。
「今、言ったことは気にしないで。……夕飯を狩ってくるよ」
そう言って悲しそうな顔をしているノブリから目を逸らし、洞窟を出た。
狩りから帰るとノブリは起きて魔素を操る練習をしている。
僕は狩った獲物を地面へ置き、皮を剥ぎながら練習を見ていた。
僕に気付いたノブリが珍しく自分から話し掛けてくる。
「ラプ、ごめん。俺、練習、するから。俺、もう一人は、いやだから」
「うん。大丈夫だよ。昼間は僕が悪かったんだ。一人にはしないよ」
ノブリは僕の念話を聞くと嬉しそうな顔を見せ、練習を再開した。
その晩、ノブリは狩ってきた鹿を食みながら僕へと訊く。
「アスラとヴェルって、なに?」
「え? なにって……」
そういえばノブリはアスラとヴェルに会っていない。昼間、怒りを込めた念話の中に二人の名前を出した事を思いだした。
「僕の冒険の仲間だよ」
「ぼうけん?」
「そう冒険だよ」
その晩、僕はアスラとヴェルとの楽しい旅の思い出を話して過ごした。
翌日からのノブリの練習は、これまでとは違うことをやっているのかと思う程、真剣なものになっていた。
昨日までの、ただなんとなくやっているという感じはなく、なにかに取り憑かれたように一心不乱に集中している。
「今日はどうしたの? いつもと違って真剣だったね」
「うん。俺、早く、人の姿、なりたい、から」
僕には、その心境の変化がどうして起きたのか判らない。昨日までだって人の姿へとなる為の練習には違いはなかったのに。
「俺も、早く、人の姿になる。そして、旅、する」
ああ、そうなのか。突然、変化したノブリの練習態度に合点がいく。
昨晩、僕が話したアスラやヴェルとの旅に感化されたらしい。
これまではただ『人の姿になる為』という、竜が生きていくにはさほど重要ではない事柄だったものが、『人の姿で人の世界を旅する為』という明確な目標に変わったのだ。
その晩からは、夜、眠るまでの時間を、僕が人の世界で暮らした思い出を話して聞かせる日々となった。
それは昔、ロヒが僕へと語ってくれた人の世界の話と重なり、楽しかった夜の時間を思い出させてくれた。
目標ができ、ノブリの練習は真剣なものへと変わった。
けれど、その進歩は遅く、毎日のように練習はしているけれど目に見えて進歩しているようには感じることはできない。
一年が過ぎ、二年が過ぎても未だ人への変化は出来なかった。
三年が過ぎても、人への変化は出来ていない。
進歩していないのかと言えば、それも違う。
一年前、二年前、それぞれと比べれば確かに進歩はしている。ただ、あまりにも遅い進歩は日々の進歩としては捉えることができないでいた。
近頃では僕の生活にも変化が出来ていた。
僕も竜体で飛ぶ為の練習をしている。
昼間はノブリが練習をしているのを見ているだけだったけれど、さすがに助言も不要な練習であれば見ているだけというのは退屈になってしまう。
竜体で飛ぶための練習方法は青竜の里で教わった事の反復だけど、僕はノブリにも況して、まったく成長を感じられない。
青竜の里に在った緩やかな丘陵はこの辺りにはないので、崖から飛び降りて練習をする。飛べないとはいっても滑空することは出来るので酷い怪我をすることはなかった。
どんなに練習をしても、やっぱり進歩は感じられない。
僕達二人は進歩を感じられない日々を過ごした。五年の月日が過ぎ、そろそろ六年目へと入ろうとしていた。
その日もいつもと同じように崖を飛び降り、滑空しながら地上へと降りる。
森の木々の間を擦り抜けて地上へと降りるのだけれど、その時は、ぼんやり考え事をしながら飛んでいたので集中力がなかったようだ。
突然の突風に煽られ、ふらふらと森の木々の間を漂ってしまう。
そんな事はそれほど珍しいことではなく、数日に一度や二度はやってしまうことだった。
その日はなんだかいつもより気が抜けていたようで、体勢を整える動作も緩慢で、周りも見えていなかったらしい。
突然、目の前に壁のような崖が迫ってくる。
ぶつかりそうになる既の所で、僕はその壁のような崖に沿って上昇をしていた。
ほんの少しだけなのだけれど、飛べない、つまり舞い上がることができない僕が上昇をしていた。
地上へと降り、今起きた事を頭の中で考え、自分がやったことを思い出す。
それは無意識の内に使った魔法だった。
空間を曲げるという魔法。それを会得した瞬間だった。
その感覚を忘れないように、その日は何度も繰り返し、飛んだ。
毎晩、六年も話をしていると、話す事がなくなってくる。
それでも同じ話を繰り返し、近頃ではノブリが人の世界でも暮らせるようにと念話を使わず人の言葉で話したりもしている。
今ではほとんど、人の言葉も理解しているようだ。
人の世界で暮らす準備は出来てきている。けれど、先が見えない人への変化を遠くに感じながら、六年目も過ぎ去ってしまった。
七年目に入り、やっとノブリが人への変化に必要となる魔素の扱いを会得した。
「ここまでくれば、あと一息だよ。明日、変化に成功してもおかしくない。でも、あせらなくてもいいからね」
僕の言葉に、ノブリからは嬉しいという感情が念を通して伝わってくる。
「うん。がんばる。あと少しで俺も、ラプと一緒に旅ができるんだね」
表情の乏しいこの子竜の顔にもそれは表れている。
人の姿をしていれば、きっと満面の笑みを見ることが出来ているだろう。
けれど、人の姿をしたノブリを見ることができたのは、それから更に一年を待つ必要があった。
この洞窟に二人が棲むようになって八年が過ぎた。
その日もいつもと同じように僕は飛ぶ練習を終え、ノブリの食事を狩り、洞窟へと戻っていった。
僕は竜体でも問題なく飛べるようになっている。
人の姿で飛ぶ時の倍くらいは早く飛べるはずだ。竜体で丸一日飛べば、じいさんの棲む氷河の洞窟まで飛べると思う。
もしかしたらアスラの故郷であるクラニ村まで、半日くらいで飛べるかもしれない。
実際には真っ直ぐに目指して飛ぶと白竜の縄張りを突っ切ることになるので、そんなことはやらないけれど。
白竜は孫である僕が縄張りに入っても怒るのだろうか?
そんな事を考えながら洞窟へと入る。
その洞窟にノブリの姿はなく、代わりに赤い髪をした素っ裸の人の子供が地べたへ座り込んで涙を流していた。
「君は、ノブリなの?」
僕の声にこちらを振り向く人の姿をしたその子供は、僕を見ると更に大きな声で泣きだした。
泣きながらゆっくりと立ち上がり、両手で涙を拭いながら僕の方へと歩いてくる。
僕も狩った獲物を地面へと置いて、その子供へと近付いた。
子供といっても、歳は僕と同じくらいに見える。人であれば十歳前後だろう。
僕の目の前まで来ると、その子は泣くのをやめ、じっと僕を見詰める。
炎竜らしい赤い髪だけれど、僕の赤い髪よりも暗い。赤というよりは黒に近いだろう。
背丈も僕とほとんど変わらないように見えた。
「よかったね。変化ができたんだね。……よかったね」
僕は言うべき言葉が見付からない。
八年という月日は竜の寿命からすればさほど長い年月ではない。でも、それでも、八年もかかったのだ。その月日は人であっても竜であってもやっぱり長い月日には違いはない。
いつの間にか僕も涙が溢れていたらしく、涙が頬を伝って落ちる。
それを見たからか、僕の言葉を聞いたからか、ノブリはまた大きな声を上げて泣きだしてしまった。
僕はゆっくりとノブリを抱き締めた。
狩ってきた鹿を焼いたり、スープを作ったりしてノブリへと食べさせながら話をする。
人の姿での食事はこれが初めてのことだ。
大した味付けもしていない、料理ともいえない料理だ。調味料は塩くらいのものだけれど、美味しいと感じてくれるだろうか?
「美味しいかな?」
「おいしい?」
「えっと……、そのスープや肉は、もっと食べたくなるかな?」
「うん。もっと、たべたい」
人の言葉をたどたどしく使い話すノブリ。顔には満面の笑みを浮かべている。きっと美味しいと感じてくれているのだろう。
「昼間、どうして泣いていたのさ」
「ラプ、居なかったから」
「え? 僕が居なかったから?」
「俺が変化して、いっぱい、時間がすぎて、それでも帰ってこなくて、いっぱい涙が流れたあとで、やっと帰ってきたよ」
「ん? 寂しかったの?」
「……さみしい? わかんない。静かなここで、じっとラプを待ってたら、涙が流れてきた」
「そう……」
きっとノブリは寂しかったのだろう。この洞窟には天井に森へと続く縦穴があるので光は入るけれど、それでも外に比べればかなり暗い。
洞窟の中は、薄暗いだけではなく、外に比べれば薄ら寒くもある。
人へと変化し、裸のままであれば寂しくもなるだろう。
そこには念願の人への変化という嬉しさも混ざり、ノブリにとっては一言で表すことができない感情になっていたのかもしれない。
「明日からは竜体に戻る練習だね」
「え? 人の世界の旅は?」
「まだだよ。ノブリは竜でもあるんだ。竜体に戻る練習もしなきゃ駄目だよ」
「……」
ノブリは少しだけ不貞腐れた顔をして、僕を見ながら鹿肉のスープを口へと運んでいた。
竜体への変化は三ヶ月が掛かった。
けれど、これまでの時間に比べればあっという間だ。
その間もノブリへ人の言葉を教え、今ではそれほど違和感なく話すことができるようになっている。
読み書きも教えるのだけれど、僕自身がそれほど文字を知らないので教えるのにも苦労をさせられた。
それから春になるのを待ち、僕とノブリは人里へと降りることにした。僕とノブリでの旅の始まりだ。
出発の日、ロヒとミエカの墓へと立ち寄る。
「ロヒ、ミエカ、いってきます」
僕の後ろに立っていたノブリへ振り返り「さあ、いこう」というと、不思議そうな顔をして訊かれる。
「ラプはいつもここでなにをしているの?」
あまりノブリと一緒にこの場所に来たことは記憶にない。けれど、ノブリが「いつも」と言うのだから僕は結構な回数をこの場所まで来ていたのだろう。
「この土の下には僕の親が二人、眠っているんだ」
「親? 土の下で眠っている?」
「うん」
「起さないの? もう昼だよ?」
「うん。もう、起きないんだよ」
「俺より寝坊助なんだね」
僕は笑って「そうだね」と言って山を降りだした。
ノブリは嬉しそうに僕の後を付いて歩く。
ノブリに死というものが理解できた時、この場所の事を思い出すのだろう。
「僕が眠って起きなくなったら、その時はさっきの場所に埋めてね」
さらに理解できないというような表情をするノブリ。人の世界で暮らしだせば、すぐにその意味を理解するはずだ。
もちろん、それ以外の沢山の事も、その小さな体に吸収していくのだろう。
それは僕も同じなのだけれど。




