海の中
城跡で一泊し、その朝に簡単な朝食を食べながらアスラがヴェルへと尋ねた。
「これでもう良いのか? 気は済んだか?」
「……本当はあと一箇所、あるのだけど……」
「それじゃ、そこへも行くか?」
「いえ、やめておく。行ってもしょうがないし……」
城が無いのにここまで来たヴェルらしくないと思った。
行っても仕様がないというのであれば、既に城の痕跡すら消えてしまったこの場所へ来ても仕様がないと思うのだけど。
この寒さに冒険心も萎えてしまったのだろうか。
「それじゃ、これからは一番近い町に行って仕事を探すので良いか? もちろんエテナを目指しながら」
「ええ。そうしましょ」
僕等は町を目指し飛ぶ事になった。クラニ村へは寄らず、そのまま次の町へと行くらしい。
ヴェルはまだ行きたい場所があるらしいけれど、今のヴェルであれば来たいと思った時に一人でも来ることができるだろう。
こんな一見なにも無いような北の地に、まだ見たい場所があるというのは少し気になるけれど。
帰りも寒い。
いつもよりゆっくりと飛ぶ二人に合わせ、僕もゆっくりと二人の後ろを飛ぶ。
ふと、創成の竜の事を思い出す。この場所はあのじいさんが居る洞窟に近いのではないだろうか。
創成の竜と呼ばれるじいさんは僕に人への変化の方法や魔法の使い方を教えてくれた竜だ。
ミエカの言葉を借りれば「師匠」というらしい。だけど、僕からするとロヒやミエカと同じで、三人目の親という感覚に近かった。
確かに一緒に過ごした時間はほんの数ヶ月でしかなかったけれど、それでも僕には大切な竜だ。ミエカと一緒に人の世界で暮らせたのは、あのじいさんのおかげで、もしもじいさんが居なければ僕はミエカに見捨てられていてもおかしくはなかっただろう。
何も無い北の地だけれど、僕にとって「青竜の里」の他にも「創成の竜」という存在は忘れることが出来ない存在だ。
ここから東へ真っ直ぐに飛べば、あのじいさんの洞窟があるはずだ。
僕は少し行ってみたくなった。だけど近いとはいえ、丸一日くらいは飛ばなければならないのではないだろうか。
なんとなく高く飛べば、その洞窟までの距離が判るような気がして高く飛んでみることにした。
ほぼ垂直に飛び、灰色の雲の中へと入る。
雲の中は先が見えず、なんだか方向を見失いそうだったけれど、すぐに眩しい青空を見る事ができた。
この辺りは厚い雲が低く懸かっていて、雲を抜けても見える範囲は一面、雲の絨毯で地上は見えない。
すぐに諦めて地上へと降りることにした。
僕が降りていくと、ヴェルとアスラの二人がこちらを見ていた。ヴェルはなんだか怒ったような顔をしている。
なにも言わずに高く飛んだ事を怒っているらしい。
ヴェルに怒られそうだなと思いながらゆっくりと降りていると、ふと南側に広がる海から異様な雰囲気を感じ、降りるのを止めた。
かなり遠くから異様な魔素、変質した魔素を感じる。それは遠くて小さく感じるけれど確実にそこに在ることが判る。近づけばかなり濃い魔素ではないだろうか。
アスラが僕の所まで飛んできた。
「どうしたんだよ。なにか見えるのか?」
アスラも僕が見ている方向を見た。
「変質した魔素の塊みたいなものを感じるんだ」
「魔素のかたまり?」
「うん。あれはなんなんだろう? 変質した魔素というのは、もう消えてしまったんだよね?」
「ああ、もうどこにも無いと思うぞ。……俺にはなにも見えないな。……とにかく降りよう。ヴェルが心配している」
下を見ると心配そうにこちらを見ているヴェルがいた。
降りた僕達へヴェルが訊く。不安そうな顔に少し怒ったような表情が混じっていた。
「二人でこそこそと、なにを話してたのよ?」
「別にこそこそはしていないだろ」
「私だけのけものにして……。私はあんなに高く飛べないのよ」
「え? どうして?」
「怖いからにきまってるでしょ」
「それじゃ、これからは高く飛ぶ練習もした方が良いな」
「そう……ね。……考えておくわ」
僕はまだ南の彼方から感じる魔素の方が気になっていた。
「ラプ、大丈夫? なにかあったの?」
「変質した魔素の塊が見えるんだとさ」
「かたまり?」
僕はどうしてもそれが気になってしまっていた。
ヴェルに負けてはいられない。僕だって冒険者だ。
「僕、少し見てくるよ。二人は先に行ってて。すぐに追いつくから」
「え? おい」
二人を置いて、僕はその塊を目指し飛んだ。
二十分くらいだろうか。かなりの距離を飛んだ。
二人に合わせる必要がないので、全速力ではないが、それなりに早く飛べる。
変質した魔素は、だんだんとその存在を強く感じることができるようになると、塊だと思っていたものが、ただの濃い靄のようなものだということが判った。
その靄の中に入ると、靄の中心が判らなくなる。
速度を落とし、魔素を強く感じる事ができる方向へと飛ぶ。
その魔素が一番濃く感じる事が出来る場所まで来ると、その発生源が海の中にあるらしいということが判った。
変質した魔素が海上から湧き出ている。
普通の人間や動物であれば、なにも感じることはないかもしれないけれど、この場所に数日留まれば魔獣へとなってしまうだろう。
僕は少し迷った。
海の中は竜体になれば入って行くことができるけれど、人の姿では寒さと呼吸が枷になるので出来ない。
竜体になるには背負っている背嚢や服をどこかに置いておきたいのだけれど、海の上ではそれも出来なかった。
「どうしよう。陸まで戻ろうかな……」
海の上で迷っていると、アスラとヴェルが追い掛けて来てくれた。
「ラプ。勝手なことしないでよ。仲間なら三人で行動するべきでしょ」
ヴェルは怒ったように僕へと怒鳴る。
「ごめん。変質した魔素だから、人間には害があると思って……」
「確かに、この辺りの魔素は濃いな……」
アスラの言葉にヴェルの顔に不安が浮かぶ。
「え? そうなの? 私達、魔獣になっちゃいそう?」
「え? あははは。平気だよ。二日くらいは問題ないはずだ」
アスラの言葉でヴェルは少し安心したような顔に戻るが、まだ不安は消えていないようだ。
「とにかく、そんな得体の知れないものが在る所に居たくないわ。早く陸へ行きましょ。海の上は怖いし、寒いし、陸が見えないと不安になっちゃう」
「……だから僕一人できたのに……」
ヴェルは僕の言葉を聞いてまた怒りだした。
「さっきも言ったでしょ。私達は仲間なのよ」
「う、うん。ごめん」
「それじゃ戻りましょ」
アスラではないが「ヴェルが仕切るなよ」と言いたくなった。けれど、それはアスラの役目なので我慢することにしよう。実は、こんな僕が責められているような会話でも少し楽しく感じてしまう。僕はなにか変なのかもしれない。
「ヴェル、アスラ、頼みがあるんだ。少しだけここで待っていてもらえないかな。もちろん先に行っていてもらっても構わないけど」
「ラプ……。まだ判ってないみたいね。何度も言うように三人で――」
僕はヴェルの言葉を遮った。
「判ってるよ。でも二人は海の中には来れないでしょ?」
「え?」
ヴェルとアスラが驚いた顔をする。
「アスラ、僕の背嚢と服を持っていてくれないかな」
そう言って、先ず背嚢を渡す。
アスラが背嚢を受け取ると不安そうな顔をして訊いてきた。
「海の中へ潜るのか?」
「うん。何があるのかだけ見てくるよ。このままだと海の魚が魔獣になっちゃうよ。漁師さんだって危ないかもしれない」
ヴェルはなにかを言いかけたけれど、諦めたような顔をして口を閉ざした。
実際には、人に対して問題が出るような事はないかもしれない。これだけ沖合の、しかも変質した魔素が在る範囲は数キロメートル程度でしかない。
人への影響があると言うのは僕がその原因を見たいというだけの言い訳でしかなかった。
飛びながらズボンやパンツを脱ぐのは少し難しかった。片足だけで飛ぶ練習もする必要がありそうだ。
ヴェルはなぜか後ろを向いてしまった。怒っているのだろうか?
僕は脱ぎ終わり「それじゃ見てくる」と言ってその場で竜体になり、そのまま海へと落ちる。
僕が竜になった瞬間、アスラが「すげー」と言っていたけれど、そう言えば、まだ竜体になった所はミエカ以外には見せたことがなかった事を思い出す。
そんな事を思いながら、僕は魔素の気配を追い、海の底深くへと潜っていった。
海の中は思った程には寒くはない。体温調整は人の身体よりも竜体の方が簡単に出来るけれど、それでもあまり体温調整に気を使う必要は感じなかった。
百メートルくらいを潜ったあたりから殆ど何も見えなくなり、その先は魔素が濃く感じ取れる方へと潜る事にした。
更に潜り、既にどれ程の距離を潜ったのかも判らなくなった頃、一つの小さな光が目の前に現れた。
それはまだ遠く、微かにしか見えない。
最初は幻覚かとも思ったけれど、潜るにつれ、それは次第に形が判別できるようになってきた。




