昔の記憶
俺は気がつくと湿った芝生の上に立っていた。
夏の夕暮れ、太陽の光が大地を金色に染めている。
ひぐらしが静かに鳴き、心地よい風が頬を撫でる。
ふと左の方に目をやると、一人の少女が彼方を見つめている。
端正な顔立ちに、宝石のような青い目。
俺はこの少女の名前を知っている。
名前は………レイン。俺の幼馴染みだ。
伝染病で両親が亡くなってから、俺にとって唯一、気を許せる存在。
しばらくて彼女は俺に気づいたようで、こちらに顔を向けた。
「ねぇ、ハルト。シャバナ湖に行ってみない?」
シャバナ湖というのは、この村リジマが誇る湖だ。
コバルトブルーの美しい湖。時たま妖精たちが遊んでいるのをよく見かけることがある。
この湖で捕れるサーモンはこの村の名産品だ。
「行こうか。久しぶりに」と俺は答えた。
ぬかるんだ坂道を道なりに進んでいく。
ゆっくり、ゆっくりと。
一緒に歩きながら、レインと話をした。
逃げ出した七面鳥のこと、出稼ぎで隣町の工場に行ったこと、ゴブリンの商人から偽物のドラゴンのキバをつかまされたこと。
しばらくすると、坂道の上方に二本の杉が現れた。
「もうすこしだね!」とレインが息を切らしながら言った。
あれ、なんだ?
何か言ってないことがあるような。
とても大事なことだったような。あんな世間話より大事な……。
俺は………この光景を知っている。
何回目だろう? とにかく、何度も何度も同じシチュエーションを。
レインに誘われ、シャバナ湖に行きながら、楽しく会話する。
でも、言っていない。とても大事なことをいつも言っていない。
……何だ? 何が言いたいんだ俺は? 思い出せ、思い出せ……! あのスギを越えたら……!
「あれ?」先にたどり着いたレインのとぼけた声が聞こえた。
「ここじゃ………なかったけ」
…………。
違う。ここはシャバナ湖だ。シャバナ湖があったはずの場所に違いないのだ。
だが、俺の知っているあのコバルトブルーの綺麗な色は、近くにいるだけで心が清められるような心地のよい風は、森の聖霊達が水を浴びに遊んでいたあの綺麗な湖は、
いったい、いったい何処へ行っていってしまったのか。
きれいな湖はどす黒いヘドロに変容しており、そのなかには様々な動物や魔物の骨が浮いている。周りに生えているその汚いヘドロを吸ったであろう植物は異形のそれに変わっていた。
ガガッキッキッキッキッガカッカッキッキィィィィィィィィ!!!
油が切れたようないびつな機械の騒音が周りに響き渡った。
俺はとっさに耳を塞ぐ。
それはまるで悲鳴のようにも聞こえた。
聞いたものを震え上がらせるような不快な音。
しかし、幸か不幸かそれを聞いた瞬間、俺はすべてを思い出した。
「……レイン……」そう呟き、彼女の方へ振り向くと……。
熱で溶けた蝋のように、ドロドロと崩れていくレインの顔が見えた。
落ちた目玉の空洞から、百足のような虫が垂れ下がってきた。
「うわっ!うわあああああああああああ!!」
「……はっ!」
見知らぬ天井。
滝のような汗が体を冷やしていく。
パジャマが汗で蒸れて不快感を覚え、体を横に向けた。
その視線の先には二人の少女。
お互い手を握ったまま、寝ていた。
クリームとわたあめだ。
………。
上半身を起こし、辺りを見回す。
こじんまりとした木製の部屋。二つのベッドと作業机が置かれていた。
………夢か。
俺は昨日、こいつらに一緒に俺の家に来るように提案したんだ。
ケーキ屋でたらふく食べたあと、宿屋を探してそこに宿泊したんだっけか。
俺は胸に手をやると、汗が引き始め、身体中の不快感が消えていった。
ダークレセプトとというこの力は、あらゆる不浄、汚れを吸収する。
汚れとかどういう基準で反応しているのかは俺にもよくわからない。
多分、俺の無意識レベルで判断しているんだろう。
まだ夜の3時。起きるにはまだ早い。
俺は渋々、再び眠りに付く。
鳥の鳴き声が響き、カーテンの隙間から太陽の光が漏れてきた。
クリームとわたあめは抱き合って仲良く寝ていた。
クリームは幸せそうに口元を歪ませながら、よだれを垂らしていた。
まったく、お気楽なやつだぜ。
チェックアウトは朝の9時、もうそろそろ時間だな。
「おい、起きろおまえら」俺は荷物を整理しながら二人に話しかける。
「……あれ? わたしの…パンケーキさんは?」クリームが辺りを見回しながら体を起こす。
「んんっ。あ……おはようハルトさん……」わたあめは普段と変わらない、眠そうな目で返答した。
「……どこにいっちゃったのかしら?」
「……おまえたち。昨日言ったように今日は、俺の家へ向かう。9:30に馬車を予約しているから、それまでにお菓子でもなんでも欲しいものがあったら買っとけ」俺はそう言って二人に1000円ずつ渡す。
「わたしパンケーキとりかえしてくるわ」
お前は何と戦ってたんだ。
「ハルトさん……ありがとう。……でもあなたもほしいものあるでしょう? はんぶんこ………しましょ。」ビリビリ……
「わたあめ。気持ちは嬉しいんだが、それ、やぶらないでくれるか」
集合場所を決めた途端、二人は売店コーナーにダッシュしていった。
まぁ、少しの間なら離れても問題ないだろう。
「チケットはおもちですか?」と馬車の馬が言った。
「あなた、おもちすきなの? わたしもよ!」
「あぁ、あるよ。大人一人に子供二人だ」俺は
三枚のチケットをさしだす。
「どうも! どうも!」馬はそれぞれのチケットを噛み歯形をつける。
「それではお入りください。どうぞ、快適な旅を」
カラカラカラ……。
馬車はアナサントリアの朝日を背に走り始めた。