聖母
昼休み、教室から食堂へ向かう外廊下を歩いている時、どこからともなく泣き声が聞こえてきた。
泣き声のする方へ眼をやると、5歳ぐらいの少女が泣いていた。
「どうしたの?」
僕が声を掛けると、泣きじゃくりながら少女が答えた。
「っえっく……おうち、わからなく……なっちゃった……」
僕がオロオロしていると、同じゼミの静が声を掛けてきた。
「あら、迷子?」
少女はびっくりして、僕の服の裾を掴んで、僕の影に隠れた。
「暁君、完全に懐かれてるわね」
静はニッコリと微笑んで少女に近づく。
「ごめんね、驚かせちゃって。お姉さん、このお兄さんのお友達だから、怖くないわよ」
少女は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。
「お名前言えるかな?」
「……いのり……」
「いのりちゃんかぁ。左腕のブレスレット、ちょっと見せてね」
静は少女の左手を握ると、タブレットをブレスレットにかざしてデータを読み込んだ。
この学院にいる人間は、生徒、職員を問わず、左腕にICチップが組み込まれたブレスレットを身につけている。
身分証明書替わりであり、財布代わりにもなる優れものだ。
「望月祈ちゃんね。そっかぁ、お家は望月寮だね」
学院には、複数の寮がある。その中でも男子の日下寮と女子の望月寮は特別で、学院が孤児を引き取り育てている場所である。
「祈ちゃん、お家に行こうか」
静が手を差し出すと、少女は首を横に振り、僕にしがみついてきた。
「あらら、私じゃ嫌か。暁君、ちゃんとお姫様をエスコートするのよ!」
「僕一人で望月寮に行けるわけないだろ!静も一緒に来てくれよ」
「しょうがないわねぇ。祈ちゃん、お兄さんと一緒に、私も行ってもいいかな?」
少女は僕の服の裾を掴みながら、こくんと頷いた。
望月寮に着くと、優しそうな寮母さんが出迎えてくれた。
「ありがとうね、祈ちゃんを送り届けてくれて」
「祈ちゃん人見知りなのに、貴方には随分懐いているみたいね。4月から学院に入学するから見かけたら遊んであげてね」
「バイバイ、祈ちゃん」
僕たちが手を振ると、恥ずかしそうに手を振り返してくれた。
それから数日後のバレンタイン。
「暁君、はいコレ!」
静が食堂で狐うどんをすする僕に、小さな箱を差し出す。
「友チョコだからね」
「友チョコと義理チョコと何が違うんだ?」
「友チョコは友達に渡すから友チョコでしょ?義理は友達でもない人にお付き合いで渡すから義理じゃないの?」
「一応友達として認識してくれてるんだ。そこはありがとうと言っておくよ」
「ええ、いつもレポート手伝っていただいていますから」
食事が終わって外廊下に行くと、祈ちゃんが紙袋を抱えて立っていた。
「あら、祈ちゃん!」
祈ちゃんの顔がぱあぁと明るくなり、僕の方に駆け寄ってきて、持っていた紙袋を僕に差し出した。
「いのりのパパになって!!」
「ぱ、パパぁ!?」
静が笑いを必死に堪えている。
祈ちゃんが泣きそうな表情をしている。
「……いやなの?」
「……せめてお兄さんにしてくれないかな?」
祈ちゃんの持っていた紙袋を受け取り、中を見る。
「クッキー食べてもいい?」
「うん!ママと一緒に作ったの!」
ママはきっとあの寮母さんだろうな。
クッキーを口に入れると、甘いココアの味がした。
「おいしい?」
「うん、美味しいよ。ありがとう」
静が祈ちゃんに聞く。
「ねえ、祈ちゃん。どうしてパパなの?」
「だって、いのりにはパパがいないから……。ずっとかみさまにおねがいしていたの」
「そしたらね、まいごになったとき、パパってこんなかんじかなっておもったの」
祈ちゃんがキラキラした笑顔で僕を見つめる。
静が僕の肩を叩き、呟いた。
「光源氏計画ね。きっと美人になるわよ、祈ちゃん」
「いや、だからお兄さんだって!僕、まだ17歳だから!!」
この日から、5歳の祈ちゃんは僕を父親代わりに慕い始めた。
それから10年の月日が流れ、僕は研究が認められ、研究者としての道を順調に歩んでいた。
2歳年下の静は、相変わらず僕の側で、僕のフォローをしながら研究を手伝ってくれている。
祈ちゃんは15歳になり、周りから一目置かれる美少女に成長し、僕の研究室でゼミ生として頑張っている。
「ねえ、暁君。今日、何の日だか知っている?」
僕と静しかいないしんとした夜の研究室の中で、静が呟く。
「そうだねぇ……金曜日だから、食堂がカレーの日、とか?」
「何よそれ……。今日はねぇ!」
僕はすっと静の目の前に、小さな箱を差し出した。
「お誕生日、おめでとう!」
「……ありがとう。開けていい?」
静が箱のリボンをほどき、中を開けると、オルゴールが流れた。
「……これ……」
僕は箱の中身を取り出し、静の左手の薬指にはめた。
「僕と、結婚してほしい」
「……はい、喜んで!」
ぱちぱちぱちと、拍手する音が聞こえた。
二人ではっとして振り返ると、祈ちゃんが立っていた。
「……ごめんなさい、忘れ物取りに戻ったら……おめでとうございます!」
涙を堪えてる祈ちゃんは、慌てて机の上のファイルを掴むと、足早に研究室を後にした。
「暁君、追いかけて!」
静が僕の背中を叩く。
静も知っていたんだ、祈ちゃんの気持ち。
研究室が並ぶ廊下を抜けた先にあるラウンジで、祈ちゃんは一人泣いていた。
「ごめん、祈ちゃん」
「何で先生が謝るの?」
「……ごめん」
「この涙はね、嬉し涙なんだよ?大好きな二人が結婚するんだもん。嬉しいよ……」
祈ちゃんの涙は止まらない。僕は祈ちゃんの頭をポンポンと撫でた。
「先生は、ずっと私のパパとして接してくれたもん。私のこと、ずっと子供扱いしてたよね……」
「ごめん。祈ちゃんは妹のような大切な存在だよ。それ以上でも、それ以下でもない」
「じゃあ、これで許してあげる」
祈ちゃんは、僕の唇にキスをした。
「ちょ……祈ちゃん!?」
「私のファーストキス、先生にあげる!」
「大人をからかうんじゃない!」
「……本気だよ。静さんは大好きだけど、私も先生大好きだから!」
祈ちゃんがいたずらっ子の笑顔で微笑む。
その日の夜、家に帰ると、静が合鍵で先に部屋に入って夕飯の準備をしていた。
「ただいま」
「今夜はご馳走よ!何たって私の誕生日なんだから!」
「……ごめん、高級レストランに連れて行ってあげられなくて」
「このダイヤの指輪で十分よ」
静がウインクしてみせる。
2人で夕飯を食べながら、話題は自然に祈ちゃんのことになる。
「大丈夫だった?祈ちゃん」
「……キスされた」
「馬鹿正直過ぎるわよ!そこが暁君の良いところなんだけど……」
「でも、好きなのは静だけだから!」
「ありがとう。……これはね、私の賭けだったの」
静は真っ直ぐ僕を見つめる。
「暁君の気持ちも知ってる。でも、祈ちゃんの気持ちも分かるから……祈ちゃんなら、負けても仕方ないなって思ってた。光源氏計画、見事に成功してるしね」
「誰が光源氏だよ……」
僕は大きくため息をついた。
1年後、僕と静の間に、男の子が生まれた。
祈ちゃんは自分の弟のように、とても可愛がってくれた。
「二人に似て、金髪青眼ね。私は茶髪で天然パーマだから、静さんのような金髪ストレートに憧れるな」
「あら、私は祈ちゃんのお人形さんのような容姿、とても可愛くて大好きよ」
「先生、私ね、彼氏が出来たの。今度連れてきてもいい?」
思わず飲んでいた珈琲を吹き出しそうになった。
「あら、娘が彼氏を連れて来ると言い出したから、動揺しちゃったのね」
息子の旭をあやしながら、静が僕を見てニヤリと笑う。
「彼はね、先生に似て、頭が良くて、優しくて、金髪青眼で……」
「……わかったから、今度連れておいで」
「良かったわねぇ、祈ちゃん」
「はい、静さん」
3年後、研究室で祈ちゃんと2人きりになった時、祈ちゃんが話を切り出した。
「あのね、先生。私、妊娠したの。勿論彼氏の子だよ、安心した?」
「安心も何も、僕は全く君に手は出していないよ」
祈ちゃんの携帯電話が鳴る。
「はい、……嘘ですよね?嘘……」
祈ちゃんが泣き崩れる。
携帯電話が手から滑り落ち、電話相手の声が聞こえる。
僕は携帯電話を拾い上げ、代わりに電話に出る。
「お電話代わりました、永峯です」
「……はい、わかりました。望月を連れて行きます」
電話は病院からだった。
祈ちゃんの彼氏が、事故で即死だったと。
泣き叫ぶ祈ちゃんをなだめながら、僕たちは病院に向かった。
葬儀中も、その後も、1ヶ月ぐらい祈ちゃんは抜け殻のようになっていた。
僕と静が見ていなければ、そのまま消えてしまいそうなぐらい憔悴しきっていた。
それでも、お腹の赤ちゃんは順調だった。
祈ちゃんがずっと憧れてた家族は、まだ消えていなかった。
「祈ちゃん、お腹の中の子は……」
「……私、産みたいの。先生、応援してくれる?」
「ええ、勿論。私がサポートするわ、いいでしょ、あなた」
「二人がそういうなら、僕からは何も言うことはないよ」
半年後、可愛い女の子が産まれた。
名前は光。祈ちゃんに頼まれて、僕が名づけ親になった。
それからわずか1年後、何故か望月寮から祈ちゃんに連絡があった。
この世界には、3つの世界がある。
天使が住む天界、悪魔が住む魔界、その間にある人間界。
天使や悪魔は犯してはいけない領域ということで聖域と呼ばれる。そして、この学院は聖域にある。
3つの世界はそれぞれの世界の女神が支える道がないと行き来できないようになっている。
女神は、神殿内にある特殊な部屋で祈り続け、自らの力がなくなるまで、半永久的に年を取らないという。
望月寮は、女神の候補生を探す為の寮であるという噂は聞いていたが、まさか本当だったとは……。
「先生、光をお願いします」
祈ちゃんが静に子供を預けた。
「本当に、女神になるのか?君じゃなくてもいいだろう」
「光が、彼に似て金髪でよかった。これなら、先生にパパになって貰えるね」
「君は、自分の娘まで、僕をパパと呼ばせるのかい?」
「おじいちゃんよりはマシじゃない?」
静が突っ込む。
「先生、最後まで私のパパでいてくれてありがとう」
祈ちゃんは、僕の頬にキスをした。
僕が彼女に会ったのは、これが最後だった。