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透明な檻の魚たち

作者: 栗栖ひよ子

 県立の進学校であるこの高校の制服は、とても地味だ。紺色のダブルボタンのブレザーに、ボックスプリーツのスカート。男子は詰襟の学生服。

 靴下や鞄、コートやセーターは自由ということになっているけれど、あまり派手だと咎められる。

「うちの学校は進学校だけど、自主性を重んじているから。こんなに自由な学校、他にないでしょう?」と教務主任は自慢げに語ってくれたけれど、それはある程度決まったかたちの中での「自由」だ。


 水族館で、群れをなして泳ぐ回遊魚の姿を見たことがあるだろうか。たくさんのイワシたちが、まるでイリュージョンのように一斉に動く。高校生は、大きな水槽の中で泳ぐたくさんの魚たちによく似ている。

 犬のように鎖でつながれているわけではないし、ライオンのように狭い檻に閉じ込められているわけでもない。水槽は、魚の大きさと比較したら巨大だし、魚たちは窮屈することもなく悠々と泳いでいるように見える。

 でも魚たちはとっくに気付いてる。あの透明な壁のむこうには行けないこと。

 少しの不自由を、「生徒の自主性からの自由」と置き換えたコトバ。中にいると境界線が分からなくなる透明な水槽。このふたつは、とてもよく似ている。

 はちきれそうになる熱情や、説明のできない感情や、将来への不安。まだ折られたことのない自尊心。そんなものを制服に包まれた身体に隠して、彼らは毎日、与えられた水槽の中を泳いでいる。


 少年と少女では、成熟する速さに差がある。女子は中学校で成長期を終え、高校生になるころにはほとんど身体ができあがっているのに、男子は成長期のアンバランスさを伴って高校に入学する。

 成長期は始まったけれど終わっていない、半端に伸びた手足。声変わり途中の、独特のアルトの声。

 そんな男子たちが、私は学生時代から苦手だった。嫌悪していたと言ってもいい。

 成長期特有の熱気が、教室に充満すると息苦しくなった。ほこりっぽい教室の中、汗臭いような匂いが、つんと鼻につく。

 高校に入ってしまえば、三年間の間で男子の身体はほとんど大人へと成長を終える。その微妙な時期の、顔はつるんとしていて頬のラインも幼さを残しているのに、身体の大きさだけは一人前なアンバランスさが、私は苦手だった。

 女の子に親切にすることや、紳士のふりをすること。多少の大人の振る舞いを覚えても、見え隠れする幼稚な行動と言動。

 それをあんなに嫌悪していた私が、学校司書になるなんて、自分でも意外に感じる。この学校を卒業するときは、この場所に戻ってくるなんて、考えてもいなかったのに。

 水槽の底に潜ったような静寂に満ちた、この図書室に。

 本当は、恐れていたのではなく、憧れていたのかもしれない。閉鎖された水槽の中で、すくすくと手足を伸ばす彼らを。

 

 廊下や教室では縦横無尽に泳ぎ回る魚たちも、この場所ではじっと静かに座って、勉強をするか本を読んでいる。

 それを見ていると、回遊魚が深海魚になってしまった気がして、少し面白い。

 刺すような寒さが、コンクリート作りの校舎にはきびしい、二月のこの時期。三年生は自由登校が始まり、学校全体が受験ムードでぴりぴりしていた状態を、やっと抜け出せたころ。でも、受験生本人たちの本番は、これからなのだ。

 私立の指定校推薦が決まっていれば、センター試験にも私立受験にも心をわずらわせることなく、学校での卒業アルバム製作や、家での大学準備に当てられる、ある意味贅沢な時間。

 しかし、ほとんどの生徒が国立大学を受験するこの高校では、そんな生徒はほんの一部しかいない。自由登校になっても、学校の図書室や学習室に通って勉強している生徒がほとんどだ。

 テスト前にしか満員にならない図書室が、普段だったら授業で誰もいない時間に満員という見慣れない風景。毎年、自由登校が始まってしばらくは、この光景に落ち着かない気持ちになるけれど、いつもすぐに慣れる。

 図書室にいる生徒が増えたからといって、本を借りる生徒が増えるわけではないし、私はいつも通り業務をこなせばいいだけ。

 ――でも、今年はちょっと違っていた。

 窓際の長机、一番奥の目立たない席。そこに座っている彼は、参考書に目を落とすでもなく、数式を解くでもなく、ただ真剣に、一冊の本を読んでいた。

 ぴんと伸びた背筋。本は机には置かず、古文を読み上げる国語教師のように胸の前で持ち、静かにページを捲っていた。

 背は高いけれどバランスの良い身体つき。目立つわけではないけれど、整った顔立ち。丁寧に梳かされた猫のような、まっすぐな髪の毛。崩さずにぴしっと着ている制服。

 普通に考えれば、必死で追い込みの勉強をしている生徒の中、ただ本を読んでいるだけの生徒がいたら、妬みややっかみの対象となると思う。

 しかし彼の姿は、そこにいる誰もが気に留めていないように見える。「彼がそこにいる風景」として完成されてしまっているように。

 それは彼の見た目がいいから女子に容認されている、というわけではないだろう。たぶん。

 彼のあまりにも静かで、そして真剣なその姿に、みんな仙人じみたものを感じているからだと思う。

 読経をする僧侶のごとく、達観した者だけが醸し出すある種の雰囲気。彼からはそれに近いものを感じた。

 彼が読んでいるのは、般若心経でもコーランでもなく、文学小説だけど。今日は、ハードカバーの「指輪物語」だった。

 変わった生徒だな。私の彼に対する感想は、それくらい。彼に話しかけられるまでは、それ以上の興味なんてなかった。


 ウェストミンスター・チャイムが、とっぷり陽の落ちた校舎に響き渡る。それに続いて、「校舎に残っている生徒は速やかに下校しましょう」と言うお決まりの校内放送。

 図書室に残っていた生徒たちは、その放送を待っていたかのようにそそくさと帰り支度を始めた。

 通学バックに勉強道具をつめる彼らはみんな無言で、この大事な時を一分一秒でも無駄にできない、という気迫と真剣さが伝わってくる。

 貸出口のあるカウンターに立つ私に「さようなら」と頭を下げて帰る生徒たち。私も挨拶を返すけれど、「気を付けて帰るようにね」以外の言葉がみつからない。そのたびに胸がぎゅうっと締め付けられるように痛むのは、どうしてだろう。表情のこわばった、苦しいのを我慢しているような生徒が多いからだろうか。昔、自分もそんな表情を鏡の中に見たからだろうか。

 春になれば、ここにいる生徒たちも受験から解放されて巣立っていくのに。親鳥、もしくは水槽の中にいるうちだけの親魚だと思っているのだろうか。教員でもない、彼らを救ってあげる手段も持たない自分のことを。だとしたら、ひどい欺瞞だ。

 生徒がいなくなり、最後まで残っていた図書委員から日誌を受け取ると、入り口のドアにかかっているプレートを「閉館」にした。そのあと、司書室に引っ込んで今日の仕事をまとめる。

ここまではいつも通り。でも、いつもならかからない声が、貸出口のほうからかかった。

「あの、すみません」

 カウンターのほうを見ると、図書委員はすでに帰り支度をすませて出て行ったようだ。一冊の本と鞄を抱えて、所在なげに佇む彼は、「指輪物語」の男子生徒だった。

 まだ残っていたのか、と心の中でびっくりする。彼がまだ図書室内にいるなら、私だって図書委員だって気付きそうなものなのに。彼はそこまで、存在感が希薄なわけではない。

もしかして、あまりに図書室にいる風景に溶け込んでしまっているため、誰も気にしなかったのだろうか? そんな馬鹿な。

「ちょっと待ってね」

 と声をかけてカウンターに向かうと、彼が申し訳なさそうな声色で疑問の答えをくれた。

「すみません。本棚を物色していたら、いつの間にか誰もいなくなってしまって」

 私はそれで、本棚の間にいたから分からなかったのね、と納得する。この図書室は自習スペースを多くとっているせいか、背の高い本棚は隅に追いやられ、人ひとりとすれ違えるくらいのスペースで、ドミノのように等間隔に並んでいる。

 それにしても、初めてしみじみと聞いた彼の声は、予想していたよりも落ち着いていて驚く。穏やかな、甘い、と表現してもいいテノール。抑揚の使いかたなどは、もう大人のそれだ。

 この子は女子生徒に人気があるだろうな、と勝手に思う。おとなしい生徒は、学校という場所ではたいがい目立つことのないものだけれど、彼には「おとなしい」を「大人っぽい」に変えてしまう余裕があった。

「借りて帰るなんてめずらしいのね」

 彼はいつも読み終わった本を丁寧に戻し、帰宅していた。一冊か、日によっては二冊、読み終えた段階で帰るようで、閉館時間まで残っていることのほうが珍しいと思う。

「一日でギリギリ、読み終わらなかったんです。あと少しなので、借りて帰って家で読んでしまおうと思って。そうしたら明日は、別の本を読めるので」

 なるほど、と頷いてみせる。彼の持っている「指輪物語」は、シリーズ最後の「王の帰還」だった。文庫だと上下巻に分かれているところがハードカバーだと一冊にまとまっているので、かなり分厚い。加えて、ファンタジーの専門用語が多いから慣れていない人は読むのに苦労する本だ。

 それを一日で読んでしまうなんて、彼が本を読むことに慣れている証拠でもある。

「一冊でいいの? 他にも本を探していたんじゃないの?」

「ついでだから、他にも借りていこうと思ったのですが。やっぱり、ここで読んだほうがいい気がして、やめました」

 ここで読んだほうがいい、とはどういう意味だろう。借りて帰る手間と、図書室まで通う手間とを考えたら、借りて帰るほうがはるかに楽だと思うのだけど――。

 私が、思わず怪訝な顔をしてしまったせいだろうか。とりなすように、やや早口で彼が言った。

「あの、良かったら、先生のおすすめの本を教えてくれませんか。明日はその本を読もうと思います」

 訊かれたくないことを、わざわざ訊ねるような野暮な真似はしない。案外、図書室に勉強をしに来ている女子生徒に好意を寄せている、とか、そんなことなのかもしれない。もしかしたら、友達には秘密で付き合っているのかも。

 真剣に本と向き合っているように見えた彼と、この発想はボタンを掛け違えたようにちぐはぐに思えたけれど――、これ以上追及はしないという証拠に微笑んで、彼の手から図書カードと本を受け取った。

「児童文学が好きなの? それとも、ファンタジー?」

 指輪物語に、ピッとバーコードを読み取らせながら訊ねる。昔の図書室といえば手書きの貸し出しカードだったけれど、今はほとんどの高校が市立図書館のようなバーコード式になっている。管理はしやすくて、生徒数の多い高校にはこちらのほうが向いているけれど、私は手書きの貸し出しカードも味があって好きだった。

「うーん、児童文学もファンタジーも好きですが、特別好きというわけじゃないんです。ただ、いろんなジャンルを読みたいだけで。雑食……なのかな」

 指輪物語は、映画を見ている友達はいても、シリーズを全部読破している子はいなかった。最後まで読むのは、よほどのファンタジー好きか本好き、と思っていたのだけれど、彼は後者ということだろうか。

 私は、彼に返す前に図書カードに目を落とす。厚紙をパウチしただけのカードに書いてあった名前は、「三年六組 一条(いちじょう)透哉(とうや)」。文学少年に似合いの、涼やかな名前。自分の名前は平凡なので、少しうらやましくなる。

「いろんなジャンルの本が読めるなんてすごいわね、私なんてどうしても、好きなジャンルとか、好きな作家さんの本に偏ってしまって。就職してからなんて、あまり読書の時間がとれないから、お気に入りの作家さんの新刊を追いかけるだけになってしまったり。……そんな私のおすすめでいいのかしら」

 最後は独り言のようにつぶやいた私を見て、なんだそんなことか、というように彼――一条くんは笑った。

「たぶん、僕の知り合いの中では先生が一番、本を読んでいると思います。いつも楽しみにしているんですよ、司書だより」

 はじめて、高校生らしい無邪気で楽しそうな口調で紡がれたその言葉に、私は面食らった。

「えっ……読んでくれてるの。あんな面白みもない新聞……」

「そんなことないですよ。トールキンだって、司書だよりに書いてあったから読もうと思ったんです。ちゃんとおすすめされていた通り、ホビットの冒険から入ったんですよ。最初はこんな長いシリーズ無理だと思ってたんですけど、ホビットの冒険を読んだらはまってしまって」

「そう……そうなの」

 思いがけない言葉に、胸が熱くなるのを感じた。司書だよりは、図書委員と一緒になって毎月発行している新聞のようなもので、各クラスに一枚ずつ配られている。個人で欲しい人は図書室に置いてある中から持って行っても良いとしてあるが、正直、減りはほとんどない。だから楽しみにしてくれている生徒がいるだなんて、今まで思ったこともなかった。

「司書のおすすめコーナーに載っていた本は、ほとんど読みましたよ。どれも外れがなかった。さすが司書の先生ですね」

「ありがとう。実は司書だよりの感想を生徒にもらったのは初めてなのよ。……嬉しいわ」

 大げさではなく、本当に嬉しかった。読者がいるのかどうかも分からず、教室に貼られても色褪せて翌月には取り外される紙切れを見ていると、こんなもの発行しても仕方ないんじゃないか、という気持ちに駆られることもあった。

 それでも続けてこられたのは、本が好きだからと、自分が好きな本を誰かに読んでもらいたい、そして本を好きになる生徒が一人でも増えたら――、そんなささやかな願いを持っていたから。

 だから、紙面の四分の一を占めている本や作家の紹介は、毎回丁寧に作っていた。図書室の新刊の紹介や、図書委員からのお知らせの欄はパソコンで作っていたけれど、そこだけは手書きで描いていた。本屋さんにあるポップと同じで、ワープロの文字よりイラストを添えた手書きのほうが、不思議と人の目に留まるものだから。

 私がお礼を言うと、一条くんは歯を見せて笑った。笑うと顔のラインが幼くなり、少年ぽさが際立った。大人っぽく見えても高校生なんだ、と感じた。

 その若さがこんなふうに、急にまぶしく思えるときがある。それは突然訪れるから、とっさに手で遮ることもできず、陽射しに目を細めるしかない。彼らは季節で言ったらきっと夏だから。夏の陽射しは、避けて通るより全身に浴びてしまったほうが楽だし、気持ちいい。私のような職業にいるなら、なおさら。

「おすすめの本、ね……。どうしようかしら」

 指輪物語とカードを一条くんに返し、私は真剣に悩んだ。

 こんなに真剣に本と向き合っている生徒なんだから、私も真剣に選んであげたい。今まで司書だよりには紹介していない本で、一条くんが興味を惹かれそうな本。

 だいたい私は、人に本を紹介するときや貸すときに、必要以上に悩んでしまう性質なのだ。自分が面白いと思って貸した本でも、相手がイマイチと感じることだってある。そうしたら、相手だって感想を言うときにこちらを気遣ってしまうし、それに気付いてしまったら(たいていは相手の煮え切らない口調で気付いてしまうのだけど)、自分の好きな本が相手には気に入られなかった事実に、軽く落ち込んでしまうのだ。作者でもないのに。

 まわりの親しい友達は、私の読書好きを知っていて、「映画化されたアレの原作、持ってる?」などと頻繁に訊ねてくる。そういう場合は楽だ。相手が読みたがっていることがはっきりしているんだから、相手が読むのが楽しみだと思えるように、もしくは途中で挫折しないように、おすすめポイントをいくつか挙げてから貸せばいい。

 親しい友達なら、おすすめの本を貸してと言われても、その友達の性格や本の好みを把握していれば、「これは好きそうだな」とアタリをつけられるから問題ない。

 でも、一条くんの場合。彼の性格も分からない。本の好みも分からない。好きなジャンルは特になし。――これではさすがに頭を抱えてしまう。

 比喩ではなく本当に頭を押さえてしまっていたようで、一条くんが慌てた様子で口を開いた。

「あの、そんなに悩まないでください。そんなに大げさに考えなくても大丈夫ですから。……それとも、余計なこと頼んじゃいました? すみません」

 最後は本当に気遣う口調になって、カウンター越しに心配そうな顔で私を覗きこんでくる。

「ううん、違うのよ、大丈夫。ちょっと真剣に考えてみたかっただけだから。ほら、司書としての威厳もかかっているしね」

 冗談めかして答えると、ほっとしたのか、やっと一条くんは肩の力を抜いた。

 指輪物語を鞄にしまいこむ一条くんを見ていたら、一冊の本が、頭の中で豆電球が灯るようにひらめいた。

「あ、あの本なら……」

 そうつぶやいたとき、一条くんがぱっと顔を輝かせた。

「どの本です?」

 期待を込めたまなざし。瞳がきらきらしていることに、本人は気付いているのだろうか? 私はいつも、生徒に伝えたくなることがある。クールで、無関心ぶっているのがかっこいいと思われがちだけど、本当は逆で、何かに夢中になっているときのあなたたちのほうが、ずっとずっと魅力的なのよって。

「指輪物語には、追補編があるのを知ってる?」

 私は、カウンターに預けていた体勢をこころもち立て直して、切り出した。

「追補編……ですか?」

「そう。今あるファンタジーの礎は、ほとんどトールキンが築いたって言われているけれど……。指輪物語に出てくるファンタジー用語なんかがね、解説されている本なの。ファンタジーの教科書みたいなものかな。これがあれば、他のファンタジーを読むときにも役立つと思うわ」

「へえ、読んでみたいです。僕はあまりファンタジーの知識が深くないので、指輪物語を読んでいても想像しにくい箇所があって。もっと世界観に入り込むことができたら、もっと面白く読めたのかなって思っていたんですよ」

「だったらすごくおすすめするわ。私にとってもファンタジーの教科書だもの」

 思わず熱く語ってしまったけれど、一条くんが乗ってきてくれたので嬉しくて、顔がぽかぽかしてきた。しかし、ふと重要なことを思い出し、今度は急に、声のトーンが下がってしまった。

「……あ、でも、ダメだわ。図書室には置いていないの」

 せっかくのひらめきが消えてしまって、私は肩を落とした。なんでこんな一番大事なことを忘れていたのだろう。

「そうなんですか、残念です」

「良かったら、私の持っている本を貸しましょうか?」

 一条くんの沈んだ顔を見ていたら、ごく自然にその言葉が口をついて出た。

「えっ、いいんですか?」

 驚いた声を出す一条くんを見てはじめて、自分が何を言ってしまったのか気付いた。

「え、ええ……。もちろんよ」

 無意識だった。生徒と個人的な関わりを持たないこと、なぜなら贔屓だととられてしまうから――は、赴任したとき教務主任に口をすっぱくして言われたことだった。

 だからなんでこんなことを言ってしまったのか、自分でも分からなかった。けど、こんなに本を読みたがっている生徒に本を貸すことが、悪いこととも贔屓だとも思わない。それは確か。

 だったらいいじゃない、と思った。見つかって注意されても、べつにかまわない、と。だって私はなんのために学校の図書室にいるの? 私が司書になった理由って、なんだっけ?

 就職してから、「学校」の型にはまるように生きてきた。学生時代は染めていた髪を黒く戻して、地味な色のスーツ、ストッキングで「司書の先生」を精一杯演じて。

 でも、バレッタで留めた髪は窮屈で、ベージュの口紅だって全然似合ってない。本当はまだ慣れない、生徒に対するときの言葉遣い。そんなちいさなほころびを見ないふりするたび、家でのため息が増えていった。

 はじめて、「自分」が出せたかもしれない。型にはめた「司書の先生」としてではなくて、はじめて今、自分の言葉でしゃべってるって、そう思った。


 アパートのドアに鍵を差し込み、開ける。ほとんど無意識にこなすようになってしまった作業。暗い玄関で、つま先が痛くなったパンプスを脱ぐことも、窮屈なストッキングを、部屋に入る前に洗濯籠に放り込むことも。

 いつもは疲れた息を吐きながら部屋に入るけれど、今日はどうしてだか、肩にかけた鞄の重さをあまり感じなかった。

 一条くんとは、明日その本を持ってくることを約束した。肩の力が抜けた原因は、彼と話したからかもしれない。

 私はどこかで生徒との間に、壁を作っていたような気がする。それは生徒のことを「生徒」というくくりでしか見ていなかったからだ。生徒一人一人を「個人」として見ることができなかった。自分が未熟だったせいで。

 でも今日、一条くんのことを「生徒」じゃなくて「一条透哉」という一人の男の子として見て、話すことができた。それはとても楽しいことで、それだけで自分が、明日から変われるような気がした。

 私の見えない壁を取り払ってくれたのは、彼の言葉だった。

 文庫本やハードカバーがぎゅうぎゅうに詰まった雑多な本棚から、指輪物語の「追補編」を抜き出して、積もっていた埃を落とす。明日この本を一条くんに渡すことを考えると、なんだかわくわくした。

 それは、学生時代に忘れてきてしまった、恋に似ていた。


 次の日、一条くんは図書室に来ていなかった。

 彼はもともと、受験勉強組ではなかった。ということは、私立の推薦入試に受かっているということなのだから、自由登校のこの時期、学校に来る必要なんて最初からないのだった。

 なのに。なのに……、なんだか無性に気になってしまう。彼は、約束したからには今日必ず、本を取りに来ると思った。一条くんのことなんてよく知らないけれど、そういう約束は真面目すぎるくらいに守りそうに見えたから。

 それとも彼は、本を貸すことなんてそれほど、大事な約束だとは思っていなかった……のかもしれない。

 私は、がっかりしているのだろうか。なんでこんなに、もやもやした気分になってしまうんだろう。「渡せなかったら渡せなかったで、いいじゃない」と割り切ることのできない自分に戸惑っていた。

 私は一条くんに、特別な親しみを感じてしまっている? いや、それはないはずだ。ないはずだ、と思いたい。いくら彼のことを、生徒としてでも――特別に思ってしまったら、卒業したときにきっと寂しくなる。それは避けたかった。桜の季節に寂しくなるなんて、学生時代だけで充分だった。

 だけど、一条くんとの会話は楽しかった。職員室で交わされる、社交辞令的な世間話より、よっぽど。

 だからきっと、こんな気持ちになるのも、私が寂しい人間だからなんだ。退屈な日常の中で、久しぶりに仕事以外の会話を交わせたのが嬉しかった。それだけのことなんだ。

 私は、一度カウンターに置いた本を自分のデスクの上に置いて、毎日の単調な業務に集中した。


 帰りの放送が鳴って、生徒たちが帰り支度を始める。私はカウンターに立って、いつも通り生徒たちを見送る。

 生徒たちが帰り終えたら、図書室のドアのプレートを「閉館」にして、そのあとはやり残した仕事を司書室でやって行き、適当なところで帰る。

 いつも通りの作業。今日は仕事があまり残ってないから早く帰れるわ――と思いながらドアのプレートを手に取った、そのときだった。

「先生!」

 息せききった声が図書室の前の廊下に響いて、私は声の方向を振り向く。

 そこには、夕陽を背中にしょって、肩で息をしている一条くんの姿があった。走ってきたのだろうか。制服とコートは、彼らしくなく乱れていた。

「一条くん……? どうしたの、こんな時間に」

 教室や部活棟から出てきて下駄箱に向かう下級生たちが、図書室の前でぼうっと立つ私たちをいぶかしげな目で見て、通り過ぎる。

「本を……、約束した本を、借りに来ました」

 一条くんは約束をすっぽかしたりしない性格だとは思っていたけど、こんな展開は予想外だ、一体、どうしたと言うんだろう。

「もう、下校時刻よ?」

 この状況に半ば苛つき、私はたしなめるように言った。

「今日、病院に行っていたんです。僕はただの風邪だから大丈夫だと言ったのですが、母がインフルエンザを心配して」

 インフルエンザ。学校でも何人か休んでいる生徒がいる。一条くんは受験が終わっているといっても体調を心配するのは普通のことだろう。私はせかすように訊いてしまう。

「それで、どうだったの?」

「ただの風邪でした。でも、検査なんかをしていたらこんな時間になってしまって……。病院から走ってきたんですよ。本当は図書室が閉まる前に来たかったのに」

 言いながらも、はあはあと大きく息をしている。いつもはまっすぐな前髪が乱れて、汗でおでこに張り付いている。

 私はほっとして、胸をなで下ろした。

「ただの風邪でも、走って無理をしてはダメよ。本なんて、明日でも良かったのに」

「でも、先生が、待っていると思ったので」

 おでこに張り付いた前髪をかき上げながら、一条くんは言った。

 自分が今日一日、一条くんが来るのを待っていたことを見透かされたみたいで、居心地が悪くなった。思わず、足元に目線を落とす。

「……もう、閉めるところだったんだけど。本、司書室のデスクの上に置いたままなの。ここで立ち話もなんだから、入りましょう」

 これ以上、ここで好奇心に満ちた視線にさらされるのに耐えられなかった。

 不自然な間のあと私がそう言うと、一条くんは呼吸を整えて頷いた。ドアのプレートは、少し迷った末、「閉館」のままにしておいた。


「はい、これ」

 一条くんを司書室まで誘導すると、デスクの引き出しに入っていたお菓子の紙袋に入れて、本を手渡した。

 壁の部分がガラス張りになっているので、図書室からも司書室は覗くことができるし、私がここにいても図書室の様子は観察することができる。外から見ていても入ったことはなかったのだろう。私のデスクやパソコンに、一条くんは興味深そうに目を走らせていた。

「ありがとうございます。けっこう、分厚いですね」

 一条くんは紙袋を覗きこんで表紙を確認している。

「一気に読むような本じゃないから、気が向いたときに少しずつ読むといいわよ。本は、卒業式までに返してくれればいいわ。卒業式が終わってからも受験の手続きとかで学校に来る生徒はいるけれど、一条くんは私立に受かっているんでしょう?」

「ええ、指定校推薦で。どうして分かったんですか……って当たり前か。受験が終わってなかったら、のんきに読書なんてしてませんもんね」

 自嘲するような笑みを浮かべて、紙袋をひょいと持ち上げてみせる。指定校推薦だからといって誰もとがめないのに、本人たちには、自分たちだけ楽をしてしまっているという罪悪感がある。私も大学は推薦だったから、彼があいまいに微笑む理由がよく分かった。

「やっぱり、文学部なの?」

 これだけ本が好きなら、他の学部に進むのがかえって不自然なくらいだ。

「そうです。国文科で。文学部なんてつぶしがきかないからやめろって、まわりには言われたんですけどね。僕は文学が好きだし、他のものを勉強しろって言われても、ピンとこなくて。だったら好きな分野を極めたほうがいいと思ったんです」

 私も文学部に進路を決めたとき、親に同じことを言われた。文学部になんて行って、就職口はあるのか、と。でも、文学部に進んだ学生はそれをよく分かっている。だから在学中、他の学部生よりも努力をするのだ。

「私も文学部卒だけど、在学中に資格を取る人が多かったわね。教員とか、学芸員とか、司書とか。私もそのクチなんだけどね」

 資格を取るとなったら、よち多く講義を取らなければいけないから、たくさん資格を取る学生ほど大変だ。私は教員免許と司書資格を取ったから、結構忙しかったかもしれない。それでもまだ、理系のハードさに比べたらマシに思えるけれど。

「そうなんですか。ちょっと安心しました」

「受験が終わっても、すぐに就職のことを考えなければいけないなんて、大変ね」

「そうですね。でもまあ、こんな時代に生まれてきてしまったんだからしょうがないです」

 一条くんは肩をすくませる。困ったように笑ったその顔を見ていると、一条くんはどんな時代に生まれても、障害が少ない人生をすたすたと歩いていくんだろうなあ……と思った。

 他人にそういった印象を抱かせるそつのない人間というのはたまにいる。一条くんもそうなのだろう。世渡りがうまくて、器用。

 でもそんな人間がどうして、非生産的なことを毎日しているのかが気になった。

「ね、ひとつ訊いてもいい?」

「はい、なんですか?」

「どうして一条くんは図書室に通っているの?」

「あー……、それは」

 一条くんは口ごもり、頭をかきながらあさっての方向を見た。やっぱり、訊いてはいけないことだったのだろうか。

「ごめんなさい、余計なこと訊いちゃったわね。忘れてちょうだい?」

「あ、いえ! 違うんです。言ったら、笑われるんじゃないかと思って……。だから今まで、誰にも言ってなかっただけで」

 慌てて顔の前で手を振る一条くんを前に、私はきょとんとした。

「彼女か好きな子が、図書室に通っているのかと思っていたんだけど」

 一条くんはますます慌てた様子で言う。

「ま、まさか! 彼女なんているわけないじゃないですか」

「そんなことないわよ。一条くんはモテそうだし、彼女がいないことのほうが意外だわ」

「そんなことないですよ……」

 と一条くんは頭を落とす。

「進学校では、僕みたいなやつはモテないんですよ。女子だってつまらないでしょう、僕なんかと付き合っても」

「そうやって自分を卑下するのは良くないわ。私は一条くんとの会話、とても楽しいわよ?」

 怒られた子犬もようにしょげ返っている様子の一条くんを見ていたら、つい本音が出てしまった。一条くんははっと顔を上げて、

「ありがとうございます……」

 と、はにかんだように言った。

「僕が、図書室に通っているのは」

 ふ、と一息ついたあと、一条くんは図書室のほうを見て話し始めた。

「この図書室にある本を、卒業までに全部読みたいからなんですよ」

 私は、その言葉に驚きを隠せなかった。なにか言おうとして、なのに言葉が出てこなくて固まってしまう。一条くんは、図書室のほうを見ているから気付かない。

「入学したときに、決めたんです。ここの本を、在学中に全部読んでやろうって」

壁際にドミノのように並んだ本棚、中央に置かれたいくつもの長机と椅子。本を読むことよりも学習することに重きを置いた図書室。なので、蔵書はさほど多くない。

 そこに並んだ意思を持つ紙たちは、何百か、何千か。三年あると思えば無茶な数ではない。一日一冊読めば、三年で千冊を超えるんだから。

「そのときは、三年あれば楽勝だ、なんて思っていたんですけど。毎日読むって目標もなかなか達成できなくてサボってしまったりして。結局、卒業間近になって慌てることになってしまったんですよ。それが僕が、図書室に通っている理由です」

 だけど、一日一冊といったらかなりのペースだ。楽しいことが他にもたくさんある高校時代で、わざわざそんな挑戦をする変り者がどれだけいるだろうか?

「だったら、何冊か借りて帰って、家で読んだほうが早いんじゃないの? あなたはもう、自由登校なんだし」

 やっとのこと、平静を装ってそれだけ言えた。鼓動の高鳴りも、だんだん治まってきている。

「ええ。実際今までは、借りて家で読むことのほうが多かったんですが……。なんだか、もう卒業ってなると、この図書室で本を読むこともできなくなるんだなあって。本だけだったら、本屋でも同じものは買えるし、図書館にだってあるでしょう? でも、ここで本が読めるのって、今だけなんだなあって考えたら」

 少しでもここでの思い出を作りたくて、と一条くんは優しい声でつぶやいた。今までの学校生活の思い出を愛おしむかのように。

 私も呼吸を整え、気持ちが乱れているのを悟られないように話をつないだ。

「驚いたわ。実は私、この学校の出身でね。私も入学したときに同じことを考えたのよ。卒業まで全部の本を読みきるんだって。まあ、私の場合は成功しなかったんだけど」

 そう、今まで誰にも言わなかった、私の挑戦。そして、成功しなかったその挑戦を、私は今でも続けている。誰にも言わなかったし、そんなことをやっている人がほかにいるなんて思いもしなかった。

 だから、一条くんの次の言葉は、さっきの言葉よりももっと、私を固まらせた。


「先生はもしかして、ここの本を読みきれなかったから母校の司書になったんですか?」


 日曜日。吐く息が白くなる寒さの中、ひょっこり顔を出した、つかの間の春の陽気。私は家からほど近いショッピングモールに来ていた。

 洋服店も、大きな本屋さんも、映画館もある、今はやりの複合型ショッピングモールだ。スーパーやレストランもあり、ここに来れば一日つぶせることから、私はよく一人で休日に来ていた。

 ここで一日を過ごすうちの大半は、本屋での物色・立ち読みに占められ、残りの時間は適当に、観たいものがあったら映画を観る、洋服をウインドウショッピングする、という感じだった。

 恋人もいない、趣味もインドアなさびしい公務員の休日なんて、こんなものだ。でも私はこういった休日が好きだし、満足している。わざわざコンパに出かけたり、異性と出かけたりしてこういう時間が減るのだったら、いっそのこと恋人はいなくてもいい、とまで思っている。

 自分でも、その考えかたは末期だぞ、まずいぞ、とは思っているのだけど。どうも私は、二十代半ばになっても結婚願望がなく、危機意識がうすい。

 ひとりで本を読む時間を尊重してくれる相手がいればいいけれど、そんな人、いるのかしら……。探しもしないで、そんなふうに決めつけている自分は、はっきり言ってしまえば恋愛が億劫なのだと思う。

 大学時代に、彼女がいた同級生と大恋愛をし、その結果付き合うことになっても様々な弊害があった。前の彼女との人間関係とか。その結果サークルに身の置き場がなくなったこととか。別れても前の彼女を庇う彼に対しての苛つきとか。

 それで私は疲れてしまった。その恋愛で得たものより、失ったものたちのほうが多かった。だから私は今でも恋愛が怖いし、人をうまく信じることもできない。人生に、飽いていると言ってもいいのかもしれない。毎日が、ただ惰性で過ぎていった。つい最近、一条くんと出会うまでは。

 児童書のコーナーで、目当ての本に手を伸ばす。棚から半分ほど抜き出したところで、

「先生!」

 と、昼間のショッピングモールには似つかわしくない敬称がうしろから響いた。やっと聞き慣れてきた、涼やかなよく通る声。少年ぽさの残るアクセント。

 手をとめて振り向くと、そこにはやはり、一条くんがいた。

「あ、良かった、やっぱり先生だ。人違いだったらどうしようかと思いました」

 制服姿とさほど印象が変わらない、かっちりとした服装。黒のジーンズに白シャツ、グレイのセーター。黒のムートンジャケット。家庭教師のアルバイトに行く大学生のようだ。

「……一条くん。こんなところで会うなんて、偶然ね」

 私は心底驚いて、そう言った。

「僕はこの本屋、よく来るんですよ。学校からも家からも近いから、休日はだいたい毎週来ているかもしれません」

「私もよ。だったら、今までもすれ違っていたかもしれないわね。お互い気付かなかっただけで」

「はい。遠目で見たときは大学生かと思って、一瞬分かりませんでした。先生、私服姿だと若く見えますね」

 どうせ人と会うわけじゃないんだし、と、今日の私は気の抜けた恰好をしていた。ゆるくパーマをかけた髪はサイドでシュシュでまとめ、細見のパンツにロングカーディガン。メイクこそ軽くしているものの、完全に部屋着と一緒だ。

 こんなところで生徒に――しかも一条くんに会うなんて。こんなだらけた恰好を見られるなんて。私は今朝の自分を激しく呪いたくなった。

「もっと、ちゃんとした格好をしてくれば良かったわ」

 嘆息して、つい、そう零す。

「え、僕はいつもの恰好よりそっちのほうが好きですよ。先生、見た目とか声とかやわらかい感じなのに、学校ではかっちりとした恰好でしょう? だから、そういったカジュアルな服装のほうが、先生のイメージに合っている気がします。僕の中では、だけど」

 思いもよらない発言を聞いて、うまく表情を作れなかった。口はへの字になっているのに笑っているような顔のまま、なんとか言葉を探す。

「あ、ありがとう……と言っていいところよね? これは」

「褒めているので、言っていいと思いますよ」

 その言葉にほっとして、やっと普通に笑えた。

「先生は、何を探しているんですか?」

 一条くんの言葉に、本棚から中途半端に引き出したままの本を思い出した。

 かわいそうな状態のままじっと待っていてくれた本を引き出し、抱き締めるようにしっかりと持ってから、一条くんに見せる。水彩画の、淡い水色の表紙。

「これよ」

「……スイミー?」

「そうよ。小学校の教科書で習わなかった?」

「たしか、小さい魚が集まって、大きな魚を追い払う話ですよね。魚が集まって、大きな魚のかたちを作って……」

「そう、その話」

「なんで、その話を探していたんですか?」

「絵本を集めるのがね、趣味なの。あとは、急にこの話が読みたくなったから、かな」

「急に……ですか」

 一条くんは怪訝な様子で口元に手をやる。大人っぽいその仕草も、彼がやると様になっていた。

「ねえ。高校生活って、水槽に似ていると思わない?」

 私は唐突に切り出す。ずっと私が感じてきたことを、この、目の前の男の子に話してみたくなったのだ。

「高校生活が、水槽に?」

「そう。水槽って、透明で大きいでしょう。ライオンみたいに檻に入れられているわけじゃないし、犬みたいに鎖でつながれているわけでもない。一見、魚は不自由していないように見えるけれど、実は透明な檻に閉じ込められているのよ」

 一条くんは真剣な眼差しで、じっと私の話を聞いている。

「本人たちは気付いていないけれど、少しの不自由さを伴っているところがね、水槽に入れられた魚に似ているなあって。生徒たちを見ていて、そう思ったのよ」

「……大人になったら、水槽から出られるんですか」

 一条くんの瞳の色がいつもと違っていて、私は少しドキッとする。絵本を片手で持ち直し、私は考えて、その問いに答えた。

「人それぞれじゃないかな。リスクがあっても、自由を求めて海に出ていく人もいるし、自分で水槽を選んで、その中で暮らしていく人もいる。高校生と違うところは、自分で選択ができるって点だけかもしれないわね」

 児童書が並んだ私の背丈より低い本棚が、急に迫ってきたように感じて、はっとする。いつの間にか、ここが学校の外の本屋であるということを忘れていた。まるで、いつものように図書室で話しているみたいだった。一条くんの声には、相手をリラックスさせる効果があるのだろうか。

「先生は、どっちなんですか」

 うーん、と悩み、

「後者かな。学校っていう水槽を選んで、その中で生きている。出ようと思わなければ快適だし、住み心地がいい水槽だと思う。でも、窮屈さで言ったら、学生時代の水槽以上かもしれないわね」

 と、笑みを浮かべながら答えた。なにもかもを諦めた大人にふさわしい、ひっそりとした笑みの作りかたを、私はもう何年も練習してきたのだ。

「一条くんは? どんな選択をするつもりなの?」

 この、スマートでそつのない男の子が、どんな選択をするのか。どんな大人になるのか。私は司書という枠を越えて、興味があった。

「僕もきっと水槽を選ぶけれど……」

 一条くんはうつむいて答えると、そこで言葉を切り、顔をあげてしっかりと私を見つめた。

「でも先生、その水槽が陸地にあるって決めつけていませんか? 案外、海の中に沈んでいるのかもしれませんよ。本当は海の水が流れ込んできているだけで、壁の向こう側もまた海なんだ。水面を見上げていれば、いつだって出られるんだ。きっと、その方法に気付いていないだけで、僕も先生も、いつだって、どこにだって行けるんです」

 時が、止まってしまったのかと思った。彼の言葉を聞いた瞬間、周りの色も、喧噪も、一瞬消えたのだ。

 彼が何を言っているのかすぐに呑みこめず、何度も言葉を反芻する。

 胸が、激しくドキドキしていた。


 あのあと私は、逃げるようにして帰ってしまった。何と言って一条くんと別れたのか、うまく記憶していない。

 けれど、あの時言われた彼の言葉は、何度も何度も反芻するうちに、しっかり記憶に焼き付いてしまった。一条君の真剣な眼差しと一緒に。

 彼はあの日のあとも普通に図書室に来ていたけれど、言葉を交わしてはいない。

 彼は図書室の本を、無事にすべて読み終えたのだろうか。

 尋ねられないまま、暦は三月を迎え、卒業式になった。


 体育館の床に敷かれたビニールシート。壁に下ろされた紅白の幕。全校生徒でひしめいているはずの体育館の中はいつものような熱気を感じず、ただ、卒業生たちが流す涙の清潔なにおいがしていた。

 私は体育館端の職員席から、卒業生を見送る。卒業証書授与の番が、三年六組になった。担任教師がマイクで「一条透哉」と呼ぶ。あのよく通る涼やかな声で「はい」と返事した一条くんは、立ち上がる。

 遠くから見ると、一条くんが意外とたくましい背中をしていたこと、まっすぐだった髪の毛にちょっと癖があることが分かった。近くにいる時は、気付かなかったのに。

 一条くんは揺るぎない瞳で、まっすぐ前を見ていた。これからの未来を見つめるみたいに。

 ――と、黒くて綺麗な瞳が急に、職員席のほうを振り向いた。目が合う。一条くんも驚いた顔をしていたし、私も驚いた。

 でも、目が逸らせなかった。そのまま、何秒――何十秒? 私たちは卒業生の名前が次々と呼ばれる中、見つめあっていた。

 一条くんは何か言いたげでもあったし、切なそうでもあった。黒い瞳は遠くから見ても、少し潤んでいるように見えた。胸が、苦しくなる。それは以前自分で予想していたよりも、はるかに甘く疼く痛みで、私は少しだけ、瞳を濡らした。


「先生」

 卒業生が、体育館の外に集まっている。先輩に別れを言って泣いている子や、第二ボタンや校章をもらう子を甘酸っぱい気持ちで見つめていたら、一条くんが近くまで来ていた。

 わざわざ教室まで取りに戻ってからここに来たのか、片手には私が貸したハードカバーの本。

「卒業式までに返せばいいっていう約束を律儀に守るなんて、一条くんらしいわね」

 私がくすりと笑うと、

「僕らしいって言われるほど、先生とは付き合いが長くありません」

 と怒ったような口調で言われた。

「……そうね。ごめんなさい」

 いいえ、と言ったあと、ぶっきらぼうに本を渡される。私はその時間を惜しむように、両手で丁寧に受け取った。

「あと、これ」

 本を持っていなかったほうの手を差し出される。握った手のひらを開くと、学生服のボタンがひとつ、転がっていた。

 弾けるように一条くんを見る。学生服の上から二番目のボタンがなくなっていた。

「いいの? これ」

「他にもらってくれる人が、思いつかなかったんです」

 それは嘘だと分かった。一条くんのボタンなら、自分がもらいたいという女子生徒がたくさんいるだろうから。わざわざ、そういった申し出を断ってくれたのだろうか? 私のために。

「でも、私じゃ、返せるものがないわ。……あ、そうだ」

 私はスーツの袖に付けていたカフスボタンをひとつ、外す。本物の翡翠を使っている四角い形の、お気に入りだった。

「これを、お返しにもらってちょうだい」

 一条くんは目を丸くして首を横に振る。

「だめですよ。これ、すごく高そうじゃないですか」

「私よりも、あなたに似合いそうだから。大学の入学式の時にでも、スーツに付けてくれたら嬉しいわ」

 半ば強制的に、その大きい手に握らせる。そうすると、私の袖に収まっていた時よりも、彼の手のひらの上のほうが翡翠が輝いている気がして、私は顔をほころばせた。

「元気でね」

「先生も」

「ええ」

 春の風が、ふわっと私たちの間を通り過ぎた。桜なんてまだ咲いていないのに、一条くんの顔がピンク色に霞んで見えた。


 卒業生の見送りも終わり、図書室に戻ろうとすると、本のページの間から何かがひらりと落ちた。私の足元に落ちた四角いものを拾いあげる。それは、手紙だった。封筒の差出人のところには一条くんの名前が、宛先のところには「先生へ」と書いてあった。

 心臓が一度だけ、大きく跳ねる。私は早足になって、図書室への道のりを急いだ。司書室に駆け込んで、内側から鍵をかける。こうしておけば、誰かに邪魔されることもない。

 私は気が急いてしまってうまく動かない指で、その封筒を開けた。

 丁寧な、流れるような筆致が私の目に飛び込んでくる。あの子はこういう字を書くのか。ボールペンでなく万年筆を使っているところが、彼の性格を表していると思った。目上の人への手紙にボールペンはふさわしくない、というマナーを律儀に守ったのか、ただ単に万年筆のほうが趣があると思ったのか。

 どちらでもいいや、と思った。私はこの万年筆で書かれた字が好きだ、と思った。それは彼の性格を好ましく思っているのと同義だ。

 私は一条くんの手紙に目を落とし、ゆっくりと読み始めた。


『先生へ

 この手紙は、本に挟んで卒業式後に渡そうと思っているので、もう、僕はあなたとお別れをした後なんでしょうね。卒業式なんて来なければいいと、これを書いている今は思っているけれど、時間は止めることができないから、この手紙に僕の気持ちを託すことにします。

 先生は僕に、彼女か好きな子がいて図書室に通っているのか訊いたけれど、実はそれ、半分当たっていたんです。

 僕はあなたに会いたくて、通わなくてもいい学校に通っていた。図書室に通っていたのは、あなたに会いたかったからなんです。

 そして、あなたに僕のことを少しでも覚えて欲しかった。ただの本好きな生徒としてでもいいから、あなたの視界に入りたかったんです。

 こんなことを書いても、信じてもらえませんよね、きっと。僕が先生の立場でも、「思春期にありがちな年上への憧れ」とか言ってあしらうと思いますから。でも、そう思われることが僕にはとても苦しいんです。どうしてでしょうね。

 僕が先生に、先生も図書室の本を全部読もうとして、在学中にできなかったから司書になったのか、と訊いたとき、先生は驚いて目を丸くしていましたね。

 僕は先生から、私も在学中に同じことをしていた、と聞いたからそう思ったのではありません。

 先生はいつも、あいた時間に読書をしていますよね。カウンターに立っている間や、昼休みにお弁当を食べ終わったあと、司書室で。昼休みに図書室に行くこともたまにあったので、先生が司書室でお弁当を食べているのは知っていました。そんなとき、本の背表紙には必ず、学校の図書室のシールが貼ってありました。

 自分で持ってきた本ではなく、いつも図書室の本を読んでいる。しかも先生は、本棚に並んでいる順番で本を読んでいた。なんでわざわざそんなことをするんだろうと疑問に思いました。答えはひとつしかなかった。そのとき僕は、先生と僕は同じなんだと分かったんです。

 あなたのことが気になりだしたのは、それからのことでした。

 司書だよりをくまなく読むようになって、あなたの人柄が分かりました。あなたの本の感想はあたたかくて、本や物語に対する愛情に満ちていました。僕は司書だよりを通して、あなたに恋をしていたんです。

 それから時々、司書室にいるあなたを盗み見するようになりました。

 先生は大人の女性だし、自分でもそう振舞っていたほうに思いますが、ふとした仕草や、気を抜いたときの口調が同級生よりも子どもっぽくて、そんなところが可愛いと、思っていました。

 スーツやパンプス、きっちりとまとめた髪は先生の雰囲気には合っていなかったけれど、先生がそうやって武装していることも、分かっていました。

 それでも先生は、僕の気持ちはただの憧れだと、決めつけるでしょうか。直接訊きたいけれど、それももう叶いませんね。

 先生は、高校生活は水槽だと、透明な檻に似ていると言いましたね。

 だったら僕は、先生と同じ水槽で泳げて幸せでした。

 これから僕は水槽を出ていきます。出た先が新しい水槽だったのか、海だったのか。

 先生はもう、分かっているのでしょう? 透明な檻はなぜそこにあるのか。誰が作ったものだったのか。

 透明な檻を作ったのはあなた自身です、先生。

 あなたは自分で作った檻に、自分から閉じ込められていたんです。

 この言葉が僕から先生への餞別です。卒業するのは、僕だけど。

 僕は、一条透哉という存在をあなたに忘れて欲しくなくて、この手紙を書きました。

 一度目は、夕暮れの図書室で、先生が司書になった理由を当てたとき。二度目は、本屋で会って水槽の話をしたとき。僕は二回も先生の驚く顔を見ることができた。

 こんなに先生を驚かせることができたのが、先生の人生の中で僕だけだったらいい。なんて、柄にもなく殊勝なことを思っています。


 追伸。図書室の本を全部読むという目標は、達成できませんでした。「ゆ」の「指輪物語」で止まったままです。僕もいつか、この場所に戻ってくる気がしています

一条透哉』


「馬鹿……」

 読み終えた私の目から、滴がぽたりと落ちて、一条くんの名前を滲ませた。

 つまらない意地を張って、自分の気持ちを見ないようにしていた。私は、たぶん初めて話したときからずっと、一条くんのことが好きだったのに。

 春休みになったら、手紙を書こう。大学生になるまでの最後の時間を少しだけ、私にちょうだいって。あなたとちゃんと会って、話がしたい。

 今までの話も、これからの話も。

 だって私たちはどこにでも行ける。透明な檻はとっくに、あなたの手で壊されていたってことは、きっとあなたも知らない事実。


 私は立ち上がり、図書室を開ける準備をする。

 第二ボタンをお守り代わりに胸ポケットに入れて、図書室のプレートを「開館」に直す。

 はじまりはすべて図書室だった。この、海に沈んだような静かで優しい空間で、息をひそめて手に取られるのをじっと待つ物語たち。

 意思を持った文字は文章となり、こころを持った文章は物語になる。

 今日もこの図書室では、たくさんの美しい魚たちが、本の珊瑚礁の間をぬって悠々と泳いでいる。


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[良い点] 指輪物語にスイミーなど、誰でも知っている作品を作中に出すことでリアリティが増していると思いました。登場人物が二人だけなので物語が把握しやすく、また感情移入も簡単に出来ると思います。 ドラマ…
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