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思草という草がある。由縁は物思いするように見えるということから取られている。ロマンチックな草の名だが、この草は煙草の異称とされている。未成年の僕には縁の無い話だが、煙草というのは中毒性があるらしい。一度経験したら、手放せなくなる。まったく思いというのも考えようによっては煩わしい。それでも――。
「……」
新見さんの言葉に唖然とする。
確かにお友達を始めた僕らだが、少し言葉を捻るだけで、ここまで意味が変わるのは日本語がどれだけ秀逸か再確認させられる。
お友達を始めるとお友達から始めるの違うところは、前者はお友達を持続させるが、後者はより高い目標、即ち最終的にはお友達以上になろうという意味になる。以上とは言うまでもなく、恋仲関係なのだが、こういうのって片思いの相手が言うものじゃないのだろうか。
「今ならまだ間に合うわ」
新見さんは自身を褒めるかの如く満足気な笑みを浮かべる。
「そういうのってお互いの――」
「いっ、和泉君が良いなら私はいいですよ」
僕の言葉を止めるように、桑原さんは口を挟んだ。
意外な言葉に耳を疑う。
瞬間、何かに取り付かれたようにすーっと力が抜けて、肩が落ちる。何も考えられなくなる。頭がぼーっとして、瞬きも出来ない。
僕の中で音が鳴っている。単にリズムを奏でるバスドラムのような音。まるで音楽を最高潮に盛り上げるかのように、急速に速くなったその音は、弾けるように心臓を伸縮させる。鼓動の周期がわからない。メトロノームも驚きの拍節だ。
「ほら、桑原さんもこう言っているし」
新見さんの声で、どうにか自我を保てた。へらへらと僕を見る姿は明らかに期待している。
良くわからないけど、女子にとって恋仲を取り計らうことはステータスになるのかも知れない。主に自慢するという意味で。
「……」
無意識に心臓の辺りを手で抑えた。上下の唇を噛み、鼓動が胸を突く痛みを隠そうとした。
「なんだこれ……?」
思わず問いた。どちらに聞いたわけでもない。自分に聞いた。自分はどうなっているのか、自分自身に聞いた。返って来るはずの無い答えを求めた。
「鼓動が早すぎて胸が痛い?」
新見さんが顔を覗かせた。
なんでわかるんだよ、と思いながらも首を縦に振った。
「ちょっと純粋にも程があるわよ」
どういうことだよ?
顔をしかめながら、目だけで説明を促す。
「泳げるようになったってことよ。まったく、足を浸けるだけならまだしも、いきなり沖まで出ちゃったらパニックよね」
そう言って、新見さんは桑原さんを見た。
桑原さんの表情から察するに、なぜ僕がこうなったかわかっているようだ。
「すみません」
何故か謝る桑原さん。
収まったのか痛みに慣れたのかわからないけど、随分楽になったので、手だけをそのままにし、表情を戻して、姿勢を直す。
「何だったんだよ……」
自問自答に失敗した僕は、答えを知っているであろう二人に向けて呟いた。
「それが恋心ってやつよ。その人を想うと鼓動が速くなって、胸が痛くなる。恋ってね、するだけじゃただ痛いだけなのよ。広辞苑には切なく思うことって書いてあるくらいなんだから」
調べたのか……そんなことはどうでもいい。僕がこうなったってことは――
「僕は桑原さんのことが好き……なのか?」
何を聞いているんだろうか、それはもう――。
「自分の胸が答えてくれたでしょ。これからは桑原さんと話したりするだけで胸が痛くなるかもね」
新見さんの言う通りだった。
今、桑原さんはどんな顔をしているのだろうか。
恐る恐る視線を向けると、恥ずかしそうに俯く姿が確認できた。しかし、その顔を確認するとまた鼓動が速くなる。
「初々しいねえ。この歳で初恋なんて。でも良いデータだわ。歳を重ねて恋を知ると痛みが増すみたいね」
良いデータとか僕はモルモットか。というか何処に発表するんだよ、その情報。
「どうすりゃいいんだよ」
「あら、私が昨日なんで泣いていたと思っているの?」
恥じらいもなく、良く言えるものだ。なんでってそりゃあ……。
新見さんは思いを伝えた。胸の内を言葉に変えて相手に伝えた。一年間思い続けたと言っていた。そんなにも長い期間、張り裂けそうなこの痛みに堪え、勇気を振り絞り、想い告げた。が、結果は敢え無く。そんな幾田の痛みを繰り返し、まだ痛みを抱えながらこの場にいる。
「想いを伝えることが、解決の方法ってわけね」
「痛みの解決になるかは返答次第だけどね」
告白をすると『あい』が返って来る。
哀か愛。
想いという一本の線は、愛によって結ばれるか、哀によって切られるか。そういえば、恋愛における例えに赤い糸なんていうのがあるんだっけ。こう考えれば、その糸もうまく例えられている気がする。
「心っていうのはすごい繊細なのよ。恋して胸が痛くなる。解決法方は告白すること。成功すれば喜びがあるけど、失敗したらまた痛む。吹っ切れればいいけど、そう簡単じゃない。傷ついた心は痛さを増すかも知れない」
誰にだって恐怖はある。傷ついた自分の心が痛みに堪えられるかわからない。だから遠くから見ているだけとか話せるだけで満足とか、そういう気持ちになる。
そういう人が弱いと言っているわけではない。人を想えるということだけで、その人は十分に強いのだ。恋という切なさに打ち勝つ力を持っている。
僕は今まで、単に恐怖心に打ち勝つことが出来ていなかっただけなのかも知れない。誰かを想うことを無意識に怖いと思っていたのかも知れない。
無意識のうちに人を好きになっていても、無意識のうちにそれを恐怖と思ってしまい、無意識のうちにそれを無意識にしていたのかも知れない。
それが意識的にわかった今、僕は人と同じスタートラインに立った。
だから、今なら言える。
「桑原さん」
僕は名前を呼んだ。
「……」
顔をあげる桑原さんとは目が合わせられない。
鼓動が速くなる。乾いた唇を震わせながら、視線をあげた。桑原さんも目を合わせられなかったらしく、少し横のほうを向いている。そっちのほうが良い。
「まだはっきり言えないけど……友達からで、お願いします」
子供用プールから抜け出した僕にはこれが精一杯だった。
桑原さんは視線をずらした。目が合う僕ら。そして、金輪際、忘れること出来ないであろう、満面の笑みで「うん」と首を縦に振ってくれた。
例え、今後の人生において、これが一時の想いでも、これは一生残る想いで、それはいつまでも繋げたい想い。痛みが怖いのではなく、その笑顔が見られる幸せ。
この仮初が永遠になることを全身で自分は期待している。
僕は変われた気がする。