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翌日。少し濡れたカバンを背負い、いつもと同じ時間に家を出る。当然、待ち合わせをしているわけでもないし、遅刻ギリギリでパンをくわえて走っているわけでもない。
絶好の手ぶら日和。
僕が家を出るのは少し早い。朝の空気はいつ吸い込んでも素晴らしい。盆栽を趣味にしている近所のお爺さんがそう言っていた。確かにこの時間の空気は好きだった。学校まで誰にも会わずに登校できるこの時間が。
僕だって、友達とわいわい登校して、勉強して、下校してみたいとは思う。でもさ、現実というのはなんて残酷なんだろうか。率直に言うと僕は、友達の輪というのに入り損ねた。周りが自然とグループを形勢している時、どうしてもやらなければならないことがあり、友達を作る時間なんてなかった。やらなければならないことというのは追求しないで頂きたい。結局、自業自得と腹を括り、今なお一人の状態なのだ。
別に用もなかったが、思い立って公園を通るルートを選択した。
昨日、新見さんが座っていたベンチには、おじいさんとおばあさんが仲良く座っていた。
至極微笑ましい光景が、僕には皮肉に見えた。昨日、あの場所では十代の女子が失恋して泣きじゃくっていたというのに、時計の針が一周しただけで、その場所は今後生涯幸せであろう老人夫婦が腰を下ろしている。
ベンチの前を通り過ぎる時、おばあさんのほうが「おはようございます」と声をかけてきたので、軽く会釈をして、その場を後にした。
学校に着き、いつも通り一番乗りで教室に入る。
一クラス四十人弱の我がクラスは、席を男女混合のくじ引きで決定した。
こういう時に無駄な運を発揮する僕は、窓際の一番後ろという背後の人が黒板を見えるか気にしなくていい絶好の席を引き当てた。
この席は人気度ナンバーワンで、席変えをする前は数人が、ここが良いここが良いと叫んでいたが、僕に決まると、交換を求める声すら掛からなかった。
朝も早くからやることなんて何もない。その日の予習をするか読書をするか。迷ったあげく、読書を選んだ。
カバンから読み掛けの文庫本を取り出すと、昨日の雨で濡れたせいか、すこし湿っていて本が若干丸くなっている。
文庫本を掴んでから強く舌打ちをした。
「ご、ごめんなさい」
えっ?
扉のほうを向くと、メガネを掛けた女の子が怯えた表情で立っている。
えーと、確か桑原知美さん。このクラスの学級委員長。
どうやら僕がした舌打ちのタイミングと桑原さんが教室に入って来たタイミングがベストマッチしたらしい。
「あっ、いや、今のは」
「ごめんなさい!」
僕の言葉を途中で遮り、深く頭を下げる桑原さん。
「だから、今のは違うんですよ。本がね、濡れてて……」
そう言いながら、湿った本を桑原さんに見せるように掲げた。
視線だけを上げて本を確認すると、背筋も戻る。
「私ったら、ごめんなさい」
また謝られた。腰が低いにもほどがあるだろうに。
「いや、僕のほうこそ。まさか、この時間に誰か来るとは思わなかったですから」
いつもは数十分間一人の時間なので、誰か来るなんて思ってもみなかった。
「今日は単語の小テストがあるから早く来て勉強しようかなと思いまして……」
そういえば、一限目に英語の小テストがあるんだった。まあ、別にどうでもいいけど。
「真面目ですね」
「いえ、そんなことは」
少し照れたような気がした。
「……和泉君は、その、余裕ですか?」
意外だった。名前を覚えられているということも少し驚いたが、それを越えて、桑原さんから話し掛けて来るということが。
「えっ? んー、余裕じゃないけど、別にいいかなって」
「すごいですね。流石って感じ」
自画自賛するわけではないが、勉強は出来るほうだと思う。学生は勉強が仕事だ、という誰が言ったかも知らない言葉に感銘を受けてからは、勉学に励む毎日を送っている――とかいう真面目アピールは置いておいて、パンがなければお菓子を食べればいいじゃないのニュアンスで、やることがなければ勉強をすればいいじゃない。みたいなことを考えていたら、自然と出来る人扱いになっていた。
そんな僕のどうでも良い話は心の奥に置いておく。それより、この手の性格をした委員長は頭が良い。そんな設定がお約束で、桑原さんも例外ではない。
「学年トップクラスの人に言われても嬉しくないですよ」
うちの学校では試験の順位を張り出して競争心、向上心を養おうなんて制度はないが、桑原さんの成績が良いのは試験の結果を知るまでも無く授業で十分だった。
「……私はやることが無いから勉強しているだけです」
僕と同じだった。考えてみれば、桑原さんが誰かと雑談しているのを見たことがないかも知れない。そりゃあ、僕よりは話しているが、耳を立てて聞こえるのは「宿題見せて」とか「試験範囲教えて」などという、授業やテストのことばかりだ。
それはそれで辛いのかも知れない。桑原さんだって、テレビを見たり音楽を聴いたりするだろう。話すならそういう話をしたいのではないか。それが話し掛けられればやら宿題だ、やれテストだなんて、どういう気持ちで対応しているのだろうか。
友達と呼べる人がいるのか。それが気になった――それしか気にならなかった。
この人は、僕と同じなんだろうか。
「あの、さ」
無意識に声をかけていた。なんて話せばいいかなんてわからないのに……出来るならば、この口から発せられた音を口に戻したいとか意味のわからないことを思った。
「何ですか?」
桑原さんの席は僕の右斜め前で、すでにカバンを机に置いていた。
唾を飲み、息を飲んだ。
「……学校、楽しい?」
何を聞きたいのか、自分でもわからなくなった。自尊の効かない口、肝心な時に回らない己の頭脳に腹が立つ。
「……」
桑原さんは黙り込んだ。
人間というのは個性豊かで、百人いようが千人いようが、同じ人なんて百パーセント一人もいない。
でも、桑原さんと同じ目を昨日見た。
辛くて、寂しくて、苦しくて、そんな思いを瞳に宿したような悲しい目。
目を見れば相手の気持ちがわかる。その意味がわかった気がする。
「……狡いね」
桑原さんはそう呟いた。
確かに狡い。今現在、千人の人がいようと僕以上に狡い人間はいないだろう。
僕は狡くて冷たい。
「ごめん」
「……」
お互い口を閉ざした時、流れるようにクラスメイトが教室に入ってきて、ざわざわと耳障りな雑音が苦しく聞こえた。
程なくして、新見さんが教室に入ってきて、こちらを向いて軽く微笑んだが、僕は表情を変えることが出来なかった。
授業中、ずっと上の空だった。英語の単語テストは白紙で出した。当然、授業後、呼び出された。驚いたことに、桑原さんと一緒に。
「お前ら、揃いも揃ってどういうことだ?」
職員室の隣、本来、外来の人を持て成す部屋で、英語担当の氷川先生は僕と桑原さんが座るソファーの前にあるテーブルに先ほどの小テストを軽く置いた。
名前以外は何も書かれていない答案用紙が二枚。桑原さんの用紙も回答欄に手をつけた様子はない。
「こう言っちゃ何だが、出来の悪い生徒も沢山いる。一問も解けなかったやつもいる。でもお前らは違うだろ?」
氷川先生がこう言うのも無理ない。前回までの小テスト、僕はほぼ満点、桑原はわからないが、恐らく同じか僕以上だろう。そんな二人が同時に白紙となれば、先生も何かあったと思うが必然だ。
「毎回勉強しろとは言わないが、お前らならしなくても五、六問は軽く――」
「勉強が出来るから何なんですか?」
桑原さんが囁くように口を開いた。
「零点を取る私は私じゃないんですか!?」
答案に叩きつけるように、テーブルに手を振り下ろし、その反動で立ち上がると、桑原さんは部屋から出ていった。
完全に僕のせいだとわかっていた。どれだけ最低なんだよ僕はさ。
立ち上がった。
「追います。失礼します」
と、氷川先生に残し、桑原さんの後を追った。
部屋を出ると、すでに姿は見えなくなっていた。教室に戻ってみたものの、その姿はない。
廊下を左右見渡しながら歩いているとチャイムが鳴った。それでも教室とは違う方に足を向け、廊下を歩き続けた。
検討は付かないが、人目につかない場所を探すことにした。
もし、女子トイレとかにいたら、僕は無意味に授業をサボタージュしたことになるのだが、その心配は屋上へ続く階段で無くなった。
屋上へ出るには鍵が必要なため、授業に出ず、屋上で昼寝とかそういう高校生の夢みたいなことは出来ない。そのため屋上へ続く階段を使用する生徒はまず居ない。
階段に腰を落とし、膝を抱えて顔を伏せる桑原さんに近づいた。
「何しに来たのよ?」
鼻を啜り、震えた声で僕を威圧した。
僕はその問いに答えず、隣に座った。
「ごめん」
一言だけ言った。この謝罪が無意味で遅いことはわかっている。
「……」
「僕はさ、桑原さんが僕と同じか確かめたかったんだ」
本音を呟いた。
「……」
「同じだった」
「……」
「誰よりも強がっているのに、誰よりも繊細。何よりも願っているのに、何も叶わない」
僕の言葉に桑原さんは少し顔を上げた。
「何を話せばいいかわからないし、自分が何を思っているかもわからない。勉強が出来るってだけ――いや、勉強が出来るっていうのも本来の姿じゃないって気がついている。人間的知識が欠けている」
また顔を伏せる桑原さん。
言い過ぎたか、と思った。
「……そう。私は思いを伝えられないただの弱い人間。何かをやれって言われないと何も出来ない自己意識の無い臆病者」
霞んだ声だが、はっきりと言った。
「僕もそう。だから同じ。だから桑原さんは僕に自分が弱いと言えた。僕も桑原さんになら言える。誰よりも弱くて、誰よりも切ない」
「……同じだね。流石、友達いない同士」
桑原さんが笑った。
類は友を呼ぶなんていうことわざがあるが、僕らにとってこれほど複雑なことわざは無い。似たもの同士は自然に寄り添うという意味なのだが、僕らの似ているところ、最もそれは一部な部分なのかも知れないが、確信して同類と言えるのは、友達がいないことだ。友達が居ない同士が寄り添い、友達になってしまったら、それはただの友達であり、『友達がいない』という肝心な部分が欠けてしまう。それでも同類と呼べるのだろうか。しかし、まあ、友達が一人しかいないっていうことで同類になるのか。
正直嬉しかった。
何が? と問われてもうまく応えられないけど、何か僕の存在を認めてもらった気がした。先ほど桑原さんが言った『零点を取る私は私じゃないって言うんですか』という言葉が脳内でリピートされる。
これと一緒だ。テストで百点満点を取って認めてもらってもそれは偽りだ。本来の僕でもないし、本来の桑原さんでもない。
胸の内を理解してほしい。それが思いを伝えられない僕らの何よりの願いだ。もちろん、そんな都合の良い読心術を持つ人は限りなく少ない。
内を伝えることはデメリットであるという考えも改めざるを得ない。
たった今、桑原さんの心中を聞いて、そう思った。
結局、僕の考えなんて鮭の産卵も出来ないくらい浅はかなもので、間違いばかりだ。
「私が今、和泉君に言いたいことわかる?」
桑原さんが僕の顔を覗き込んだ。
「わかりますよ」
僕にしかわからない。それにこういうことは口に出して言うことではない。
「そうですか。で、返事は?」
「言うまでもないです」
類は友を呼ぶ。
だから僕らはお互い、初めての友達となった。
授業をサボったことなど一度もなかった。どうせならこのまま帰ってしまいたかったが、今日はそういうわけにもいかない。
このまま帰るという選択肢は桑原さんにもなかったらしい。
こういう時、真面目キャラの学級委員長は――サボっておいて真面目も何もないが、それは置いておく。とりあえず授業が終わる前にと、僕を引き連れ、保健室へ向かった。保健の先生と数分会話を交わした時、授業終了のチャイムが鳴る。それを聞くと、すぐに職員室に移動した。数人の先生に囲まれながら、サボった理由を言葉巧に説明する。気分が悪くなって、保健室にいた。僕は心配してずっと側にいてくれた。もう大丈夫。そんな百パーセント嘘で固めた理由に耳が痛くなるものの、桑原さんはそれがいかにもノンフィクションであるかのように流暢に口を動かした。
桑原さんの説明に口を出す先生はいなかった。この先生達も桑原さんの作り出した性格に躍らされている。桑原が言うなら本当だろう、という空気が先生達に流れていた。
「まったく良い性格していますね」
職員室を後にして、教室に戻る廊下でそう囁いた。
「褒め言葉として受け取っておきます」
それからというもの、授業中に黒板を見る度、桑原さんの背中を気にしてしまう。
僕を物語の主人公とするなら、クラスメイトや先生達はモブキャラに過ぎず、誰が何をしようと僕の物語には関係なかったのだが、桑原さんの存在は僕の物語のレギュラーになってしまったのかも知れない。
それが彼女にとって不運なことでなければ良いのだが……とか思っていると、桑原さんは少し後ろを振り向いた。
一瞬だが、目が合うと、相互に微笑む。そしてまた前を向く。
「友達、か」
朝、カバンから机にしまった文庫本をチラッと確認した。
僕が読んでいたのは、皮肉にも人を信じられなくなり、残虐を繰り返す王が熱い友情により、その思いを改善する文学作品だった。