第五話 これには、名前が書いてあります
あの首飾りにあった、二つ目の銘。
テレーゼ。
「北では何度も死にかけた。だが、そのたびに思い出した。俺には名を返す相手がいる」
上着の前を寛げる。
礼装の内側、心臓の上に金の銘があった。
そこに書かれていたのは、彼自身の名ではない。
テレーゼ。
「王都へ帰ると決めた日に刻んだ。あなたを探しに帰ると決めた日に」
自分の身体、それも心臓の上に他者の銘を刻む。
この国で、それはただ一つの意味しか持たない。
生涯を捧げるという、取り消しの利かない誓いだ。
「テレーゼ嬢。あなたは俺に、名を『返せるときに返せ』と言った」
金色の目が、わたくしを見る。
「今日がその日だ」
何かを言おうとして、うまく声にならなかった。
六年間、箱の底で守っていた冷たい石が、ようやく体温を持ったような気がした。
床の上から、掠れた声がした。
「そ、そんなのおかしいわ……」
ミレーユが、こちらを見ていた。
「だって、お姉様は何も持っていなかったのよ。何にも。地味で、退屈で、いつも黙っていて……わたくしが取ってあげたものばかりで……」
「ああ」
ジークヴァルトは頷いた。
「彼女は何も持っていなかった。お前が全部持って行ったからだ」
その後の裁定には、数日を要した。
ミレーユが他人の物を無断で持ち出していたこと。
ハイム伯爵夫人の形見を質へ流したこと。
そして、持ち主本人から返還を求められても返さなかった品が複数あったこと。
それらが明らかになり、彼女は貴族籍を外され、北西の修道院へ送られることになった。
継母マルガレーテは、娘の行いを何年も知りながら助長していたとして、父から離縁を言い渡され、実家へ戻された。
父は、わたくしに何度も謝った。
「まさか、あそこまでとは思わなかった」
「姉妹なのだから、いずれ仲良くなるものだと」
「お前なら許してくれると思っていた」
最後の言葉だけは、たぶん本音だった。
わたくしなら許す。
わたくしなら我慢する。
わたくしなら黙っている。
父はずっと、そう思っていたのだろう。
「お父様」
「……なんだ」
「わたくし、北へ参ります」
「戻っては……」
「わかりません」
父の顔が歪んだ。
それ以上は言わなかった。
言葉が届かない相手に言葉を費やすのは、雪に手紙を書くようなものだ。
ただ、父にだけは、いつか届く日が来るかもしれない。
そのくらいには思っていた。
ルドガーとミレーユの婚約は、当然ながら白紙になった。
ハイム伯爵家は息子を廃嫡まではしなかったものの、当分の間、領地から出すつもりはないらしい。
『あなたにも、名前は書いてありませんでしたわ』
建国祭の夜、婚約者に向かってそう言われた男として、王都ではしばらく名が知れ渡っていた。
彼は最後に一度だけ、わたくしの前へ来た。
「テレーゼ。俺は……」
何か言おうとした彼に、静かに首を振った。
もう、聞く必要はなかった。
北へ向かう馬車の中で、膝の上の首飾りを見ていた。
青い石が、窓から射す冬の日を受けて淡く光っている。
「テレーゼ。……ひとつ、詫びねばならないことがある」
向かいに座ったジークヴァルトが、言いにくそうに口を開いた。
「なんでしょう」
「四年前に、一度、王都へ戻った」
顔を上げた。
「あなたを迎えに行くつもりだった。屋敷の前まで行った。そこで、あなたが妹君に髪飾りを渡しているのを見た。笑って、渡していた」
覚えている。
渡したのではない……取られて、追いかけるのをやめただけだ。
「俺は、あなたが幸せに暮らしているのだと思った。婚約者がいるとも聞いた。だから、引き返した」
彼は膝の上で拳を握った。
竜を殺したという手が、少し震えている。
「二年、無駄にした。すまない」
「では、これからは間違えないでくださいませ」
「……ああ」
「わたくしは、笑って人に物を渡す女ではありません。渡した物には、必ず名前を書きます」
「知っている」
ジークヴァルトは目を細めた。
あの雪の日と同じ笑い方だった。
「六年、あなたの銘だけを目印に帰ってきた男だ。俺は、あなたの字を世界で一番よく知っている」
馬車が北へ進む。
窓の外で、風景がだんだん白くなっていく。
辺境の、雪の国へ。
首飾りを手のひらに載せ、彼に差し出した。
「これ、お返しします」
「いや、もう一度だけ預かってくれ。今度は、返しに来る必要のない預かり方で」
彼は首を振り、わたくしの手を、首飾りごと両手で包んだ。
彼の手は温かかった。
六年前に受け取った名前を、初めて口に出す。
「……ジークヴァルト様」
「ああ」
「わたくしの真名は、テレーゼ・ローゼマリー・フォン・アーレンスと申します」
ジークヴァルトが動きを止めた。
真名を明かすということは、相手に自分の銘を刻む権利を渡すということだ。
この国の女が、生涯に一度しかしないこと。
もう一度、確かめるように、彼はわたくしの顔を見た。
左手を差し出すと、ジークヴァルトはその手を取り、薬指の付け根に親指を当てた。
金色の光が指の上でほどけて、細い輪になる。
消えない銘。
――ジークヴァルト。
それを灯にかざさなくても読める。
世界で一番よく知っている字だった。
三年後。
北の辺境伯領の冬は長く、雪は膝まで積もる。
わたくしは薬草の温室を作り、領民の子どもたちに読み書きと、銘の刻み方を教えている。
「奥様、これ、あたしの名前ですか?」
「ええ、そうよ。あなたの名前」
「全然見えないです」
「今はね。でも、ちゃんとそこにあるわ」
小さな女の子が、自分の手袋を灯にかざして目を丸くすると、嬉しそうに手袋を胸へ抱えた。
誰にも読めなくても、そこにある。
それが、わたくしが六年かけて学んだことだった。
北西の修道院から、年に一度だけ手紙が届く。
中身はいつも同じで、たったの一行だ。
『わたくしの物を返してください』
何を指しているのかは、わからない。
首飾りかもしれない、ドレスかもしれない、昔の暮らしかもしれない……
もしかすると、ジークヴァルトのことまで含んでいるのかもしれない。
わたくしは毎年、同じ返事を書く。
封蝋に、自分の銘を深く刻んで。
――これには、名前が書いてあります。
最後までお付き合いありがとうございました。
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