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402号室

作者: 出水克幸
掲載日:2026/08/12

眠れない人間にとって、部屋は静かではない。

早瀬透がそれを知ったのは、不眠が二年目に入った冬だった。


それまで彼は、自分の部屋を無音だと思っていた。

夜になれば静まり返る、ただの六畳のワンルームだと。


違った。

まず冷蔵庫がある。

コンプレッサーは十二分ごとに立ち上がり、「ヴ」と一音だけ喉を鳴らしてから、低いうなりに変わる。


その唸りは床板を伝わって、ベッドの脚から背骨に届く。

次に給湯器。

壁の中で水がわずかに動く音がして、しばらくすると配管がカチ、と縮む。

上の階には夜勤明けらしい住人がいて、明け方の四時前後に必ず一度、踵から着地する歩き方でトイレへ行く。

そして自分自身。

まぶたを閉じると、耳の奥で血液が動いているのがわかる。

ドッ、ドッ、という鈍い脈と、その隙間を埋める高い耳鳴り。

蛍光灯のインバーターに似た、細い針のような音。

あれは実際には鳴っていない音なのだと医者は言った。

脳が、静けさに耐えかねて自分で作っている音なのだと。

「静かすぎると、人間は音を捏造するんです」


三十四歳。

フリーランスのWeb制作。

納期はいつも週明けの午前十時で、いつも土曜の深夜に間に合わなくなる。

処方された睡眠導入剤は、最初の三ヶ月だけよく効いた。

今は飲むと頭の芯だけが濁って、眠りには一歩も近づかない。


その夜も、彼は午前二時十七分に天井を見ていた。

カーテンの隙間から差し込む外廊下の光が、天井に細長い台形を描いていた。

彼はもう何百回もその形を見ていて、右端がわずかに歪んでいる理由まで知っていた。

眠るのを諦めて、スマホを手に取った。


おすすめ欄の三番目に、そのチャンネルはあった。

サムネイルは真っ黒だった。

文字も、人の姿も、何もない。タイトルは「#0417」。それだけ。

チャンネル名は「Room 402」。

早瀬は少し笑った。

彼が住んでいるのも402号室だった。

こういう偶然を、以前の彼なら何かの縁のように受け取っただろう。

不眠になってからは、何を見ても縁だとは思わなくなっていたが、それでも指は再生ボタンを押していた。

音が始まった。

囁き声はなかった。

耳かきの音も、咀嚼音も、優しい語りかけも、何もなかった。

彼が知っているASMRの記号は一つも入っていなかった。


聞こえてきたのは、ただの部屋の音だった。

冷蔵庫の唸り。

換気扇が回る、粘つくような低い風切り。

壁のどこかで時計が刻む音。

遠くを走る車の、タイヤがアスファルトを剥がすような通過音。

誰かが本のページをめくる、乾いた紙の摩擦。


──他人の、生活音。

早瀬はイヤホンをきちんと押し込んだ。

カナル型のイヤーピースが耳道の内側に密着して、外の世界の音圧がすっと落ちた。

世界が、耳の内側だけになった。


その部屋には人がいた。

それだけは確かだった。ページをめくっているのだから。

けれど声は一度も入らなかった。

咳もしない。

話しかけてこない。

ただそこにいて、静かに生活している音だけが、彼の耳のすぐ内側で鳴っていた。

三十センチより近い距離。

本来なら、母親か恋人しか入ってこない距離。

彼は、自分の呼吸がゆっくりになっていくのに気づいた。


眠りに落ちる直前、画面の隅の表示が目に入った。

視聴中 1

自分ひとりか、と彼は思った。

こんな地味な動画を、こんな時間に。

気づいたときには、朝だった。

カーテンの向こうが白かった。

イヤホンは片方だけ外れて枕に落ちていた。首の下に敷いた腕が完全に痺れていて、指がまるで他人のものみたいに動かなかった。

二年ぶりの、途切れない眠りだった。


翌日から、それは彼の夜の儀式になった。

更新は毎晩、二十三時四十七分。

一分の狂いもなかった。

前日の動画は、新しいものが上がると同時に消えた。だからチャンネルにはいつも一本しかなかった。

タイトルの数字だけが、一つずつ増えていった。

#0418。

#0419。

#0420。

尺はいつも八時間ちょうどだった。

シークバーは律儀に八時間分の目盛りを持っていて、彼が眠っているあいだに、ゆっくり右端まで進んだ。

概要欄は空白。

登録者数は非公開。

コメント欄は、開いていなかった。

そして表示は、いつも「視聴中 1」だった。


ある夜、彼は妙なことに気づいた。

更新の瞬間──秒針が四十七分に触れた。

その瞬間に画面を開いたとき、まだ彼が再生ボタンを押していないのに、すでに「視聴中 1」と出ていた。

指が再生ボタンに触れる。数字は2にならない。

1のままだった。

不具合だろう、と彼は思った。

実際、そういうことはよくある。

彼は仕様の話をする側の人間だった。

キャッシュ。

集計の遅延。

表示のバグ。

理由なら十個でも挙げられた。

その夜も、彼はよく眠った。


十一月の終わりだった。

その夜、彼は珍しくすぐには眠れなかった。

昼間に大きなミスをして、その記憶が瞼の裏で何度も再生されていた。

だから彼は、初めてその音をちゃんと聴いた。

動画の中で、時計が鳴っていた。

カ、カ、カ、と、秒針が刻む音。

彼の部屋の壁にも、秒針のある時計が掛かっていた。二つの音が、耳の中と部屋の中で、ほとんど重なって鳴っていた。

ほとんど、だった。

完全には重ならなかった。

二つの音は少しずつずれ、離れ、また近づき、そして十秒に一度、ぴたりと重なった。


早瀬は上体を起こした。

彼の壁時計は、秒針が「12」を通過するときにだけ、わずかに引っかかる癖があった。

三年前、駅前の雑貨屋で二千円で買った安物だ。

歯車の噛み合わせが悪いのか、一周に一度だけ、〇コンマ数秒だけ余分に間が空く。


動画の中の時計も、同じ場所で引っかかっていた。

同じ癖の、同じ個体差。

同じ壊れ方をした、

同じ時計。

彼はイヤホンを外した。

部屋の時計の音が、急に大きくなった気がした。


床に目を落とすと、ベッドの脇に文庫本が伏せて置いてあった。

タイトルに見覚えがなかった。

買った記憶も、読んだ記憶もなかった。

栞は百四十二ページに挟まっていた。


そこから一ヶ月、彼は正気の側に留まろうと必死だった。

まず疑ったのは、部屋のスマートスピーカーだった。三年前に安売りで買って、天気を訊く以外に使ったことのない円筒。

彼はそれのコンセントを抜き、クローゼットの奥のスーツケースに入れ、ファスナーを閉めた。

その夜、二十三時四十七分に、#0451が更新された。


次にスマホを疑った。

マイク権限を全部切った。

使っていないアプリを四十七個消した。

ルーターを初期化し、パスワードを変えた。

ノートPCのカメラとマイクの穴に、養生テープを貼った。

#0452が更新された。


警察の生活安全課の若い巡査は、最後まで丁寧に話を聞いてくれた。

メモを取る手は途中から止まっていた。

「一応、記録には残しておきますね」

盗聴器の調査業者を呼んだ。

三万八千円。

作業服の男が二人がかりで二時間、壁と天井とコンセントの中を探った。

「何も出ませんでした」と、年配のほうが言った。

「きれいなお部屋ですよ」


その夜、彼は眠るのが怖くなって、イヤホンを充電器に挿したまま放置した。

四時間後、頭痛と吐き気に耐えかねて、彼はそれを耳に入れた。

音が始まった瞬間、身体の芯から力が抜けた。

冷蔵庫が「ヴ」と鳴った。

彼はそれを聞きながら、ほとんど泣きそうな気持ちで、眠りに落ちた。


十二月十一日。#0459。

その夜、動画の中で誰かが咳をした。

小さな、喉の奥を一度だけ鳴らすような咳だった。

それまで一度も、あの部屋の主は声を出したことがなかった。

だから早瀬は目を開けた。

三秒後、彼が咳をした。

同じ咳だった。

喉の奥が乾いて、一度だけ、軽く。

彼は起き上がった。

心臓が、耳の中で膨れ上がっていた。

偶然だ。人間は夜に咳をする。

空気が乾いている。

理由ならいくらでもある。

彼はノートを開いた。

仕事用の、方眼の。

そしてストップウォッチを起動して、動画の音と、自分の身体を記録し始めた。

23:52:14 動画──マグカップを置く音(陶器、木の天板)

23:52:17 自分──マグカップを置いていた

23:58:02 動画──衣擦れ、寝返り

23:58:05 自分──寝返りを打っていた

00:12:30 動画──ページをめくる音

00:12:33 自分──あの文庫本を、開いていた

三秒。誤差は〇・四秒以内。四十分間で五十二回。外れは一度もなかった。


早瀬はペンを置いた

。指の関節が白かった。

彼は、順番を、間違えて理解していた。

この動画は、どこかの部屋を録音したものではない。

これから彼が立てる音の、予定表だ。


彼は実験をした。

イヤホンの中で、椅子の脚が床を擦る音がした。

ギ、という短い軋み。

三秒。

早瀬は椅子に座っていた。

両手でデスクの縁を握りしめ、腰から下を完全に固定し、動かない、と決めた。

動かない。絶対に動かない。

指の先まで意識を張り詰めさせた。

一秒。二秒。

右膝の裏が、痙攣した。

正座を崩したときのような、ごく自然な、生理的な引き攣り。

彼の体重がわずかに右へ移動した。

椅子の脚が床を擦って、ギ、と鳴った。

彼は自分の膝を見た。

膝はもう、何事もなかったように静かだった。

それが、いちばん怖かった。

押さえつけられたのではなかった。

乗っ取られたのでもなかった。

彼は自分の意思で動いたとしか思えなかった。

喉が渇いたからマグカップを持った。

鼻が詰まっていたからすすった。

膝が痺れたから体重を移した。

理由はいつも、彼の内側からやってきた。

理由のほうが、先に配られていた。

彼は立ち上がり、イヤホンを両耳から引き抜いた。

そして、部屋の音を聞いた。

冷蔵庫が「ヴ」と鳴った。

換気扇が回っていた。

壁の時計が、十二を通過するところで、一瞬引っかかった。

イヤホンは、彼の手の中にあった。

何も再生されていなかった。

それでも、その部屋は、今夜の分の音を、順番通りに鳴らし続けていた。

彼はもう、暗譜していた。


彼はスマホを掴んだ。

そのとき初めて、タイトルの続きを読んだ。

画面が小さくて、いつも数字までしか見ていなかった。

指で横にスクロールすると、隠れていた文字が現れた。

Room 402 / 今夜のあなたの安眠

あなた。

早瀬は、その三文字を何度も読んだ。

この動画は、彼のために作られたものではない。

彼が眠るための音ではなく、彼が「誰かを眠らせるために出す音」の指示書だ。

だとすれば。

その「誰か」は、今どこで、これを聴いているのか。

彼は玄関に走った。


外廊下は、凍っていた。

十二月の午前三時。

コンクリートの床が足の裏の熱を根こそぎ吸い取っていった。

天井の非常灯だけが緑色に灯っていて、手すりの向こうには、街灯と自動販売機と、何もない駐車場が沈んでいた。

背後で、ドアがゆっくり閉まった。表札には「402」とあった。


そして、隣。

403号室のドアが、五センチほど開いていた。ドアストッパーの代わりに、折り畳んだチラシが挟んであった。

早瀬は、そこまで歩いた。三歩だった。

隙間から、部屋の中が見えた。

自分の部屋と、左右対称の間取りだった。

同じ位置に流し台。

同じ位置にユニットバスの扉。

その奥、ベッドに、女がいた。

三十前後だろうか。

掛け布団を肩まで引き上げて、天井を向いて眠っていた。

呼吸が深く、長く、まったく乱れていなかった

。人が心の底から安心しているときにしか出ない、あの顔だった。

両耳に、白いイヤホンが入っていた。

枕元のスマホが、彼女の頬を薄く青く照らしていた。

早瀬は、その画面を見た。


Room 402

● LIVE 03:02:47

視聴中 1

シークバーが、なかった。


八時間の目盛りも、右端に向かって進む再生位置も、そこにはなかった。

代わりに、経過時間の数字が一秒ずつ増えていた。画面の中央では、細い波形が、今この瞬間に生まれた音を、右へ右へと描き続けていた。


彼のスマホの中にあったのは、録画ファイルだった。 彼女のスマホの中にあるのは、生放送だった。

そして「視聴中 1」の一は、彼ではなかった。

彼女だった。

最初から、ずっと。


彼は一度も、視聴者ではなかった。

早瀬の喉が、勝手に鳴った。

ヒュッ、という、息を呑む音。

ほとんど音とも言えないほどの、細い、短い音。

彼女のスマホの波形が、跳ねた。

一拍おいて、彼女が寝返りを打った。

そして、微笑んだ。

よく眠れているらしかった。


彼がどうやって自分の部屋に戻ったのか、記憶はない。

気がつくと、彼はベッドの上にいて、天井の台形の光を見ていた。

右端が歪んでいる、いつもの光を。

裸足の裏には、まだ廊下の冷たさが残っていた。

わかってしまえば、単純な話だった。

隣の部屋の女は、毎晩、彼の部屋の音を聴いて眠る。心地よい生活音。

冷蔵庫の唸り。

ページをめくる紙の擦れ。

誰かがそこにいる、という気配。

その音を出しているのが、彼だ。

彼のイヤホンから毎晩流れてくるのは、今夜の演目だった。

何時何分に咳をし、何時何分にページをめくるか。彼はそれを三秒遅れでなぞりながら、自分では眠っているつもりでいた。


そして報酬は、眠りだった。

イヤホンを入れれば眠れる

。外せば、二年前の地獄に戻る。

彼はその取引に、四十二日前から署名し続けていた。

枕元でスマホが震えた。


二十三時四十七分。

Room 402 / #0460


彼は、その画面をしばらく見ていた。

再生ボタンを押さない、という選択肢を、彼はもう思いつくことができなかった。

それは怖いからではなかった。彼の中に、そんな理由が、まだ配られていなかったからだ。

彼はイヤホンを両耳に押し込んだ。

耳道の内側で、圧が抜けた。世界が、耳の内側だけになった。

冷蔵庫が、「ヴ」と鳴った。

三秒後。

彼の部屋の冷蔵庫が、「ヴ」と鳴った。


あなたが今夜、何気なく立てたその音。

本当に、あなたが立てたかったものでしょうか。

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