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堕ちたエルフの王と光の姫

作者: ドキツトム
掲載日:2026/02/07

第1章「魔導神と呼ばれた少年」


(※以下、そのまま原稿として使える本文)



 遥か昔。

 まだ大地が豊かに息づき、森の精霊たちが夜ごと歌を紡いでいた頃。

 エルフの里には、ひときわ眩い光を宿す少年が生まれ落ちた。


 名を――オベイロン。


 彼が産声を上げた夜、里を囲む森が不思議と静まり返ったという。

 風は葉を揺らすのをやめ、虫の声すら途絶え、ただ澄みきった空気だけが満ちていた。

 やがて一羽の白い精霊鳥が産屋の屋根に舞い降り、幼子の額にそっとくちばしを触れた。


 「精霊が……祝福している」


 居合わせた巫女が息を呑んでそう呟いた。


 それは偶然ではなかった。

 オベイロンは、歩くことを覚えるよりも先に、精霊と“言葉”を交わした。


 火の精霊は彼の指先で揺らめき、

 水の精霊は喉の渇きを癒すように露を落とし、

 風は彼が転びそうになるたび、柔らかく背を押した。


 ――精霊に愛された子。


 里の者たちは畏れと共に、その才能を見守った。

 長命のエルフの中でも、これほど精霊との親和性を示す者は稀である。


 五歳の頃。

 オベイロンは杖も持たずに炎を灯し、氷の結晶を宙に浮かべ、雷の火花を遊ばせた。


 「見て! ほら、きれいだろう?」


 無邪気に笑うその姿は、あまりに幼い。

 だが、その背に宿る魔力は、すでに里の長老たちに匹敵していた。


 やがて時は流れ、少年は青年へと成長する。

 父王は彼の才を誇りに思いながらも、同時に危惧していた。


 「力は、誇るものではない。背負うものだ」


 そう諭す父の言葉を、オベイロンは素直に胸に刻んだ。

 彼は驕らなかった。

 里の子どもたちに魔法を教え、老いた者の手を引き、精霊の怒りを鎮める役を買って出た。


 やがて父王が病に伏し、王位の継承が告げられる。


 ――エルフ史上、最年少の王。


 戴冠の日、里は祝福の光に包まれた。

 だが玉座に座るオベイロンの胸に去来したのは、歓喜よりも不安だった。


(……王とは、何なのだろう)


 長命の種族の頂に立つ意味。

 変わらぬ日々を守る責務。

 それらは彼にとって、どこか遠い概念だった。


 そんな彼の心を変えたのが――人間だった。


 王となった後も、オベイロンは密かに里を抜け出し、人間の国を訪れた。

 森を越え、谷を渡り、石造りの街へと足を踏み入れる。


 そこに広がっていたのは、エルフの里とはまるで異なる世界。


 朝から晩まで働き、笑い、泣き、怒り、そして老いて死んでいく。

 短い命を燃やすように生きる人間たちの姿は、オベイロンの目に眩しく映った。


 片腕を失いながらも鍛冶を続ける男。

 病床の夫を支え、パンを売り歩く女。

 幼い子どもが家族のために笑顔を貼りつけて働く姿。


 (……なんて、強い生き物なんだ)


 永遠に近い時間を生きるエルフには、決して真似のできない生き方。

 失うことを知っているからこそ、一瞬一瞬を必死に生きる――その輝きに、彼は心を奪われた。


 「人間は儚い。だが、その儚さゆえに尊い」


 オベイロンはいつしか、そう口にするようになっていた。


 彼の理想は、ここから芽吹く。

 ――人とエルフが、手を取り合う世界。


 それが、やがて彼自身を壊すとも知らずに。


第2章「人間の王女」


 人間の街は、エルフの里と比べれば雑多で、騒がしく、どこか荒削りだった。

 だが、その荒さこそが生の匂いを放っているようで、オベイロンは嫌いではなかった。


 石畳を打つ靴音、行商人の呼び声、鉄を打つ音。

 人々は皆、今日を生きるために動いている。


 ある日、彼は技術の発展した王国の都に降り立った。

 蒸気を吐く工房、魔導具を売る露店、兵士の巡回。

 人の営みが濃縮された場所だった。


 その喧騒の中で――彼は、ひとりの少女を見つけた。


 金の糸を束ねたような髪。

 湖面のように澄んだ青い瞳。

 整えられた所作から、育ちの良さがにじみ出ている。


 だが彼女は、人波の中でどこか浮いていた。

 周囲の賑わいと隔絶されたように、ひとり、静かに歩いている。


 気づけば、オベイロンは彼女を目で追っていた。


 (……あれほど、人間の中に紛れながら)


 自分と同じ、異物の匂いを感じた。


 思わず声をかけていた。


「君、笑わないのか?」


 自分でも驚くほど唐突な言葉だった。

 少女は目を見開き、頬をわずかに赤らめると、踵を返して人混みの中へ消えてしまった。


 取り残されたオベイロンは、呆然と立ち尽くす。


 胸の奥が、妙にざわついた。

 精霊のざわめきとは違う、初めて覚える違和感だった。


     ◇


 翌日も、その次の日も。

 彼は同じ街に通い、少女の姿を探した。


 偶然を装って道を歩き、露店を冷やかし、広場に立つ。

 そして三日目の午後、ついに彼女を見つけた。


 今度は逃がさないと、彼は一歩踏み出す。


「昨日の……」

「……っ!」


 少女はびくりと肩を震わせた。

 だが逃げ出さず、じっと彼を見つめる。


「驚かせてしまったなら、すまない。君が、あまりにも綺麗で……」


 正直すぎる言葉に、少女は目を瞬かせた。

 やがて、くすりと小さく笑う。


「そんな言い方……初めてです」


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。


 彼女の名はヒルダ。

 城の護衛の目を盗み、時折こうして街に出てくるのだと打ち明けた。


「外の世界を見てみたかったの。城の中は、窮屈で……」


 オベイロンは頷いた。

 その気持ちは、よくわかる。


 彼は小さな手品のように、光の粒を宙に散らした。

 精霊が戯れるように光を結び、淡い虹を描く。


「……魔法使いなの?」

「少しだけ、ね」


 ヒルダの瞳が、子どものように輝いた。


     ◇


 二人は、街で何度も顔を合わせるようになった。


 市場の片隅で焼き菓子を分け合い、

 橋の上から川を眺め、

 夕暮れの広場で音楽に耳を傾ける。


 オベイロンは、精霊の話をした。

 ヒルダは、城での退屈な日々や、王女としての窮屈さを語った。


 やがて互いの正体も、隠さずに明かす日が来る。


「……私、人間の王女なの」

「僕は、エルフの王だ」


 一瞬の沈黙。

 だが、ヒルダは目を伏せて笑った。


「……やっぱり。普通の人じゃないと思ってた」


 怯えはなかった。

 むしろ、興味と好奇心の方が勝っているように見えた。


 オベイロンの胸に、温かなものが広がる。


     ◇


 恋は、いつの間にか始まっていた。


 理由はなかった。

 ただ、共にいると心が軽くなった。


 彼女が笑えば、胸が温かくなる。

 彼女が不安を口にすれば、支えたいと思う。


 だが同時に、現実は二人の間に重く横たわっていた。


 エルフの重臣たちは猛反発した。


「王が人間の娘と関係を持つなど、許されることではない」

「短命の種族に心を奪われるとは、愚かだ」


 人間側の王も、娘の身を案じて難色を示した。


「エルフの王は、あまりにも遠い存在だ。娘よ、戻ってきなさい」


 それでも二人は、歩みを止めなかった。


「私たちが手を取り合えば、変えられるはず」

「人とエルフが、憎しみ合う理由はない」


 そう信じた。


     ◇


 やがて、二人は正式に夫婦となる。


 小さな式だった。

 だがその日、オベイロンは初めて“王ではない自分”として泣いた。


 ――そして、娘が生まれた。


 小さな命を胸に抱いた瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げた。


「……ミリア」


 その名を呼ぶたび、胸が満たされる。


 ヒルダは穏やかに微笑み、

 ミリアは小さな手で彼の指を掴んだ。


 (この子こそ、架け橋になる)


 オベイロンは、そう信じて疑わなかった。


第3章「幸福のかたち」


 ミリアが生まれてからの数年は、オベイロンにとって“夢が形になった時間”だった。


 朝。

 窓辺に差し込む光はやわらかく、森の香りを運んでくる。

 ヒルダは眠そうな顔で髪をまとめ、ミリアは小さな足で部屋を走り回り、時々転んで笑う。


「父さま、見て! わたし、はやい!」

「速いね。けれど――転ばないように、足元を見なさい」


 オベイロンが諭すと、ミリアは頬をふくらませ、わざと大げさに足元を見て歩く。

 その姿が可笑しくて、ヒルダがくすくす笑った。


 エルフの里と人間の王都。

 ふたつの世界を行き来する生活は簡単ではなかった。

 だが、家族が揃っているだけで、困難は困難になりきらない。


 オベイロンは、精霊との対話を娘に教えた。

 小さな火の精霊を手のひらに乗せ、風の精霊に挨拶をする。

 ミリアは真剣な顔で頷き、やがて笑いながら精霊に話しかけた。


「こんにちは! きょうも、あそぼ!」

 精霊がくるりと回り、淡い光を残して飛んだ。


「……この子、あなたに似てるわ」

 ヒルダがそう言うたび、オベイロンは胸の奥がほどけるように温かくなった。


 自分が望んだ未来が、たしかにそこにある。

 人間とエルフが同じ食卓を囲み、同じ笑い声を交わす未来が。


 ――だからこそ、同盟は必然だった。


     ◇


 人間の王は老い、王国の政は宰相の影が濃くなっていった。

 それでもヒルダの父は、最後まで“娘の幸せ”を優先しようとしていた。


「同盟が結べれば、戦は減る。人間とエルフが互いの民を守れる」


 オベイロンの言葉に、王は何度も黙り込んだ。

 そしてある晩、弱った声で言った。


「……わかった。だが、条件がある。式典の場で、エルフの王として、民の前で誓え。――我が国を侵さぬと」


「もちろんだ。誓う」


 オベイロンは迷わなかった。

 侵すつもりなど、最初からない。

 むしろ守りたい。共に豊かになりたい。


 ヒルダは父王に抱きしめられ、涙をこぼした。

 ミリアは「おじいさま」と呼び、王の手を握った。


 その光景を見て、オベイロンは確信した。

 同盟は、世界の形を変えられると。


 同盟締結の式典は、王都の大広場で行われることになった。

 人間側は盛大な祝祭を用意し、エルフ側も民の代表団を送り、精霊の祝福を贈る。


 エルフの里では反対の声も残っていた。

 けれど、以前ほどの熱はない。


 ヒルダとミリアの存在が、彼らの心を少しずつ変えていたからだ。

 “人間は冷たい”という偏見の中に、実際に笑う人間の姿が入り込んでしまった。


 それは小さな変化だったが、確かな変化だった。


     ◇


 式典の前夜。

 オベイロンは、城の中庭に出て、ひとり空を見上げていた。


 月は淡く、雲はゆっくり流れている。

 風の精霊がそっと肩を撫で、草木が静かに揺れた。


(……ようやく、ここまで来た)


 胸の奥に、安堵が湧く。

 同時に、どこか言いようのない不安もあった。


 不安の正体は、分かっている。

 “あまりに順調すぎる”ことだ。


 それでも彼は、その不安に名前を付けないまま、息を吐いた。

 これは未来への緊張だ。

 幸福の重さだ。

 そう思い込もうとした。


 背後から足音がした。


「ここにいたのね」


 ヒルダが、薄い外套を羽織って立っていた。

 月明かりの下でも、金色の髪は柔らかく光る。


「寒くないか?」

「あなたがいないと、寒い」


 ヒルダは冗談めかして言い、近づいてくる。

 彼女はオベイロンの隣に立ち、同じ空を見上げた。


「明日、やっと同盟ね」

「ああ。長かった」


 ヒルダは小さく笑い、彼の手を握った。

 その手は温かい。

 人間の体温。短命の種族の温もり。

 オベイロンはそれが愛おしかった。


「ねえ、オベイロン」

「なんだ?」


「もし――明日が無事に終わったら」


 ヒルダは言葉を探すように、一度息を吸った。


「私たち、本当に……“普通の家族”になれるのかな」


 オベイロンは驚いた。

 ヒルダはいつも強かった。

 未来を信じていた。

 だからこそ、その不安が胸に刺さる。


「なれる。必ず」


 オベイロンは迷いなく言った。


「明日が終わったら、もう誰にも、君を“王女”として縛らせない。僕も“王”としてだけ生きるのはやめる。君とミリアと――家族として歩く」


 ヒルダの瞳が揺れた。

 そして、ふっと微笑む。


「……あなたらしい」


 オベイロンは、ここで“言っておくべき言葉”があると感じた。

 胸の奥から湧き上がるものを、言葉にした。


「ヒルダ。僕は――君を愛している」

「……うん」


「そしてミリアを……守る。何があっても」


 この言葉は、誓いだった。

 幸福が重いほど、誓いは強くなる。

 強くなるほど――折れたときの音は大きい。


 ヒルダは彼の胸に額を押し当て、静かに言った。


「じゃあ約束。明日が終わったら、三人で旅に出よう。王都でも里でもない場所へ」

「旅?」


「ええ。ミリアに、もっと色んな景色を見せたいの。あなたが愛した“人間たち”の景色も」


 オベイロンは、胸が締めつけられるほど嬉しかった。

 それは“未来の具体的な形”だったからだ。


「約束する」

「約束よ」


 ヒルダは指を絡め、子どもみたいに小指を立てた。

 オベイロンも同じように小指を立て、指切りをした。


 その瞬間、風が強く吹いた。

 木々がざわめき、遠くで鳥が不安そうに鳴いた。


 オベイロンの胸の奥が、ひやりと冷えた。


(……今のは)


 精霊のざわめき。

 いつもの戯れではない。

 “警告”に似た震え。


 だが、オベイロンは首を振った。

 幸福の夜に、恐怖を持ち込んではならない。


「明日は、きっといい日になる」

 自分に言い聞かせるように呟く。


 ヒルダは彼の頬に手を当て、微笑んだ。


「なるわ。私が信じてるもの」


 その笑顔が、あまりに綺麗だった。


     ◇


 翌朝。


 空は嘘みたいに澄み切っていた。

 王都の塔が光を返し、石畳には露がきらめく。

 オベイロンは胸の奥でそっと息を整えた。


 今日は、長い説得の果てに辿り着いた日だ。

 ――人間とエルフが正式に同盟を結ぶ日。


 傍らには妻のヒルダ。

 そして幼い娘ミリア。

 二人の手は温かい。


「父さま、今日はおまつり?」

「そうだ。人とエルフが“本当の友だち”になる日だよ」


 オベイロンは微笑み、ミリアの髪を撫でた。

 ヒルダも柔らかく笑う。


「ミリア、今日はたくさんの人と笑い合えるわ」

「うん! わたし、いっぱい、てをふる!」


 ミリアは両手をぶんぶん振り、元気よく歩いた。


 オベイロンは、あらためて思う。

 自分は“魔導神”と讃えられた。

 七属性の最高位に至る才。世界十傑。

 だが彼が誇りに思うのは、称号ではない。


 人間を“好きだ”と言い切れたこと。

 そして、ヒルダとミリアという家族を得たこと。


 広場へ向かう道すがら、人々は彼らを見てざわめいた。

 人間の兵士が槍を持ち、警備を固めている。

 人々の視線は好奇心と警戒が混ざっていたが、敵意ではない――そう思えた。


(大丈夫だ。今日から変わる)


 オベイロンはそう信じ、足を進めた。


 広場が見えた瞬間――

 胸の奥を、冷たい指がなぞった。


 旗はある。兵もいる。

 だが、祝意の気配がない。

 音楽も飾りも、笑い声も、ない。


 兵士の多くが無言で隊列を組み、銃を抱えていた。


(……おかしい)


 オベイロンは最前列の兵士に歩み寄る。


「王はいつ到着する?」

 兵士は無表情に口を閉ざした。


 ひそひそとエルフの民がざわつく。

「調印台は?」「祭壇は?」

 オベイロンは不安に気づき、穏やかに手を上げた。


「大丈夫だ、みんな。すぐに――」


 乾いた音がした。


 ぱん。


 若いエルフが胸を押さえ、よろけ、血を吐いて倒れた。


 思考が追いつかない。

 耳の奥で遅れて「銃声」という言葉が結びつく。


「いまのは……魔導銃?」

 誰かが震える声で呟いた。


 ――そう。

 エルフが人間に教えた魔術式を、人間の技術が応用して作り上げた兵器。

 ともに進むための知が、目の前で殺すための道具になっていた。


 ぱん、ぱん、ぱん――。


 連続する火線。

 別のエルフが背を打たれて崩れ、悲鳴が上がる。


「やめろ! 撃つな!」


 オベイロンが叫び、両腕を広げた。


「ここは同盟の場だ! 我々は敵意を――!」


 そのとき、王が現れた。

 ヒルダの父。

 そしてその隣に、醜悪な笑みを浮かべる宰相が立つ。


「見損なったぞ、オベイロン」


 王の声は冷たかった。


「まさか、我が国を裏切り、乗っ取ろうとはな」


「……何を言っている?」


 オベイロンの喉が乾く。

 宰相が手を振ると、空に魔導モニターが揺れた。

 映し出されたのは、エルフの一団が「人間を支配する」と語る映像。


「違う、それは幻惑魔法の偽装だ!」


 オベイロンは即座に見抜いた。


「病んだ心を慰めるために、我々が教えた術式を――誰がこんな形に……」


 宰相は肩をすくめた。


「証拠は“ある”。それで十分だ」


 王は顔を背け、短く命じた。


「撃て」


 轟音。

 銃口が一斉に火を噴き、火花が雨のように降る。

 エルフたちが崩れ、逃げ惑う者は騎兵に斬られる。

 悲鳴が空を裂いた。


 人間の声が飛び交う。


「撃ち殺すな!」

「奴らは魔力炉の核に使える!」

「奴隷にして他国に売れば大金になる!」


 その言葉に、オベイロンの心臓が締めつけられた。


 ――愛していたはずの人間が、民を資源としてしか見ていない。


「やめろ、やめるんだッ!」


 オベイロンが防御障壁を展開しようとした瞬間、別方向からの流れ弾が脚を撃ち抜いた。

 ぐらり、と視界が傾く。

 魔力の回路に乱れが走り、詠唱がほどける。


「ミリア!」


 娘が怯え、涙で震えている。

 オベイロンは歯を食いしばり、一歩踏み出した。


 ――遅い。


 銃弾の帯が、まっすぐ幼い胸に向かって伸びる。


 次の瞬間、ヒルダが飛び込んでいた。


 ぱん、ぱん、ぱん、ぱん――。


 弾丸が彼女の背中に食い込む。

 白い衣が一瞬で赤に染まり、ミリアの頬に温かいものが飛んだ。


「母さま――」


 ミリアの声が、震えて消える。

 その小さな体は揺れ、力なく倒れ込んだ。


「――ヒルダぁぁぁぁぁぁ!」


 オベイロンは這うように駆け寄り、両手で彼女を抱え上げた。


「治る、治す、今すぐ……治癒!」


 光が迸る。

 何層も何層も重ねる。

 血を止め、臓器を繋ぎ、骨を編み直す。


 ――足りない。


 出血量が多すぎる。

 魔力は応えるのに、生命が戻らない。


 ヒルダの手が、血に濡れたまま彼の頬に触れた。

 力は弱い。けれど、その指は確かに愛をなぞっていた。


「……あなた」

「喋るな、喋らなくていい! 僕が――」

「人間を……恨まないで」


 ヒルダは微笑もうとした。

 それができるだけで、奇跡だった。


「不器用だけど……どんな生き物にも優しいあなたが……好き」

「やめろ……そんな顔で……」

「お願い。あなたは、あなたのままで……」


 微笑みが、静かにほどけた。


 光が消える。

 手が滑り落ち、二度と戻らなかった。


 何かが折れた音を、オベイロンははっきりと聞いた。

 胸のいちばん奥で、何かが壊れる音。


第4章「裏切りの式典」


 赤。


 視界が、赤に染まった。


 それは血の色だった。

 広場を満たす悲鳴と銃声が、遠くの音のように歪んで聞こえる。


 オベイロンの腕の中で、ヒルダの体温が急速に失われていく。

 抱きしめるほど、彼女は軽くなっていった。


「……っ、戻れ……戻ってくれ……」


 何度も治癒魔法を重ねる。

 精霊に祈り、魔力を絞り出し、命を繋ぎ止めようとする。


 だが、戻らない。


 ヒルダの瞳は、もう彼を映していなかった。


 背後で、誰かが笑った。


「哀れだな、“魔導神”よ」


 宰相の声だった。

 オベイロンは、ゆっくりと顔を上げる。


 世界が――歪んで見えた。


「……お前たちは」


 声は、ひどく低かった。


「……人間を、愛した王の前で」


 怒りが、胸の奥で凝縮される。

 熱でもなく、冷たさでもない。

 ただ、押し潰すような圧力。


「……人の“皮”を被った、獣だ」


 精霊が悲鳴を上げた。

 風が逆巻き、炎が膨れ上がり、地が震える。


「ひっ……!」


 宰相が一歩退いた。


「待て、話せば――」


 その言葉が終わる前に、宰相の足元から氷柱が突き出した。

 逃げる間もなく、両脚を貫き、地面に縫い止める。


 悲鳴が上がる。

 だが、その悲鳴はすぐに別の音に掻き消された。


 雷が落ちた。


 白い閃光が宰相を包み込み、次の瞬間、そこにあったのは黒く焦げた影だけだった。


 広場にいた人間たちが、ようやく“理解”する。


 ――怒らせてはならない存在を、怒らせたのだと。


「に、逃げろ!」


 兵士たちが散開する。

 だが遅い。


 オベイロンは、両手を広げた。


 炎。

 広場の半分が火海となり、甲冑が溶け、悲鳴が泡のように弾けた。


 氷。

 地面から林立する氷柱が逃げる者を串刺しにする。


 風。

 逃げ惑う兵士を高く舞い上げ、石壁へと叩きつける。


 雷。

 銃列を一瞬で薙ぎ払い、黒い煙が立ち昇る。


 地。

 石畳が口を開け、足を取られた者を飲み込んでいく。


 それは戦闘ではなかった。

 “殲滅”だった。


 エルフも、人間も、動くものから順に消えていく。

 悲鳴はやがて途切れ、音のない時間が広場を支配した。


     ◇


 静寂。


 焼け焦げた石畳の上で、風だけが吹いていた。


 オベイロンは、ゆっくりと歩いた。

 腕の中に、ヒルダの亡骸を抱いたまま。


 足元には、砕けた槍、転がる兜、割れた王冠。

 血と灰と鉄の匂いが混じり合い、喉を刺す。


 広場に立つ者は、もういない。

 生きているのは――彼と、ミリアだけだった。


 オベイロンは、娘の前に膝をつく。


 ミリアは震えていた。

 小さな体が、怯えで硬直している。


「……父さま」


 か細い声。

 その声に、オベイロンの胸が軋む。


 この子に、この光景を背負わせてはいけない。

 人が人を殺し、父が人を殺した光景を。


 オベイロンは、震える手でミリアの額に触れた。


「……忘れろ」


 それは祈りではなく、命令に近い言葉だった。


 精霊たちが沈黙する中、彼は静かに術式を組み上げる。

 記憶消去。

 禁忌に近い術。

 娘の心に刻まれたすべての痛みと、母の最期の笑顔を――切り取る。


 ミリアの瞳から、ゆっくりと光が抜けていく。


「……だい、じょうぶ……?」


 言葉の意味を理解できないほど、幼い声。

 オベイロンは喉を詰まらせながら、頷いた。


「大丈夫だ。……きっと、幸せになれる」


 彼は娘を抱き上げ、転移陣を描く。

 光が広場に満ち、ミリアの姿が薄れていく。


 最後に見えたのは、小さな手が、宙を掴む仕草だった。


 光が消えた。


     ◇


 広場に残されたのは、オベイロンとヒルダの亡骸だけ。


 オベイロンは、ゆっくりと彼女を抱きしめた。


「……君の言った通りだ」


 声は、もはや震えていなかった。


「人間は、不器用だ。……だが、残酷だ」


 憎しみではない。

 悲嘆でもない。

 それらを通り越した、冷たい理解。


 彼は立ち上がり、最後に広場を振り返る。


 ここにあった“未来”は、すべて焼け落ちた。

 人とエルフが手を取り合う世界。

 同じ食卓でパンを裂く夢。


 それは、夢だった。


     ◇


第5章「強欲の司教」


 オベイロンは、娘を遠くへ送ったあと、どこへも帰らなかった。


 エルフの里にも、人間の城にも、戻る理由がなかった。

 彼の中で、“帰る場所”という概念は消えていた。


 彼は歩いた。

 果てのない荒野を、崩れた遺跡を、名もなき村々を。


 行く先々で、人の欲を見る。

 富を奪い合い、力を誇示し、他者を踏み台にして笑う者たち。


 (……変わらない)


 人は変わらない。

 優しさを語りながら、刃を隠す。

 手を取り合うと言いながら、背後で銃を構える。


 オベイロンは、少しずつ“確信”へと辿り着く。


 ――世界は、進化しなければならない。


 善意に任せていては、いつかまた同じことが起こる。

 人の欲は、放置すれば武器になる。

 ならば、欲そのものを管理し、制御し、再構築すべきだ。


 それは、歪んだ理想だった。

 だが彼には、それ以外の“答え”が見えなかった。


 やがて彼の周囲には、同じ思想を持つ者たちが集まり始める。

 富を渇望する者。

 力を欲する者。

 変革を望む者。


 彼らはオベイロンを崇め、こう呼んだ。


 ――強欲の司教。


 皮肉な名だ。

 だが、彼は否定しなかった。


 “強欲”は、世界を動かす原動力だ。

 欲を否定するのではなく、制御し、進化へと導く。

 それが、彼の新たな信仰だった。


 夜。

 焚き火の前で、オベイロンは空を見上げる。


 かつて愛した人間たちが見上げた空。

 ヒルダが微笑んだ空。

 ミリアが手を伸ばした空。


「……君たちが望んだ世界は、もう作れない」


 声は静かだった。


「だから、僕が――作り替える」


 精霊たちは、もはや歌わない。

 風は彼の名を運ばず、炎は彼を祝福しない。


 それでも、彼は歩き続ける。


 この日を境に、世界は知ることになる。


 “魔導神”と呼ばれたエルフの王が、

 いかにして――“強欲の司教”へと堕ちたかを。


 それは、愛から生まれた、裏切りの物語だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作は、本編に登場する「強欲の司教」という存在が、いかにして生まれたのかを描いた短編です。

物語の中では彼は敵として立ちはだかりますが、その背後には、かつて誰よりも人と世界を信じていた一人の王の姿があります。


「正しさ」や「善意」が、必ずしも善い結果を生むとは限らない。

むしろ、それが裏切られたとき、人はどこまで歪んでしまうのか。

そんな問いを、この短編には込めました。


この物語はここで一区切りですが、オベイロンの選んだ道の“その先”は、別の物語の中で描かれていきます。

もしよければ、本編の「王殺しの罪で追放された俺」の方も覗いていただけると嬉しいです。

是非、エルフの王が最期どうなったかを見届けてください。


感想やご意見などいただけると、今後の創作の励みになります。

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
短編が読みたいなと思っていた時にたまたま見かけ、拝読させていただきました。 とても苦しくなると同時に、とても深い物語でした。 ★入れさせていただいてます! 本編は知らずに拝読させていただいたのですが、…
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