堕ちたエルフの王と光の姫
第1章「魔導神と呼ばれた少年」
(※以下、そのまま原稿として使える本文)
⸻
遥か昔。
まだ大地が豊かに息づき、森の精霊たちが夜ごと歌を紡いでいた頃。
エルフの里には、ひときわ眩い光を宿す少年が生まれ落ちた。
名を――オベイロン。
彼が産声を上げた夜、里を囲む森が不思議と静まり返ったという。
風は葉を揺らすのをやめ、虫の声すら途絶え、ただ澄みきった空気だけが満ちていた。
やがて一羽の白い精霊鳥が産屋の屋根に舞い降り、幼子の額にそっとくちばしを触れた。
「精霊が……祝福している」
居合わせた巫女が息を呑んでそう呟いた。
それは偶然ではなかった。
オベイロンは、歩くことを覚えるよりも先に、精霊と“言葉”を交わした。
火の精霊は彼の指先で揺らめき、
水の精霊は喉の渇きを癒すように露を落とし、
風は彼が転びそうになるたび、柔らかく背を押した。
――精霊に愛された子。
里の者たちは畏れと共に、その才能を見守った。
長命のエルフの中でも、これほど精霊との親和性を示す者は稀である。
五歳の頃。
オベイロンは杖も持たずに炎を灯し、氷の結晶を宙に浮かべ、雷の火花を遊ばせた。
「見て! ほら、きれいだろう?」
無邪気に笑うその姿は、あまりに幼い。
だが、その背に宿る魔力は、すでに里の長老たちに匹敵していた。
やがて時は流れ、少年は青年へと成長する。
父王は彼の才を誇りに思いながらも、同時に危惧していた。
「力は、誇るものではない。背負うものだ」
そう諭す父の言葉を、オベイロンは素直に胸に刻んだ。
彼は驕らなかった。
里の子どもたちに魔法を教え、老いた者の手を引き、精霊の怒りを鎮める役を買って出た。
やがて父王が病に伏し、王位の継承が告げられる。
――エルフ史上、最年少の王。
戴冠の日、里は祝福の光に包まれた。
だが玉座に座るオベイロンの胸に去来したのは、歓喜よりも不安だった。
(……王とは、何なのだろう)
長命の種族の頂に立つ意味。
変わらぬ日々を守る責務。
それらは彼にとって、どこか遠い概念だった。
そんな彼の心を変えたのが――人間だった。
王となった後も、オベイロンは密かに里を抜け出し、人間の国を訪れた。
森を越え、谷を渡り、石造りの街へと足を踏み入れる。
そこに広がっていたのは、エルフの里とはまるで異なる世界。
朝から晩まで働き、笑い、泣き、怒り、そして老いて死んでいく。
短い命を燃やすように生きる人間たちの姿は、オベイロンの目に眩しく映った。
片腕を失いながらも鍛冶を続ける男。
病床の夫を支え、パンを売り歩く女。
幼い子どもが家族のために笑顔を貼りつけて働く姿。
(……なんて、強い生き物なんだ)
永遠に近い時間を生きるエルフには、決して真似のできない生き方。
失うことを知っているからこそ、一瞬一瞬を必死に生きる――その輝きに、彼は心を奪われた。
「人間は儚い。だが、その儚さゆえに尊い」
オベイロンはいつしか、そう口にするようになっていた。
彼の理想は、ここから芽吹く。
――人とエルフが、手を取り合う世界。
それが、やがて彼自身を壊すとも知らずに。
第2章「人間の王女」
人間の街は、エルフの里と比べれば雑多で、騒がしく、どこか荒削りだった。
だが、その荒さこそが生の匂いを放っているようで、オベイロンは嫌いではなかった。
石畳を打つ靴音、行商人の呼び声、鉄を打つ音。
人々は皆、今日を生きるために動いている。
ある日、彼は技術の発展した王国の都に降り立った。
蒸気を吐く工房、魔導具を売る露店、兵士の巡回。
人の営みが濃縮された場所だった。
その喧騒の中で――彼は、ひとりの少女を見つけた。
金の糸を束ねたような髪。
湖面のように澄んだ青い瞳。
整えられた所作から、育ちの良さがにじみ出ている。
だが彼女は、人波の中でどこか浮いていた。
周囲の賑わいと隔絶されたように、ひとり、静かに歩いている。
気づけば、オベイロンは彼女を目で追っていた。
(……あれほど、人間の中に紛れながら)
自分と同じ、異物の匂いを感じた。
思わず声をかけていた。
「君、笑わないのか?」
自分でも驚くほど唐突な言葉だった。
少女は目を見開き、頬をわずかに赤らめると、踵を返して人混みの中へ消えてしまった。
取り残されたオベイロンは、呆然と立ち尽くす。
胸の奥が、妙にざわついた。
精霊のざわめきとは違う、初めて覚える違和感だった。
◇
翌日も、その次の日も。
彼は同じ街に通い、少女の姿を探した。
偶然を装って道を歩き、露店を冷やかし、広場に立つ。
そして三日目の午後、ついに彼女を見つけた。
今度は逃がさないと、彼は一歩踏み出す。
「昨日の……」
「……っ!」
少女はびくりと肩を震わせた。
だが逃げ出さず、じっと彼を見つめる。
「驚かせてしまったなら、すまない。君が、あまりにも綺麗で……」
正直すぎる言葉に、少女は目を瞬かせた。
やがて、くすりと小さく笑う。
「そんな言い方……初めてです」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
彼女の名はヒルダ。
城の護衛の目を盗み、時折こうして街に出てくるのだと打ち明けた。
「外の世界を見てみたかったの。城の中は、窮屈で……」
オベイロンは頷いた。
その気持ちは、よくわかる。
彼は小さな手品のように、光の粒を宙に散らした。
精霊が戯れるように光を結び、淡い虹を描く。
「……魔法使いなの?」
「少しだけ、ね」
ヒルダの瞳が、子どものように輝いた。
◇
二人は、街で何度も顔を合わせるようになった。
市場の片隅で焼き菓子を分け合い、
橋の上から川を眺め、
夕暮れの広場で音楽に耳を傾ける。
オベイロンは、精霊の話をした。
ヒルダは、城での退屈な日々や、王女としての窮屈さを語った。
やがて互いの正体も、隠さずに明かす日が来る。
「……私、人間の王女なの」
「僕は、エルフの王だ」
一瞬の沈黙。
だが、ヒルダは目を伏せて笑った。
「……やっぱり。普通の人じゃないと思ってた」
怯えはなかった。
むしろ、興味と好奇心の方が勝っているように見えた。
オベイロンの胸に、温かなものが広がる。
◇
恋は、いつの間にか始まっていた。
理由はなかった。
ただ、共にいると心が軽くなった。
彼女が笑えば、胸が温かくなる。
彼女が不安を口にすれば、支えたいと思う。
だが同時に、現実は二人の間に重く横たわっていた。
エルフの重臣たちは猛反発した。
「王が人間の娘と関係を持つなど、許されることではない」
「短命の種族に心を奪われるとは、愚かだ」
人間側の王も、娘の身を案じて難色を示した。
「エルフの王は、あまりにも遠い存在だ。娘よ、戻ってきなさい」
それでも二人は、歩みを止めなかった。
「私たちが手を取り合えば、変えられるはず」
「人とエルフが、憎しみ合う理由はない」
そう信じた。
◇
やがて、二人は正式に夫婦となる。
小さな式だった。
だがその日、オベイロンは初めて“王ではない自分”として泣いた。
――そして、娘が生まれた。
小さな命を胸に抱いた瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げた。
「……ミリア」
その名を呼ぶたび、胸が満たされる。
ヒルダは穏やかに微笑み、
ミリアは小さな手で彼の指を掴んだ。
(この子こそ、架け橋になる)
オベイロンは、そう信じて疑わなかった。
第3章「幸福のかたち」
ミリアが生まれてからの数年は、オベイロンにとって“夢が形になった時間”だった。
朝。
窓辺に差し込む光はやわらかく、森の香りを運んでくる。
ヒルダは眠そうな顔で髪をまとめ、ミリアは小さな足で部屋を走り回り、時々転んで笑う。
「父さま、見て! わたし、はやい!」
「速いね。けれど――転ばないように、足元を見なさい」
オベイロンが諭すと、ミリアは頬をふくらませ、わざと大げさに足元を見て歩く。
その姿が可笑しくて、ヒルダがくすくす笑った。
エルフの里と人間の王都。
ふたつの世界を行き来する生活は簡単ではなかった。
だが、家族が揃っているだけで、困難は困難になりきらない。
オベイロンは、精霊との対話を娘に教えた。
小さな火の精霊を手のひらに乗せ、風の精霊に挨拶をする。
ミリアは真剣な顔で頷き、やがて笑いながら精霊に話しかけた。
「こんにちは! きょうも、あそぼ!」
精霊がくるりと回り、淡い光を残して飛んだ。
「……この子、あなたに似てるわ」
ヒルダがそう言うたび、オベイロンは胸の奥がほどけるように温かくなった。
自分が望んだ未来が、たしかにそこにある。
人間とエルフが同じ食卓を囲み、同じ笑い声を交わす未来が。
――だからこそ、同盟は必然だった。
◇
人間の王は老い、王国の政は宰相の影が濃くなっていった。
それでもヒルダの父は、最後まで“娘の幸せ”を優先しようとしていた。
「同盟が結べれば、戦は減る。人間とエルフが互いの民を守れる」
オベイロンの言葉に、王は何度も黙り込んだ。
そしてある晩、弱った声で言った。
「……わかった。だが、条件がある。式典の場で、エルフの王として、民の前で誓え。――我が国を侵さぬと」
「もちろんだ。誓う」
オベイロンは迷わなかった。
侵すつもりなど、最初からない。
むしろ守りたい。共に豊かになりたい。
ヒルダは父王に抱きしめられ、涙をこぼした。
ミリアは「おじいさま」と呼び、王の手を握った。
その光景を見て、オベイロンは確信した。
同盟は、世界の形を変えられると。
同盟締結の式典は、王都の大広場で行われることになった。
人間側は盛大な祝祭を用意し、エルフ側も民の代表団を送り、精霊の祝福を贈る。
エルフの里では反対の声も残っていた。
けれど、以前ほどの熱はない。
ヒルダとミリアの存在が、彼らの心を少しずつ変えていたからだ。
“人間は冷たい”という偏見の中に、実際に笑う人間の姿が入り込んでしまった。
それは小さな変化だったが、確かな変化だった。
◇
式典の前夜。
オベイロンは、城の中庭に出て、ひとり空を見上げていた。
月は淡く、雲はゆっくり流れている。
風の精霊がそっと肩を撫で、草木が静かに揺れた。
(……ようやく、ここまで来た)
胸の奥に、安堵が湧く。
同時に、どこか言いようのない不安もあった。
不安の正体は、分かっている。
“あまりに順調すぎる”ことだ。
それでも彼は、その不安に名前を付けないまま、息を吐いた。
これは未来への緊張だ。
幸福の重さだ。
そう思い込もうとした。
背後から足音がした。
「ここにいたのね」
ヒルダが、薄い外套を羽織って立っていた。
月明かりの下でも、金色の髪は柔らかく光る。
「寒くないか?」
「あなたがいないと、寒い」
ヒルダは冗談めかして言い、近づいてくる。
彼女はオベイロンの隣に立ち、同じ空を見上げた。
「明日、やっと同盟ね」
「ああ。長かった」
ヒルダは小さく笑い、彼の手を握った。
その手は温かい。
人間の体温。短命の種族の温もり。
オベイロンはそれが愛おしかった。
「ねえ、オベイロン」
「なんだ?」
「もし――明日が無事に終わったら」
ヒルダは言葉を探すように、一度息を吸った。
「私たち、本当に……“普通の家族”になれるのかな」
オベイロンは驚いた。
ヒルダはいつも強かった。
未来を信じていた。
だからこそ、その不安が胸に刺さる。
「なれる。必ず」
オベイロンは迷いなく言った。
「明日が終わったら、もう誰にも、君を“王女”として縛らせない。僕も“王”としてだけ生きるのはやめる。君とミリアと――家族として歩く」
ヒルダの瞳が揺れた。
そして、ふっと微笑む。
「……あなたらしい」
オベイロンは、ここで“言っておくべき言葉”があると感じた。
胸の奥から湧き上がるものを、言葉にした。
「ヒルダ。僕は――君を愛している」
「……うん」
「そしてミリアを……守る。何があっても」
この言葉は、誓いだった。
幸福が重いほど、誓いは強くなる。
強くなるほど――折れたときの音は大きい。
ヒルダは彼の胸に額を押し当て、静かに言った。
「じゃあ約束。明日が終わったら、三人で旅に出よう。王都でも里でもない場所へ」
「旅?」
「ええ。ミリアに、もっと色んな景色を見せたいの。あなたが愛した“人間たち”の景色も」
オベイロンは、胸が締めつけられるほど嬉しかった。
それは“未来の具体的な形”だったからだ。
「約束する」
「約束よ」
ヒルダは指を絡め、子どもみたいに小指を立てた。
オベイロンも同じように小指を立て、指切りをした。
その瞬間、風が強く吹いた。
木々がざわめき、遠くで鳥が不安そうに鳴いた。
オベイロンの胸の奥が、ひやりと冷えた。
(……今のは)
精霊のざわめき。
いつもの戯れではない。
“警告”に似た震え。
だが、オベイロンは首を振った。
幸福の夜に、恐怖を持ち込んではならない。
「明日は、きっといい日になる」
自分に言い聞かせるように呟く。
ヒルダは彼の頬に手を当て、微笑んだ。
「なるわ。私が信じてるもの」
その笑顔が、あまりに綺麗だった。
◇
翌朝。
空は嘘みたいに澄み切っていた。
王都の塔が光を返し、石畳には露がきらめく。
オベイロンは胸の奥でそっと息を整えた。
今日は、長い説得の果てに辿り着いた日だ。
――人間とエルフが正式に同盟を結ぶ日。
傍らには妻のヒルダ。
そして幼い娘ミリア。
二人の手は温かい。
「父さま、今日はおまつり?」
「そうだ。人とエルフが“本当の友だち”になる日だよ」
オベイロンは微笑み、ミリアの髪を撫でた。
ヒルダも柔らかく笑う。
「ミリア、今日はたくさんの人と笑い合えるわ」
「うん! わたし、いっぱい、てをふる!」
ミリアは両手をぶんぶん振り、元気よく歩いた。
オベイロンは、あらためて思う。
自分は“魔導神”と讃えられた。
七属性の最高位に至る才。世界十傑。
だが彼が誇りに思うのは、称号ではない。
人間を“好きだ”と言い切れたこと。
そして、ヒルダとミリアという家族を得たこと。
広場へ向かう道すがら、人々は彼らを見てざわめいた。
人間の兵士が槍を持ち、警備を固めている。
人々の視線は好奇心と警戒が混ざっていたが、敵意ではない――そう思えた。
(大丈夫だ。今日から変わる)
オベイロンはそう信じ、足を進めた。
広場が見えた瞬間――
胸の奥を、冷たい指がなぞった。
旗はある。兵もいる。
だが、祝意の気配がない。
音楽も飾りも、笑い声も、ない。
兵士の多くが無言で隊列を組み、銃を抱えていた。
(……おかしい)
オベイロンは最前列の兵士に歩み寄る。
「王はいつ到着する?」
兵士は無表情に口を閉ざした。
ひそひそとエルフの民がざわつく。
「調印台は?」「祭壇は?」
オベイロンは不安に気づき、穏やかに手を上げた。
「大丈夫だ、みんな。すぐに――」
乾いた音がした。
ぱん。
若いエルフが胸を押さえ、よろけ、血を吐いて倒れた。
思考が追いつかない。
耳の奥で遅れて「銃声」という言葉が結びつく。
「いまのは……魔導銃?」
誰かが震える声で呟いた。
――そう。
エルフが人間に教えた魔術式を、人間の技術が応用して作り上げた兵器。
ともに進むための知が、目の前で殺すための道具になっていた。
ぱん、ぱん、ぱん――。
連続する火線。
別のエルフが背を打たれて崩れ、悲鳴が上がる。
「やめろ! 撃つな!」
オベイロンが叫び、両腕を広げた。
「ここは同盟の場だ! 我々は敵意を――!」
そのとき、王が現れた。
ヒルダの父。
そしてその隣に、醜悪な笑みを浮かべる宰相が立つ。
「見損なったぞ、オベイロン」
王の声は冷たかった。
「まさか、我が国を裏切り、乗っ取ろうとはな」
「……何を言っている?」
オベイロンの喉が乾く。
宰相が手を振ると、空に魔導モニターが揺れた。
映し出されたのは、エルフの一団が「人間を支配する」と語る映像。
「違う、それは幻惑魔法の偽装だ!」
オベイロンは即座に見抜いた。
「病んだ心を慰めるために、我々が教えた術式を――誰がこんな形に……」
宰相は肩をすくめた。
「証拠は“ある”。それで十分だ」
王は顔を背け、短く命じた。
「撃て」
轟音。
銃口が一斉に火を噴き、火花が雨のように降る。
エルフたちが崩れ、逃げ惑う者は騎兵に斬られる。
悲鳴が空を裂いた。
人間の声が飛び交う。
「撃ち殺すな!」
「奴らは魔力炉の核に使える!」
「奴隷にして他国に売れば大金になる!」
その言葉に、オベイロンの心臓が締めつけられた。
――愛していたはずの人間が、民を資源としてしか見ていない。
「やめろ、やめるんだッ!」
オベイロンが防御障壁を展開しようとした瞬間、別方向からの流れ弾が脚を撃ち抜いた。
ぐらり、と視界が傾く。
魔力の回路に乱れが走り、詠唱がほどける。
「ミリア!」
娘が怯え、涙で震えている。
オベイロンは歯を食いしばり、一歩踏み出した。
――遅い。
銃弾の帯が、まっすぐ幼い胸に向かって伸びる。
次の瞬間、ヒルダが飛び込んでいた。
ぱん、ぱん、ぱん、ぱん――。
弾丸が彼女の背中に食い込む。
白い衣が一瞬で赤に染まり、ミリアの頬に温かいものが飛んだ。
「母さま――」
ミリアの声が、震えて消える。
その小さな体は揺れ、力なく倒れ込んだ。
「――ヒルダぁぁぁぁぁぁ!」
オベイロンは這うように駆け寄り、両手で彼女を抱え上げた。
「治る、治す、今すぐ……治癒!」
光が迸る。
何層も何層も重ねる。
血を止め、臓器を繋ぎ、骨を編み直す。
――足りない。
出血量が多すぎる。
魔力は応えるのに、生命が戻らない。
ヒルダの手が、血に濡れたまま彼の頬に触れた。
力は弱い。けれど、その指は確かに愛をなぞっていた。
「……あなた」
「喋るな、喋らなくていい! 僕が――」
「人間を……恨まないで」
ヒルダは微笑もうとした。
それができるだけで、奇跡だった。
「不器用だけど……どんな生き物にも優しいあなたが……好き」
「やめろ……そんな顔で……」
「お願い。あなたは、あなたのままで……」
微笑みが、静かにほどけた。
光が消える。
手が滑り落ち、二度と戻らなかった。
何かが折れた音を、オベイロンははっきりと聞いた。
胸のいちばん奥で、何かが壊れる音。
第4章「裏切りの式典」
赤。
視界が、赤に染まった。
それは血の色だった。
広場を満たす悲鳴と銃声が、遠くの音のように歪んで聞こえる。
オベイロンの腕の中で、ヒルダの体温が急速に失われていく。
抱きしめるほど、彼女は軽くなっていった。
「……っ、戻れ……戻ってくれ……」
何度も治癒魔法を重ねる。
精霊に祈り、魔力を絞り出し、命を繋ぎ止めようとする。
だが、戻らない。
ヒルダの瞳は、もう彼を映していなかった。
背後で、誰かが笑った。
「哀れだな、“魔導神”よ」
宰相の声だった。
オベイロンは、ゆっくりと顔を上げる。
世界が――歪んで見えた。
「……お前たちは」
声は、ひどく低かった。
「……人間を、愛した王の前で」
怒りが、胸の奥で凝縮される。
熱でもなく、冷たさでもない。
ただ、押し潰すような圧力。
「……人の“皮”を被った、獣だ」
精霊が悲鳴を上げた。
風が逆巻き、炎が膨れ上がり、地が震える。
「ひっ……!」
宰相が一歩退いた。
「待て、話せば――」
その言葉が終わる前に、宰相の足元から氷柱が突き出した。
逃げる間もなく、両脚を貫き、地面に縫い止める。
悲鳴が上がる。
だが、その悲鳴はすぐに別の音に掻き消された。
雷が落ちた。
白い閃光が宰相を包み込み、次の瞬間、そこにあったのは黒く焦げた影だけだった。
広場にいた人間たちが、ようやく“理解”する。
――怒らせてはならない存在を、怒らせたのだと。
「に、逃げろ!」
兵士たちが散開する。
だが遅い。
オベイロンは、両手を広げた。
炎。
広場の半分が火海となり、甲冑が溶け、悲鳴が泡のように弾けた。
氷。
地面から林立する氷柱が逃げる者を串刺しにする。
風。
逃げ惑う兵士を高く舞い上げ、石壁へと叩きつける。
雷。
銃列を一瞬で薙ぎ払い、黒い煙が立ち昇る。
地。
石畳が口を開け、足を取られた者を飲み込んでいく。
それは戦闘ではなかった。
“殲滅”だった。
エルフも、人間も、動くものから順に消えていく。
悲鳴はやがて途切れ、音のない時間が広場を支配した。
◇
静寂。
焼け焦げた石畳の上で、風だけが吹いていた。
オベイロンは、ゆっくりと歩いた。
腕の中に、ヒルダの亡骸を抱いたまま。
足元には、砕けた槍、転がる兜、割れた王冠。
血と灰と鉄の匂いが混じり合い、喉を刺す。
広場に立つ者は、もういない。
生きているのは――彼と、ミリアだけだった。
オベイロンは、娘の前に膝をつく。
ミリアは震えていた。
小さな体が、怯えで硬直している。
「……父さま」
か細い声。
その声に、オベイロンの胸が軋む。
この子に、この光景を背負わせてはいけない。
人が人を殺し、父が人を殺した光景を。
オベイロンは、震える手でミリアの額に触れた。
「……忘れろ」
それは祈りではなく、命令に近い言葉だった。
精霊たちが沈黙する中、彼は静かに術式を組み上げる。
記憶消去。
禁忌に近い術。
娘の心に刻まれたすべての痛みと、母の最期の笑顔を――切り取る。
ミリアの瞳から、ゆっくりと光が抜けていく。
「……だい、じょうぶ……?」
言葉の意味を理解できないほど、幼い声。
オベイロンは喉を詰まらせながら、頷いた。
「大丈夫だ。……きっと、幸せになれる」
彼は娘を抱き上げ、転移陣を描く。
光が広場に満ち、ミリアの姿が薄れていく。
最後に見えたのは、小さな手が、宙を掴む仕草だった。
光が消えた。
◇
広場に残されたのは、オベイロンとヒルダの亡骸だけ。
オベイロンは、ゆっくりと彼女を抱きしめた。
「……君の言った通りだ」
声は、もはや震えていなかった。
「人間は、不器用だ。……だが、残酷だ」
憎しみではない。
悲嘆でもない。
それらを通り越した、冷たい理解。
彼は立ち上がり、最後に広場を振り返る。
ここにあった“未来”は、すべて焼け落ちた。
人とエルフが手を取り合う世界。
同じ食卓でパンを裂く夢。
それは、夢だった。
◇
第5章「強欲の司教」
オベイロンは、娘を遠くへ送ったあと、どこへも帰らなかった。
エルフの里にも、人間の城にも、戻る理由がなかった。
彼の中で、“帰る場所”という概念は消えていた。
彼は歩いた。
果てのない荒野を、崩れた遺跡を、名もなき村々を。
行く先々で、人の欲を見る。
富を奪い合い、力を誇示し、他者を踏み台にして笑う者たち。
(……変わらない)
人は変わらない。
優しさを語りながら、刃を隠す。
手を取り合うと言いながら、背後で銃を構える。
オベイロンは、少しずつ“確信”へと辿り着く。
――世界は、進化しなければならない。
善意に任せていては、いつかまた同じことが起こる。
人の欲は、放置すれば武器になる。
ならば、欲そのものを管理し、制御し、再構築すべきだ。
それは、歪んだ理想だった。
だが彼には、それ以外の“答え”が見えなかった。
やがて彼の周囲には、同じ思想を持つ者たちが集まり始める。
富を渇望する者。
力を欲する者。
変革を望む者。
彼らはオベイロンを崇め、こう呼んだ。
――強欲の司教。
皮肉な名だ。
だが、彼は否定しなかった。
“強欲”は、世界を動かす原動力だ。
欲を否定するのではなく、制御し、進化へと導く。
それが、彼の新たな信仰だった。
夜。
焚き火の前で、オベイロンは空を見上げる。
かつて愛した人間たちが見上げた空。
ヒルダが微笑んだ空。
ミリアが手を伸ばした空。
「……君たちが望んだ世界は、もう作れない」
声は静かだった。
「だから、僕が――作り替える」
精霊たちは、もはや歌わない。
風は彼の名を運ばず、炎は彼を祝福しない。
それでも、彼は歩き続ける。
この日を境に、世界は知ることになる。
“魔導神”と呼ばれたエルフの王が、
いかにして――“強欲の司教”へと堕ちたかを。
それは、愛から生まれた、裏切りの物語だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、本編に登場する「強欲の司教」という存在が、いかにして生まれたのかを描いた短編です。
物語の中では彼は敵として立ちはだかりますが、その背後には、かつて誰よりも人と世界を信じていた一人の王の姿があります。
「正しさ」や「善意」が、必ずしも善い結果を生むとは限らない。
むしろ、それが裏切られたとき、人はどこまで歪んでしまうのか。
そんな問いを、この短編には込めました。
この物語はここで一区切りですが、オベイロンの選んだ道の“その先”は、別の物語の中で描かれていきます。
もしよければ、本編の「王殺しの罪で追放された俺」の方も覗いていただけると嬉しいです。
是非、エルフの王が最期どうなったかを見届けてください。
感想やご意見などいただけると、今後の創作の励みになります。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




