風の跡
朝の光はまだ弱く、雲に薄く遮られながら町へ降りていた。
春の手前のこの季節は、夜明けがどこか頼りない。空が白み始めてから本当の明るさが訪れるまで、しばらく時間がかかる。その曖昧な時間帯が、甲斐は昔から嫌いではなかった。
食卓の向こうで、聡がゆっくりと味噌汁をすすっていた。
顔色は昨日より少し戻っているように見えるが、眼の奥にはまだ深い疲れが潜んでいる。
「……ほんと、落ち着くな。ここ」
聡は箸を置き、天井を見上げながら言った。
「家が古いからな。音も匂いも、変わらないんだよ」
「それが……いいんだよ。俺は、ずっと変わってばっかりだったから」
ぽつりと言うその言葉に、甲斐は少し眉をひそめた。
どう変わってきたのか。それを問えば、昨日のように聡の心の奥に触れてしまうだろう。今はまだ、焦らなくていい。
「今日はどうする? 休んでてもいいし、町でも歩くか」
「……歩きたい。ちょっと、息をしてみたい感じだ」
息をしてみたいーー
その表現が、聡のこれまでの時間の重さを物語っていた。
「じゃあ、昼前に出るか。お前、随分寝てたし、今からまた寝れるだろ」
「なあ甲斐。昨日さ……」
「ん?」
「“おかえり”って言ってくれて、ありがとな」
甲斐は一瞬、返事のタイミングを失った。
だがその間を埋めるように、柔らかな朝の光が障子越しに射し込む。
「言うだろ、それくらい」
照れ隠しのように言うと、聡はわずかに笑った。
午前中、甲斐は自室で仕事のメールを片付けていた。
古い机にノートパソコンを置くと、周囲の木の温度がじんわりと伝わってくる。高性能の椅子も真新しい机もない。あるのは、剥げた天板と、開閉にぎしぎしと音を立てる引き出し。それが不思議としっくりくる。
言葉を打つ指先が止まり、ふと窓の外へ目を向けた。
薄い雲の隙間から、陽光が細い筋を描くように地面へ降りている。裏庭の柿の木の枝先が、かすかに揺れていた。
ーー聡は、いま何を考えているのだろう。
昨夜の悪夢。
帰ってきた理由。
七年間の空白。
胸の奥に、形のない重みが残る。
だがそれ以上に、友がそばにいるという確かな実感が温かく広がっていた。
甲斐が作業を終えると、ちょうど良いタイミングで襖がノックされた。
「甲斐、起きてるか?」
「おう。どうした?」
襖を開けると、聡が立っていた。少しだけ顔色が良い。
「さっき、庭に出てみたんだ。柿の木、まだ残ってたんだな」
「ああ。親父が手入れしててさ。お前、昔あれ登って落ちただろ」
「……そんなこともあったな」
聡は笑ったが、その笑みにはほんのわずか不安が混ざっていた。
記憶に触れるたび、彼はどこか痛みを覚えているようだった。
「そろそろ行くか」
「ああ」
町は、昼前になってようやく活気を帯び始めていた。
商店街では八百屋が店先に野菜を並べ、パン屋の窓から甘い匂いが漏れ出している。小中学生が自転車で通り過ぎ、遠くから工事現場の掛け声が聞こえた。
聡は歩きながら、何度も立ち止まって周囲を見渡した。
「……こんなに小さい町だったっけ」
「お前がでかくなっただけだよ」
「そうなのかな……懐かしいのに、初めて来たみたいにも感じる」
「七年経てば、そうなるのかもな」
聡は商店街の端にある駄菓子屋の前で足を止めた。
色褪せた暖簾、ひび割れかけたショーケース。子どもの頃、二人がよく通っていた店だ。
「まだやってたんだ……すげえな」
「もう、半分趣味で続けてるらしいぞ。店主のおばさんももう八十越えてるし」
「すごいよ、そういうの。ずっと同じ場所にあるってだけで……なんか助けられる」
言葉が少し震えていた。
甲斐はその横顔を横目に見ながら、言葉を選ぶ。
「お前さ。昨日言ってただろ。“どっかで終わらせなきゃ”って」
「ああ」
「終わらせる場所って、きっと覚悟して選ぶもんじゃないと思うぞ。自然と、その場所が終わりを迎えてくれるっていうか……」
「……甲斐らしいな、それ」
「褒めてんのか?」
「褒めてるよ。そういう単純な言葉が、今の俺にはちょうどいい」
聡は俯きながら笑った。
その笑みは、昨日より少しだけ軽くなっていた。
「腹減ってねえか?」
「……そういえば、少し」
「なら、あそこの食堂行くか。覚えてるか、“まるしん”?」
「え、まだやってんの?」
「やってる。おばちゃん元気だぞ」
甲斐に連れられ、聡は商店街の奥にある食堂へ向かった。
木製の引き戸を開けると、出汁と炒め油の香りが一気に押し寄せてくる。
「いらっしゃいませって、甲斐くんじゃない! ひさしぶり!」
店主のおばちゃんが満面の笑みで声を上げた。
その様子に聡が思わず目を丸くする。
「お前、相変わらずここ来てんのか」
「たまにはな」
「すげえな……変わらなすぎて」
席につくと、おばちゃんが水を置きながら聡を見た。
「そっちの子、見たことあるねぇ。甲斐くんの同級生?」
「佐久間聡です……七年ぶりに帰ってきました」
「ああ! 思い出した思い出した。あんた、よく甲斐くんと来てたよねえ。元気だった?」
聡は少しだけ視線を落とし、答える。
「……まあ、なんとか」
おばちゃんは深く聞かず、にこにこと注文を聞いた。
それが、聡には救いだったようだった。
料理が届くと、聡は箸を持つ手を止めて香りを吸い込んだ。
「……うわ、懐かしい。まるしんの味だ」
「だろ」
「これ食べたら、少しは元気出る気がする」
そう言って野菜炒めを口に運んだ瞬間、聡の表情が少し崩れた。
「……あったかいな」
「そりゃ熱々だからな」
「そうじゃなくて……なんか、“生きてる”って感じする」
その言葉はあまりに静かで、あまりに真剣だった。
甲斐は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
食事を終えると、二人は店を出た。
昼の陽光が商店街の通りにまっすぐ差し込み、風がやわらかく吹いてきた。冬の冷たさはまだ残っているが、どこか温度を含んでいる。
「……少し歩き疲れたかも」
「じゃあ帰るか?」
「いや、もうちょい歩きたい。せっかく来たし……見ておきたいものがあるんだ」
「どこ?」
聡は少し迷ってから言った。
「……河川敷」
甲斐は目を瞬いた。
「そこ行くの、久しぶりだな」
「ああ。俺にとっては……たぶん、最後にここに帰ってくるきっかけになった場所だと思う」
「……?」
「行けばわかるよ」
聡の声は、覚悟と迷いの両方を含んでいた。
河川敷へ向かう道は、かつて二人が自転車で何度も走った道だった。
舗道の端にはまだ冬の枯れ草が残り、風に押されてさわさわと揺れている。遠くでは、川面に光が跳ねるように瞬き、流れる音が微かに届いていた。
聡はその道を、ゆっくりと、まるで足元を確かめるように歩いていた。
地面を踏むたびに、何かの記憶が足裏を通して体に戻ってくるようでもあった。
「ここさ……最後に来たの、七年前の春だったんだよ」
「聡が町を出る前日か?」
「ああ。甲斐には言わなかったけどさ、ここに来て、ひとりでずっと川見てたんだ」
甲斐は意外だった。
聡が町を出た日、突然連絡もなく消えて、そのまま行方がわからなくなった。だから聡にとって“前日”のことなど、想像するしかなかった。
「……何考えてたんだ?」
「何にも考えてなかった。何にも考えられなくなってたんだと思う。家でも学校でも、自分の居場所が見つからなくて……川だけが、ただ流れてて。俺がどこにいようが関係なく流れ続けてて……それ見てたら、なんでか涙が止まらなくなった」
聡は苦笑するように言った。だが、その声音にはうっすらと震えがあった。
「泣いたって言うのか、お前が」
「言いたかねえけどな。自分でもびっくりするくらい、なんか全部が崩れたんだよ。あの日」
「……それで町を出たのか」
聡は頷き、ゆっくりと吐く息を川のほうへ向けた。
「逃げたんだよ。全部から」
河川敷の階段を下りていくと、土手には去年の草の痕がまだ残っていて、踏めばぱきりと小さな音を立てる。その感触が、聡の言葉と妙に重なって感じられた。
川辺へ出た。
ゆるやかな流れが陽光を切り裂き、銀の帯がゆらゆらと揺れている。河原の石は冷たく、昼になってもほのかに湿り気を帯びていた。
二人は並んで立った。
風が川面を撫でるたびに薄く波立ち、その音が遠い記憶の底をくすぐるようだった。
「ここ、変わってないな」
「川は変わらないよ。流れ方は季節でちょっと違うけど」
「……あの日も、こんな風だった」
聡はしゃがむと、手で石を拾った。
細長い石。その形を見つめながら、聡はぽつりとこぼす。
「俺さ、七年の間で、何度も終わりみたいな場所を通ってきたんだ。金が尽きて、寝る場所もなくて、誰にも頼れなくて……でも、なんとかなるって思えたことは一度もなかった」
「……」
「ずっと、風に押されて生きてる感じだった。自分で決めて動いたことなんて、ほとんどなかった。行き場がなくなるたびに、ただ次の場所に流れていくだけで」
甲斐は聡の横顔を見た。
その表情の中には後悔も痛みもあったが、それ以上に疲労が積み重なっていた。
「でもさ、不思議なんだよ。昨日、甲斐と話して……飯食って……庭の木見て……あの家の匂い嗅いで……」
「……」
「やっと息ができた気がした。七年分いっきに吸ったみたいに、胸が痛いくらいだった」
言葉が少し詰まる。
聡は川面を見つめたまま、低く呟く。
「俺、まだここにいてもいいのか?」
甲斐は少しだけ笑った。
しかしその笑みは、胸の奥の締めつけを隠すためのものだった。
「当たり前だろ」
「……ほんとに?」
「この町からお前を追い出したやつなんていねえよ。勝手にいなくなっただけだ」
「……それは、そうなんだけどさ」
「帰ってきたなら、それでいいだろ。ここは、お前の場所でもある」
聡は何かを飲み込むように、ゆっくりと頷いた。
その頷きは小さかったが、確かな重みを持っていた。
しばらく川を眺めていると、聡がふいに言った。
「……甲斐。俺さ、ひとつだけ……話しておきたいことがある」
「無理に話さなくていいぞ」
「いや。話す。逃げてるわけにはいかないから」
聡は川辺の大きな石に腰を下ろし、組んだ手をじっと見つめた。
その手は小刻みに震えていた。
「七年前に町を出たのは……進学がうまくいかなかったからとか、家族と喧嘩したからとか、そういう単純な理由じゃないんだ」
甲斐は黙って頷き、聡の言葉を待った。
「俺さ……あの頃、自分のことが嫌いで仕方なかったんだよ。何をしても中途半端で、誰かの期待に応えられなくて、家にいても、学校にいても、友達といても……どこにいっても、“誰でもない自分”だった」
「聡……」
「ある日、耐えられなくなって……衝動みたいに、町を出たんだ。誰も見てないと思ってた。でも本当は、自分自身から目をそらしたかっただけなんだよ」
甲斐はそっと言葉を挟む。
「それで、七年もーー」
「流れ続けた。誰かに必要とされてる気がしないまま、ただ時間が過ぎてく。失敗すると、また逃げて……そのうち、失敗したのが自分なのか場所なのかも分かんなくなった」
聡の声は低く、しかしひどく正直だった。
「帰りたいと思ったこともある。でも、帰る資格なんてないって……何度思ったか分からない。戻っても変われないなら、意味がないって」
「……よく、生きてたな」
聡は少しだけ苦笑した。
「自分でも驚いてるよ。こんなに弱くて、よく道をつながせてきたなって。でも……たぶん、どこかで、誰かにまだ会える気がしてたんだ。こんな俺でも」
「会えたじゃん」
聡は顔を上げた。
まっすぐ甲斐を見る。
「お前じゃなかったら、俺……帰れなかったよ」
その目に宿ったかすかな光を見て、甲斐は深く息を吸った。
「……だったら、もう逃げんなよ」
聡はゆっくりと頷く。
「逃げねえよ。もう逃げる場所もないしな」
「あるだろ」
「え?」
「俺ん家だよ。逃げたい時は逃げればいい。でも戻る場所はちゃんとある。お前の意思とか資格とか関係ない」
聡は驚いたように目を瞬きーー
そして、ゆっくりと笑った。
その笑みは、七年前にはなかった種類のものだった。
弱さを認めた人間だけが浮かべる、静かな笑み。
帰り道、風が少し強くなった。
枯れ草がかさかさと音を立て、空の雲が流れを早める。
「なんか、軽くなった気がする」
「気のせいじゃねえよ」
「だといいけどな……川ってすごいな。流れてるだけで、なんか……許してくれる感じがする」
「聡の方がよっぽど流されてたけどな」
「おい。そういうこと言うか」
軽口を返す聡の声は、昨日とは違っていた。
言葉の重さが少し薄れ、呼吸が深くなっている。
町へ戻ると、午後の光が商店街を明るく照らしていた。
パン屋の前を通ると、焼きたての甘い匂いがふわりと漂う。
「甲斐……」
「ん?」
「帰ってきたの、間違いじゃなかったかもしれない」
「間違いじゃねえよ」
「そう思えるの、何年ぶりだろうな」
聡は小さく笑い、その笑みが春の風に溶けていった。
夕方、家に戻ると、甲斐の母から届けられた野菜の段ボールが玄関に置かれていた。
古い段ボールにぎっしり詰められた里芋や大根、人参。それを見た聡は少し驚いたように言った。
「すげえ……こんなにたくさん」
「まあな。田舎の習慣みたいなもんだ」
「……なんかさ。こういうの、やっぱり好きだわ。知らない土地だと、こんなの絶対ないし」
聡はその野菜の山を見つめながら、ふと静かに呟いた。
「ここに帰ってきた意味……少しだけ分かった気がする」
「お前が分かればそれでいいよ」
「いや……たぶん、まだ全部は分かってない。でも……確かに何かが始まろうとしてる気がするんだ」
その言葉を聞きながら、甲斐は思う。
聡はまだ深い場所にいる。
だが、光を見つけはじめている。
そしてーーそれはまだ始まりにすぎない。
夜が訪れた。
夕飯を済ませ、風呂上がりの湯気が抜ける頃、聡は縁側に出ていた。
月は半分欠けていて、淡く庭を照らしている。柿の木の影が土に細く伸び、その線が微かに揺れていた。
甲斐も隣に腰を下ろす。
「冷えるぞ」
「大丈夫。今日一日で、だいぶ落ち着いた」
「そうか」
「七年ぶりに、心臓がちゃんと動いてる気がしたんだよ」
その言葉に、甲斐は静かに耳を傾ける。
「怖かったんだ。帰るのも、話すのも、生きるのも。何もかも。でも……怖いまんまでも、歩けるんだな」
「お前はずっと歩いてきただろ」
「いや……あれは流されてただけだよ。でも、今日は違った。自分の足で歩いた。自分で選んで」
甲斐は月を見上げ、吐く息をゆっくりと空へ溶かした。
「……じゃあ、明日も歩けばいい」
聡は振り向く。
「明日も?」
「ああ。無理しなくていい。でも、歩けるなら歩けばいい。風に押されるだけの人生なんて、もうやめろ」
聡は目を細めた。
「……お前って、変わってないよな」
「お前が変わりすぎなんだよ」
二人はとりとめもなく笑い合った。
その笑い声が、古い家の柱にやわらかく反響する。
その瞬間、甲斐は思う。
ーー帰ってきたのは聡だけじゃない。
失われた時間の中に置き去りにしたものも、少しずつ戻ってきている。
風の切れ間に差し込む光のように。




