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帰郷

 山あいの小さな町に、遅い春が忍び寄る気配があった。

 その日、空は薄い灰色を帯びていたが、雲の奥から淡い光がこぼれ、冬の間ずっと沈黙していた町並みをやさしく照らしていた。風はまだ冷たく、駅前のバス停の古びた屋根を鳴らし、舗道に散らばった枯れ葉をそっと転がしていく。


 甲斐は、仕事の終わりにふと駅前へ足を向けていた。

 特に理由があったわけではない。ただ、胸の奥に小さなざわめきがあった。春が来る前の、あのかすかな不安と期待が混ざり合ったような兆し。季節の変わり目には、よくこうした気分になる。それを静めるように、甲斐はコートのポケットに手を入れ、駅入口に佇んだ。


 夕方の列車が発った後の駅は、まるでだれかに置いていかれたかのように静まり返っていた。

 電光掲示板が次の列車の時間を淡々と示し、ベンチには古い広告が貼られたまま。周囲の店はシャッターを下ろし、少し古い街灯が頼りなく光を灯している。冬の名残がまだ濃く残る町に、春はようやく手を伸ばし始めていた。


 そんな中で、甲斐はふと、一本の細い影に目を奪われた。


 駅前ロータリーの端、古いベンチの脚に寄りかかるように立っていた人物。

 どこか頼りなげで、風に吹かれれば消えてしまいそうな背中。だが、見覚えがある。


 胸の奥に、まるで忘れていた痛みが蘇る。

 甲斐は無意識に一歩踏み出していた。


「……さとる?」


 自分の声が風に溶ける前に、影の主はゆっくりと振り返った。


 その顔を見た瞬間、甲斐は息を呑んだ。


 七年ぶりだった。

 かつて共に笑い、走り、夢を語った友ーー佐久間聡がそこに立っていた。


 だが、その姿は記憶の中の聡とは違っていた。

 頬はこけ、目の下には深い影。肩にかかるリュックは擦り切れ、まるで長い旅路の果てを思わせる。全身に疲労が染みつき、声を出すだけで崩れ落ちそうな危うさがあった。


「よお……甲斐。久しぶり……だな」


 笑おうとしたのだろう。だが、その笑みは痛々しいほど弱々しかった。

 甲斐は胸の奥がじくりと痛むのを感じた。


「……帰ってきたのか」


 問いかけられた聡は、わずかに目をそらして言った。


「帰ったって感じでも……ないんだけどな。なんていうか……途中、ってやつだよ。旅の、途中駅みたいな」


「この町が、か?」


「うん。風が吹くまま……寄りかかっただけ、って言えば近いかもな」


 そう言うと、聡はベンチに腰を下ろした。

 座った拍子にリュックの金具が小さく鳴り、その音が妙に甲斐の耳に残った。


 どれだけ過酷な旅をしてきたのか、この男は。


「……聡。とりあえず、うちに来いよ」


「悪いって。急に押しかけるのは……」


「当てもないんだろ?」


 その一言で、聡の肩がわずかに揺れた。

 図星だったのだ。

 甲斐の記憶が正しければ佐久間家はこの七年の間にこの町を出ていた。


「……まあ、一晩だけ、頼る」


 その“頼る”という言葉が、七年という空白を一瞬で縮めた気がした。




 甲斐の家は、祖父の代から受け継いだ古い木造の家だ。

 数年前、家族は近くの新しい家に引っ越すと言ったが、甲斐はここに残ることを決めた。

 冬の冷気がまだ家の中に残っているが、暖房をつけると木の香りがやわらかく立ち昇り、どこか懐かしい温もりが広がる。階段の軋む音、台所の窓ガラスの小さな歪み、壁に染み付いた木の色ーーすべてが時間を積み重ねてきた証だ。


 台所で夕食の準備をしながら、甲斐は鍋に出汁を張った。

 昆布が静かに揺れ、湯気がふわりと上がる。その香りが、ほんの少しだけ心をほぐしてくれる。


「……こういう匂い、久しぶりだな」


 いつの間にか背後に立っていた聡が呟いた。

 甲斐は振り向かずに答える。


「鍋の匂いが?」


「いや……“帰ってきた匂い”だよ。場所の匂いっていうのかな」


 その言葉に、甲斐は火を弱めたまま、一瞬だけ目を閉じた。

 “帰ってきた”と言った。

 だが聡の声には、温もりと同じくらい深い迷いが滲んでいた。


「しばらく食ってなかったのか?」


「うーん……食べてはいたけどな。あったかいものが、しばらくなかったかもしれない」


「じゃあ今日は食え。いくらでもある」


「……ああ」


 二人は鍋を挟んで向かい合った。

 湯気の向こうで、聡の表情はどこか影を落としている。


「昔さ、お前ん家の鍋、よく食ったよな」


「高校の時な。お前、毎回鍋の残り全部食ってただろ」


「だってうまかったんだよ。甲斐の作るやつ」


「うまいのは出汁だよ。それに俺じゃなくて母さんが作ったやつだ」


 聡は少し笑った。

 その時、ほんの一瞬だけ、昔の聡が顔をのぞかせた。


 だが会話の最中、聡はふと黙り込むことがあった。

 視線が宙に浮き、どこか遠い場所を見ているような目。

 そのたびに、甲斐は胸の奥に重いものを感じた。


「聡、何があったんだ?」


 静かに問うと、聡は動きを止めた。

 箸を置き、大きく息を吐く。


「まだ、自分でも整理できてない。失ったものが多すぎた……そうとしか言えない」


「失った、って……」


「家族も、仲間も、仕事も。全部だよ」


 その声は、鍋の湯気よりも薄く、頼りなかった。


 甲斐はそれ以上追及しなかった。

 ただ、こう言った。


「話したくなったら話せ。今じゃなくていい」


 聡はゆっくりと頷いた。


「……ありがとな」


 それだけで、十分だった。




 夕食が終わり、風呂を済ませた後、聡は部屋の隅に腰を下ろした。

 薄い布団と枕。

 旅の途中で手に入れた安宿のそれよりずっとましだろう。


「なあ、甲斐」


「ん?」


「……ここってさ。変わってないな」


「まあ田舎だからな。変わる方が珍しい」


「そうか……変わらない場所って、あるんだな」


 その言葉には、本気で驚いている響きがあった。


「お前のほうが変わったよ、だいぶ」


「……だよな」


 聡は苦笑した。

 リュックを抱えたその姿が、やけに小さく見えた。


「今日はもう寝ろよ。疲れてんだろ」


「……ああ。ありがとう、甲斐」


 聡は布団に体を沈めた。

 目を閉じると、どこか安堵したように息を吐いた。


 甲斐は灯りを落とし、部屋の隅からその姿をしばらく見つめていた。


 ーー七年ぶりに、聡がここにいる。


 その事実が、なぜか胸を熱くした。





 夜が深まっていくにつれて、古い家は静けさを濃くしていった。

 遠くで風が瓦を鳴らし、木枠の窓がかすかに震えている。街灯の薄明かりが障子に滲み、室内の暗闇は淡く呼吸するように揺れていた。


 甲斐は布団に潜りながら、眠れないまま天井を見上げていた。

 横の部屋で寝ているはずの聡が、何度か寝返りを打つような微かな音が聞こえる。落ち着かないのだろう。その気配が、木造の家の骨組みを通じて伝わってきた。


 ーー七年の空白は、こんなにも重いのか。


 胸の内側に、言いようのないざらつきが広がる。

 会えた喜びよりも、帰ってきた友の傷の深さの方が勝っていた。笑顔の裏側、言葉の切れ端、そのすべてが何かを必死に隠しているようだった。


 ーー失ったものが多すぎた。


 聡のその一言が頭から離れない。


 甲斐は目を閉じた。

 だが浅い眠りへ落ちる前に、隣の襖の向こうから音がした。


 布団が擦れる音。

 続けて、小さく息を飲むような気配。


「……聡?」


 返事はない。

 ただ、押し殺した呼吸が壁越しに震えていた。


 甲斐はそっと布団を抜け出し、襖に手をかけた。




 薄暗い部屋の中で、聡は布団の上に起き上がっていた。

 背を丸め、両手で頭を抱え、震えるような息を繰り返している。


「……聡、大丈夫か?」


 声をかけると、聡は肩を大きく揺らし、こちらを振り向いた。

 目が赤い。泣いているのではない。睡眠の深みに落ちきれず、悪夢から引き戻された者の目だった。


「……悪い。起こしたか」


「いや。今の……?」


 聡はしばらく口を閉ざし、喉の奥で音を転がすように言葉を探した。


「……夢を見てたんだ。嫌なやつを」


「昔のことか?」


「昔……なのかな。なんか、いろんなものがごちゃ混ぜになってて……でも、たぶん現実なんだよ。俺が逃げてきたものっていうか」


 聡の声は掠れている。

 暗闇の中、その輪郭がひどく弱々しく見えた。


「ここじゃ眠れそうにないな。体は疲れてるのに、どこも落ち着かない」


「……じゃあ、少し歩くか」


 甲斐がそう言うと、聡は意外そうに目を瞬いた。


「夜中にか?」


「寝れない時は散歩がいちばんだろ。昔もそうだった」


「……ああ。よく合宿とか抜け出してたな、俺ら」


 聡は微かに笑った。

 その笑みを見て、甲斐は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。




 町は夜の底に沈んでいた。

 街灯がぽつりぽつりと続き、冷たい風がアスファルトを撫でる。

 夜の空気はまだ冬の名残を孕み、吐く息は白く溶けていった。


 二人は並んで歩いた。

 足音が夜道に規則正しく打ちつけられる。


「……この道も変わってないな」


「そりゃな。あの商店の看板なんて、俺が子どもの頃からずっとあれだし」


「ほんとだ。色褪せすぎて逆にすげえよ」


「父さんの友達がやってる店だよ。もう閉めたけどな」


 会話は途切れながら続き、沈黙は不思議と苦ではなかった。

 聡は時折、街灯を仰いでいた。光を確かめるように、何かを探すように。


「甲斐さ」


「ん?」


「……なんで、俺を家に入れた?」


「そりゃ、お前だったからだよ」


「七年もほったらかしてたのに?」


「関係ない。友達だろ」


 聡は歩みを止めた。

 風が二人の間を割って吹き抜けていく。


「……そんな言葉、久しぶりに聞いたな」


 その声は、聞く者の胸を痛ませるほど静かだった。


「俺さ……気づいたら何もかも失くしててさ。金も仕事も、連絡先も、戻る場所も。どれを選んでも間違いにしかならなくて、進む先も真っ暗で……」


「だから旅してたのか?」


「旅……って言うと聞こえがいいけどな。実際は逃げてただけだよ。何から逃げてるのかも分からないまま」


 聡は、ポケットに突っ込んだ手を震わせた。

 その震えを誤魔化すように、深く呼吸する。


「途中で思ったんだ。どっかで終わらせなきゃって。どこでもいいから、一度だけ本当の“終点”に辿りつかないと、何も始まらないって」


「それが……この町だった?」


「分からない。たまたまかもしれない。でも……気づいたら電車に乗ってて、気づいたら駅を降りてた。そしたら……お前がいた」


 甲斐はそれを聞いて、胸の奥がかすかに熱くなった。


「……偶然でもいいさ。来たんなら、それで十分だろ」


 聡は顔を上げた。

 その目には、わずかだが光が戻りつつあった。




 二人が歩きついたのは、町を見渡せる小さな丘だった。

 桜が早くも蕾をつけ、枝先を夜空へ差し出している。春の予感がそっと漂っていた。


「ここ、覚えてるか?」


「覚えてるよ。俺らの……逃げ場所だっただろ」


 高校時代。

 試合で負けた帰り道、恋に破れた夜、進路に迷った時。

 何度もこの丘に来て、ただ並んで座っていた。


 甲斐はベンチに腰を下ろした。

 聡も静かに隣へ座る。


「……なあ、甲斐」


「ん」


「俺さ。ほんとはずっと迷ってるんだよ。帰ってきてよかったのかどうかも、自分で分からない」


「帰ってくる場所ってさ。自分で決めるもんじゃないだろ。気づいたら帰ってきてるものじゃないのか」


 聡はしばらく黙っていた。


「……そうかもな。決めたんじゃなくて、帰ってきてた……のかも」


 風が吹いた。

 その風は冷たかったが、どこか柔らかさを含んでいた。


「聡。お前、まだ何も終わってないよ」


「……だといいけどな」


「旅の続きは、ここで始めればいいだろ。ただ逃げるんじゃなくて、今度は前へ進むためにさ」


 聡はゆっくりと目を閉じた。

 その姿は、ようやく肩の力を抜いた子どものようにも見えた。


「……ありがとう、甲斐」


「別に礼なんかいらねえよ。友達なんだから」


 しばらく二人は言葉を交わさず、ただ夜を見ていた。

 遠くで犬が吠え、電車の走る音がかすかに聞こえる。

 それらすべてが、町の静かな呼吸のようだった。




 家に戻る頃には、空の色がほんのり薄くなり始めていた。夜明け前の、世界が息を潜める時間帯だ。


 玄関の戸を閉めると、木の匂いが静かに漂った。

 聡は靴を脱ぎ、息を吐いた。


「……少し、眠れそうだ」


「なら寝とけ。俺も少し休むよ」


「甲斐」


「ん?」


 聡は何かを言おうとして、言葉を探すように視線を彷徨わせた。

 やがて、そっと口を開いた。


「……ただいま」


 甲斐の胸に、何かが深く沈んだ。

 それは長い間封じていた記憶の扉をそっと開くような、優しい痛みだった。


「おかえり、聡」


 その言葉は、朝の気配に溶けるように静かだった。




 聡が再び眠りについた後、甲斐は居間でひとり、少し早い朝食をとっていた。

 湯気のたつ味噌汁の香りが、体の奥まで温めていく。


 ふと窓の外を見ると、東の空が淡い橙色に染まり始めていた。

 夜が明ける。今日が始まる。


 ーー聡が帰ってきた。


 それは別に強く望んでいたことではなかったし、予想もしていなかった。

 だが、彼がいてくれることが、甲斐の中で確かに新しい何かを生み始めていた。


 七年という時間は長かった。

 しかし、友を迎え入れるための一瞬よりも長いものなど、この世界にあるだろうか。


 甲斐は箸を置き、静かに息を吐いた。


 これからの日々がどうなるかはわからない。

 聡が抱えている闇の深さも、旅の果てに何を見てきたのかも。


 だがーー


 今はただ、帰ってきた友のために、灯りを絶やさずにいること。

 それだけで十分だと、心のどこかで強く思った。




 聡が目を覚ましたのは、それから数時間後だった。

 部屋の襖を少し開け、遠慮がちに顔を出す。


「……おはよう」


「おう。よく眠れたか?」


「……少しな。でも、さっきよりはずっとマシだ」


 聡の声はまだ弱々しいが、昨夜のような翳りは少し薄れている。


「腹減ったなら飯あるぞ」


「……食う。なんか、ようやく腹が空いた気がする」


 それは小さな変化だった。

 しかし、長い暗闇を歩いてきた者にとって、その一歩はあまりにも大きい。


 甲斐は湯気の立つ味噌汁を聡の前に置いた。

 その瞬間、聡はほんの少しだけ目を細めた。


「……あったかい匂いだな」


「そりゃ味噌汁だからな」


「そうだけど……なんか、それ以上の匂いがする」


 聡は箸を取り、ゆっくりと口へ運んだ。


「……うまい」


「そりゃよかった」


 短いやり取りの中に、七年の空白がふと埋まるような瞬間があった。


 その時、甲斐は思った。

 聡の帰郷は、ただの“立ち寄り”ではないのかもしれないと。


 風に吹かれて流れ着いたのではない。

 風の切れ間に、ようやくたどり着いた場所。


 ーーこの町が、そして自分が、その居場所になれるのなら。


 甲斐は静かに胸の奥で決意を固めた。

 聡が再び歩き出すまで、見届けようと。

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