【1-1-3】
夜の街は昼の顔から表情を一変させる。見慣れた近隣の家々は照明が消え、生活感のないものになっている。昼であれば一人や二人視界に入るものだが今は誰も見えない。気配すら感じることはない。一定の距離しか照らさない頼りない街灯か自動販売機の安っぽい光が、俺たちにとっての数少ない寄るべだった。
それでも両親の許可を得ずの行動であるということ、それも深夜の、というのは否が応にでも興奮させられた。
「ねえねえ! 夜の街ってこんな感じなんだねー! 何だか知っている街とは全然違く感じる! 全く知らないと場所に来てしまったみたい!」
「あんまり騒がないでよ? でもホントにね。俺なんて久々にこの辺りを見るわけだから余計にそう思えるよ」
俺は姉に車椅子を押して貰いながら、周りの景色を眺めていた。自分の覚えていた風景とは異なる部分もあり若干の寂しさを覚えるものの、この夜のとばりに包まれた未知の光景にその感傷も打ち消されてしまう。
車椅子での移動ではなく、自分で歩く事が出来ればどれ程良かっただろうということは考えないようにしていた。
誰かに見つかったらまずいということもあり、周囲を警戒しながらに散策を続ける。時たま起きる風音に二人でビクッと身体を強張らせた時には、互いの顔を見ながら笑い合った。
しかし子供が車椅子を押しながら移動できる距離にも限界がある。俺たちは程なく帰路につくことにした。
「ぶー。もっと✖️✖️と色々行きたかったなあ」
「ありがとね。でもそろそろ帰らなきゃ」
『続きはまた今度ね』なんて心にもないことを言って慰める。心にもないというのは事実次があるか分からないからだ。ただそれでも、そんな事を口に出すだけで未来がまだ繋がっているような気がした。
帰り道は二人とも無言だった。姉の足音と車椅子の車輪の音が響いて嫌に不快に感じた。家を出た時にはあんなにも心躍っていたというのに。ただいつもの日常に戻るだけだというのに。
あっという間に自宅のマンションにつく。また病室で窓を睨む生活が始まるのかと思うと、当然のように気持ちは沈んでいった。だがそんな俺の考えは、やはりこの姉によってあっさりと打ち破られることになる。
「ねえ✖️✖️、久々にあそこに行ってみない?」
「あそこって、……もしかして屋上のこと? 俺こんなんじゃいけないよ」
「なーに私が担いでいくから、任しておきなさい! それに久々に行ってみたくない?」
「……そりゃ行ってみたいけども」
「じゃ決まりね! ちょっとだけちょっとだけー! 今なら夜景なんかも見えたりなんかしてー!」
姉の言葉に後押しされエレベーターで十階を目指す。途中誰かに見つからないかとヒヤヒヤしたが、俺たち二人は何事もなく十階にたどり着いた。十階には住居はなくただ屋上へ続く階段があるのみだ。俺は車椅子を降り姉の背に乗せてもらいながら階段を一歩ずつ登っていく。姉の足音と息遣いだけが辺りに響いていた。屋上へ続くドアへと辿り着き、開錠厳禁と書かれた張り紙に若干の罪悪感を感じながら、カギを開けて外へ出た。
屋上というのは俺たちにとっては特別なものだった。親に怒られた時、友達と喧嘩した時、落ち込んだ時、決まってここに来た。俺がいる時は姉が迎えに来て、姉がいる時は俺が迎えに行った。どちらかがまだ帰りたくない時は、帰りたくなるまで一緒に眼前に広がる景色を眺めていた。
「うわー! ぜんっぜん何にも見えないねー! 夜景とか見えるかと思ったんだけどー!」
「ちょっと時間的に微妙だったのかもしれないね。雲もあるから星も見えない」
「うーんもう少しフェンスの方行って見てみよ?」
「あんまり行くと危ないよ? なんだか風も強いし。それに本当に少ししたら帰るからね?」
話している通り屋上は思った以上に真っ暗で、雲を通して若干の月明かりはあったものの、期待していたような光景は映し出されていなかった。
少しでも外を見ようと姉と共にフェンス際へと歩み寄る。姉はまだおんぶを続けてくれようとしたが、風に煽られると不安定なこともあり、俺はフェンス際で降り金網にもたれる形で立つことにした。いつ以来かの二人で立って話すことが出来た時間だった。
「あ✖️✖️、やっぱり身長伸びた?」
「測ってないけども伸びたかな?」
「伸びたよー! 前よりも差がつけられてる気がするー! しっかし、あははっ。フェンスギリギリから見てもホント全然なんにも見えないねー」
「姉ちゃん本当に危ないから……」
取り留めもない会話が続く。少しの時間ではあるが昔に戻ったような感覚になる。昔のように姉とただ屋上にいるような、そんなあり得ない幻想。
そして、これから先今までのような日々が返ってくるんじゃないかという起こり得ない空想をした。
「……またこれたらいいな」
ポツリと本音が出る。途端に涙が溢れだす。堰き止めていた想いが溢れ出して抑えが効かなくなる。何故俺だったのか、俺でなければなからなかったのか、数え切れない程に考えた答えの出ない問いが頭の中を駆け巡る。
「大丈夫だよ! ✖️✖️は良くなってまた戻ってくるんだもん」
姉が俺を抱きしめようとする。ただ俺はその手を払いのけた。
「……無理だよ。俺はもう自分がどういう病気かも知ってる。それがどういうものなのかも」
姉が息を呑む。動揺していることが微かな月明かりからも見てとれた。
「父さん達が話している時にコッソリと聞いたんだ。寝てると思われていたんだろうけども。それにあの態度を見ればそんな簡単なものではないってことも分かるよ……」
自分でもわかるくらいに不機嫌な声で話を続けた。別に姉を責めたい訳ではなかった。ただ対等な関係だった姉からは、誰しもが掛けてくるような安易な言葉で慰めて欲しくはなかったのだ。俺は姉から目を背けフェンス越しの外の風景へ視線を移した。少しの間俺も姉も言葉を発さず、風の音が聞こえるだけだった。
「……それでも私は✖️✖️が回復するって信じてるよ」
まだそんなことを言うのかと姉に視線を戻し、今度は俺が息を呑む。姉の顔には大粒の涙が溢れていて、それでも抑えようと顔を歪め手で目を擦る様子は、俺が知る姉の姿からは到底想像できなかった。
「✖️✖️はそんな事ありえないって言うかもしれないけども、私は信じてる。絶対に治るって。また一緒に過ごせるって。心からそうだって信じてる」
「……本気で思ってるの?」
「当たり前でしょ!! 私のたった一人の弟なんだから! 何があったって私が絶対に守るんだから!」
『だからそんなこと言わないで〜』と涙声と嗚咽が混ざり泣きじゃくる姿を見て、なんだか俺まで涙が溢れてきた。俺たちは力無くその場にしゃがみ込み、それから数分間ただただ泣き続けた。
「あー泣いたのなんて久々だなぁ……」
「いやホントにねー。✖️✖️が泣いたの見たの、私が✖️✖️のお気に入りのぬいぐるみ破っちゃった時以来じゃない?」
「あーそんな事もあったね。いやでもそれは姉ちゃんが悪くない!?」
二人で泣きあった後、険悪だった空気はすっかり元通りになっていた。
「まあまた俺なりに頑張ってみるよ。今度は不貞腐れることなくね」
「そーだよー。次同じ事言ったら今度はパンチするからねー!」
シュッシュッと拳を繰り出す姉に苦笑を禁じえなかったが、この姉に救われたことも間違いなかった。心の中で感謝を伝えつつ、俺はフェンスに持たれながら立ち上がる。
「よしじゃあちょっと長居し過ぎたし、帰ろうか」
「ん。そだね。そろそろにしよか。またこようね」
「ん。また、ね」
二人でこれからも先があることを確認し笑い合う。明日からはもっと前向きに生きよう。病院や家族にも話を聞いてみよう。そうすれば、違った未来を迎えられる可能性もあるかもしれない。
真っ黒の雲に覆われていた月が姿を現し、辺りを照らし始めた。それはまるで映画の演出のようで、俺たちのこれからを明るく照らしてくれているようだった。
今日この屋上にきて本当によかったと考えながら、姉が差し伸ばしてくれた手を掴もうとした。
――瞬間、強風に見舞われた。
予想していなかった突風に体勢を崩す。慌ててフェンスへ体重をかける。今さっきまではビクともしなかったはずのフェンスが、バキバキと嫌な音を立てながら崩れ、俺は外へと投げ出された。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
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