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2話「穏やかな時間」

お互いの息づかいが、静かな部屋に響く。


晋也さんの匂いと体温が、懐かしくて、安心する。


「柊とこうやって寝るの、小学生のとき以来だな」


晋也さんの声が、闇の中で優しく響いた。


「あ、一緒に晋也さんの家でお泊まりしたときの?」


「そうそう、柊も覚えてたんだ?」


「覚えてるに決まってんじゃん。あの時、すげー嬉しかったんだから」


「そっかぁ……そういえば、あの時は柊が先に寝ちゃってさ…あの時の柊の寝顔、すっごく可愛いと思ってたなぁ」


晋也さんの言葉に、俺は思わず顔を赤くした。


「え?」


「ふふっ、なんか昔の柊が戻ってきたみたいだな。あの頃はもっと素直で可愛かったのに」


「…昔といえばさ、俺が小学1年生で、晋也さんが高3のときに、俺が晋也さんに言ったこと覚えてる?」


俺は、少しだけ意地悪な気持ちで尋ねた。


「うーん……何かあったっけ?全然覚えてないなぁ」


「ま、覚えてるわけないか」


少し残念な気持ちになりながらも、そう呟いた。


「もしかしてだけど、柊が『大人になったら晋也兄さんと結婚する!』とか言ってたやつ?」


晋也さんの言葉に、俺は慌てて否定した。


「違う!『晋也兄さんと結婚したら毎日料理作ってあげる』って言ったんだよ」


「どっちでも同じじゃないか?」


晋也さんがくすくす笑う。


「いや、違うから。全然違うから!」


「そうなの?まあどっちにしろ懐かしいなぁ……あんなに可愛かった柊がもう高校生かぁ」


「…そりゃもうむさ苦しいDKだけど」


「ふっ、今も可愛いよ」


晋也さんの言葉に、俺は返事ができなかった。


心臓がトクン、と大きく鳴った。


「……」


「どした?眠れない?」


「…眠いからもう寝る」


照れ隠しでそう言うと、晋也さんは優しく笑った。


「そっか。おやすみ、柊」


「おやすみなさい」


背中に感じる晋也さんの体温。


優しい香り


懐かしくて、温かくて


そして何よりも安心する。


心臓がトクントクンと、普段よりも早く脈打っているのがわかる。


ドキドキしてる


だけどそれよりも、もっと大きな感情が俺の胸を満たしていた。


「……っ、」


また、涙がこぼれた。理由はわからない。


悲しいわけでも、苦しいわけでもない。


ただ、ただ安心して、温かくて


そして少しだけ切ないような、複雑な感情が混じり合って涙があふれた。


この温かい場所で、俺は初めて、心から安らぎを感じていた。


翌朝、午後6時


いち早く目が覚めた


朝特有の静寂に包まれた部屋


隣でまだ晋也さんは眠っている。


起こさないようにゆっくり起き上がると


ベッドを降りて静かにリビングへ向かった。


晋也さんが起きてくる前に料理を作ってあげたら喜んでくれるだろうと考え


冷蔵庫の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。


中には、使いかけの調味料が整然と並び


コンビニの惣菜がいくつか、きちんと日付順に収納されている。


その奥には、ラップに包まれた冷凍ごはんが積み重ねられ


手前には卵が数個と


鮮度が保たれた野菜がわずかに顔を覗かせていた。


「意外とちゃんと入ってるな……」


思わず独りごちる。


会社員の一人暮らしなんて、もっと荒れ放題の冷蔵庫を想像していたけれど


目の前にある光景は、想像以上に整頓されていて


晋也さんの几帳面な性格が滲み出ていた。


彼の生活の丁寧さが、こんなところにも表れていることに少しばかり感心する。


野菜室をそっと開けると、奥の方にしなびかけた小松菜が一本と


使いかけの半端な人参が転がっていた。


完全に駄目になっているわけではないが


早く使ってあげなければという気持ちになる。


「……よし」


俺は決意を込めて小さく呟き


キッチンカウンターに置いてあった清潔なエプロンを腰に巻いた。


キュッと紐を結ぶと、心が引き締まるような気がする。


冷凍庫から取り出した鮭を、流水に当てて自然解凍に移したところで


ちょうど炊飯器から「ピーッ」という、ご飯が炊き上がったことを知らせる軽快な音が響いた。


炊きたてのご飯の香りが、ふわりとキッチンに満ちる。


しゃもじを水で濡らしてよく水を切ってから


炊飯器の蓋を開けて炊き上がった白米を満遍なく掻き混ぜた。


「ふう」と息をついて炊飯器のとなりにしゃもじを置く。


「次、味噌汁……」


頭の中で今日の献立を組み立てる。


出汁パックを手に取り、鍋にミネラルウォーターを注ぎ、中火にかける。


湯気が立ち上り始めるのを待ちながら、まな板の上に小松菜と油揚げを並べた。


シャキシャキとした小松菜の茎をトントンと小気味よく刻み


油揚げも細かく切っていく。


包丁がまな板に当たる音が、静かな空間に心地よく響き渡る。


誰もいないはずの部屋が、自分の動作一つ一つで満たされていく感覚。


こうして何かに没頭していると


不思議と心が落ち着き、少しだけ安心する。


日頃の喧騒や、漠然とした不安が


この瞬間にだけは遠ざかっていくようだった。


「……ん」


と、背後で微かな気配がした。


集中していた意識が、ふと現実へと引き戻される。


ゆっくりと振り向くと


寝癖のまま、まだ夢の中にいるような眠たげな目をこすりながら


リビングに現れた晋也さんがそこに静かに立っていた。


朝の光が、彼のまだ覚醒しきっていない顔を柔らかく照らしている。


「おはよ、柊……って、もう起きてたの?」


晋也さんの声は、まだ少し掠れていて


寝起き特有の甘さを含んでいた。


「うん。晋也さんが起きる前に、朝ごはん作ろうと思って」


俺がそう答えると、晋也さんは小さく


「……そっか」と呟き、ふわりと笑った。


その笑顔は、まだ寝ぼけているけれど


どこか優しさに満ちていた。


彼はそのまま、ゆっくりとキッチンに近づいてくると、俺の手元を覗き込んできた。


その視線は、まるで珍しいものを見るかのように好奇心に満ちている。


「すごいな……ちゃんと出汁から取ってるんだ」


彼の声には、純粋な驚きが混じっていた。


「インスタで見たんだ。冷蔵庫の中でできそうなやつ探して、組み合わせただけだけど……」


謙遜するようにそう言ったけれど、晋也さんは首を横に振った。


「いや、それでもすごいよ。こんな風に朝ごはん作ってもらえるの、何年ぶりだろう」


晋也さんの声が、ふと遠くを見つめるように低くなった。


彼の視線は、まるで過去の記憶を辿るかのように、キッチンの窓の向こう


遠い空の彼方を見つめているようだった。


「社会人になってから、ずっと一人で生きてきたからなぁ。誰かが『食べて』ってごはん出してくれるなんて……」


その言葉には、どこか寂しさが滲んでいるように聞こえた。


その寂しさを埋めるように、俺は衝動的に言葉を口にした。


「俺、これから毎日作るよ」


晋也さんの目が、驚きに見開かれる。


「え?」


「晋也さんのために、毎日朝ごはん作る。夜も、一緒に食べよ」


俺の言葉に、晋也さんは少し驚いたような


それでいて心の底から嬉しそうな表情を浮かべて、ふわっと柔らかく笑った。


その笑顔は、朝日に照らされた花のように、温かく、そして愛おしかった。


「……それ、まるで新婚さんみたいなセリフだな」


茶化すような晋也さんの言葉に、俺の頬がカッと熱くなる。


「べ、別にそういう意味じゃ……!」


慌てて否定しようとする俺の言葉を遮るように、晋也さんは優しい声で言った。


「ありがとな。俺も、柊がいてくれて嬉しいよ」


その言葉が、じんわりと心の奥深くに染み渡り


温かい光が灯ったようだった。


家族じゃなかった、血の繋がりはなかったけれど


それでも家族よりもずっと欲しかった優しさが


今、この場所に確かに存在している気がした。


「……味噌汁、あと10分でできるから。先に顔洗ってきて」


照れ隠しのようにそう言うと、晋也さんはくすりと笑った。


「はいはい、いただきますの前に顔洗えって、小さい頃から変わんないな、柊」


「うるさい、いいから早く洗ってきて!」


「はいはい」


晋也さんの茶化すような声に、思わずぷいっとそっぽを向いたけれど


……頬の奥が、ちょっとだけ熱くなったのを


晋也さんに気づかれないように、そっと俯いた。



◇◆◇◆


それから晋也さんが洗面所へ向かったあと


俺は残りの準備を進めた。


味噌汁の火を止め、炊き上がったばかりのご飯を茶碗によそい


解凍された鮭を魚焼きグリルに並べる。


香ばしい匂いがキッチンに広がり、食欲をそそる。


食卓に並べられた朝食は、決して豪華ではないけれど、温かい湯気を立てていた。


やがて、すっきりとした顔で戻ってきた晋也さんが、食卓の椅子に腰を下ろす。


「「いただきます」」


二人の声が重なり、小さなアパートの部屋に響いた。


温かい味噌汁を一口飲むと


小松菜のほろ苦さと油揚げのコクが口いっぱいに広がる。


出汁の優しい味が、疲れた体に染み渡るようだった。


晋也さんも、ゆっくりとご飯を口に運び


時折、満足そうに頷いている。


「ん、うまいなこれ!」


彼が呟いたその一言が、何よりも嬉しかった。


普段、一人で黙々と食べていた朝食とは全く違う


穏やかで満たされた時間が流れていく。


他愛もない会話を交わしながら、ゆっくりと朝食を終えた。


食卓を片付け、食器を洗い終える頃には、部屋にはすっかり朝の光が差し込んでいた。


俺は自分の部屋に戻り、制服に着替えた。


玄関で靴を履きながら、ふと晋也さんを見上げる。


休みというのもあってか、スーツ姿とは一変してラフな部屋着だった。


「んじゃ、ちょっとそこまで見送るよ」


二人並んでドアを開け、外に出る。


朝のひんやりとした空気が、顔に心地よかった。


アパートの前の道を少し歩くと、すぐに大きな交差点が見えてくる。


「じゃあ柊、いってらっしゃい」


そう言って、晋也さんは軽く手を上げて背を向けた。


俺も、その背中が見えなくなるまで見送り


それから自分の足元に視線を落とす。


一人で歩き出す通学路は、昨日までと同じはずなのに


ほんの少しだけ、足取りが軽くなっているような気がした。


背中には、温かい朝食の余韻と


晋也さんの優しい笑顔が残っていた。



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