2.走らないと!
それからしばらく、僕は週に何回か早起きして運動公園で走ることにした。
鈴村さんとの勝負を意識したわけではない。彼女が言うように、走っているからといって悩み事がぶっ飛ぶようなことはなかったけど、明るい彼女と一緒に走れると思うと少しだけ前向きになれる感じがあったからだ。
ちなみに鈴村さんに借りたスマートウォッチは、走る時は常に腕に巻いているが、学校に行く時は外した。なんか意識してしまって恥ずかしいから・・・。
鈴村さんは、僕が運動公園に行くと必ずそこにいて、いつも笑顔で「お~!えらいえらい!よく来たね~!」とか、「最近さぼり気味じゃないの?」とか言って歓迎してくれた。
しかもこの後、陸上部の朝練にも参加するらしい。もはや同じ人間とは思えない・・・。
「そういえばさ~大河内くんって、下の名前どう読むの?名簿で見たけど、難しくて読めなくて。」
鈴村さんに、運動公園での朝練の後にそう質問されたのは、6月に入ったばかりの頃だったと思う。
「劫って書いて『こう』って読むんだ。」
「へ~、どういう意味なの?」
僕は少し答えをためらった。名は体を表すと言われる通り、『劫』という名前は僕という人間を的確に言い表している。悪い意味で・・・。
「・・・・劫っていうのは、囲碁の用語からとったらしいんだ。囲碁で、お互いの石を取り合って無限に同じ形が続き得る膠着状態のことを言うんだって。プロの棋士でも頭を悩ませるような難しい局面になることもあるみたいで、それで・・・」
それで・・・いつまでも無限にくよくよと悩む僕にぴったりの名前だという言葉は飲み込んだ。もし劫という名前じゃなかったら、こんなにもずっと悩みに捕らわれるような性格にならなかったかもしれないと思うこともある。
「すごくいい名前じゃん!」
その表情には一片の翳もなく、心から褒めてくれているようだった。僕の説明の意味が通じなかったのだろうか・・・?
「だって無限に続くって、それって可能性の塊ってことでしょ!しかも囲碁から取るなんて知的だし!いいな~!わたしなんか爽やかな子って書いて『さわこ』って読むんだけど、爽やかな子って何よ、恥ずかしいじゃん。」
そう言って彼女は何がおかしいのか、お腹を抱えるようにして一人でケラケラ笑い始めた。
「えっ!そんなことないよ。いつも明るい鈴村さんにぴったりの名前だと思うよ。」
「ハハッ!いつでも明るい鈴村って、ちょっと芸人じゃないんだから!!ハハハッ!!」
なぜかツボに入ったらしく、僕の肩をバシバシ叩きながら大笑いし始めた。あまりに笑い過ぎたのか涙も流している。
「ハハッ!!じゃあさ、わたしはこれからコウって呼ぶよ。コウもわたしのことを、サワコってよんでいいよ。」
やっと笑いが収まったと思ったら唐突な提案はしてきた。急に距離を縮めてくる人だとはわかっていたが、それでも思わず目を見開いてしまった。
「ああ、呼びにくいならスズでもいいよ。男子はそう呼んでくる子も多いし。わたしも下の名前じゃなくて、オオコウチから取ってコウにするからさ、って一緒か!ハハハッ!!」
そう言うと何がおかしいのか、また僕の肩をバシバシたたきながら爆笑し始めた。この日から、お互いをコウとスズと呼び合うようになった。
もっとも、学校外では一緒に走る関係になったが、学校での関係が大きく変わったわけではない。もちろんスズは学校でも気さくに話しかけてくれたが、人気者のスズと話したい友達はいっぱいいて、USJの人気アトラクションの順番待ちみたいになってたから、僕なんかがスズの時間を奪ってしまうことに遠慮していた。
それでもスズは目が合うと微笑んだり、手をふってくれたりしたが、僕は恥ずかしくていつも目をそらしてしまい、教室ではコミュニケーションすらままならない。
だから、朝、学校が始まる前にスズと一緒に走れる時間がなおさら貴重だった。
「コウ!すごいじゃん!7分35秒だよ!これはうかうかしてると来年の勝負に負けちゃうかもな~。そうなるとコウのエッチなお願いも・・・キャ~ッ!!」
「ちょ、ちょっとやめてよ・・・。」
7月、僕が運動公園で走り始めてから2か月余りが経っていた。自分でも速くなったと実感していたのでタイムを計ってもらったところ、1500mを7分35秒で走ることができた。5月には完走もできなかったのに。
「でも、わたしも自己記録を更新中だからね。まだ2分近く差があるし、まだまだコウに追い付かれるつもりないからね!」
スズは、そう言うと立ち上がって、キリっとした顔をした僕を見下ろし、ビシッと指を突き付けてきた。
「僕がスズに追い付くのなんか無理だって。そんな永遠のライバルみたいなムーブしないでよ。それよりも県大会の地区予選の方に集中しなよ。」
「そうそう!今年こそは県大会に進出するんだから頑張らないと。」
今週末に県大会地区予選を控えているスズの話によれば、自己ベストに近いタイムを出せれば確実に県大会に進出できるそうだ。
「スズ、毎月200km以上走ってるもんね。努力が実るといいね。」
「そんなこと言って、最近はコウだって結構走ってるじゃん。」
僕とスズは、それぞれのスマートウォッチと連携し、友達登録したランニングアプリを通じて日々のランニングデータを共有している。朝だけ、しかも週に何回かしか走っていない僕とは違って、スズは毎日、朝練、部活、自主練を重ねており、毎月、僕の5倍近い走行距離を積み重ねている。
「もしコウが走ってなければ、こんなに頑張れなかったよ・・・。」
スズはもう一度僕の隣に座り直し、体育坐りでじっと僕を見つめてつぶやいた。意外にも真剣な表情だったが、あまりに唐突過ぎて僕にはいつもの冗談にしか聞こえなかった。
「まさか!?僕がいなくても同じでしょ。むしろ練習の邪魔になってたんじゃないの?」
「そんなことないよ!コウが走っていてくれることが、わたしにとってすごい励みになったんだよ!!
あのさ・・・。うちの陸上部ってそもそも部員が少ないし、長距離やってるのもわたしだけなんだ。一緒に走ってくれる人もいないし、ずっと一人で走って来て、それはそれで楽しかったけど、孤独でさみしいって思いもあったんだよ。だけど、コウが一緒に走ってくれるようになって、一緒に走ってない時もアプリで走ってるのを確認できて、ああ自分は一人じゃない、コウが一緒に走ってくれてるって思えて・・・。」
そう言ってスズは、恥ずかしくなったのか目をそらした。少し頬を染めているようにも見える。走った後だからかもしれないが・・・。
「あっ・・・うん・・・。役に立ったようで・・・。よかった。」
僕がそうつぶやくと、スズは向こうを見て震えながら肩を揺らしだした。クックックッ、と忍び笑いも聞こえてくる。
「おい!マジメか!マジコメントか!わたしの方が恥ずかしくなるじゃんか~!!」
笑いながらこちらに振り返ったスズは、右手でげんこつを作って僕に突き出してきた。急に殴られるのか?しかし、スズのげんこつは僕の胸の前で止まったので、僕は控えめなグータッチで応じた。
「あっ!そうだ!じゃあ、コウも陸上部入んなよ!そしたら部活でも一緒に走れるし。ぜひそうしなよ!」
スズは白い歯を見せてニッコリ笑いながら容易ならざることを言ってきた。
「いや、さすがに無理だって、もう2年生の1学期も終わりかけだし、きっと馴染めないよ。」
「大丈夫だって。いい子ばっかりだよ。そうだ!今週の土曜日の県予選の会場、この運動公園だから見に来てよ。そこでみんなに紹介するからさ~!」
「いや、ムリだって。人見知りだし・・・。」
スズがいいやつだというのはわかっているが、他の部員がそうとは限らない。練習はともかく、人間関係にストレスを感じながら走るなんて考えられない。
「む~!!じゃあさ、県予選だけでも応援に来てよ。こっそり隠れて見てるだけでいいからさ。わたしは10時の予選と、15時の決勝に出るんだけど、予選は別にいいから決勝の方に来てよ。」
「決勝に進出することは確定なんだ・・・。」
「そうだよ~!わたしが優勝して県大会に進出する姿を見せてあげるから、絶対に来てね!」
そう言ってスズは勝手に僕の左手をつかむと、その小指を自分の左手の小指で絡めとった。
「約束だからね~!」
弾けんばかりの笑顔と無邪気な指切りに、僕は苦笑するしかなかった。
土曜日、僕はいかにもさりげない昼下がりの散歩に通りかかった風を装って運動公園にやって来た。
誤算だったのは、陸上トラックの周りや観客席には近隣の中学校のジャージや競技用のウェアを着た生徒や顧問の先生、選手の父母らしき大人しかいなかったことだ。そこに混じると僕が目立ってしまう。僕は少し離れた野球場から遠目で陸上競技を観戦することにした。
やがて女子1500m決勝というアナウンスがあった後、参加する選手の名前が呼び上げられた。その中にはちゃんとスズの名前もあった。
パンッ!
スタートの号砲が鳴った後、選手たちが走り始め、各校の応援の声も聞こえ始めた。
ここからだとよく見えない。僕は無意識にトラックの方へ近づいた。
トラックでは、先行した3~4人ほどの選手を、集団で追いかける展開となっていた。スズの姿は先行集団に見えないため、きっと追いかける集団の中にいるんだろう。
「頑張れ~!!」
自分でも気づかないうちに大きな声が出ていた。
ガランッ、ガランッ、ガランッ!
ラスト一周の鐘が鳴らされ集団のペースが速くなる。
その瞬間、集団から一人の選手が飛び出した。スズだ!!
「頑張れ~~!!ファイト~~!!」
また思わず大きな声が出てしまった。自分でもこんな声が出るなんて驚いた。
スズはすぐに先行集団の最後尾に追いついた。もう少しだ!!いけ!!そう思った瞬間だった。
バランスを崩してぐらついた先行集団の選手とスズが交錯しそのまま二人で転倒した。後方から来る集団が転倒したスズたちを追い抜いていく。
ああ、ダメだったか・・・。
僕はあまりに悲劇的な幕切れを正視できず、思わず目をそらしてしまった。すると、観衆の中から他校の先生らしき人が慌ててトラックに駆け込んで行くのが見えた。「担架!担架!」と叫んでいる。
トラックを見ると、スズが右足を抱えながら苦悶の表情を浮かべていた。
翌日、スズは学校に来なかった。あの後、救急車が呼ばれ病院に搬送されるところまでは見ていたが、どうなったんだろうか・・・?
朝のHRで、先生からスズがしばらく休むことになったと説明があった。
膝の靭帯を切ってしまい、夏休みの終わりまで入院することになったとか・・・。
スズと毎日走れるかもと淡い期待を持って、ずっと楽しみにしていた夏休みを前にして僕の目の前は急に暗転した。