1.太陽のような彼女
一生における心臓の鼓動の総数は、誰でもだいたい同じ回数に収束するらしい。常にドキドキして心臓を激しく動かしている人も、いつも平穏で心臓をゆっくり鼓動させている人も。前に読んだ本にそう書いてあった。
そうであれば、なるべく心臓の鼓動を速くしないようにして生きよう。そうすれば長く生きられる。中学2年生にして僕はそんな達観に至っていた。
「おはよ~っ!!」
ふわっと制汗剤のシトラスの香りがした後、急に背後から背中を叩かれ、一瞬だけドキッと僕の心臓の鼓動が速くなってしまった。
振り返ると、そこには今年のクラス替えで新しくクラスメートになったばかりの鈴村爽子さんが立っていた。
「おはよう!」
彼女は僕の目を見てはっきりとした口調で繰り返してきた。僕が口の中で「おはよう」とごにょごにょと言うと、満足したのか白い歯を見せてニコッと笑い、そのまま窓際の自分の席の方に向かって行った。
ご機嫌そうに体を揺らしながら歩いているため、トレードマークのポニーテールも毛先がひらひら揺れている。
僕と鈴村さんは特別親しいわけではない。ただのクラスメートだ。彼女はクラスメート全員に同じようにフレンドリーに接している。その後も自分の席に向かう途中にいる男女構わず、また陽の者か陰の者であるかを問わず、それぞれに手をふったり、肩を叩いたりしながら「おはよう」と挨拶をしていた。
いつも明るく笑顔で誰にでも気さくに接することができる太陽のような性格は、人見知りで誰と話す時も身構えてしまう僕から見ると少しうらやましく、気がつくとついつい目で追ってしまっていた。
もちろんそんな明るい性格だからクラスの人気者で、鈴村さんが席に着くとすぐに仲の良い男女が集まって来て彼女の席を取り囲んだ。
「さわこ~!今朝も走って来たんだ!すごいよね。よく続くよね!」
「うん!今年こそは県大会に出たいから、気合入ってんだよ~!」
「爽子って長距離だよね。すごいな~!俺なんて体育の持久走だって憂鬱になるくらいなのに・・・。」
鈴村さんが陸上部に所属していることは知っていたが長距離を専門にしていることは初めて知った。
この点も、なるべく心拍数を上げないように慎重に生活している僕とは正反対だ。
なぜ好き好んで、つらい長距離走をして心臓に負担をかけて寿命を縮めようとしているのかまったく理解できない。
そう思った僕の内心が伝わったからではないと思うが、鈴村さんは突然長距離走の魅力を語りだした。
「長距離走って楽しいんだよ!走り出すまではちょっと憂鬱な時があるけどさ、走り出してしばらくするとフワッと体が軽くなってきて、そこからスピードを上げるとつまんない悩みなんて全部吹っ飛んじゃう感じなんだよ。それで走り終わったら、いったい何を悩んでたんだろ~って思うくらい爽快になるし!ぜひやってみなよ!」
「そんなん爽子だけだって~!」
「そんなことないよ~!ぶっ飛んで、そんでハマってやめれなくなるから。って、わたしが危ないクスリをやってるみたいじゃん!なんてね。ハハハッ!」
僕は、陸上の長距離走にはまったく興味はないが、悩みが吹っ飛んでしまうという話に少し関心を引かれた。
『悩み』とどう向き合うか。それがずっと僕の難題だったからだ・・・。
★★
5月3日、この日から学校が4連休となるが僕の心は晴れなかった。
昨日の夜、つまらない悩み事に捕らわれてなかなか寝付けず、やっと眠れたと思ったら早くに目が覚めてしまい、また悩み事が頭から離れずそのまま眠れなくなった。
僕の悩み事は毎回異なる。今回の悩み事は連休明けに僕がクラスでいじめられないかというテーマだ。
昨日、球技大会でバスケに参加したのだが、僕のミスのせいで得点機を逃して負けてしまった。クラスメートの大半は気にするなと言ってくれていたが、中には舌打ちしているやつもいたような・・・。
僕がくよくよ悩むのは、いつものことでもある。突然両親が亡くなってしまったらどうしようと悩むこともあるし、将来まともな仕事につけないかもと悩むこともある。
ほとんどの悩みが現実になることはなく、結局はただの杞憂に過ぎないのだが、一度気になってしまうとまとわりつく羽虫のように頭から離れてくれず、四六時中、僕を苦しめることになる。特にじっとして他にやることがない時が辛い。
まだ、時刻は午前5時半くらいだがベッドで横になっていても眠れる気がしない。まだ外を散歩した方が気が紛れるかもしれないと思い、僕は着替えて靴を履き、外へ出た。
僕の家から10分ほど歩いたところに小さな運動公園がある。
野球場、サッカーコートの他に陸上のトラックもあるが、僕はここで走るつもりはない。ただ早朝に出歩いていてもご近所さんに不審がられる心配がないという理由だけで、ここを選んだに過ぎない。
野球場には、早朝から集まっているユニフォーム姿のおじさんたちがいるが、陸上のトラックには人影はなかった。僕はゆっくりとトラックを歩こうと思い、足を踏み入れた。
「鈴村さんもこんなとこで走るのかな。」
僕はいつかの教室での鈴村さんの話を思い出し、このトラックで彼女が疾走する姿を想像しながら口の中でつぶやいた。
「あれっ!大河内くんだよね!」
「うわっ!!」
突然声を掛けられ振り向いたところ、そこにはまさにその当人が、スポーツ用のTシャツと短パン姿で屈伸をしながら、白い歯を見せてニカッと笑っていた。観客席の陰になっていて気付かなかった。
「うっ、うぇ?えっ?」
「朝練に来てるんだよ。大河内くんも走りに来たの?」
想像していた人が現実に現れた驚きを脳で処理しきれず、奇声しかあげられない僕を不審がることなく、コミュ力が怪物級の鈴村さんはにこやかに応対してくれる。
「い、いや走るのはちょっと・・・。つまらない悩み事でよく眠れなかったんで散歩に来ただけで。じゃあ・・・。」
いつもの学校での挨拶と同じで、義理で声を掛けてくれただけだと思い、簡単に応答しただけで歩き去ろうとしたが、どういうわけか鈴村さんは、歩き出した僕にそのまま付いてきて話し続けた。
「ふ~ん、悩みがあるんだ・・・。じゃあ、ちょっと一緒に走ろうよ!ちょっと走れば悩みなんて吹っ飛んじゃうよ!」
「い、いや・・・走るのはちょっと。心臓の問題があって・・・。」
「あっ!ごめん。大河内くん、心臓の病気だったんだ。デリカシーのないこと言ってごめんなさい・・・。」
彼女は僕の言葉を誤解したのか、一瞬で笑顔が凍り付きみるみる申し訳なさそうに恐縮したので、慌てて説明した。僕は心臓の病気ではなく、健康だが、一生涯の心臓の鼓動量が同じであるため長く生きるために心拍数を上げるようなことは避けていることを。
そしたら、今度はバシバシと自分の膝を叩きながら大声で笑い出した。
「アハッ、ハハハッ、ハハッ、いや、ハハッ。大河内くんって面白い人だったんだね。」
笑える話題を提供できてよかった。足を止め、お腹を押さえながら爆笑している鈴村さんに、「じゃあまた学校で」と言って立ち去ろうとした瞬間だった。
「だったら5分くらい走ってもあんまり変わらないんじゃない?それよりも悩み事があってずっとドキドキしてる方がよっぽど寿命が縮むって。ちょっと走ってみようよ。」
キラキラした目でそう言われると僕にもう断れる理由はない。5分間だけという約束で一緒にトラックを走ることになった。
「このトラックって一周何メートルくらいなの。」
「ここは400mかな。軽く1kmあたり5分で走るとすると、だいたい2周半くらい走ることになるよ。いくよ!」
そう言うと鈴村さんは、おもむろに走り出した。えっ?1kmも?と思う間もなく。僕は慌てて鈴村さんの後を追いかけようとしたが、10mも付いていくことができずぐんぐん引き離された。
ピンと背筋を伸ばし、強く地面を蹴り、腕を軽く振ってぐんぐんと前に進むフォームは素人目に見ても美しい。
対照的に、体育以外でまったく走ることがない僕はあっという間に顎が上がり、ヘロヘロになりながらヨタヨタと走ったが、なかなか5分間が終わらない。つらい、しんどいとつぶやきながらトラックを1周半くらい走ったところで、ようやく約束の5分が過ぎてくれた。
「ほい、これ飲んでいいよ。」
トラックの途中でへたり込んだ僕に鈴村さんは麦茶のペットボトルを差し出してくれた。普段から麦茶は飲み慣れているが、何かいけない物質が混入しているのかと疑うくらいおいしかった。
「どうだった?」
「いや、遅過ぎて練習の邪魔になったかも・・・ごめん・・・。」
「そうじゃなくて、悩みの方。ぶっ飛んだ?」
そう言われて思い出したが、たしかにこの5分間は走るのに精いっぱいで忘れていたかもしれない。
「ちょっと忘れてたかもしれない。」
そう答えると、彼女はニコ~ッと表情を崩した。
「よかったじゃん!わたしは、だいたい毎日ここで走ってるから、気が向いたらいつでもおいでよ!」
そう言って彼女は、手をひらひら振りながら、トラックの周回走に戻って行った。
これで悩み事がなくなったわけではないが、その日の朝ごはんはいつもよりもおいしかった。また、その日の夜は早々に寝付くことができた。
「おっ!さっそく来たね~!もう走りの魅力にとりつかれちゃった?」
翌日、やはり早くに目を覚ました僕は筋肉痛の足を引きずりながら運動公園にやって来た。鈴村さんも昨日と同じように白い歯を見せながらにこやかに迎えてくれた。
なぜ今日も来てしまったのかわからない。だけど、朝目が覚めた瞬間に、なぜか走っている彼女の姿が思い浮かび、また走りたいと思ってしまった。
この日も5分間走ったが、昨日よりも走れた距離は伸びていた。結局、連休中は毎日早起きして運動公園に行ったが、鈴村さんは毎日そこにいて一緒に走ってくれた。
「もしこれからも走るつもりだったら、これ使ってよ。」
連休の最終日の朝、この日も5分間だけのジョギングとも言えないスローペースな走りを終えて、グラウンドの端の方にへたり込んだ僕の横に座るなり、鈴村さんはランニング用のスマートウォッチを差し出してきた。
「えっ?悪いよ。高いものなんでしょ?」
恐縮する僕に対して、彼女は手のひらを横に振って「いいって、いいって」と言った。
「実は昨日が誕生日で、新しいスマートウォッチ買ってもらったんだ。ほら見て!最新型。こっちの古い方もまだ使えるし、もったいないから貸してあげるよ。大河内くんが心配していた心拍数も測れるよ。これで寿命の管理もできるね!」
鈴村さんは白い歯を見せて笑った。日焼けした肌と白い歯のコントラストが朝の陽光に映えて美しい。
「そうだ!せっかくだから、スマホのアプリと連携してさ、友達登録しようよ。」
そう言いながら、彼女は僕からスマホを取り上げて、すぐにランニングアプリをダウンロードし、ついでに彼女のアプリに友達登録してくれた。
「はい!これでお互いに毎日どのくらい走ったかわかるよ。練習さぼったら、わたしに筒抜けだからね~!」
「いや練習って・・・僕は鈴村さんと違って大会とかを目指しているわけじゃないし・・・。」
僕が下を向きながらそう答えると、彼女は腕を組んで、「そうか~。練習するんだったらモチベーションになるような目標は必要だもんね~」と考え込んだ。
「よし!じゃあ、こうしよう。1年後の5月5日の朝7時から、ここで、わたしと1500mで勝負しよう。それを目標にするってのはどう?」
鈴村さんは目を輝かせながら、いかにも名案を思い付いたといった表情でドヤってきた。
「いや、鈴村さんの方が圧倒的に早いんだし、勝負にならないよ・・・。」
「そうかな~。大河内くんは男子だし1年練習すればいい勝負になると思うよ。そうだ!もし大河内くんが勝ったら、何かお願いを一つ聞いてあげるよ。」
「ええっ!?何でも?」
突拍子もない提案に驚いていると、鈴村さんは急にニヤニヤし始めた。
「あれっ?急に乗り気になった?もしかしてエッチなお願いとか考えてる?そうなるとわたしもプレッシャーがかかるな~!大河内くんに負けないように頑張って練習しないとな~!」
「い、いやそんなこと・・・考えてない・・・。」
僕が真っ赤になって否定すると、彼女はケタケタと笑いだした。
「じゃあ決まりだね!言っとくけどわたし、1500mだったら5分台で走るからね。大河内くんは完走も危ういようだし、せいぜい頑張ってくれたまえ!!」
そう言って鈴村さんは立ち上がると、またトラックの周回を始めた。
僕は手の中のスマートウォッチを見ながら、そういえばこれって、昨日まで鈴村さんの腕にずっと巻かれてたんだよな、それを僕の腕に付けるのか・・・と思い、また赤面してしまった。