8
真横からくる日差しにラウラは頭を下げた。地上は赤く彩られ、隆起した岩肌に陰影をつけている。風は止んでいた。
「目くらましは、意外に難しいんですよ。特に人間を相手にしているとね。本来は、宝の入り口をごまかすためのものだそうです」
「だ、そうです?」
「伝えられている技術のほとんどは、本来の使い方をされていません。金も財宝も、隠すほどの量は、なくなってしまったんでしょうね」
一緒に町を出た人たちは、それぞれの方向に歩いていったので、今そこには三人だけの影があった。少女の手を引いて、どこかへ向かっているシリウスに、数歩遅れてラウラは着いていく。
町を出てしばらくすると、老人の表面は砂のように落とされ、中から紳士然としたシリウスが現れた。彼はラウラへ背を向けることに躊躇しなかった。
「つったってよ、てめぇの使い方が一番間違ってるだろ」
「それでも、商売として成り立ちますからね」
「儲かんの?」
「袖渡しするお金があるほどには」
シリウスを頼る客が何人もいる、という話にラウラは顔を険しくした。
「でもガキばっかってのはてめぇの趣味だよな」
「否定しません。造詣は良いに越したことはない」
しばらく土を踏む足音だけが続いた。
「どこに行くんだ」
「一度、家へ帰ろうと思います。良いところですよ。木に囲まれていて、綺麗な水が流れている。人里からも離れているから、わずらわしくないのがいい」
「実家?」
「いいえ、わたしは若い頃に勘当されていますので」
アシトラとは、反対の方面に向かっているようだった。シリウスの言う所は、よほど遠いところなのだろう。
「おんなじだな」
「家を追い出されたのですか?」
「施設に放り込まれたっきりだ」
自嘲する。
「五体満足に生まれてよ、食うに困らねぇ家に生まれたってよ、こうなっちまったら関係ねぇよ。施設でさんざ、神さまの話は聞かされてっけど、ちっとも役には立たねぇな」
妙な感覚に陥っていると、ラウラも自覚していた。あれだけ必死に追いかけていた対象と、暢気に話をしている。シリウスもまた、当然のように話を合わせてくる。会話の初めからそうだ。彼からは攻撃性を感じない。だから、気が緩むのだろう。彼は怒鳴らないし、不機嫌にもならないし、嫌悪感も示さない。
「人間は心に定めるものがなければ不安になるものです。彼らと同じものが信じられないのなら、己で見つけるしかありません」
ただ彼の心情は酷く歪で、それが何よりの問題でもあった。
「ガキを殺すことが、てめぇの信仰なのかよ」
紳士は沈黙した。
「少し違いますね」
いくらか冷めた口調になった。
「わたしが若い頃の話です。おそらく、あなたはまだ生まれていなかった頃。わたしはある町で医者として働いていました。まだ見習いに近いほど未熟だった。あるとき、一組の若い夫婦が娘を抱えて医院に駆け込んできました。娘は手遅れでした。夫婦は悲しみました。娘になにもしてやれなかったのが、悔しくて辛いといいました。しばらくして再び彼らと会う機会がありました。彼らの悲しみは癒えていませんでした。生きて帰ってくるのではないかと思っているといいました。興味を引かれたわたしは、娘の墓を掘り返しました」
「……」
「損傷しているところは補正して、エアリアルを流し込み、その子を連れて夫婦の元を尋ねました。夫婦は喜びました。しかし、それを見た彼らの父親が怒りまして」
「そらそうだろうよ」
「死者を冒涜するとは何事かと、そこにあった壷を投げつけ、娘を壊してしまいました。それを見た奥方は倒れ、旦那は父親と大喧嘩して、大変な騒ぎになりました。この一件があって、わたしは家を勘当されました」
「……で?」
「もしもあのとき……わたしが娘を連れて夫婦の家を訪ねたとき、奥方が娘に駆け寄り抱きしめなかったら、わたしは違う道を歩んでいたと思います。夫婦は娘が死んだことはわかっていました。けれど娘の蘇りを喜びました。面白いでしょう?」
「……わかんねぇな」
得たいの知れない、未知の生物に遭遇した気がして、ラウラは彼から遠のくように歩幅を緩めた。
シリウスはそれに気づいていないか、元から構うことはないと思っているのか、どんどん先へ進んでいく。
「夫婦の父親は不道徳だと言いました。けれど夫婦にとってはそんなこと、自然か不自然かなど、どうでもよかったんです」
「そりゃ、本人がそのまま生き帰りゃ嬉しいかも知んねぇけど、てめぇが創るのは偽者じゃねぇか」
生きているように見せかけているだけだ。
「客の中にもその事実に耐えられず、精神疲労を起こす方がよくいます」
「障害じゃなくて?」
「疲れてしまうんでしょうね。せっかく創ったものを壊す人もいますし。中には喜ぶ人もいますけど」
「……だってよ、不気味じゃねぇか。成長しねぇんだろ? 外から命令を送らねぇと言葉だって喋らねぇんだろ? それがずっと家にいるんだろ?」
自発的な行動はしない。出来ない。それは生きているとはいえない。
「では、成長しつづければどうでしょう」
「無理だろ」
「もしもの話です」
「だって体が死んでんのに」
「どうして体が死ぬと成長も止まるのでしょう」
「そりゃあよ」
面倒そうにラウラが鼻の頭を掻く。言いかけた台詞が、発せられる前にどこかへ消えた。
顔を上げて、慌てて言葉を重ねる。
「いや、だって命がさ、魂ってやつが」
「魂」
はっきりとシリウスが発音する。
そうしてラウラを肩越しに見遣る。
「あなたは魂を信じるんですか?」
青い目が真意を問うように向けられる。
ラウラは反射的に、突き放すように笑った。
「ばかばかしい」
どうしてか力が無い。
いつの間にか二人は歩みを止めていた。
「エルジバは魂と肉体という器をあわせて人間だというそうですね。我々を動かしているものは魂ですか? 崇高な精神? 思考するのは人間だけ? 赤ん坊は哲学をしますか? 赤ん坊は家畜ですか? 我々は考えているつもりになっているだけで、最良だと判断した反射によって行動しているにすぎない。過去の記憶と経験による自己防衛の連続です。判断しているのは何です? そこに思考はあるのでしょうか」
ラウラは顔をしかめた。
「うるせぇ、黙れ。考えを飛躍させるな。じゃあ、てめぇの実験のために、なにやっても良いってのかよ。ガキ殺して周ってよ、そんなこと許されると思ってんのかよ」
「それでも、わたしはこうして存在することを許されています」
「今のところは」
滑り込むように第三者が話に割って入ってきた。ラウラの後ろから走ってきた彼が、息を弾ませて続ける。
「そう付け足してもらえますか、シリウス医師」
振り返ると、髪を乱したオルネオがそこに居た。鋭い眼光が、シリウスへまっすぐに注がれる。
執務室では、カルミナが書類作成に追われていた。オルネオからの頼まれ事だ。
羽ペンを掴みながら低く唸る。
「いっそお父様を介した方が、早いかもしれないわね?」
ぶつぶつ独り言を言いながら書いたものを読み返す。
ほどなくして、付き人の一人が戻ってきた。一人の子どもを連れて。
「どうしたの、その子?」
そう尋ねられ、彼は弱った様子で頭を掻いた。
世界の色が濃くなっていた。オルネオの姿も赤く染まっている。
「もう止めにしましょう。こんなことは、これっきりにして欲しい」
突然の乱入者だったが、シリウスは、さして驚いた様子もなく小首を傾げた。
「こんなこととは?」
「なにもかもです。他人の子どもを浚っていくのも、殺していくのも。意味のないことだ」
「必要としている人もいます」
「いいや。誰一人として、あなたの行いを受け入れはしない。わかっているはずだ。結局、彼らは最後にそれらを手放してしまう」
人間は、常識を逸脱することは簡単にやってのけても、完全な狂人になるのは難しい。いつかの時点で必ず気づいてしまう。熱病のような浮かれた気分が冷めたとき、動かない過去の陰影を見て、こんなことは誤魔化しだと自覚する。
死体と連れ添うような動物はいない。人間も生き物に変わりはないのだから、本能には逆らえない。
シリウスとて、それに気づかないはずはない。だが彼には技術がある。
「今までにも、何度か、あなたような教会の方とお会いしました。けれど誰一人としてわたしを裁くことは出来なかった」
彼の興味が失せるまで、事は終わらない。
「だからお願いをしているんです。それに教会の尺度が全てではありません」
「では、誰がわたしの罪を量るんでしょう」
「あなた自身が」
一度、呼吸を整えてオルネオが続ける。
「家族から追い出され、故郷を持たず、支持をする人もいない。何者にも属さないあなたはブレてはいけないんだ。どんな理想を持っていても、今のあなたは、ただの殺人者です」
「わたしがわたしの行動を許したら?」
「俺の正義があなたを許しません」
シリウスがうっすらと笑う。
「偽善とか、傲慢とか、そういう言葉がふさわしいのでしょうね」
「なんでも結構。お願いです。連れて行かないでください」
「ご本人にお聞きしましょうか?」
話を降られたラウラは苦々しげに首を振る。
「行かねぇよ」そして小さく「出会い方が悪かったな」と呟いた。
「教会にご同行を」
「お断りします。二度手間になるだけだ」
シリウスが改めて体を二人に向ける。
空気が質量をもって動き出した。シリウスが懐から取り出した玉を宙に放り投げる。それを中心にしてエアリアルが集まっていく。空気が薄緑色に瞬いて渦を作る。
徐々に形が現れる。地に降りる太い手足、筋肉質な巨体、頭には二本の長く鋭い角があった。
聖典に登場するそれは、冥王の僕として描かれている。
「懐かしい景色だ」
ラウラは無理に笑って見せる。右手にペンダントの鎖を撒きつけた。手元に呼び寄せたエアリアルで剣を創ったのは、習い性だ。
「シリウス、待て!」
子どもを連れてその場を去ろうとするシリウスへ、オルネオが叫ぶ。
大きな牛の姿をした怪物が、ラウラの正面から突っ込んでくる。とっさにラウラは横に転がってそれを回避した。
勢いのまま起き上がる瞬間、すでに巨体は目の前に迫っていた。一瞬、肝が冷える。視界が暗転した。
激しい衝突音がしてラウラは我に返った。長い外套の裾が視界で揺れた。
怪物はよろめいて後退していた。オルネオの前には瓦解したエアリアルの残骸がある。壁か何かを創って盾にしたのだろう。
何も持たずに佇むその背中を、ラウラは呆然と見上げた。
「核も無いのに、どうやってエアリアルを呼んでんだ?」
ラウラの手からオルネオは剣を取リ上げる。そうして深く息を吸い上げた。
腰を落として、跳んだ。
落ちながら、牛の頭の前で剣を薙いだ。簡単な動作だった。それで頭部の半分が吹き飛ぶ。二度、三度と剣を払い、一閃を振るうごとに胴が裂けた。
自力で立つことさえままならなくなった怪物は唯の塊となって地面に散らばった。
オルネオは、そのまま一足で、逃げようとしているシリウスの背に飛び掛る。すでにかなりの距離があったが、なんの問題にもならなかった。
押し倒し、子どもと手を離したシリウスを地面に転がす。
馬乗りになって、剣をその眼前に突きつけた。シリウスの顔に確かな驚愕と怯えが現れる。
「それだけ動けるようになるには、相当の量を吸収して溜め込まなければならない。生きている人間に、そんな」
「教会は、初陣の辛酸を舐めて学びました。人は化け物に対抗できないということを」
日陰に翳る顔の中、オルネオの両の瞳が微かにちらちらと瞬いた。
「ある特定の人間が、弱者の命を弄ぶ。それがどうにも我慢ならない。俺の気持ちがわかりますね、シリウス医師」
別室に押し込められていたリオールは、部屋の外に出るよう促され、背筋を凍らせた。何かは想像もつかなかったが、とても恐ろしい目に合わされるのではないかと予感したからだ。
案内されるまま着いていくと、そこは想像していたような薄暗く陰湿な場所ではなく、広々と豪勢な部屋だった。
中には数人の男女がいた。輪の中心には子どもがいて、こちらに背を向けた佇まいは、自身の娘を思い出させた。
彼らの中で唯一、顔を見知っている少女、カルミナがリオールを見止めた。
「来たわね。この先、どうなるかわからないから、一応、顔だけは合わせてあげるわ。アリス、パパが来たわよ」
その名前を聞いた瞬間、体中が震えた。もちろん、歓喜の感情に揺り動かされたせいだ。
「アリス!」
一目散に少女へ駆け寄った。床に膝を着いて、小さな肩を掴みこちらへ体を振り向かせる。満面の笑みで愛娘の顔を見た。
一仕事終えた、といように、カルミナは肩の力を抜いた。
「とりあえず、この後どうするかは本部に帰って相談してくるわ」
「一緒に行きます」
真剣な顔をしている二人の後ろで、ラウラはどっかりと長椅子に座り込んだ。
「こっちは、ゆっくり休ましてもらうわ……」
「……違う」
一同の視線が父親に集まった。娘と対面を果たしたはずの彼は、続けざまに息を吸い上げる。
「アリスじゃ、ない」
振り返った顔は、駆け寄ったときのまま表情が固まっていた。震える口元は笑っているのに、瞳孔が不安定に彷徨う。
「こ、この子はアリスじゃない。アリスはどこだ。アリス!」
少女をその場へ置き去りにして、そのまま部屋を飛び出していく。
「ちょ、ちょっと、待ちなさい!」
カルミナが慌てて追いかけようとした。ラウラが鼻の頭を掻く。
「てか、誰かそのアリスってガキの顔、知ってんのかよ」
三人は顔を見合わせた。
「あなたたち!」
壁際に控えていた付き人二人へ、カルミナの鋭い声が飛ぶ。彼らは揃って身を強張らせた。
「顔を見てるわね?」
「そ、それが、その……どうにも、眠っている状態でしたし、あの」
「ずっと毛布をかけていましたので、そうしっかりとは」
「おい、てめぇはどうなんだ」
ラウラがカルミナを顎でしゃくる。
「わたしはあの父親を連れてくる手続きや何やらで、一切を二人に任せていたから……」
はっと息を呑む。
付き人の一人と視線を交わした。
「さっき、あなたが連れて来た男の子、もしかして」
「あの子の姉がこの子ってことですか?」
泣きながら一人で歩いていたのが放っておけなかった、といってここまで連れて来たのだ。
姉とはぐれてしまったらしい。
今は教会の人間に世話を任せている。
部屋の隅からくぐもった声がした。
後ろ手に縄を縛られ、椅子に括りつけられているシリウスが、喉を震わせて笑っていた。
「なるほど、これがアリスだと思っていたわけですね?」
「おもしろいか?」
ラウラがやわらかい口調で訊いてやる。雰囲気を察したのか、シリウスは表情を改めた。
「アリスがどこに行ったのか、わたしにはわかりません。目覚めていることも今知りました」
「追いかけたいだろ」
そう尋ねられても、彼は達観した様子で緩やかに頭を降った。
「いいえ。あの子はすでに、理想とは遠い存在だった」
「あなたがもっと愉快になる話を教えてあげる」
ことさら明るくカルミナが言った。
「アリスが父親に乱暴されてたって話は嘘よ」
それを聞いた瞬間のシリウスの表情を一言で表すのは難しい。喜びと安堵、後悔と悔恨をない交ぜにしたものが一瞬浮かんだが、今の彼には顔を顰めて押し黙るしか出来ることはないのだった。