6*
注意。血の描写があります。
ナハル川はネヴィタ中の生活排水が流れ込む場所で、一年中にごっている。広い川幅の上を強風がすべると、臭いが街の端にまで届くほどだった。
川の側に人影があった。
両手をポケットに突っ込んで、猫背気味になってラウラは歩いている。
辺りは静まり返っていた。
困っている、助けて欲しい、二人だけで話がしたい。それがダリアの呼び出し文句だった。愛想を付かされたと思っていたが、まだ信用はされていたらしい。
居眠りしている不寝番の横を通ったとき、背中がひやりとしたが、構わず出てきた。これらが偶然とは思えない。少なくとも、あの教会にはダリアの仲間が入り込んでいる。
昼間は人の声が絶えない市場通りも、さすがに夜は寝静まる。
教会の見回りを嫌って、ゴロツキどもは塒で大人しくしているのだろう。貧民街に近いここは貴族のお忍び馬車も通らない。
今はラウラが一人だけだ。
そうして反対側から、一人の少女が、歩いてくる。
自然と互いに足を止めた。
ラウラは眼鏡を外した。欠け始めたばかりの月光に相手の輪郭が浮かび上がる。
肩まで伸ばした栗毛色の髪に、人形のような服をきた子供だった。
「こんばんわ」
可愛らしい声だが、嫌に間延びしている。
「おあいできて、うれしい」
ラウラは背筋を緊張させた。背後に何かの気配がする。
肩越しに伺うと、いつの間にか、すぐそこに人が立っていた。古書にしか載っていないような、古い戦装束に身を包んでいた。教会の管轄外になる私兵は認められていないはずだ。戦自体、ここ数年で起こっていないというのに。
剣が引き抜かれる。古ぼけた鞘から出てきた刃は闇を塗ったように黒かった。
兵士が一歩踏み込んでくる。ラウラは後ろに下がった。子供に注意を向けると、怯えるでもなく平然としている。異様だった。この事態に一幕買っているとラウラは予想した。
ポケットの中に忍ばせた石を握り、周囲のエアリアルを伺う。量が少ない。街中とはいえ、特に少なくなっている。
目の前の物体をラウラは睨む。わざと使用された後かもしれない。
これでは針一本創るのがやっとだ。物理的圧力をかけるための量もない。
刃が翻った。寸でで交わす。緩慢な動きながら、空ぶる空気は重かった。
片足に何かが体当たりしてきた。見下ろすと子供がしがみついている。一瞬、戸惑った。己は何か思い違いをしていたのではないか、何も知らない子供は怯えているのではないかと。慌てて子供をかばおうと身を屈めたとき、子供の微笑を見た。背筋に寒気が走る。
蹴って引き剥がそうとしたが、足は一歩も動かなかった。異常な重さだ。子供のそれではない。
体制を立て直した兵士が、正面から来る。
「このっ」
小さな頭を鷲掴み、上を向かせる。空虚な眼差しと視線が交差して、はっとした。
その目は月光に反射して、角度によってちらちらと瞬いて見えた。エアリアルの流動だ。血液に混じったそれが、膜の薄いところから、浮き上がって見えている。
深く考えている暇はなかった。かろうじて漂っているエアリアルを集める。鋭利な刃物を模した破片を創った。指先で挟んだ破片を少女の喉に当て、勢いよく引き裂く。そうまでされても、少女の顔は皺一つ歪まなかった。
赤い鮮血が、月光できらきらと輝いた。銀白の輝きと、緑色の瞬きが踊る。少女は、まだ笑っている。
ラウラはポケットから緑色の石を取り出した。長い鎖が付いたそれは、首から提げられるように細工をしたものだが、あいにくラウラは装飾品を嫌う。長く身に着けると肌が被れるからだ。
大気のエアリアル濃度が急激に増した。濃く凝縮したそれが散剤していく。
胸の奥底から、何かが突き上げてくるのを感じた。四方に神経を引っ張られるような苛立ち。現状の原因と理由と疑問と至ったこの結果と。むせ返る血臭の中、獣が吼えた。
テオドル・バルテルはいつもの日課を開始した。机上に置かれたランプが一つ、夜の室内を照らしている。
傍らには昼間ダリアから渡された買い物籠がある。被せてある布を取り、中から箱を取り出した。逸る気持ちを抑え、机の上に置いて蓋を開ける。中には紙幣が入っていた。緩む頬ばかりはどうしようもない。
ネヴィタのエルジバ教会は、異教に関して比較的肝要だ。だが、いかなる理由があろうとも、信者との金銭の遣り取りだけは認めなかった。
ならば表立たずに頂くだけだ。何も無理に徴収しているのではない。これは信者の気持ちなのだから。
ノックの音で、テオドルは我に返った。表情を改め、来訪者に答える。入ってきたのはダリアだった。手に燭台を持っている。
「バルテルさま、先におやすみさせていただきます」
「あぁ」
頭を下げてダリアは出て行こうとする。テオドルは思い出したように呼び止めた。
「ダリア」
振り返るダリアに追随して、蝋燭が揺れる。
テオドルは難しい顔をして尋ねた。
「無茶を、していないだろうね?」
「しておりません」
はっきりと返してきたが、テオドルにとっては不安になる即答だった。
だが曇りない眼を向けられれば「そうか」としか言えない。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
扉は静かに閉ざされた。安楽椅子に腰掛け、テオドルは整えた顎鬚を撫でる。視線は扉の、さらに向こう側を見据えている。そうしながら、片手は自然と紙幣を摘んでいるのだった。
開いていた窓の鍵を閉める。各場所の戸締りを点検し、最後に本堂の出入り口を確認するのが、ダリアの習慣だった。
昔は、もっとたくさんの人が住み込みで居たそうだ。今はダリアを含めてもたった数人しかいない。エルジバ教会の手前、どうしても自粛しなければならない。それでも人々は決められた日に訪れる。エルジバ教会の人間は彼らを異教徒だと指差す。だが、ダリアが来るより前からここに通う彼らは真面目で、間違いなく敬虔だった。
居住区とを隔てる、薄い戸板を開ける。
なにか、異質な臭いがした。
蝋燭の明かりが室内を照らしだす。
喉から出掛かった悲鳴を飲み込みこんだ。
世界から浮き立つような肌の白い人がそこに。
「よぉ、ダリア」
赤色の眼がダリアに笑いかける。
「よくも騙しやがったな?」
部屋の真ん中で、椅子に座って待ち構えていた。
「あんたどうしてここにいるの」
自分のものではないような、平坦な声が聞こえた。
「てめぇが呼びつけたんだろうが」
「呼んでない。ここには呼んでない」
彼女は細い腕で子供を抱えていた。
「その子なに?」
首に布を巻きつけている。やり方はぞんざいで、その場しのぎに見えた。
「眠ってんだ。起こすなよ」
ぎこちない動作であやす素振りをする。子供は身じろぎすらしない。
その栗毛色の柔らかな髪には、見覚えがあった。瀟洒な服は、どうしてかところどころ赤黒く汚れている。
「言い訳ぐらいは聞いてやる」
頭から血の気が引いた。これはよくない事態だ。こうなったら、事の次第を話してしまうべきではないか。そう意識が囁くのに、体はそれに反して、突き放すような嘲笑を放っていた。
一度、下手に出たらつけこまれるだけだ。ここに来るまで、それを嫌というほど学んだのだ。
まだ終わっていない。
「それとも、弁解すらできねぇようなことか? え? てめぇ、なにしたかわかってんだろうな」
「なによ、調子に乗らないで」
足を踏み出した。燭台を振り上げ、襲い掛かる。
簡単に片手で手首を取られた。ダリアより細い腕が、強い力で握りこんでくる。
思わず顔をしかめた。
「話し合いをしてやるってのに」
「痛いわね離しなさいよ」
押しても引いてもびくともしない。傾いた蝋が床にいくつも滴った。
血の色をした瞳は、感情の起伏を窺わせなかった。刺すような冷たさだ。耐えられず目を逸らすと、ラウラに体を預けた子供の横顔が見えた。
瞼を閉ざした横顔はラウラよりも青白い。
「その子、死んでるんじゃない」
まさかと思いながらかってに口からそんな言葉が零れていた。
「最初から生きちゃいねぇ」
ラウラが妙なことを言う。この女も冗談を言えるのかと、いらぬ思考が過ぎる。
最初とはいつだろう。昼間に出会ったときは、確かに動いていたのに。
手首を拘束する力が弱まった。開放され、よろけるように下がり、そこにあった椅子へ腰掛ける。
なんのことはないのに、酷く疲れた気がした。
いびつに溶けた蝋燭を、手近な椅子の上へ置いた。なにを持つのも億劫だ。手がふさがると頭を抱えられない。
「どういうこと。よくわからない」
「元来、あらゆるものはエアリアルを空気と一緒に吸収しているはずだから、体液との親和性は高いんだろう。生物の構造上、吸収したものは排出されるはずだが、活動を停止した体はその機能も動かない。そこに大量のエアリアルを入れて、吸収も排出もしないように構造を造り替え、なおかつ循環させるために自立稼動をさせる。一定の温度を保ち常に流動させないとエアリアルは凝固する性質がある。エアリアルに対する命令言語はまだ簡単なものしか発見されていないが、古来よりエアリアルを使役する家には複雑な行動も可能にする言語が伝授されているそうだ。教会関係者が教えを請いに行ったときは門前払いされたらしいぜ」
「今、わたしに説明してた?」
「てめぇ以外に誰がいるんだ」
「……それで、何だってのよ」
「こいつは、もうずっと前に死んでんだ。生きてるように、誰かが操ってたんだな」
抱えられるほど小さな体は、もう何も語らない。
「死んだ人間を生き返らせる魔法があるのね」
「生き返ったわけじゃねぇ。人形遊びと、おんなじだ」
「やっぱりあんたを呼んだわたしの勘は正しかった」
あの男は、嘘も狂言もついていなかったのだ。ただ本当のことを言っていた。
どうしてか口元が緩んだ。嘲っていた。何に対してかは、わからない。少し、混乱をしているのかもしれない。
「他に、生き返った人間を見たってのか」
「わたしが見たあの子はまだ眠ってた」
綿の敷き詰められた箱の中で、あの少女は目覚めの時を待っていた。時間の経過を促す日の光を避けるように。
「どこで見たんだ」
「薄暗く冷たい地下室で。必要だったから攫ったの」
大きな屋敷だった。裏手から入り、騒ぐ使用人たちを大人しくさせて、すぐに探し始めた。
「わたしたちは、次期の聖女候補が欲しかった」
探して周ったが、子供の姿はどこにもない。だからその家の主人にナイフをつきつけた。
彼は最初、素直に言うことは聞かなかった。ようやく口を割ったものの、引き合いに出された娘はもう生きてはいなかった。
「“彼は約束してくれた。娘を生き返らせてくれると。まだアリスは生きている”あの男はそう言い張った。わたしには、どうしても死体にしか見えなくて。脈は無いし、体も冷たい、なのに、こちらが何をいってもあの男は聞き入れやしなかった。屋敷の奥で、誰にも見られないように暮らしていれば問題なかったでしょうね。けれど、膨大な名簿の中から、白羽の矢が当たってしまった。娘の死を受け入れないあの男、死亡を申告していなかったの」
何千という候補者から選ばれるなど夢にも思わなかっただろう。
「このままでは死体を隠匿していたことが公になってしまう。娘は生きているといいながら、死体だという認識は彼も持っていた」
おかしな話だ。否定しながら、死んだ事実は受け入れていた。
「起きて歩けばごまかすこともできたんだろうけど、あの子はまだ目覚める段階ではなかった。わたし達が押し込んだのはそういう時だった」
父親は客観的に見ても自暴自棄になっていた。頑なだった口が、少し突付いただけで堰を切ったように止まらなかった。突然やってきた乱入者へ、当てつけるようによく喋った。ほとほと弱り果てたといった様子だった。それはダリア側からしてみても予想外のことだった。
けれど、よく考えてみれば何の問題もない話だ。
「実際に生きてようが死んでようが、教会にとって彼女はまだ生きている。こちらとしては聖女の候補が攫われたことをエルジバにわからせればよかった。父親は娘をエルジバに差し出すわけにはいかなかった」
「見解が一致したわけだな」
「あの男は最後まで嫌がったけど、実際問題、時間稼ぎも必要だった。あの時あの屋敷に娘がいることを見つかるわけにはいかない。だから」
“蠍”に娘を攫われたと言えばいい。そう言いくるめて、息をしていない娘を盗んだ。最悪、見つかっても攫われた後に殺されたといえば言い訳も立つ。あの男にとっても決して悪い話ではなかったはずだ。
「気味の悪い話だけど、それでも計画は順調だった。話はすぐにエルジバが知ることとなったし、攫ったほうは面倒を見なくていい。死体は騒がないし、ご飯も与える必要がないからね。ただあの男の言っていたことが気になって、あんたのことを思い出した。で、連絡を取ろうと思ったの」
今から振り返れば、どうかしていたと思う。死体が生き返る話と、ラウラとの間に具体的な接点はないのだから。
誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
仲間は死体に慄いていたが、彼らと一緒に怯えるわけにはいかなかった。いつでもどんな状況でも慄然としていることが必要だった。それでも心の奥深いところでは、動揺して、弱っていたのかもしれない。不可解な話を茶化さずに聞いてくれそうな誰かを、探していたのかもしれない。
「あの日、わたしは廃家へ行かなかったの。あんたはしばらく街にいないって聞いてたし、すっぽかされるのも覚悟してたし」
「とことん信用されてねぇなぁ」
「たいてい、誰かは居ることになってたから、どうとでもなると思ってたのよ。でも、あんな奴を招いた覚えはないわ」
自然に声が低くなる。人伝にしか聞いていないが、現実として仲間は殺され、娘もいなくなっていた。
「あんたが捕まったって聞いたから、助けに行ったのに嫌がるし、仕方なく一人で女の子を探そうとしていたら、その子が」
子供が目の前に現れた。
「メッセンジャーは交換条件を持ち出した」
下からラウラを見上げる。
「あんたを差し出せば娘は返すって」
ラウラが威嚇するように歯をむき出した。
「なんでこっちの身柄をてめぇが握ってることになってんだよ」
「さぁ? あんたと話してるところを見られたみたいだから、お友達だと思われたんじゃない?」
「それで、あっさり売ったんだな」
「結果としては、まだ売っていないわ」
澄まして答えてやった。舌打ちが聞こえた。
ラウラが鼻の頭を掻く。その癖は一生ついて回るのだろう。超然としている人間のくだらない癖は見ていて面白い。先日はつい指摘してしまったが、このまま放っておこうと思う。
「なんにしても、奴があそこに居たのは偶然じゃねぇな」
「あんた、あの殺人狂に心当たりでもあるの」
「あぁ? そうか、てめぇ知らねぇのか、ジャック・シリウスっていう……」
突然、集会所の外扉が叩かれた。それが何度も執拗に繰り返される。
お互いに顔を見合わせた。こんな来客の予定は聞いていない。しかし信者の誰かだとしたら、おろそかにはできない。
椅子から立ち上がり、慎重に扉へ近づいた。
「誰?」
警戒しつつ囁くように尋ねた。
「エルジバ教会よ」
少女の闊達な声が返ってきた。
とっさに振り返った先ではラウラも立ち上がり、いつでも動ける姿勢をとっている。
「あんたが連れてきたの?」
「ちげぇ。関係ねぇよ」
思いきり顔をしかめられた。
ラウラではないとして、なぜこのような時間にエルジバ教会の人間が訪問してくるというのか。
「開けてちょうだい」
催促の声に舌打ちをしてやる。
「こんな時間になんの用?」
「ちょっとお話しを伺いに来たのよ」
「明日にして。今日はもう休まなきゃならないから」
「あら、教会に協力してくれないの? 開けろと言ったら開けなさいよ」
声質に起伏はなく、どこまでも淡々としている。怒鳴り散らしてくるより性質が悪い。
無理も押せば通ると思っているのだろう。それが教会の人間だ。奴らは慈悲深い顔をして、味方に属さないその他全てを敵とする。
「眠いのよ、明日も早く起きなければならないし」
一拍の間が空いた。そして、ドアが一際強く叩かれた。叩くというより打ちつける、という表現が相応しい。拳よりも固く質量のある物体がドアを軋ませた。一度、二度と数が重なるたびに蝶番が変形する。
力づくで押し込むつもりだ。
「つくづく常識のない屑ね……!」
「先に行くぜ」
ラウラは室内へ続くドアを潜っていくところだった。
「あんた、今は連中の仲間なんでしょ」
「勝手に逃げ出したのがバレたら面倒だ。どうすんだよ。まともに相手してやんのか」
教会の連中は話が通じない。まるで人間の相手をしている気がしない。
「冗談。バルテルさまに伝えないと」
燭台を手に、ラウラの背中を押して部屋を出る。彼はこの騒動に気づいているだろうか。
ラウラは廊下の途中にある窓に手をかけた。先ほどダリアがかけた鍵を開けて、夜風を呼び込む。
窓枠に足を掛けた彼女の後ろを、ダリアは足早に通り過ぎる。
「おい、言っとくが話は終わってねぇ」
「わかったわよ」
あとで落ち合うというのだろう。今、起こっている面倒を片付けられればの話だが。
もう一度、杖が振り下ろされる。エアリアルを含んで淡く緑色に輝く先端が、木板をしならせた。
一歩引いたところから、オルネオはその光景を眺めていた。
カルミナの無茶は今に始まったことではない。さらにいえば、教会の中で特異なわけでもない。
もっとも、彼女を焚き付けた張本人とはいえ、ここまで行動が早いとは思っていなかった。一応、制止の声はかけたが「構う必要はないわ」と一言で捨てられた。
周囲には、いつもカルミナと共にいるお付が二人、やはりその所業を見守っている。おそらくは彼女の実家に縁のある信徒なのだろう。話をしたことがないので、詳しいところはわからない。
蝶番の弾き飛ぶ音がして、荒々しい物音が響いた。妨げのなくなった出入り口から、カルミナが洋々と踏み込んでいく。二人の付き人がそれに続いた。
最後になったオルネオがゆっくり足を運んだが、建物に入る直前に歩みを止めた。壁の向こうから、下草を踏む足音がする。
身構える前に姿を現したのは、ラウラだった。何故か子供を抱えているうえ、服が汚れている。
ラウラは教会の宿舎にいるはずだ。「どこにも行かない」と宣言していくらもたたないうちに、オルネオの眼中から外れた行動を起こしていたらしい。
オルネオが切れ長の目を吊り上げる。
「だからお前は信用ならないというんだ」
静かに怒気を含む彼の胸に、ラウラが子供を押し付けた。思わず受け取ってしまってから、彼はその異様な状態に気づいた。
「これは?」
「身元確認した方がいいんじゃねぇか」
そう言うラウラの顔にも余裕がない。顎で建物を示す。
「あいつら、無茶をしねぇだろうな」
「話の出来る状態にはしておくはずだ」
聞くなり、どこかへ行こうとする。
「どこに行くんだ」
「教会に戻るんだよ。どうせそっちへ連れて行くんだろ」
どこまでも奔放な言動に呆れてしまう。
「友人と会っていたんじゃないのか」
そうでなければ、こんなところをうろついてはいないだろう。
「見捨てていくのか」
「あいつも、そうされるなりのことをして来たんだろ。順番が周ってきたってこった。けどな、あいつにもしものことがあったら、後悔することになるぜ」
「どういう意味だ」
「あいつはシリウスと唯一の連絡網だ」
意味有り気な物言いに、オルネオは怪訝な顔をする。
教会内から喧騒が聞こえた。不穏な物音に、二人は顔を見合わせ、同時に建物内へ走り込んだ。
最も賑やかだった頃と比べれば、ネヴィタに暮らす住人の減少は著しい。特に、エルジバ教会が統括した頃を境にそれは起こっていた。
大通りのある周辺はまだいいが、中心地から外れるほど民家の火は乏しくなる。先日から教会の人間が目を光らせていることも伴って、夜になればそのような寂しい道を出歩く者はいなかった。
静寂の中で靴音がする。浩々とした月光に二つの人影が浮かび上がる。
双方とも、外套に身を包んでフードを目深に被っていた。一人は小柄な体格で、もう一人は子どもだ。手を繋いで、何かに急かされるように歩いている。
二人はある一軒の建物に近づいていった。 街と一緒に風化して、景色の一部に溶け込んでいた家だ。小柄な方が張り出した窓ガラスを覗き込む。商品窓があることから、一階は店であるらしい。もっとも閉まったカーテンは色あせて、何年も開かれた形跡がなかった。
身を屈めていたその人物は、子供に手を引かれて前のめりになった。そのまま建物の脇道へ入っていく。
外壁に囲まれた家の裏へ回った。一面は壁だ。出入りするような裏口はない。
子供が平面に手を伸ばすと、なにもなかったはずのそこに、ドアの取っ手が現れた。
小さな手が手前に引くと、あっさりと開いてしまう。
立ち尽くす方を引っ張って、子供は中へ入っていく。二人が消えたのち、ドアは消え、そこはただの壁に戻っていった。
建物の中は薄暗かった。すぐそこにある階段で二階へ上がる。子供の足取りに躊躇はない。階上からは橙色の明かりが漏れていた。
二階は間仕切りのない一部屋になっていた。部屋の隅には雑然と物が置かれている。積み重なった箱の横に帽子や日傘やリボンといった、およそ男性の持ち物には相応しくない装飾品があった。中央には大きな長机が一つ。その上に毛布が敷かれ、少女が横たわっていた。細々とした道具類に囲まれて、眠るように目を閉じている。
机の前に男がいた。何か作業をしている。頭に白髪が目立つが、こちらに向けた背は伸びていて、上等な服を着ていた。
「おかえり、シェリル」
物音を聞いて察していたのだろう。二人が階上へ上がる前に彼は振り返った。温和そうな壮年の男だった。
小柄な方が、両腕で子どもを自身に引き寄せた。守るようであり、縋るようでもあった。
外套から覗くその素手を見て、男が笑みを広げる。それで感情の機微が掻き消えた。
「これは。予定外の客人だ」
来訪者は慎重な足取りで、残りの階段を上りきった。フードを後ろに押し上げる。波打つこげ茶色の髪がはらりと落ちた。目じりのつり上がった瞳が男を射抜く。
「はじめまして、お嬢さん」
対して男は手を広げて女を迎えた。
「よくいらっしゃった。しかし……あいにくここは人が来る事を想定していないのでね、何一つもてなすことが出来ないのですが」
「いいわ。お茶を飲む気分でもないから。顔を合わすのは初めてだけど、私が誰だかわかるようね」
「“蠍”の一人ということだけは」
「そっちは何者?」
「シリウスといいます」
素直に男は答えた。
覚悟を決めたように、女は表情を引き締める。
男が小首を傾げた。
「ところで、ここにいるのがどうしてあなたなのでしょう? わたしはシェリルに赤目の女性を連れてくるよう頼んでいたのに」
「そのことなんだけど」
女が頬を強張らせる。
「ちょっと問題が起きてしまって」
「どういうことでしょう?」
そう言って男はさりげなく長椅子を手で示す。促されるまま、女は長椅子の端に腰掛けた。
子供を引き取ろうとする男に、女が首を振って拒否する。
「こうしてると落ち着くの。この子も嫌がっていないわ」
そう言って抱きかかえる腕に力を込めた。
「さっき、アルデバ教会がエルジバの連中に踏み込まれたの。それで仲間が全員、捕まってしまって」
そっと女は目を伏せた。
「あそこは私の家も同然で、教主のバルテルさまは恩師でもあったのに」
「あなたはよく捕まりませんでしたね」
「危なかったわ。でも寸でのところで逃げることができたの。バルテルさまは私のせいで捕まったようなものよ」
「それはお気の毒で」
強い意志を込めて女が顔を上げる。
「みんなを助けたいの。お願い、力を貸して」
「それは無理なご相談です」
男は決まっていたことのように苦笑した。
「あんた、不思議な力を持っているんでしょう? それで教会に対抗できるんじゃない?」
「わたしはただの旅行者です。行く先々で土産ものをコレクターするのが好きな趣味人なんですよ。教会に喧嘩を売る度胸なんてありません」
女はうつむいた。
「近々、みんな処刑されるらしいわ。明日、中央部に全員輸送して、大々的にやるみたい」
「そうですか」
女はちらりと机の上に目をやった。毛布を重ねた上に少女が横たわっている。
「その子の父親も、捕まったそうよ」
それを聞いた男の頬が、ほんのわずかに、引きつった。
「それは、どのような理由で?」
「虚言癖があるとか、教会に非協力的だとか。そういうくだらない理由よ」
男は細く息を吐いた。ため息か安堵か、あるいは両方の意味を含んだ吐息だった。そうして少女の頭にやわらかく手を置く。慰めるように髪を撫でた。
「でも、ほんとうにロクでもない男だったみたいね。その子も可哀想」
女は床の一点をじっと見つめた。
この近辺ではあらゆるものが寝静まっているらしい。家屋はいくつも立ち並んでいたが、まるで誰も住んでいないかのような静けさだ。ランプの芯が燃える、その音が聞こえるほど。
「罰せられて当然の方だった、ということでしょうか?」
焦れたように男の方から先を促す。
「その子、父親に乱暴されてたのよ」
ぽつりとつぶやいた。
男の手が止まった。
女は床を見つめていた。視界には男の影があった。
ランプの火が揺らぐ。少女の白い肌を照り返す。
男がそっと息を吸う。何か言うらしい。
「それは」
「教会内に仲間がいるの。彼から聞いたわ。それももう危なくてできないけどね。本人がそう言ったっていうんだから、本当のことなんでしょ」
言葉を探すような間があって、ようやく、
「酷い話だ」
と男は声を漏らした。
「あんなやつと、テオドルさまが同じ扱いを受けるなんて」
女が悔しそうに唇を噛んだ。
男が少女からそっと手を離す。
「さきほど、あなたの仲間は全員捕まったと言っていましたが、あの赤目の女性も?」
「あの子も本部へ輸送されるらしいわ」
「そうですか」
男はその場から離れた。女の側へ近寄り、少し身を屈めて、顔を覗き込む。
「そのバルテルという男は、あなたにとってそれほど価値のある方なのですか。教会に楯突くほどの」
「とても大事な人よ。お父さんを」
「あなたのお父様を?」
「た、助けてくれると」
勝気な目元に涙が膨れる。女は男から顔を逸らした。
「だけど、もういない。信頼していたのに」
女はぐっと感情を押しとどめた。涙が頬を伝うことはなかった。
男が優しくその手を取る。
「女性の涙を見過ごすわけにはいきませんね。わたしでお手伝いできることがあれば、力になりましょう」
声の詰まった女は、どうにか一つ、頷いた。