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かつてこの土地は、三つの地域に分かれていた。それぞれが独自の文化を持っており、諍いも多かった。あるとき一人の男が現れて、たちまち三つの地域を治めてしまった。彼は地方から出てきた若者で、それまで誰も聞いたことがないような神の信徒だった。瞬く間に、その神の名は全ての土地に知れ渡ることとなった。彼はアシトラと呼ばれていた地を神の示した場所として、そこに神殿を構えた。彼は神の指示に従い一帯をノイスと名づけた。そして彼の下にいる全ての者は、彼の信奉する神を崇めなければならないとも言った。それが始まりだった。今から三百年も昔の話と伝えられている。
ノイスの西、アラバ地方にネヴィタという街がある。神殿のある中心からやや離れているが、近隣では比較的大きな街だった。
南方からネヴィタに入ると、そのまま抜き目通りを行くことになる。街を分断する広く長い通りのどん詰まりに、豪奢な建築物があった。正面玄関の上には、銀色の集中線を円環で囲んだ象徴が掲げられている。ネヴィタの中央施設、エルジバ教会がここになる。
建物の前に停まった馬車から、一人の青年が降りた。丈の長い外套を纏い、手には旅行鞄を提げている。髪は黒く、目は切れ長で鋭い。
彼は建物に入ると、通りがかりの女性へ声をかけた。
「アルフラードのオルネオ・マシウだ。ブラント司祭との面会をお願いしたいんだが」
女性は驚いたように、まじまじと見返してきた。そうして、彼女が説明をしながら手を動かしたとき、示されたドアが開いて人が出てきた。
小柄な少女だった。白い僧服はサイズが合っていないのか、袖など手の甲が隠れてしまうほど余裕がある。外にハネたオレンジ色の髪に大きな帽子を乗せていた。
彼女はオルネオを見ると、緑色の目をくりくりさせた。
「あら、偶然ね」
とっさに返事をし損ねたオルネオは、押し黙る形になってしまった。
少女、カルミナは気にした素振りもなく近づいてくる。
「本部からのお使いかしら? わたしがそうなんだけれど」
「……えぇ」
「滅多に会わない人にあえると幸運の前兆な気がするわね。誰に用事?」
「ブラント司祭に」
「案内が必要ではなくて?」
腰に両手を当てて微笑む。
「急いでおられるのでは?」
「少しくらい大丈夫よ」
そう言うと、カルミナは来た方向へさっさと戻っていく。
引き止める間もない。オルネオは大人しく彼女に甘んじることにした。
関係者以外立ち入らない廊下は、どうにか二人並べるほどの広さしかなく、質素な造りをしている。
斜め前方から、カルミナが肩越しに振り返った。
「本部の方からは何の連絡も来てないんだけど、別件ということなのかしら?」
「自分がこちらに立ち寄ったのは、予定にないことでした。街に来たついでに挨拶をしにきただけです」
「アルフラードも思い付きで行動することがあるのね。意外だわ」
行動が指示された間は、命令以外のことをしない。アルフラードというのは、そういう連中だという認識が浸透している。オルネオは反論しなかった。感情のままに口走っても、ここでは意味がないように思えた。
「……カルミナは、こちらへは何をしに?」
逡巡してから、そう尋ねた。教会の階級第二位、しかも貴族に生まれた彼女をそう呼ぶことは、オルネオにも若干の抵抗がある。過去に会ったときは、名前で構わないと言われた。それがどれほど前のことか、オルネオ自身も覚えていない。それくらい昔の話なもので、彼女が記憶しているかどうか、不安になった。
カルミナのため息に、オルネオは身をすくめた。
「本当はもうとっくの昔に本部へ帰っているところなんだけど、めんどくさいことになっちゃって。今は“蠍”って強盗を追っている最中よ」
お咎めなしなようなので、オルネオは肩の力を抜いた。
“蠍”は以前から教会に喧嘩を売ってくる集団の一つだ。ここへ来るまでに確認した資料にその名前があったのをオルネオは思い出した。アルフラード内部で配布される反抗組織の末端に書かれていたので、規模の小さな団体なのだろうという認識しかなかった。
「その名前の集団には覚えがあります。では、教会が本格的に動き始めたということでしょうか」
「それがねー」
カルミナが眉間の間を痒そうに掻く。
「動いているのは、今のところわたしだけよ。ここの教会の人たちにも、協力はしてもらってるんだけど」
「頼りにされている、ということでしょう」
「そうだったらいいんだけど、違うのよね」
カルミナは乾いた声で笑う。
実際、齢十六の少女が先頭立って行うような任務ではない、とオルネオも思う。他に援助がないのも不自然だ。
「昨夜、ようやく連中の一人を捕まえたばかりなの。なかなか口を割ってくれなくて、困ったわ」
「手柄をお立てになったんですね。おめでとうございます」
「珍しいのよ」
オルネオのあからさまなお世辞は、あっさり聞き流されてしまった。
「髪が白で、目が赤いの。肌なんて真っ白でね。綺麗な女の人」
オルネオは先を行くカルミナを見た。どうしても頭頂部を見下ろす形になる。帽子は特注で、実は日によってデザインが違うらしい。
「珍しい、ですね」
「ま、その分、態度がとても悪いわ。“蠍”の一味だって認めないし。よっぽどきつく躾られてるのね」
「名前など名乗ったんでしょうか」
「名前? どうしてそんなこと聞くの?」
「……興味がありまして」
曖昧な言い方には言及せず、カルミナは斜め上空へ視線を飛ばす。
「えーっと、何だったかな。ラ……なんとか」
「すみません、あの」
振り返ったカルミナが足を止める。オルネオの方は彼女から三歩ほど後方で立ち止まっていた。苦虫を噛みつぶしたような顔をする彼を、カルミナが不思議そうに眺める。
「なぁに」
「その捕らえた人間を、見せてもらえませんか」
「あなたの用事に関係ある人かしら?」
「念のために」
すぐさま行き先は方向転換された。
件の女は、今もまだ取り調べ用の部屋に軟禁されているらしい。
ドアの上方に取り付けられた小さな窓から、オルネオは中を覗き込む。
男の怒鳴り声が耳に飛び込んでくる。しきりに、がなりたてているのは彼一人だけだ。向かい側に座った人間は気だるげな様子で、床に視線を落としている。
話に聞いた通り、雪のような白い肌に、白い髪をした女だった。
カルミナは腕を組んだ。
「殴って吐かせるって理屈は、さすがのわたしでもわかるんだけど、以前やった議会の規定項目追加で、拷問禁止の案が通ってるでしょ。こちちとしても、こういうことには不慣れなものだから、何をどうしたらいいのやら。力押しでやれっていうなら、よっぽど簡単なんだけど。どうしたの?」
オルネオは瞑目していた。そうして切れ長の目を開き、鋭い眼光をカルミナに向ける。
「面会をさせてくれませんか。二人きりで」
目を瞬き、カルミナは迷うように唸った。オルネオにちらりと視線を返す。
「ところで、そちらにはどういう令状が下っているの?」
単なる善意でオルネオの案内をかって出たわけではない、と言いたいのだろう。“少しくらい”の時間をわざわざ割いたのは、情報交換のためだ。離れがちな教会内部の事情をオルネオが知りたいように、単独行動をとることの多いアルフラードの内情にカルミナも興味があるのだろう。
教会の階級は、教皇を頂点に三角形の構造をしている。上から特級、一級、と続き、四級まである。功績が審査委員に認められれば昇級となるが、実際は本人の能力より家柄に左右されているのが現状だ。まだ成人を迎えたばかりのカルミナが二級を拝しているのが良い例で、特にその位は貴族階級とも呼ばれるほど、異様な偏りがあった。
アルフラードはどの階級にも属さない。一応、教皇直属の特別枠ということになっているものの、かの人とオルネオまでは何人も仲介者がいて、直に接することのない仕組みになっていた。二級か、時にはそれ以上の特権を有することも多いが、階級を持たない連中と馬鹿にする者も多かった。加えて、行動が表立たないので、得体の知れない怪しさもあり、良いように思われることの方が少ない。
カルミナは、そんな偏見を持たない珍しい類の人間だった。他の人間へそうするように接してくるが、逆にオルネオの方がそうしたことに慣れないので戸惑ってしまう。好奇心を抑えられないようで、アルフラードのことを少しでも聞き出そうとしてくるところも、困惑してしまう原因だった。あそこには話せないことも多い。
「ジャック・シリウスという男をご存知ですか?」
幸い、今回は隠すほどの話ではないので、カルミナの情報交換に乗ることにした。実のところ、これは令状というわけでもない。
「聞いたことあるわ。幼女趣味の鬼畜変態殺人者でしょ」
「……えぇ、まぁ。それを追っています」
カルミナは息を呑んで、身を乗りだした。
「この街に、その変態が来てるってこと?」
「それらしい情報を得ただけです。確証があるわけではありません」
「幼女、女の子か……」
顎に手を当てて思案する素振りを見せた。
しかし、難しい顔をしたまま首を傾げてしまう。
「何か」
「いいえ。今、ピンときたんだけど、よく考えると思い過ごしだったわ」
まだ少女といっていい外観のカルミナはオルネオに向き直った。
「面会を許可します。変態はとっとと捕まえてちょうだい」
どうしてかオルネオより張り切っていた。
すでに多くの時間を消費している。紳士然とした男に気絶させられ、目が覚めてからこっち、ずっと椅子に座リ続けている。対面する男は、彼が二人目だった。
初めのうちはラウラも律儀に答えていたものの、まるで人の話を聞かない態度が頭にきて、以来だんまりを行使している。眠くてたまらなかったが、騒音の中で意識を飛ばせられるほど神経は太くない。繊細なので。
「ぷっ」
「なにが可笑しい!」
「……」
己の思考に笑ったなど言えない。
話を聞いていると、どうやら彼らはラウラをなんらかの組織の一員ということにしたいらしい。仲間の居場所を喋らせたいようだが、当然ラウラは知っているわけもなかった。
あいにく協調性という言葉に愛想を付かされている性質である。その昔、とある寄宿舎のようなところに放り込まれたとき、「おまえはそこに居るだけで風紀を乱す」と指を突きつけられた。そんな人間が徒党を組んで集団行動など出来るはずはない。
(ダリアはどうしただろう?)
この数時間のうちで何度か意識の上った疑問だ。あの男の口ぶりは、屋敷にいた人間のすべてを処理した後のようだった。もちろん、ダリアが居たかどうかも確かではないが。
いずれにしろ、ダリアとはもう何年も顔を合わせていない。そのうえ、ラウラをこんな面白くない状況に招いた張本人だ。そんな奴の安否を気にすることはないだろう。心配しなければならないことは、もっと他にあるように思うし。
そういうことを、忘れた頃に思い出しては忘れ、また少し考えることを繰り返していた。はっきりしないから気になる。
(死んでるのか生きてるのか、どっちだよ!)
なんだか無償に腹が立ってきた。
不眠と飢えと乾きと騒音のせいだ。まとまらない思考も、原因不明の苛立ちも。
人非人の扱いを受けるのは初めてではない。物理的な抵抗は中途半端であるほど無意味だ。疲労しているこの状態で、目の前の男を伸せるのは難しい。仮にできたとしても、この建物から無傷で外へ出るのは不可能だろう。
辛抱が試されている。今は我慢するときだ。これまでにも似たような状況に陥ったことはあるし、嵐が過ぎるのを待っていれば……
「聞いているのか! この幽霊が!」
きつく閉じていたラウラの目が開いた。
ゆっくりと視線を上げて、正面の男の顔を捉える。わめいていたせいか、彼は顔が上気していた。
ラウラは己の頭から血の気が失せて、いやに冴え冴えとしていくのを自覚した。
「てめぇ、今なんつった」
久しぶりに出た声は、乾いて掠れていた。弱々しく聞こえる。弱いのはいけない、怯えるのは。こらえるのと、縮こまるのは違う。
「交代よ!」
ドアが開いたのと、男の顔面に拳がめり込んだのは同時だった。
意識を喪失した男は、引きずられるようにして部屋の外に出された。
「こっちが手を出せないのは、相手が武力を放棄している状態に限るんですからね」
「わかっています」
耳打ちしてくるカルミナに短く答えておく。これ以上、赤目の彼女を暴れさせてはいけない。でなければ、この無垢な顔をした少女が嬉々として動き始めることになるだろう。
倒れた椅子を起こして、腰掛ける。旅行鞄は足元に置いた。
頼んだとおり、部屋にはオルネオと彼女の二人だけだ。中央の机を挟んで対峙する形になる。隅には箱や工具が適当に積み上げられていた。おそらく、元は物置か何かだったのだろう。天上付近にある明かり取りの小窓だけが、視界を確保できる手段だった。
当の女は、己の失態を自覚してか、嘆くように額を押さえていた。
「久しぶりだな、ラウラ」
呼びかけると、そろそろと手が下りて、顔が上がってくる。赤い目が、刺すような鋭さでオルネオを射抜いた。
「どっかで聞いた声だな」
「覚えていないか」
ラウラが眉をひそめ、赤い目を眇める。よく見えないのだろう。昔から、近眼の気があった。日常生活に支障はないとは本人の弁だが、この様子ではどれほどのものか怪しい。
見る見るうちにラウラの顔が歪んでいく。そうして、わざとらしくため息を吐き出すと、そっぽを向いた。
覚えてはいたようだ。ここまで投げやりな態度は、赤の他人にとらないだろう。
「なんで、てめぇがここにいるんだ」
「アルフラードになった」
胡散臭そうな目をされる。
「出世したな」
「他に道がなかった」
ラウラのようにはなれなかった。教会に関わらず生きていられる。その点だけが、オルネオには彼女が少しうらやましい。
「で?」
観察するようにオルネオを眺めていたラウラが、先を促す。
「聞きたいのはこっちだ」
彼女は天を仰いだ。
「だから、呼ばれただけなんだって」
「詳しく聞こう」
とつとつとラウラは語りだした。余計なことは言わず、端的に一連の出来事を述べていく。オルネオはラウラが喋りつくすまで、口を挟まなかった。
「そのダリアっていうのは、おまえとどういう関係なんだ」
「昔、アテがなくてフラフラしてたとき、ここの路上で寝起きしてたんだよ。そんときの路上仲間。歳近かったし、女だったし、他の連中よりは、話をしてた」
「最近は会っていなかったのか」
ラウラが一つ頷く。
「金を稼ぐ方法を見つけたから。ネヴィタには出たり入ったり。そのうち、奴の顔も見なくなってそれっきり」
「一切の連絡もなく? 友人だったんだろ」
「友情に熱そうな人間に見えるか?」
見えない。そういうところは淡白だった。
「なら、どうして今頃?」
「知らね。聞きたくても、手遅れかもしんねぇし」
ラウラは自分の手を見下ろして、爪を弄っている。薄がりではっきりしないが、汚れているようだ。
オルネオは旅行鞄を持ち上げて、机の上に置いた。蓋を開け、中から聖典を一冊取り出す。革で装丁されたそれは、一般に出回ることのない代物だ。余白にメモや走り書きがしてある。造りが頑丈なので、書類留め代わりにも使っていた。表紙をめくって、挟んである紙を一枚、引き抜いた。
紙には初老の男が一人、木炭で描かれている。
「俺は今、この男を捜している」
見えやすいように紙を反転させて、差し出す。腕を伸ばすのも億劫そうに、ラウラは受け取った。
オルネオと対面してから、ラウラの眉間には皺が寄ったままだ。紙面を前にして、さらに一段と、目つきが悪くなる。
鼻先にまで近づけては離し、執拗に眺めていた。
「誰だ、こいつ」
「ジャック・シリウスという。ある町で子供が攫われ、その遺体が別の町で発見された。そんな事件がもう何件も起こっている。彼には誘拐と殺人の疑いがかかっている。今はネヴィタにいるらしい」
「子供か……」
カルミナと同じように呟く。
「被害にあっているのはすべて、十歳未満の女子だ。遺体からは、エアリアルの反応が出ている」
「こいつぁ、施設の関係者なのか?」
「関係ない。後天性ではなく、先天性だ。シリウスは古い血統だ」
「ははぁ、天然物か」
似顔絵を机の上に放る。
「こっちも昨日、街に戻ってきたばっかりなんだ。通行人なんてしっかり見ねぇし。人の顔ってのは、ぼんやりしてて」
「仮にも貴族だ。おまえが行くような場所には現れないかもしれないな」
汚れていない方の指先でラウラが鼻の頭を掻く。
「なぁ、有り得ねぇかもしれねぇけど万が一、なにかの拍子にこいつと会ったことがあるとして、それをてめぇに教えた場合、今のこの状況が良くなったりするのか?」
「ならない。それとこれとは別件だ。おまえの処遇まで口出しできない。こっちはモルト女史が一任している」
「あのガキんちょか……」
「あの人こそ施設の関係者だ。俺たちの後輩になる」
思い出すことでもあったのか、色白の顔が曇った。
「あそこは、まだ新しい人間、集めてんのか」
「だいぶ人数が少なくなったからな」
口を引き結んで、ラウラが視線を逸らす。
「教会内の対応についてはなんとも言えないが、こちらの捜査協力という形で外に引っ張りだすことはできる」
ラウラはきょとんとした。無防備なところを晒すのは珍しい。
「そんなこと出来るのか」
「前例がないわけじゃない」
犯罪者をスパイに仕立てるやり方は、昔からある。オルネオはやったことがない。それでも、押し通せる融通の範囲を超えないだろう、と踏んだ。
「偉くなったもんだな」
両手を頭の後ろで組んで、ラウラは背もたれに体を預けた。関心したというより、観念した、といった様子だ。
「それで、どうする」
問われて、ラウラは天井に向かって大きな欠伸を漏らした。
「協力してやんよ。眠ぃし腹減ったし」
答えを聞いて、オルネオは立ち上がった。調べたいことと、やらなければならないことが、たくさんある。方々への説明も、上手くやらなければならない。せっかく捕まえた手がかりを監視から外すのだ。さすがのカルミナも、良い顔はしないだろう。