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3/11

 藍色の空に、白い瞬きが見え始める。夕焼けは遠のき、地平線に面影を残すのみとなった。ネヴィタにも、ひそやかな時間が訪れる。

 この季節は日の陰りが早い。おまけに今夜は見事な満月で、通りにはまだ、まばらに人影が残っていた。

 白い僧服を着た二人組みが、道行く人に鋭い視線を飛ばしている。穏やかな喧噪には相応しくない眼差しだった。彼らはしばらく周囲を観察していたが、特に何をするでもなく、そのまま場所を移動していった。

 家路を急ぐ善良な市民たちに、今また一つ、路地から出てきた人影が加わった。

 丈の短い外套を羽織ったその人物は、顔を隠すようにフードを深く被っていた。ポケットに両手を突っ込んで、やや猫背になって歩いている。

 ゆるやかに蛇行しながら、出てきた方とは反対の路地に入っていく。

 月光さえ遠のいたそこは、家の壁面ばかりが続く路だった。角をいくつか曲がり、ある箇所で止まる。

 薄汚れた簡素な木戸がある。ぼんやりしていれば、そのまま見過ごしてしまうだろう。取っ手と思しき金具に指を引っ掛けて、静かに戸を押した。小さな入り口に、身を屈めて滑り込む。

 室内には、声のさざめきが漂っていた。

 壁に取り付けられた燭台が、部屋をぼんやりと照らしている。卓には何人かの客が談笑していた。騒ぐような無粋者もおらず、大人しく酒を飲んでいる。

 対してカウンターは、がらんとしていた。奥の方に、小男が一人しかいない。そこに視点を定めて、その人は彼に近づいた。

 隣に座った人間を見遣って、男は小さく驚きの声を上げた。

「お、久しぶりだな」

「おぅよ」

 フードの人物が口端を吊り上げる。低い声で囁くような話し方は、それだけだと性別があやふだだが、白い喉元は女のそれだ。

「マスター、こいつに一杯くれてやって」

 顔を綻ばせて注文する男に対して、フードの方は眉をしかめる。

「飲めねっつのに」

「いいじゃねぇか」

 気分良さそうにしている男に、フードを被っているほうも、それ以上は口を閉ざす。

「いつ帰ってきたんだ」

「今日の昼間。さっき起きたばっか」

 席に落ち着いたものの、彼女は頭のそれを取ることはなかった。隙間から、わずかに白い髪が覗いている。蝋燭の火でぼんやりと照らされた肌は透き通るように白く、口唇の色が濃い。顔の輪郭は整っているが、黒い色付き眼鏡を掛けているせいで全貌はわからないようになっていた。

「俺んとこ、一番に挨拶に来るたぁ、わかってんな」

「殊勝だろ。あと金銭」

 ポケットから、丸まった札を数枚取り出す。紙屑のようになった紙幣を、男は握りこむようにして受け取った。

「特別なんだぜ。おまえさんくらい、返済を待ってんのは」

「とんずらしねぇだけ、マシじゃねぇか」

 男が卑しい目を向けてくる。

 バーテンが女の前にグラスを置いた。

 無色の水面は、振動で波紋を広げていた。それもやがて収まる。

 正面を向いたまま、女は紙幣を出したのとは反対の方から手を出した。親指と人差し指をくっつけた形にして、男につきだす。男はとっさに両手で受け皿を作った。その上に、摘まれていたものが落ちる。

 小指の爪ほどの金塊が、皺膨れた掌の表面を転がった。

「本物かよ」

「じゃなかったら、こっちが泣くな。廃墟を這い回ってようやく、見つけたってのに」

 片目を瞑ってしつこく見ていた男は、とりあえず納得したようだった。

「とにかく、乾杯だ。良い取引相手との再会を祝って」

「だから飲めねっつの」

 縁だけ合わせて、口を付けずに女はグラスを卓へ戻した。

 一人だけグラスを傾けた男が、アルコールの混じった息を吐く。

「いやぁ、でも、ちょうど良かった」

「なにが」

「伝言頼まれててよ。いつ帰ってくるか、わかんねぇとは言っといたんだが」

「誰だ。仕事か。お断りだ」

「ダリアが会いたがってたぜ。知り合いか」

 女は鼻の頭を掻いてから、ポケットに手を戻した。

「思い出した。懐かしいな」

「へ、本当に知り合いかよ。意外だな。おまえが女同士で話してるところなんて、想像つかねぇ」

「そうか? まぁ、確かに女らしい話はしねぇよ」

「違ぇねぇ。おまえが口に手を当ててホホホなんて笑ってたら……やべぇ気分悪くなってきた」

「そう言われたら腹ぁ立つな」

「とにかく、伝えたからな。町外れの廃家だ。行く途中、教会の連中に気をつけろよ」

 女がわずかに顔を上げる。

「そういやぁ、今日はやけに見回りが多かったな。お陰で昼間、出かけらんなかったんだ。来るときにも見たぜ。なにかあったのか?」

 男はグラスを大きく煽って、卓に置いた。乾いた音がする。空になったのだろう。

「強盗が出てな」

「強盗でこんな大げさなことするかよ。昼も夜も、うろうろしてんだぜ」

 赤ら顔を女に近づけると、声を落とす。

「“蠍”って集団、知らないか」

「知らねぇ」

「教会にちょっかいかけてる連中でよ。それこそ強盗やら窃盗やらな。教会に関わってる奴らに嫌がらせしてんだ。そいつらが、また何かやらかしたみたいだな」

「何かって?」

「そこまでは俺もわかんねぇ。けど、今回は相当なことをしでかしたらしい。とばっちりで、あっちこっち教会の監査が入ってんだ。もう何人も泣いてんよ」

「迷惑な話だな」

「まったくだ。おい飲めよ。舐めるくらい、いいだろ」

「勘弁してくれよ……」

 女が渋っている間に、男はマスターから酒の追加をもらっていた。


 人目を忍ぶことには慣れている。料理も縫い物も不得手だが、夜の歩き方は知っている。

 酒場を出たとき伺った天上では、真上に月がかかっていた。今夜はいつもより明るい。色ガラス越しでも、それはわかる。こちらから世界を見ることに限定すれば、新月も満月も視界の悪さは変わらない。もともと目はよく見えないのだ。

 ヴィルが薦めてくる酒をのらりくらりと交わしているうちに、けっきょく相手を潰してしまった。酒は得意ではない。一口飲んだだけで顔が赤くなって、動けなくなるのが嫌だった。

 マスターは困った顔をしていたが、気づかないふりをして放置してきた。あの初老の店主には、これまでに良い印象を与えたためしがないのではないかとラウラは思う。

 この時間、さすがに人通りはない。見回りをしていた教会の連中も帰っただろう。それでも用心して足音を殺す。夜歩きには相応しくない空だが、しかたない。

 小奇麗な住宅街を抜けると、豪奢な景色が一変して、家数も少なくなる。

 他から孤立するようにして、その屋敷はあった。

 道なりに高い塀を辿っていく。やがて切れ目に出た。鉄柵越しに見上げた建物は、夜に溶けかけていた。

 どこの窓にも明かりはない。庭の草は、伸び放題に放置されている。

 鉄柵には鍵の代わりか鎖が巻きついていたが、千切れて用を成さなくなっていた。人一人通れる隙間から敷地に入り、半壊した玄関扉を潜った。

 広い空間にいるようだった。外気との流動で、独特の臭いがラウラの鼻先に漂う。壁に染み付いたままの、生活臭。その上に降り積もった埃と、血の臭い。

 ラウラは思い切り眉間に皺を寄せた。闇に落ち窪んだ空間が、実際にどのような形をしているかは、判断がつかない。臭いの元は遠いのかもしれないし、足元にあるのかもしれなかった。自然と足が一歩下がる。

 どこかで物音がした。ドアを開閉したような音の後に、靴音が続く。それは上の方から聞こえてくるようで、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。

 ラウラは目線を上げた。黒一色のそこに、橙色の光源が差した。

 尋ね人では、ないようだった。手提げランプに照らされたその人物は、どうやら男であるらしい。

 ダリアでないのなら、接触する必要もない。仮にもここは他人の敷地だ。踵を返そうとしたラウラだが、それより先に、男が彼女に気づいた。

「おや」

 役者を思わせるような、低く落ち着いた声だった。ラウラの耳に、いやに馴染んだが、この時この場所で聞く限りでは、なぜか不安を駆り立てた。火の元が途絶えて久しいこの家に、主はいないはずである。

「まだいらっしゃいましたか」

 彼の声は穏やかだった。いっそ微笑んだようだ。

 上から空気の塊が降ってきた。ラウラの前を何かが立ち塞ぐ。

 玄関ホールは吹き抜けの構造をしているらしい。後方からくる小さなランプの明かりが、障害に隔てられることなく、まっすぐにそれの姿を浮き上がらせた。

 大きな人、の形をしていた。ラウラの身長に、さらに上半身上乗せしたほどの高さだ。二本足で立ち、手がぶら下げている。盛り上がった背筋のせいで姿勢が前屈みになっていた。全体が影のように黒い。小さな顔の中は陰影でわからなかった。

 何かを言おう、とラウラは口を開けた。しかし適切な言葉を探しあぐねて、固まってしまう。

 丸太のような右腕が持ち上がった。それが振り子のように下ろされる。ラウラはとっさに後方へ飛び退いた。風圧になぶられた頬がぴりぴりと痛む。被っていたフードが外れて、白髪が露になった。肩の上で髪先が風に遊ぶ。

「避けますか、素晴らしい」

 男はゆっくりとした足取りで階段を下りてきた。

「他の方はその一撃でダメでした。粗野な強盗の一味にしては、勘の良い方だ」

「強盗になった覚えは、ねぇんだけどな」

「では空巣でしょうか。どちらでも同じこと。幸運に恵まれてはいないらしい」

 巨体が突進してきた。体に似合わず速い。ラウラは舌打ちをして、左ポケットに突っ込んだ手を出した。握りこんだ掌中が淡く緑色に発光する。そうして、力任せに殴りつけた。

 ラウラの拳と、振り下ろされた怪物の拳が正面から衝突する。普通ならそのまま体が吹き飛ぶところだが、そうはならなかった。

 怪物の腕が土くれのように崩れる。断面から緑色と白銀の光が零れ落ちた。

「やっぱりな」

 しかめ面のままラウラは呟く。バランスを崩して怪物がよろけた。

 脇をすり抜けてラウラは玄関扉へ走る。

 途中で足が滑った。盛大に尻餅をついたラウラの手が、粘着質の何かに触れる。

 その隙に、頭を掴まれた。大きな掌に頭部がやすやすと収まってしまう。

「いけない、それ以上は」

 その制止があと一秒でも遅ければ、ラウラの頭は潰されていただろう。足早な靴音がして、怪物の掌の下に初老の男が顔を覗かせた。

 男がラウラの眼鏡に手を伸ばす。取り外す仕草は丁寧なものだった。

 ごまかしの消えた世界は鮮やかだったが、間近に迫ったランプの明かりは、ラウラにとって刺すほどに眩しい。ラウラは赤色の目で男を睨んだ。

 真っ白な頭髪は老いによるものか。折り重なった皺は深く、その目はうっすらと青みがかっていた。優しげな顔立ちに、上等な服を着込んだ男は、それだけだと品の良い紳士に見える。

 彼は片腕に子供を抱えていた。波打つ長い金髪が、背中に流れている。眠っているのか、男の肩に顔をうずめたまま、動かない。

「これは……」

 ほう、と男は嘆息した。関心と好奇心の目で見られるのは、ラウラにとっていつものことだった。腹が立つばかりで、慣れることはない。そうした彼らの何人かは、わずかに眉をしかめるからだ。

 だが、このとき男は唇で弧を描いた、ように見えた。

 愛想ではない。作ったものではなく、心のそこから湧き出た心情の発露に見えた。

 見知らぬ人間から、これほど穏やかな表情を向けられたことは初めてだった。だからラウラは身を強張らせた。

「君はエアリアルが扱えるのか。先ほどの身のこなしといい、例の施設関係の人間かな?」

「てめぇは違うみたいだな。見覚えのねぇ顔だ」

 男の指先がラウラの頬を撫でる。ラウラは避けるように身を捩った。

「触るな」

 人間らしい柔らかさと温かさに総毛立つ。

 悩ましげに男が首を振った。

「今日ほど巡り合わせの良い日は、そうそう訪れないでしょう。しかし弱った。今夜は道具をなにも持ってきていない」

 ラウラは子供に視線を移した。これくらいの年頃がこの時間に起きるのは、辛いに違いない。だから、ぐったりと熟睡しているのだ。そう理由は想像つくのに、どうしてか気にしてしまう。

 だらりと垂れた小さな手は青白かった。

「てめぇ、何者だ。なにしにここへ来た」

「君と私との関係にそれは重要なことなのかな」

 まともに取り合うつもりはないらしい。

 男の手がラウラの顎の下に落ちる。

「うむ、やはり子供とはサイズが違うか」

「おい」

 抗議の声は続かなかった。強い力が喉の両側にかかる。頚動脈が堰き止められ、一気に頭部が熱くなった。

 落ちる寸前、騒々しい物音を聞いた気がしたが、幻聴かどうか確かめる前に視界は暗転した。

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