グリザイアファントムトリガー アニメ 感想(良作)
少し遅れましたが、テレビアニメ版ファントムトリガーの独断と偏見による感想(考察)を書きました。
例によって大変長くなってしまいましたが、ご興味のある方は読んでみてください。また、ゲームの方の感想と合わせて読むと私の書いていることが少し分かりやすいかもしれません。そこまで読んでくださる酔狂な方がどれだけいらっしゃるか分かりませんが念のため。
アニメのみならず、ゲームのあらゆるのネタバレを含みますのでご注意ください。
放送が終わって少し経つ。賛否両論な作品となるかもしれないし、正直に言って様々な問題点はあると思う(それを感じる人が多いかは別として)。グリザイアファントムトリガーファンとして、一から十まで満足だったかといえば、はっきり言ってそうではない。避けられない内容の圧縮(個人的には特にムラサキ編)、後半の、特に最終話の作画の危うさ、ゲームの最後部分の不足など、これだけを取ってしまえば評価は悪くなると思う(ただ、ゲームをやっていない層からするとそうでもないのだろうか?)。だが、これらをすべて考慮しても、私個人としては今回のアニメは間違いなく良作だったと言いたい。ただ、私のこの感想を理解し、賛同してくれる人は恐らくわずかであろう。なぜなら、そもそもゲームを考察し、それをアニメと比べて、ゲームが、そしてアニメがどのような意味を持っているのかを見て取ろうとする人などほとんどいないからである。もしかしたら、私の考えは深読みなのかもしれないし、「お前の妄想乙」と言われてしまうかもしれない。しかし私はそこにメッセージを見るのである。さて、本編の感想に入ろう。
いったいどれだけの人が気付いているのだろうか?私はあえて言いたい。この結末は、ゲームよりもある意味救いがあるのではないか、と。これは一つの良い終わり方だと感じた。確かに私は、ゲームの「先生」という構造と頭の上の紙コップという点をもっとも強調して感想を書き、最高傑作ともいうべきほどの褒め方をした。しかし、アニメではこの構造にはほとんどフォーカスがなされず、私がゲームの感想で先延ばしにしていた問題を解決することが最終的な着地点となった。それは、「学生が野良犬として死んでいくこと」についてである。
そもそも先に言っておくと、ゲームは全滅エンドか全員生還エンドの二種類である。全滅エンドは私としては果実シリーズを超えるくらいの絶望感があった。まずトーカは地雷を踏んで膝下が吹っ飛んだのち、拳銃自殺をし、グミは山の子供たちに惨殺される(ここにはパトリックの意思が関わる)。そしてグミに助けられるはずだったタイガとクリスが殺され、タイガに救われるはずだったマキも殺される。そしてレナはクロエに殺される。そのルートではハルトの刀のせいで殺しきれず、ハルトも致命傷を負い、シグナルの途絶というほぼ間違いない死亡まで描かれていた。そしてSORD全員を失い、有坂先生は新入生を目の前に、教壇に立つ、という流れである。生還ルートでは有坂先生の弾込めとパトリックの制止によって、トーカは自殺できず、地雷も不発になる。それがすべての歯車を全滅エンドの反対に回していく。全員が割と軽傷で帰ってくるのである。誰も死なず、重傷をほとんど負わない。そしてジャヤとホムラは美浜で引き取り、一縷はアオイの遺伝子をぶち込んだ第三世代タナトスコア「アイリス」を作り出す。これがゲームのざっくりした流れである。アニメではトーカは片足を失い、重症ながらも生き残る(ここがアニメ特有のものであろう)。ちなみにアニメで苦戦しているシーンはほとんど全滅エンドの要素を含んでいる(レナがクロエに刺される等)。メタな話であるが、絶望感と終わり方を考えるとそれをやるしかなかったのであろう。これは私のゲームの感想にも書いたように、生還エンドだけでは、爽やかで快くとも、あまりにも軽いのだ。今までの作戦と何ら変わりがない、ちょっと危なかった戦いくらいの印象になる。両方やって初めてゲームは完成すると言ってもよい。このような背景を了解しておいてほしい。
さて最初に述べたものの理由に行こう。なぜ救いがあるといったのかといえば、ハルト直轄の前線メンバー(レナ、ムラサキ、トーカ)が死なないで現役を引退したからである。ゲームの生還エンドのとき、レナは言う。「死ななきゃわからない馬鹿を殺す、狂犬がい(要)るんです。死んでも惜しげがない馬鹿な狂犬が馬鹿を殺せば、少しは住みやすい世の中になるかもしれないでしょう?いいんですよ、私たちは国家の犬で、狂犬です、犬死は犬死に、私たちの死を美化しようとしないでください。狂犬はこういう生き方しかできないし、そういう死に方をするものですよ、悲しいことなんて何もない。確かに絶望的かもしれないですけど、大丈夫、私たちはまだ全員元気です、まだまだやれます。」と。私は、確かにこの生還エンドではみんなが助かったが、このまま戦場に出続ければ、いつかは有坂先生は生徒の死に向き合うことにならざるをえないと書いた。あくまで先延ばしでしかない。いやもちろん、有坂先生が美浜で教鞭をとり続ける限り、生徒の死は必ず見るものだろう。しかし、ハルトは自分の管理下メンバーであり、前線で死ぬ可能性が高い子たちを、その戦場から退かせたのである。ただ、聖エールからやってきたグミ(教官になって現場には出ないのかは不明)、後方支援のタイガとクリス、そしてタイガを主人とするマキと石田はまだ戦場にいる可能性がある。だから、確実に言えるのは、ハルトはハルト個人に縛られうる子は、彼の最後の指示によって確かに解放したのだということだ。トーカは父親のもとへと帰り、ムラサキはユーキと村へ帰り、レナはハルトを探しにあの戦場跡を元気に駆けずり回っている。これをこじつけだと捉えたい人はそうとらえてもらって構わない。ただ、ゲーム生還エンドではムラサキはホムラやユーキと戦場に出ているであろうし、トーカは先生として、グミは教官資格のために聖エールで教えるシーンがある。ハルトは本部の制服組となり、レナはそれに付き従う(これは余談だが、ハルトが制服組となれば、エニシが嘆いた「階級なんてものは味方と敵の死体を作った数で決まる、上がれば上がるほど恥だよ」という言葉のままになってしまう)。やはりまだほとんどが、犬死にの戦場にいることになってしまうのだ。私はそのことをゲームの感想で先延ばしとしつつも、今はこれで良かったのだという趣旨を書いていた。しかしアニメでは、少なくとも彼女たちは戦場から生きて降りることができたのである。そして加えるなら、私個人としてはジャヤは嫌いではなくむしろとても好きだし、タナトスと対等に渡り合える最高に面白いお姉さんなので、アニメではそのまま死んでしまったことはとても残念だったが、やったことがやったことだから、即座に美浜に受け入れるというのはどうだという部分もなくはない。ホムラもそれはまったく同様である。まぁ、その二人を持って帰ってきたのはハルトだったのだから土台無理だったのだろうが(多分ホムラがもうダメになったのはその辺のバランスを考慮してのことだろう)。私としてはもちろん、ゲームのエンドが一番好きなのは変わらない。いくら犬死の可能性があろうと、少なくとも彼らは彼らの義務を果たし、日々をなんだかんだで笑って過ごしているのだし、もしかしたらハルトが美浜を何か良い方向にもっていってくれるという、エニシがなしえなかったことをする可能性もあるからだ。
ハルトはゲームでは明確に、ほぼ故障がありえないロケーターのシグナルロストが確認された、と死亡が示されているのに対し、アニメではそのことには一切触れられず、ただどうなったか不明なだけである。そして、この後のことについては後述する。
とりあえずはアニメのエンディングについては、ゲームとは異なるが、これはこれで救いがあったのではないか、というのが私の感想だ。
すべて詳細にわたって書くことは余りにも長大になりすぎるため、以下、項目ごとにつらつらと箇条書きでざっくり書いていく。
・作画について
クリス編がやはり圧倒的に作画が安定しており、絵のカットも多いように思われた。しかし作画のピークはここであった。徐々に作画の重厚感が薄くなっていき、いつしか次回予告の映像が使いまわしになっていった。このタイミングで嫌な予感はしていた。多分ストックというか余裕がもうなくなっていたのではないだろうか。しかし最終話は本当に時間がなかったのだろうと推察できるくらい、残念な作画が多かった。あげればキリがないのだが、背景だけが異常にきれいで、動くキャラや物がチープになっていたり、口と声が合っていない場面がいくつもあったり。クロエとハルトの戦闘は、それに比べれば見れるものではあったが、ハルトの腰に差した刀がどう見ても地面に突き刺さっている角度になっていたり、顔がやはり崩れている部分が見られた。ちなみにその前の話でホムラと戦ったときも、投げた刀の回収が描かれないまま一瞬で鞘に戻っているのは違和感がすごかった。そもそもムラサキのピンチに駆けつけた時の画角がどうにも滑稽に見えてしまった。あとは最後の手紙。あれを見て思うのは、じっくり見させるというより、なるほどアニメの流れる数秒で意味が取れるように文字を配置しているのだなということだ。なぜならあの手紙は映像を停止してみると、文章としては全く成立していないことが分かるからだ。しかし人間の目の動き上、上段と下段に目が行きやすく、約束とか、自由だ、という文言が目に入るようにしてあったのだろう。個人的にはハルトの、レナとの約束としての正確な手紙を見たかったから、それは大変残念だ。
・その他よかったところ(追記可能性ああり)
シスター達の逃避行はゲームとは別ベクトルの怖さがあったといえる。そもそも焦点が異なっているのだから当たり前かもしれない。取り残された聖戦部隊の狂気は最初の水のシーンくらいで、ゲームでの恐ろしさは感じず、せいぜい戦場は甘くないよね、くらいの意味しか持ちえなかった。パンパン死んでいくのは軽さとしてはなるほど尺のなさをいい意味で活用できていたのかもしれないとは感じたが、果実のエンジェリックハウルではアニメの二話半を使ったくらいだから、流石に一話でナタリーの死まで描くのは窮屈だったに違いない。あのナタリーは、エンジェリックハウルの一姫くらい重要なのだから。
アオイの登場するシーンは本当に全般よかった。重要なシーンはほとんどカットされていなかったし、ハルトの回想(最終話のサムネイル)でも美しいと呼べるほどの映像だった。純粋な出来ならアオイ編が一番だったと思う。また、最終話の一縷とエニシのシーンは重要なだけあって、かなりの尺で描かれていた。
声の演技全般は見事としか言いようがない。ゲームのそれと遜色ないのは当然として、動きというか、乗っている感じは確実に超えている。もういうべきことが見当たらないほど見事だった。だからこそ作画とのミスマッチが目立ってしまったともいえるのだが。
◎このシリーズの中の最高のシーンの一つは間違いなく、グミの狙撃だ。ゲームとはかなり異なる展開ではあったが(ゲームではトーカが撃つか、グミが撃つかの選択肢がある)、逆に言えば、独りという、ゲームより遥かに難易度の高い状況でそれを完遂してみせた。声優の話につながるが、「やるだけであります。」というセリフは静かながらも強い意志が宿っており、鳥肌モノだった。たった一つ残念なことがあるとすれば、ゲームのクリス編ではスコープが壊れた時という極めて稀な状況を想定した訓練が行われており、いわば伏線回収のようなシーンだったのだが、アニメではそれがなかった。これこそ描く時間がなかったのかもしれない。ただここに関してはそれを抜きにしても見事だった。
一縷がハルト達のデータを消したあとパソコンを吹っ飛ばして黄昏るシーンはグッとくるものがあった。ゲームでは外側に出していないだけなのかもしれないが、もっと冷静だったからだ。
・よくないと感じたところ。
さて、来たくないところに来てしまったが、書かないことはむしろ不誠実であろう。これはゲームを愛する人間としては書いておかなければならないものである。とはいえ、私とて全作品を完全に網羅しているわけではないので、抜けも多いだろう。もちろんこれは「これを描け」と言いたいというよりは、なかったのが余りにも残念だったという感想ということである。というのは、正直それぞれの巻を仮にアニメで五話ずつ使ったとしても尺は全く足りないのだから、本筋をなんとか通すためにカットせざるを得なかったのかもしれないという事情があるからだ。考えなしにカットされていたのならそれはそれで残念だが、まぁそれはあまりないだろう。(足りなさ加減は果実も同じだったかもしれないが、話の区切り方の難しさはある。というか、深堀りすべき別々のパートはこちらの方が多いのではないか。)
ムラサキ編では三つある。まず、ゲームではユーキがムラサキを殺してでも、自分が死んででも止めると言ったとき、ハルトは死ぬなと言うシーンがある。ハルトの滅茶苦茶ながらも優しいあの言葉をなぜカットしたのかは正直分からない。そして次は幻刀取りである。風見流スーパー護身術のくだりをなぜ入れなかったのか。あれはゲームでも一瞬で現れて、その理由はアオイ編で明かされることにはなるのだが、果実シリーズの繋がりとしてあってもよかったのではないかと思う。そして最後にムラサキと母の会話である。ムラサキが生きて帰ってこれたのは、ユーキが後ろにいてくれたからである。それをムラサキは母との会話で知るのであって、重要なシーンである。これによって、そこまで苦手だった姉ユーキが一番大事な家族であると分かった上で、自分を救うためにユーキが脳障害を負うという流れがあるから、見ているこちらまでもが胸が痛くなる悔恨が刻まれるのである。これに関しては全カットという衝撃。正直、ゲームでは最後のあの下りが六巻のすべてでさえあると思うのだが、やはりこれも最初に書いたように、本筋を考えると描いている暇がなかったのかもしれない。やはり最終話のTFAとの決戦に向けての説明段階でしかないというのは本当に悔やまれる。
次に最終話のマキの時計である。マキは戦闘中にロシアマフィア所属時のマスターであったアレクセイからもらった時計を失くしてしまう。ゲームではその代わりに、タイガがマキにロレックスのGMTマスターみたいな時計を渡して、ある意味正式にタイガがマキのマスターとなるのである。しかし時計をなくすだけの描写しかなく、しかも最後のマキのシーン(本部のおっさんたちに喧嘩をふっかけるシーン)では時計をしていなかったので、渡していないとも推察できる。ただし、そもそもマキが日常で時計をしていたか覚えていないので、渡してはいるが、表現されていないだけかもしれない。
ハルトはクロエを殺してしまった。これも尺都合だろうか?殺さない方が作品としては絶対よかったとは思う。ゲームの感想でも書いたが、クロエを殺さない選択をすると、クロエはなんとかエニシのいる場所までたどり着き、すでに死んだエニシの上で大声で泣き、自分もそこで死ぬ。クロエのある意味もっとも人間らしい感情が唯一爆発し、ホロゥの殺し屋たちのマスターへの忠誠の強さを示すにはあれほどのシーンはないと思うのだが、やはりこれも尺が足りないのかなぁと思う。(別のところで、クロエのそのシーンがあれば、生きてハルトを探すレナと対比になるのにと感想を書いている人がいて、なるほどと思った。)
パトリックとナタリーについてはどう見ても致命的な点がある。これは流石にかなりよろしくない。ゲームではラストカットのシーン、パトリックのAKとトーカの銃弾が掠めたヘルメット、そしてそのヘルメットの穴から新芽が伸びており、そのヘルメットの傍らにはパトリックを救った、ナタリーの持っていたうさぎのぬいぐるみが置いてあるのである。銃口は地面に突き刺さって用済みとなり、逆に新しい植物が、パトリックの命を救ったヘルメットの穴から突き抜けているというのはとても示唆的で、そのパトリックの横にはずっとナタリーがいる、というよう暗示に取れる。しかしアニメではAKとヘルメットと、横になぞの花がぼしょぼしょと生えているだけである。さすがにこれはダメだろう。勿論、アニメではナタリーの本当の芯の強さはどうしても描けなかったから仕方ないのかもしれないが、そもそもパトリックが(トーカ達を)殺すべきではないと判断したのは、ナタリーが自分を「生かした」からである。もしパトリックがナタリーの行動を恨みだけに転化していたら、山の子たちも聖エールに皆殺しにされるのであるから、ナタリーの行動こそがパトリックを踏みとどまらせ、SORD、山の子たち全員を救うことになるのである(これはゲームの感想でさんざん書いたが)。ならば、新芽を支えているパトリックのヘルメットの傍らにナタリーがいないということはどう考えてもおかしい。殺すべきではないと選択をとる時にこそ、ナタリーの死の直前の「パトリック…!」という映像を出すべきだったのではないか(もちろんアニメのそれも切なさは凄いのだが)。少なくともゲームの意図を見るなら、あのカットは忠実に再現してもバチは当たらないはずだ。これは尺の問題ではないし、ナタリーの登場シーンにはちゃんとうさぎのぬいぐるみが何度も描かれていた。他の部分はまだしも、この部分だけは理解もできないし、許容もできない。
最後に一縷に上層部から送られてきた包みはハルトの刀(アオイのブッコロ丸)の柄なのだろうか?テープで補修されていたから柄だけな気がする。刀全体が返ってきたにしては余りにも包みが小さい。もしかしたら、アオイの折れた刀をイズミ姉さんが打ち直したように、それも打ち直されたのかもしれないが、さすがに描写が足りないような気がする。
さて、本編の考察はこのくらいにして、最後に、最終話のエンディングテーマに関することについて書いて終わろう。crossverseという歌だが、この歌詞を見るに、ハルトは生きているのではないか、と考えられるのである。この歌の中の「僕」はハルトを、「君」はレナを明らかに指している。一番のサビでは「僕は君を見つけた」とある。これはホロゥからレナを買ったことを示しているだろう。二番のAメロの「両手を差し出した君は 愛をねだる子供のよう」はレナそのままだ。引用するまでもないのだが、エピソード11の中盤のシーンからもそれは分かるだろう。ここのシーンの約束をレナは守って、ハルトのいう通り戦場を退いたことになる。そしてラストサビでは「君は僕を見つける ながい旅路の果て のぞんだ道の先で 自由が待ってる」とある。これはもちろん、ながい旅路を生と考えて、死んでからという何とも悲しいとらえ方もできる。しかし『自由が待っている』という言葉と、ゲームでも一応触れられていた『帰国を選ばない人の自由』について、アニメではbgmも相まって真面目気にフィーチャーされていたことを考えると、ハルトはその国で生きており、レナがその先で彼を見つけたというのが、自然で素直な解釈だろう。ちなみにゲームでは『帰国を選ばない人』については、「山奥で木こりのような生活をしていないと監視の目について処分される。たまにお金で身分と名前を買って穏やかに暮らせるケースもあるが。」程度の説明で終わっている。本気でそれをしようという人はゲームではありえなかったと言うべきだろう。ただアニメのハルトの場合は結果的にそうなってしまった、ということになるのかもしれないし、レナと合流できたのなら、身分やら名前の問題は解決するのかもしれないが、まぁこれ以上は考えても仕方がないだろう。メタな話で申し訳ないが、この歌の歌詞はグリザイアシリーズの根幹にかかわり続けている桑島氏(果実でみちるルートのシナリオを担当し、作曲を多数)が手掛けているので、それなりの意義があるものとして、私は一人で勝手に希望を持つことにする。ファントムトリガーの人気投票は大体トーカやムラサキ、もしくは師匠ポジションとしてのアオイが人気になりそうだが、私は強さと、何より心の風邪を引きながらも底抜けに優しいハルトが一番好きである。それは、第一巻の途中でクリスが話していたことに表れている(公式の第一巻のyoutubeではなぜかカットされているが)。ある日フードコートでハルトとクリスは並んでいたときのことである。その日は子連れの家族が多く、子供が公共の場で大声で騒いでいるのをクリスは少しイライラしながら見ていたが、ハルトはニコニコしていた。そこへアイスを持った子供がぶつかり、ハルトの服を汚してしまう。その子供の母親はハルトに謝りながら、服のクリーニング代を出そうとするが、ハルトはその母親に、そのお金でその子に新しいアイスを買ってあげるように言った。叱られた記憶ではなく、良かったねと言ってもらえた記憶が残るように。子供たちが笑っている、こんなに素晴らしいことはないじゃないですか、と。多分これは雄二にも言えないのではないか。彼に限らず、ファントムトリガーの面々、そしてもちろん雄二も人殺しではある。だから善や正義だと大っぴらには言えないのかもしれない。しかし悪ではない。私にはそれで充分である。
私が言うべきことなどではないのかもしれないのだが、スタッフ一同にはお疲れさまでしたと言いたい。私にとってこの作品は、面白いとか面白くないの次元にはない。ある種の人生哲学を含んだ、教訓の詩なのである。少なくともこれだけの熱量で感想を書いている人は他にあまり見当たらないので、私個人としても特異性を認識するところである。この作品をこのように、ゲームとは違った形であっても、時間や予算などきっと様々な制約の中で完結させてくれたことには、感謝しかない。まぁ何らかの形でグリザイアが続くにしろ続かないにしろ、グリザイアに出会えてよかったと、心から思う。
ブルーレイ版は作画のクオリティアップがされるそうで、これは流石に楽しみですね。もうとにかく最終話だけでも何とかしてほしい限りです。いくら3巻までが映画でやっているとはいえ、まったく尺が足りないのはアニメの必定…。原作が濃すぎるんですよね。もう時間をたっぷりとって、クール関係なしに大いにやってほしいところです(笑)。