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空願う少女は動かぬ翼を持って

作者: 空宮海苔

 カノンは崖から一歩、踏み出そうとした。


 彼女には、空を飛ぶための翼があった。


 雪白な羽根が無数に伸びた天使の(ごと)き翼。


 月光に照らされた少女の綺麗に整った横顔と、大きな白銀の翼が、星の(またた)く夜空と合わさって色のコントラストを作り出す。

 さらに、彼女の足元に広がる植物たちが冷涼な夜風になびいて緑の波を作り出す。

 ――その光景はまるで、一つの絵画のように美しかった。


 けれど、その夜闇に踏み出そうとする彼女の足は寸前のところで止まる。


 全てを飲み込んでしまいそうなこの暗く、そして広い空を見ると、恐ろしくて足がすくんでしまう。

 翼があるだけでは、飛べなかった。


 空を埋め尽くすように燦然(さんぜん)と輝く白星も、夜闇の中にただ一つ静謐(せいひつ)に浮かぶ青白い月も、カノンを後押しすることはなく、ただそれに届かないという事実が彼女を焦らせた。


「私には――届かないよ」


 悲嘆(ひたん)焦燥(しょうそう)を抱え、その口からまるで鈴のような透き通った声が漏れる。

 まだ十五の少女にとって、この大きな空は恐ろしすぎたのかもしれない。


 涙が出そうになるのをこらえ、手で顔を覆い、手をきゅっと握る。髪が巻き込まれ、艶がかった綺麗な深青色(しんせいしょく)の髪が歪む。

 震える足を曲げてその場にへたり込んだ。


 ◇


「ただいま」


 気落ちしたまま、カノンはキィィと軋む木製の扉を開いた。


「カノン、何してたの? こんな遅くまで」


 ソファーで新聞を読んでいた母がカノンに気づき、怪訝な表情で振り返る。

 薄青色の髪に、金色の瞳。

 その容姿は歳を重ねてはいるもののかつての美しさを感じさせるものだったが、目つきがあまりよくないために台無しになっているようにも感じる。


「……ごめんなさい」

「謝らなくてもいいわ。でも何してたの?」

「飛ぶ練習、してた」


 カノンは俯きがちに答えた。


「――そう。飛べた?」


 まるで期待していない声だった。


「……ダメだった」

「そう。でも、セレストなんだから早く飛べるよう努力しなさいよ?」


 カノンの短い言葉に、母はそれだけ言ってから新聞に向き直った。


 彼らは天人族(てんじんぞく)と呼ばれる人種だ。


 その原種は翼の生えた金髪金眼の、まさに天使のような人間だった。

 しかし、現在では別の人種と混じり合い、金髪や金眼が多いだけの普通の人間となった。

 

 ただし、今でも彼らの中には稀に天使のような翼を持った人物が生まれる。

 そのような人物たちは、過去純血の彼らがそう呼ばれたように、現在でも『セレスト』と呼ばれる。


 彼女の胸に着けた、金色にプラチナの装飾が入った星型のブローチも、伝統的なセレストの証だ。


 ――つまり、彼女は翼を持って生まれた才ある人間(・・・・・)だった。


「……はい」


 カノンは目を伏せ、二階の自室へ向かった。

 さり際、聞こえた母親のため息にカノンはびくっと肩を揺らす。


(また失望させちゃった。私には、何もできない)


 そんな自責思考がカノンの中に降り積もる。


 自室の扉を開けると、中は暗く、窓から差し込む月光のみが光の源だった。


 机の上には、教科書が二冊といくつもの本が置かれていた。

 彼女はその光景にさらに焦りを感じる。


「いつになったら、みんなと同じように行けるんだろ」


 彼女は、最近学校へ行けなくなっていた。

 まばらには登校しているが、その頻度が低い。

 成績も(かんが)みて、学校側からもある程度許されているし、両親も飛べれば良い、といった様子で、特に何も言ってこない。


 机に置かれたオイルランプの火を、月明かりを頼りにしてつける。


 机の中からノートを取り出して、勉強を始める。

 行けないならせめて、追いつけるくらいには頑張らないと。彼女はそう思った。


 ◇


 次の日、そのまま寝てしまった彼女は目覚ましで六時に起こされてから、朝の準備をした。

 学校に行く準備だけしてから、シンクで皿洗いをし、外に干した洗濯物を取り入れて畳んだ。


 そして、それから学校の時間まで少し寝ようと思っただけの彼女が、学校の時間をのがしてしまうのも仕方のないことだろう。


 ――次にベッドで起きた時、時間は十時を過ぎていた。


(空……キレイだな。もっとうまく描かないと。こんなんじゃだめ。今見てる空と同じくらいの絵を――)


 面倒になって学校もほっぽり出した彼女は、簡易的なセットだけ持って外で水彩画を描いていた。


 膝の上の木枠に乗せられたキャンバス紙に向かって、彼女は絵筆を進める。


 今彼女の居る、街の端にある少し崖になった場所からは、建物と空の両方がよく見える。


 比較的高所にあるこの街『アルタスト』は、街の中にも高低差がある部分が多く、周囲にも崖が多いのだ。


 彼女は、黙々と作業を続けた。

 もっと綺麗に、私の理想に近づくように。

 その一心で書いていた。


「できた……」


 黒の鋳鉄でできた街灯に、荘厳なコンクリートでできた家がいくつか端に入り込んでいる。また、建物の窓には空から反射した白い雲が写っていた。


 そして真ん中には、青く、そして広い大きな空が広がっている。

 温かい春を感じさせる少し横長の真っ白な雲が点々と浮かんでいるその絵は、確かにプロと比べれば品質は落ちるが、十五という年齢から考えれば凄いと言わざるを得ない品質だった。


 しかし、彼女の胸に達成感はあれど、良いものができたという満足感はなかった。


「全然、ダメだなぁ」

「えっ? めちゃくちゃよくできてるじゃん」


 と、彼女の言葉に反応するように、後ろから男の子の声が聞こえた。


「だっ誰⁉」


 カノンはキャンバスを声の主から隠して、後ろを振り返る。


「うわぁびっくりした!」


 カノンと同じように、そこに立っていた少年は飛び跳ねて叫んだ。


「こっちがびっくりしてるんですよ!」

「じゃあ結局どっちもびっくりしてるね!」

「そっ……まあそうですね」


 面白そうに声を上げる彼に、カノンは言葉に詰まりながらもそう返した。


「そこ納得しちゃうんだ……」

「……そ、そこはどうでもいいでしょう!」

「あははっ! 君、面白いね!」


 恥ずかしくなってきて、若干耳が熱くなるカノンに対して、彼は面白そうに笑う。


「だから! ……はぁー、それで、何か私に用でもあるんですか?」


 驚き目を丸くする彼に、若干恥ずかしさがこみあげてきて、誤魔化すようにそう訊いた。


 そんな彼は金色の髪に、優しげな光を宿した緑色の瞳をしており、髪の上にはこの街のシンボルリーフでもある翼が彫られた緑の髪留めが光っている。


 まだ若干幼さの残る顔立ちからして、彼女と同年代程度だろう。


「いや、単純に絵が上手いなって思って気になっただけ。特に意味はないよ」


 彼は言いながらも、一瞬カノンの顔に見惚れてしまう。見覚えがあったのもそうだが、その容姿に惹かれたのだ。


 天性のものであるその白銀の翼に、母親譲りの金色の瞳と整った顔立ち。

 天人族(てんじんぞく)であれば、誰もが憧れてしまうような容姿だろう。


「そうですか……なら良かったです」


 カノンは、ふぅと一息つきながら、水彩画具一式をベンチの上に置いた。


「セレストの人って、絵も上手い人多いし凄いよね……英才教育? ってやつなのかな?」

「……まあ、そうですね。他の方は分かりませんが、私は結構色々なことを学んでいます」


 彼女は、母や父から様々な教育を施されていた。

 一時期は家庭教師も呼んでいたし、作法なども学ばせていた。カノンは本当は嫌だったが、結果を出した時に褒めてもらえるのが嬉しくてやっていたのだ。


 だが、それも飛べないことが判明し、さらに精神状態が不安定になったことで段々とやらなくなっていってしまった。


「やっぱり! この絵も凄いしさぁ。上手くなるコツとかあるの?」

「……いえ、まず私はそんなに凄くないと思いますよ。上手い人と比べたら全然です。なので、もっと上手い人に訊いた方が良いと思います」


 彼女は遠い空を眺めながら、小さく笑った。

 すると、彼は顔をしかめた。


「……十分上手いでしょ? 自分の実力はちゃんと認識しなきゃ駄目だよ」

「私は、本当に自分のことだと思って――いや、その、ごめんなさい」


 カノンは言い返そうとしたが、彼の不機嫌そうな様子を見て目を伏せた。

 何かは分からないけれど、怒らせてしまったのだろうと思うと申し訳なくなったのだ。


「ご、ごめん! そんなつもりじゃ……とにかく、別にいいよ。今のは僕が悪い」


 スイルはバツの悪そうな顔を浮かべ、慌てて謝った。


「そうですか? ……そうだといいんですが」


 彼女はまだ確信に至らないまでも、少しは胸のざわつきが収まったようだ。


「それに! こういうのって、同年代の人から教えてもらうのだと気楽っていうのはあるよね。十分上手いと思うし、教えて欲しいかなって」

「それはまあ……確かに、あるかもしれませんね」


 カノンは渋々ながらも納得する。


「でしょ? じゃあ教えてもらってもいい?」

「まだやるとは言っていませんが?」


 無理やり押し通そうとするスイルを半目で睨む。


「乗らなかったか……」


 悔しげに拳を握るスイル。


「――それに、もし上手いとしても、私が満足していないません。そんな状態で人にものを教えたくないです」


 彼女は俯きがちに答える。


「そう? 僕は凄い実力あると思うけどなぁ。だってほら、これよくできてるでしょ」


 彼は言いながらその絵を掠め取った。


「あっちょっと勝手に見ないでください!」

「特にこの空。街の構造物との境目も綺麗だし、色使いも丁寧で、空が綺麗に強調されてるし――やっぱり空っていいよね。遠くて、届かなくて、でも綺麗で。僕は、そんな遠い空にいつか絶対、手が届くようになりたい」


 どこか感慨深く言う彼の瞳には、しかし強い意志が宿っていた。

 しばらくその言葉を咀嚼してから、カノンは自分の絵を長いこと見られていることに気がついた。


「あっ、返してください!」

「うわっ!」

「全く、あんまりじっくり見ないでください……恥ずかしいので」


 若干頬を赤らめながら、彼女はボソリと呟いた。


「あ、うん……」


 垣間見えた彼女のその表情に、逆に彼自身も若干赤面してしまう。


「だけど、空がキレイだって言ってくれたことは嬉しかったです。私も空、好きなんです。でも私は――最初から、空なんて届かないと分かり切っていた方が嬉しかったかもしれません」


 激しく動かしたせいで若干崩れた手元の絵を眺めながら、彼女は目を伏せ、悲しげに笑った。


 最初から翼もなくて、届かないと分かっていたのなら、期待されなかったのなら、諦められた。だけど、この背に翼があるから、諦めきることができなかった。

 それが、逆に辛かった。


 しかし、彼女はハッとしてそれを完成絵入れにしまった。


 自分のことなんかそう話すものじゃない、それに明確に『届かない』と言ってしまった。

 怪しまれるかもしれないし誤魔化さないと。


「ともかく! 勝手に見ないでください。若干崩れちゃいましたし。こんなこと続けるなら絶対教えてあげませんよ?」

「そ、そう――あっ、じゃあつまり、やめたら教えてくれるってこと?」


 スイルも現実に引き戻されたように返事をするが、すぐにいたずらっぽい顔を浮かべてそう訊いた。


「いや、そういう意味で言ったわけじゃ――」

「でも、言ったは言ったじゃん?」

「それはまあ、そうですけど――ああもう! 分かりましたよ! やればいいんでしょう⁉」


 カノンは目を泳がせた後に立ち上がり、開き直って叫んだ。


「本当にやってくれるんだ……」

「あなたが頼み込んだんでしょう……」


 目を丸くするスイルに、カノンは呆れたように額に手を当てた。


「あ、それじゃあ名前分からないと不便だよね。僕はスイル=ラークルって言って、アルタスト学校中等部所属なんだ。よろしくね。君は?」


 それを聞いて、彼女は背筋が凍った。

 そこは、彼女も通っている場所だったからだ。

 考えてみれば、どこか見覚えがあるような気もする。


 だが、彼女のことを知らないのであれば都合がいい。このまま隠し通そうとカノンは考えた。


「あ、ああうん。私の名前はカノン=レイフィムです。よろしくお願いします」


 カノンは自己紹介と共に会釈をした。


「カノン? えーっと待って、なんだったけかな……」


 そんな彼の様子に、カノンは内心焦っていて、何を言えばいいか分からなかった。

 もし飛べないことが、学校に行ってないことがバレたらどうしよう、そういった不安で埋め尽くされていた。


 しかし、願いも届かず、彼はすぐにそのことに思い当たったようだった。


「ああそうだ! もしかして同じ学年じゃない? 忘れてたけど、そういえばセレストの人が居たなぁ。意外と世界って狭いものだね」


 だが、予想とは異なり、彼は特に変わった様子もなく面白そうに笑っていた。


 まるで気にした様子のない彼の様子に、カノンはなんだが自分が不安に思っていたのがバカみたいに感じてきた。


「えっとまあ……そうですね」


 そういえば、と彼女も記憶を探ってみると、同じ学年に彼――スイルが居た気がする。


 しかし、スイルも彼女のことを忘れていた、というのは珍しい。

 カノンは、セレストであることも相まって目立っているはずなのだが。


 だが、カノンが一番驚いたのは、彼がカノンの素性を知っても特に反応がないということだった。

 恐らく飛べないことは有名だし知っていると思うのだが、不思議だ。


「あっ、ごめん。僕、親が心配しちゃうからそろそろ帰らなきゃ。それじゃ!」


 スイルはまるで太陽のような笑顔を浮かべながらこちらに手を振って走り去った。


 困惑しながらもその後ろ姿にひらひらと手を振る。


 素性を知っても態度を変えないなんて珍しいなぁなんて他人事のように思いながら。


 ふと見上げると、遠くに見える時計塔はもう六時を指していた。


(そういえば、もう下校時間だったんだ)


 ◇


 翌日。


 彼女は軽く家事を済ませてから学校に行くことにした。


 数日行っていなかったからそろそろ行くべきかと思ったということと、スイルは普通にしているように見えたが、そもそも飛べないことを知らないから普通にしていただけで、それを知ったら避けられるんじゃないかと不安になってしまったのだ。


 その日の朝は父親と会ったが、幸い特に何も言われることはなく仕事に出かけた。


 彼も、母親同様カノンが飛べるようになることを期待している。セレストとして安定した人生を送るためには、飛行能力を持つことが必要不可欠だと考えているからだ。


 今日こそは時間通りに学校へと向かったカノンは、賑わう校門をくぐり抜け、そそくさと学校の中に入った。


 何もしていないはずなのにどこか後ろめたさを感じながら、自分の席に座る。


 しかし、目立たないようにしても、彼女の翼は目に入る。この教室には多くの人種が居るとは言え、この街においては確かにセレストであると目立ってしまう。

 一瞬数人の視線が彼女の方へ向かうが、何か声を掛けられる様子はない。


 このクラスの人数は大体二十人強。


 六、七割は金髪や金眼をした一般的な人族だが、それ以外にも様々な種族が居た。

 カノンのように白い翼が生えているものは居ないが、頭に角や黒い悪魔の尻尾のようなものが生えたもの、猫やうさぎの耳と尻尾が生えたもの、歳にしては小柄な人物や耳の尖った人物などが居た。

 肌の色も様々だった。


「それじゃあ出席確認! まず――」


 しばらく名前が呼ばれて、カノンの番になった。


「えーっと次は……カノン=レイフィム。お、今日は居るんだな」

「はい」


 返事と同時に、他の天人族(てんじんぞく)であろう人間が数人こちらをチラリと見た。


 それから何事もなく点呼は進み、授業へと移った。

 その教師は出ていき、みんなが授業の準備をしながら和気あいあいと話している中、カノンは一人でノートや教科書を開いていた。

 本当に喋れる友達や知り合いが一人も居ないわけではないのだが、向こうから話しかけてくることも少なければ、自分から話しかける勇気もなかった。


 そんな教室は、教師が入ってきて号令をするまで騒がしいままだった。


「昔、この国に居た『天人族の純血』について話したな」


 白髪(しらが)交じりの黒髪に青い瞳をした、初老の男教師――ラグス=ペタールが教卓で言葉を発した。

 貫禄のある顔に、意志のある瞳からは厳格なイメージを受ける。


 黒板には、天人族の純血の描かれた水彩画が一枚磁石で貼り付けられていた。本来なら絵はないのだが、あれは実はカノンが描いたものを教師が借りている形になる。

 書いているのを見られた時に、話の流れで貸すことになったのだ。カノンとしては、別に自分が書いたことがバレなければなんでも良かった。

 ラグスも分かりやすい絵が欲しかったらしく、ちょうどよかったらしい。


 彼はカノンの家庭環境も知っているから、無視するのも良くないかもしれないとの配慮もあったのだろう。結果的に、悪い結果にはなっていない。


 その絵には、金色の髪に金色の瞳を持った白く大きな翼が生えた人がおり、同じく白銀の鎧に剣を持っていた。

 絵は女性だが、別に女性に限った容姿ではなかったという。


「最初は自身を『セレスト』と名乗り高貴なものだとした彼らも、次第に人と混ざり始め、それからは純血が混血を支配するようになって――そのあとどうなったか覚えてる人は居るか?」


 先生の言葉に、天人族であろう人間が八人ほど手を上げる。

 だが、教師が何かを言う前に一人が声を上げた。


「はい! それから、僕たち混血が他の人種と技術交換をするようになって、それで力を持ち始めてから近代化が始まった――ですよね?」


 メガネを付けた勤勉そうな男子が立ち上がった。


「そうだ、百点の回答だな。昔の内容だが、大事な部分だ。しっかり覚えておけよ」

「あそうだ、その絵ってペタール先生が書いたんですか?」


 教師が話を続けようとした時、男子生徒が質問した。


「ああ、これはカノンが――」


 その時、彼はしまった、と言いたげな表情を浮かべた。


 カノンも驚き、内心不安に思いながら何事もないことを願った。


 訊いた男子は困ったような表情を浮かべてこちらを見ると、カノンと目があった途端目をそらして座った。


 その時、ガラの悪そうな一人の生徒がわざとらしく声を上げた。


「すいませーん。やっぱり純血だから優遇みたいな? そういう話っすか? やっぱ純血だもんな。元支配者さんらしく絵の才能もあるんだから確かに絵を描くのは適任でぇ――」

「純血とは、金髪金眼であることが前提条件である。そうだろう?」


 教師は途中で彼の言葉を遮り、睨んだ。

 確かにカノンの瞳は金色だが、髪は深青色(しんせいしょく)であり、純血ではない。

 ただ、セレストであるだけだ。


「っ……んなこた分かってるよ」

「さて、それじゃあ続きだ。隣国である『ラルメル公国』ではセレストが――」


 その正論と圧に負けた彼をよそに、教師は授業を続けた。


 一瞬その生徒が自分を睨んだのを見て、カノンは肩をビクッと揺らす。

 ああ、やっぱり面倒なことが起きたなぁ、と気落ちしながら彼女は逃げるように板書の内容をまとめていた。


 ◇


 しばらく時間が経って、休み時間。


 カノンは騒がしい教室の中、静かに窓の外から景色を眺めていた。

 昼間の活気に溢れる街を見て、どこか一人取り残されてしまったかのような感覚に陥る。


(いっそ、翼なんてなければよかったのに)


 なければ、特異な扱いを受けることも、期待されることも、そして飛ぼうなんていう無謀なことも考えなくて済んだのに。


 彼女は思考を振り切ってから、まず昼食をどうにかするべく、肩掛けのバッグだけ持って街の方で何か買ってくることにした。

 学校の運営する販売所はあるのだが、いかんせんメニューが少ない。


 喧騒(けんそう)雑踏(ざっとう)の響く廊下を歩いていると、カノンは声を掛けられた。


「あっ、こんにちは。カノンさん、だよね?」


 声を訊いて、彼女は振り返る。

 そこに居たのは、スイルだった。


 そういえば忘れていたが、カノンは彼に会うためにもここに来たのだった。


「あなたは昨日の……こんにちは、また会えましたね」

「だね。というか、やっぱり同学年だったんだ。絵の件、頼んだよ」


 すると、彼は微笑みながらカノンに言い放った。

 半ば流れで決まってしまっただけなのに、よく覚えているものだ、とカノンは思った。


「……まだ覚えてたんですね」


 彼女は目を逸らして呟いた。

 正直なところ、彼女は約束が嫌いだった。


 なぜなら、生まれたときからしている『いつか飛んでみせる』という約束を、未だに達成できていないのだから。


「これからご飯食べに行くところ?」

「はい。私は弁当がないので、買いに行くところです」

「そうなんだ。じゃあ一緒に――い、いややっぱりなんでもない」


 彼は言いかけてから、急に目を逸らした。


「どうしました? 私は別にいいですが……」


 しかし、自分で言いつつ、カノンは自分の口から出てきた言葉に驚いた。


(――私、いつもはこういうのも断るはずなんだけど)


 彼女は、どちらかといえば一人の方が好きなタイプだし、まして初対面であれば、長く居るようなことは避けるはずだった。


「そう言ってくれるとありがたいんだけど……前に距離の詰め方早すぎるって女子に言われたことあってさぁ、なんかよくないかなって」


 うんうん悩みながら言うスイルを見て、カノンは彼の今までの言動を思い出した。

 確かに、距離の詰め方はかなり早いと言えるだろう。


「確かに、早い方なんじゃないでしょうか。それに、人によっては下心があると思ったり――いえ、私自身がそう思っているわけではありませんが」

「……うーん、ならやっぱりやめた方がいいよね?」


 スイルはがっくりとうなだれた。


 だが正直なところ、彼女は彼の言動に何一つ違和感や嫌悪感など抱いていなかった。

 彼が純粋であったのもそうだろうし、今彼が改善しようとしているように、自信を(かえり)みることができたからだろう。


「でも、そういうのが好きな人も居ると思いますよ。別にいいんじゃないでしょうか?」

「うーん、そういうものかなぁ」


 彼は困ったように考え込んだ。


「でもさ、やっぱりほら、異性同士じゃん? てなるともうちょっと考えたほうが……みたいな?」


 すると、それから彼はどこか恥ずかしげにしながら頬を掻いた。


「そうですか? 私は別になんでもいいですが……」


 カノンは小首をかしげた。


 さらに、妙に自分の顔に釘付けになっているスイルを見て顔をしかめる。


「……なんでしょう?」

「いや別に、そういうんじゃないから。うん」


 顔をそらしては居るものの、耳は未だに真っ赤だった。


 一瞬考えてから、ようやくカノンは感づいた。

 少し見惚れていたんだ、と。昔はそういう視線にさらされることも多かったし、気づくことができた。


「あ、そういうことですか」

「べ、別になんでもないからね⁉」


 必死に叫ぶスイルが面白くて、カノンはくすくすと笑う。


「すいません。なんでもないです――でも、案外可愛いんですね」


 半目で睨むスイルを見ると、カノンはさらに面白くなってきてくすくすと笑った。


 カノンのスイルに対する第一印象は元気一杯で優しい男子、といった感じだったのだが、案外(うぶ)なところもあるようだ。

 そう思うと、カノンは少し面白くなってしまった。


「かっ、可愛い……別に男で可愛いって言われても嬉しくないんだけど」

「あははっ! じゃあなんでもないですよ」


 恥ずかしそうにするスイルに、カノンはいたずらっぽく笑った。


「それで、結局ご飯の方はどうしましょうか?」

「そ、そうだったね。実は下の露店の方に、学校向けって言ってご飯出してる人が居てさ。それが美味しいから行こうよ。串肉とパンとかだったかなぁ」


 若干頬を赤く染めたまま、彼は提案した。


「そうなんですね。じゃあ行きましょうか」


 気がつけば、授業であった嫌なことも、もしかしたらスイルが自分を嫌っていたかもという不安すらも消え去っていた。


 ◇


 二人は、街の外のベンチで買ったものを食べていた。

 どちらもとり串は頼んでいて、他にはカノンはサンドイッチ、スイルはホットドッグをそれぞれ頼んでいた。


「……黙々、モグモグ」


 沈黙を破るようにして、やけに真面目な顔でスイルが呟いた。


「あ、はい」

「一番困る反応やめて」

「……だって、こっちだって反応しにくいんですからしょうがないでしょう」


 カノンは不満げに返す。


「そう言われたら反論できない」


 言葉に反して楽しそうにしているスイル。

 しばらくの間、沈黙が流れた。


(そういえば、私のこと本当に知ってるのかな。飛べないこととか、学校のこととか)


 消えたはずの不安が、また少し湧いてきた。

 カノンは、意を決して聞いてみることにした。


「あの……私のこと、知ってるんでしょうか? その、セレストである私のこととか、学校でのこととか」


 まだ少し勇気がでなくて、曖昧な質問をしてしまう。


「セレストである? 学校である? 変なこと聞くね……知ってると言われても、具体的に何がというのが分かんなくて」


 困ったような顔でスイルは頭を掻いた。


「……セレストなのに、怖くて飛べないこととかです」


 少し言葉に詰まり、目を逸らしながらカノンは答えた。


「ああ、それなら知ってるよ。あっ、じゃあ学校のことというと……ちょっとまばら登校なこと? まあ確かに普通じゃないけど……わざわざ突っ込むのもよくないかなと思ったから、別にって感じ」

「そう、だったんですか……」


 カノンは若干困惑しながらも、手元のとり串の最後の一つを食べきった。

 サンドイッチはまだ少しだけ残っている。


 本当に何もなかった。スイルからの反応は。

 もしかしたら、嫌われているかも。もしかしたら、知らないだけなのかも。

 なんだか水底から水面に上がってきて、体に掛かる圧力がなくなったかのような、そういった解放感があった。


「あそうだ、結局絵の話してないじゃん」


 スイルははたと気づいた。


「あ、そういえばそうですね」


 なんだか拍子抜けして、ちょっとだけ間抜けな言葉を返してしまう。


「まあいいや。それじゃあ今日の、最初会ったとこで七時集まる……とかでもいいかな?」

「あ……いや、できれば明日にお願いできますか?」


 少し悩んでから、答えた。

 なんだか今日は色々なことがあったし、さらに色々なことに気を使いすぎて、疲れた気がしていた。


「うん、いいよ。あ、もう食べ終わったみたいだし、そろそろ戻ろうか」


 スイルもカノンも、もう食べ終わったようだ。


「はい」


 カノンは薄く笑って、スイルに続いて立ち上がった。

 ――こうやって誰かと二人きりで話すのは、どこか懐かしくて、嬉しいような気がした。


 ◇


「ただいま」

「あらカノン、おかえり」


 控えめに家の中に響く鈴のような声に、無遠慮(ぶえんりょ)な母の声が響いた。


「街中で大量の武器……怖いわねぇ」


 母は新聞の内容を反芻(はんすう)しているのか、何かを呟いている。

 テロ計画でも立てられているのだろうか。その現実味のないニュースから意識をそらし、彼女は二階への階段を登る。

 それから、すぐ横にある自室のドアを開けた。


 荷物が入った肩掛けバッグを入り口横の物掛けに掛ける。

 それから、胸に付いた金のブローチを一瞬躊躇ってから外し、バッグの中に詰め込んだ。


 私服の最上部のボタン一つを外して、彼女はベッドにぽすっと倒れ込んだ。

 白く柔らかな枕を掴んで彼女は考える。


(なんか……変だったなぁ)


 嬉しい、というよりも突然の変化による困惑と、これからへの不安の方が強かった。


(嫌われてないかな、変なこと言ってないかな……大丈夫かな。不安だな)


 ちょっと自分の言動を思い返してみると、少しばかり不安になってきた。

 いきなり、今まで見たことのないような人間と友人になって、彼女は疲れを感じていた。


 ぐるり、と布団の上で転がる。

 視界の端に見えた白い翼の先っぽを自分の手で(いじく)る。


(スイルさんは、セレストでもない普通の天人族みたいだったな)


 私もそうだったらいいのになぁ。

 そう思いながら、彼の顔を思い浮かべた。


 そうすると、なんだか胸の中にもわもわした何かが溜まっていくような感覚があった。

 あの笑顔や恥ずかしげな顔が浮かんでは、消え。


「……いやいや、まさか」


 そりゃ、いい人だったけど。

 二日で? と自問自答をする。


 しかし、そういえば長らく男子の友達なんでできていなかったなとも思う。飛べない、ということが知れ渡ってからは、カノンは随分孤独になっていた。


「一旦、忘れよ」


 彼女はかぶりを振って、まずは明日の約束のことを考えることにした。


 一度、勉強のことと家のことは忘れて、昨日描いた絵と、自分自身が絵について考えていることをまとめることにした。


 ◇


 翌日、彼女は学校に行った。

 朝食は食べてきたが、パン一つにジャムを塗って食べただけで、家族で食事を摂るようなことはなかった。

 昼食や夕食は家族で食べることもあるが、どこか沈んだ空気であることは否めない。


 そんなことはどうでもよくて、彼女にとって重要なのは、今日の学校が何事もなく休み時間まで進んだことだった。


 昼休みの時間になった頃。

 いつも通り昼食は適当に済ませ、彼女は校舎の脇にある庭で、スケッチブックと鉛筆を手に絵を描いていた。それは学校から支給されているものだ。


 ちら、と周りを見て誰も居ないことを確認してから、お気に入りの歌の歌詞を口ずさむ。


「雨雲だって仲間なんて言ってたいんだ――〜♪」


 その小さな歌声は、庭の隅から風に乗って流れる。

 透き通っていて、音程もほとんど違えていないとても綺麗な歌声だった。


 彼女が被写体――空と校舎を見るために顔を上げると、吹き抜けになった連絡通路を歩くスイルと目が合った。

 他の男子生徒と歓談(かんだん)しながら歩いている彼は、こちらを見るとあどけない笑みをこちらに向けて手を振った。


 それに気づいて、カノンもひらひらと手を振る。


「……聞かれてないよね」


 彼女は一人呟いた。


 ――

 ――――


 それからしばらくすると、またスイルがやってきた。

 彼女が目的だった、というよりは歩いている途中にたまたま居たから寄った、という感じらしい。


「カノンさん、歌も上手いんだね」

「……聞いてたんですか」

「うん、バッチリ聞こえてたよ」


 いたずらっぽく笑うスイル。

 一応距離はあったはずだが、風の流れが悪かったらしい。


「なんでそうタイミングが悪いんですかね……」


 カノンはふくれた。


「あははっ! でも、本当になんでもできちゃうんだね。やっぱり凄いなぁ」


 ちょっぴり、本当にちょっとだけ悲しそうにスイルは笑った。


「……いえ、私は飛べませんし」


 空を眺め、独白のように呟く。

 それは実際に自分がそう思っているということでもあり、彼の悲しそうな顔が一瞬でも見えてしまったから、謙遜した方が良い気がしたのだ。


「確かにできないことはあるかもだけど、できることだって沢山あるでしょ? 僕は凄いと思うよ――僕は何もできないから」


 一瞬目を伏せる。どうやら、先程の言葉は逆効果だったらしい。


 どう声を掛けるか悩んでから、彼女は訊いた。


「……何もできない、ですか」

「うん。絵だって下手だし、歌も無理。勉強だって、まあ赤点ってほどじゃないけど、良くはないよ」


 となると、カノンは両親からの圧力もあるのではないか、と考えた。


「ご両親は、特に?」

「ん? 別に何も。頑張ってって応援してくれるし、背中は押してくれるけど……全然ダメだから、申し訳ないね!」


 言いながらも、彼は面白そうだった。


 それを聞いて、そういえば自分がセレストだから期待を掛けられているだけで、他の家がそうとも限らないんだった、ということを思い出した。


「あ、でも市長の次男って立場だから、親からはないんだけど周りの期待はあるかなぁ……そっちがちょっと面倒かな」


 スイルは笑った。そこにはあまり感情は乗っておらず、多分純粋に邪魔だから居なくなって欲しいだけなのだろう、とカノンは勝手に思った。


 しかしそれにしても、とカノンは考える。


「市長の息子だったんですね……」


 スイルも普通の家庭に生まれたというわけではなかったらしい。


「うん、次男だけどね――そういえば、カノンさんの両親は? 結構凄いところだったりするんじゃないの?」


 若干期待を込めた目をカノンに向ける。

 少し怖気づくが、その視線も慣れてはいる。


 髪色は普通だが、金色の瞳と白い翼が目立って、貴族と勘違いされることが多いのだ。


「いえ、父は新聞社で働いてますが、それくらいです。母も普通です。親からの教育は丁寧だったそうですが……」

「へぇ、そうなんだ……貴族だったりするのかと思った。所作とかも丁寧だしさ。教育方針みたいなのはあるの?」

「私は……最近は『セレストとして飛べるようになってくれればいい』とだけ。昔は芸術も学べと言われましたが。最近はそれだけです――結局私は、いつまで経っても何もできないままですが」


 訊かれて、少し迷ってから彼女は答えた。


「ごっ、ごめん。なんか変なこと聞いちゃったね……」


 悲しげに目を伏せるカノンに、慌てながら謝るスイル。

 それを見て、カノンはハッとする。


「い、いえ。私も変なことを言ってしまいましたね。私は大丈夫です――飛べない私が悪いわけですし」


 カノンは自嘲するように薄く笑った。


「……そっかぁ。でも、カノンさんは十分色々してると思うけどね。絵だって上手いんだし」


 困ったように笑うスイル。


「私は――それより、スイルさんだって、謙遜していますが本当はすごく上手かったりするんじゃないでしょうか」


 カノンはずっと自分の話題をされているのがなんだか気持ち悪くて、話題を変えた。


「……君ほどじゃないよ? じゃあこれ――はい、証拠。見ていいよ」


 ふくれたように言ってから、彼は自身のバッグからスケッチブックを取り出した。


「いいんですか? ……ありがとうございます。では見させていただきます」

「丁寧だなぁ」


 苦笑いを浮かべる。


 カノンがそれを見ると、確かに自身のそれと比べると劣っているように見えた


 鉛筆で描かれた空の絵だが、一部線が曲がっているし、陰影の表現も違和感のある箇所がある。

 しかし、そこまで酷いようには見えない。


 生徒の平均より少し下、といったところだろう。十分及第点ではある。


「……別にこれでも全然いいと思いますよ。はい、ありがとうございました」


 カノンは考え込みながら、スケッチブックを返した。

 自分と比較して、という部分は言わなかった。なんというか、自分は凄くないはずなのに、一瞬でも自分より劣っていると思ってしまったことにとても違和感を感じたのだ。


「みんなそう言うけどさ、僕はめちゃくちゃ頑張ってこれだからさ――ちょっぴり悔しいんだ」


 そう言う彼の顔には悲しさがにじみ出ていた。


「そう、ですか……すいません」

「ああいや、謝らなくていいって――なんかごめんね、嫉妬してるみたいで。でもそういうわけじゃないんだ――僕は、絶対君みたいに上手になってみせるって思ってるから」


 彼はキラキラした、けれども確かな意思の宿った瞳で、あの空の向こうに手を伸ばした。

 カノンから見ればその手はまるで、あの太陽にまで届いてしまいそうに感じた。


 カノンにはそれが眩しくて、少しだけ羨ましかった。


 ――だけど、それを口にするのはおこがましいことのように感じて、口には出さなかった。


「凄いですね。あなたなら、いつか届くと思いますよ」


 私には、無理ですが。

 言葉を飲み込んだ。


「ありがと」


 スイルが笑うと同時、鐘の音が鳴り響いた。

 時計塔のものではなく、学校のものだ。


「あ、もう戻らなきゃだね。それじゃあバイバイ」

「はい、さようなら」


 彼を見送ってから、彼女も教室に戻るべく立ち上がった。


 ◇


 下校中、カノンはどこかボーッとしたような様子で天を仰ぐ。

 空は曇り模様で、空もどこか灰色で薄暗い。


 どうやら、少し雨が降り始めているようだった。


(激しくなる前に帰れて良かった)


 彼女は、そんなことを思いながら家のドアを開けた。


『ただいま』


 そう挨拶する前にリビングの奥から聞こえてきたのは、不機嫌そうな母親の声だった。


「やってるわよ! それなのに飛べない飛べないって――飛ばせようと必死に努力してる私の気持ちなんて分からないんでしょうね!」

「そこは今関係ないだろう。大事なのは、飛べてないという事実だろ。そもそも、俺だって毎日金を稼いでるんだ。お互い様だろ?」


 続いて、同じく不機嫌そうな父親の声が聞こえた。

 玄関の先、リビングの開いた扉の奥で、二人はまるでカノンの部屋がある二階への階段を塞ぐようにして口論していた。


 その様子にカノンはドキッとする。

 そもそも、両親が喧嘩しているという時点で嫌なのだ。それがさらに自身の話題ともなれば、理由は明白だ。


「お互い様⁉ 明らかに私の方が色々やってるでしょ! カノンのことだって、あなたは何一つ関与してないじゃない!」

「そんなわけはないだろ! お前は家事をやってるかもしれないが、手続きや金銭の処置は全部俺がやっている。そっちこそ金のことには何一つ関与してないはずだ!」


 ヒートアップしていく二人をよそに、カノンは挨拶すらできずに立ち尽くしていた。


「はぁー……もういいわ。言っても分からないのね」

「あぁ奇遇だな。俺も同じことを思っていた」


 すると、そのまま父親は二階の部屋に消えていき、母親は大きくため息を付きながらソファーに座った。


(私……どうしたらいいんだろう。どうして私は飛べないんだろう)


 少しネガティブな思考に沈みそうになるが、彼女はどうにかそれを振り切って動き出す。

 すると、彼女は母親に呼び止められた。


「カノン……お願い、早く飛べるようになってちょうだい。私、飛べないあなたを見てるのが辛いわ」


 肩に手を乗せ、まるで懇願するような口調で母親は言った。


 カノンは返答に迷ってから、答えた。


「――私、頑張る。飛べるようになるから、安心して」


 彼女は母親の望む言葉(・・・・・・・)を乗せて笑顔を浮かべた。

 母親は、それを聞いてから、数秒の後にこう答えた。


「そう……良かったわ」


 だが、少し安堵したような様子で母親はソファーにどかりと座りこんだ。


 それを見届けてから、彼女も自室に戻った。


 ◇


 ベッドの上に倒れ込んだ彼女は、何もない天井を眺めていた。


(……疲れた)


 そう思うが、彼女にはやらねばいけないことがあった。


「頑張らなきゃ。飛ぶ練習、しなきゃだよね」


 立ち上がろうとするが、足が動かない。


(あれ?)


 気がつけば足が震えていて、どうしようもないくらい胸が苦しかった。


「ダメ、私にはやることが――」


 奮い立たせ、足を動かす。

 しかし、立ち上がった瞬間にめまいが自身を襲う。


「あ……」


 瞬間、彼女の瞳から涙が零れ落ちた。

 床に崩れ落ち、その涙を拭いた。


 原因は分かっていた。

 自分が少し無理をしていいることには、気づいていた。


 だけど、もうちょっとできる、と思っていたことが勘違いだったことには今気がついた。


 気がついてから、急に今までしてきたことが嫌になってきた。

 なぜ自分が翼を持ってしまったのか、なぜ飛ばなければいけないのか、なぜこんなに苦しいのか、なぜこんなに怖いのか。


(あぁ、もう私はダメなんだ)


 ――彼女は気がつけば部屋から出ていた。


 頭を抱える母親の居る一階をどこかおぼつかない足取りで通り過ぎ、玄関のドアを開ける。


 外はまるで彼女の心の中を写したかのようにどんより曇っており、雨が石畳の地面に激しく打ち付けている。


 だが、彼女は傘も持たずに外に出た。

 体を打つ雨が体温を奪い、彼女の翼を濡らす。


 段々と歩く足は早くなり、人足の減った街中を走る。


「はぁっ……はぁっ……! これもっ……要らないっ!」


 走りながら、彼女は胸につけた金のブローチを少し乱暴に取り外し、投げ捨てた。

 セレストである証たるそれを。


 ◇


 水路の上に掛かる橋の下で、彼女は膝を抱えていた。

 外には、すっかり強くなってしまった雨がざぁーざぁーと降りしきっていた。


 ポタポタと橋の上から零れ落ちる雫が、彼女の隣に水たまりを作っていた。


 濡れた服と翼が妙に気持ち悪くて、だけど何も持っていないから何かを羽織ることもせずにただ寒さに耐えていた。

 むしろ、ここで終わってしまってもいいと思って。


 彼女は自身の膝に顔を埋めた。


「カノンさん……? 大丈夫?」


 顔を上げた先に居るのは、スイルだった。


「スイル――さん。なんでここに居るんですか……?」


 傘を持って心配そうにカノンを見つめる彼は、案外背が高くて。

 それはカノンからすればまるで、囚われのお姫様を助けに来てくれた王子様のように見えた。


 しかしそう思ったのも束の間、スイルが差し出してきたものにカノンは驚愕した。


「いや、それはこっちのセリフだよ。今日雨だったから、絵の話なんてできないなぁ、って思ったけど、まあ一応居るかも知れないと思って集合場所に行ったら……道中でこれを見つけたから。探したんだよ?」


 それは、カノンのいつも着けているブローチだった。


 そのブローチを見たカノンは、自分がセレストである運命から逃げられないということを突きつけられているような気がして、怖くなった。


「嫌っ……! やめてください! こんなの――要らないっ!」

「あっちょっ、何するの!」


 スイルの手から乱暴にそれを奪い取り、彼女は目の前の水路に投げ捨てた。

 ポチャン、という音が雨音の中に混ざって聞こえ、一瞬の間二人はただそれを見ていた。


 その後、カノンは背中からずり落ちるようにしてまた地面に座り込んだ。


 しばらくして、隣からパシャ、という水が跳ねるような音が聞こえた。

 カノンの目には見えていないが、それは多分、スイルが座り込んだ音だ。


「……その、寒いね」


 彼は、困ったような顔で呟いた。


 カノンの返答はなく、ずっと俯いたままだった。


「なんていうか……何があったか知らないけどさ。とりあえず、どっか屋内に居たほうがいいと思う。冷えるよ?」

「いいです……ほっといてください。スイルさんが気にする必要はないですよ。迷惑、掛けたくないので」

「いやそんな……あーもう! ほら、手こんな冷たいし、気にしないほうが難しいよ」

「だっ、大丈夫ですって!」


 ぱし、とその手を拒絶して、カノンは顔を上げた。

 スイルが見たのは、頬に流れる涙だった。髪から滴る水に混じって、その金色の瞳からいくつも雫がこぼれている。


 スイルはそれを見て、もう一度彼女の手を握り直した。


「僕さ……こういうのどうすればいいか分かんないんだよね。だけどさ、一旦落ち着こ」

「……うん……ぐすっ、ごめんなさい……」

「謝らなくてもいいんだけど……まあ、大丈夫だから。安心して。僕はここに居るからさ」


 彼は、できるだけ安心させるような言葉をカノンに掛けた。


 それを聞いて、カノンは一度座り直した。

 スイルと肩が当たるくらい近い距離に。


「その……近くない?」

「さっき、ここに居るからって」

「分かった、分かったから。それ反則」


 いつになく顔が赤いスイルの服の裾をカノンは控えめに掴んだ。


「私、飛べないの。空が怖くて」


 もはや敬語すら忘れ、彼女は独白した。


「それは知ってるけど……」

「両親は、いっつも私に飛んで欲しい、いつになったら飛べるのって聞いてくるの」

「前、言ってたね」


 彼はそう言いつつも、思っているよりも酷い状況だったことを認識する。


「うん……でも、私は頑張っても怖くて、飛べないから」

「まあ、無理なものをやれっていってもしょうがないよね。僕だってプロ並みに上手い絵を描けって言われてもそりゃ無理だよ」

「……うん。それで、今日両親が喧嘩してて。それは私が帰ってきてすぐに終わったんだけど、その後にお母さんが私に言ったの。『お願いだから、早く飛べるようになって』って」

「……そうなんだ」


 スイルは、考え込むように目を伏せ、短く答えた。


「それで、私は了承したの――したんだけど、急にそれが怖くなったの。ずっと飛べないのに、お母さんの不安まで背負って。私は、私は何も出来ないのに――」


 次第に瞳に涙がたまり、声が震えてくる。

 それから、彼女は自身を落ち着けるようにして深呼吸して、涙を拭いた。


「だ、大丈夫? 落ち着いてね? ゆっくりでいいからさ……」


 少し心配になって、声を掛ける。

 それから、彼女は続きを話した。


「だから、嫌になって、飛び出してきた」

「家出……みたいなものってことね。だからこんなところに居たんだ」

「うん。いつも、ずっと言われるの。セレストなんだから、早く、飛べるように……なりなさいって」


 続ける彼女の言葉は、けれど段々と途切れ途切れになっていく。


「私、ずっと怖くて飛べないのに、何度も何度も言われて、それが、怖くて――」


 彼女の体は震え、その金色の瞳からはついに雫が溢れ落ち始めた。


「あっえっと……その、大丈夫だから。泣かないで」


 スイルはどうすればいいか分からなくて、そんな彼女の体を控えめに抱きしめた。


「――怖くて、飛べないのに……! 私にはこんな翼なんて要らなかった、こんな、大きくて邪魔なものなんて……!」


 一瞬驚いたように体が飛び跳ねるカノン。

 だが、次の瞬間には彼の胸に顔を埋め、まるでダムが決壊するかのような様子で彼女は叫んだ。


 胸の中で嗚咽(おえつ)を漏らす彼女に対して、困惑するスイル。


「うん、うん……わ、分かった。怖いよね」


 スイルは小さく丸くなったその体を守ってあげなきゃいけないような気がして、その冷たい体を翼ごと抱き締めた。


「こわいよ。怖くて、飛べないよ。何もできないのが――こわいよ。なんで、私が飛ばなきゃいけないの……飛びたくないよ」

「……うん、分かった、分かったよ。その、ここに居ていいから」


 スイルの胸の中で、大きな泣き声が響いた。

 しかしそれは、激しい雨の音の中でかき消され、橋の外に届くことはなかった。


 ◇


 ポタポタ、と弱まってきた雨の中。

 橋の下には、未だ二人が居た。


 先程までは威勢も良かったスイルは、ずーっと肩に寄りかかっているカノンの体温を感じながら赤面していた。

 ちょっと冷たいけれど、さっきから長いこと近くに居てスイルの体温が移ったのと、泣いたせいなのか微妙に熱を帯びている彼女のことを無駄に意識してしまう。


「……ねぇカノンさん。そろそろどけない? 一旦帰らない?」


 数秒の間の後に、カノンは渋々と言った様子で動いた。


「本当は嫌ですけど、しょうがないので退けます」

「……ほっ」

「――でも、私はまだ帰りません。帰りたく、ないので」

「そ、それも困るな……」

「大丈夫です。スイルさんに心配してもらうことの――いえ、なんでもないです。ごめんなさい」


 スイルの困り顔を見て、彼女は目を伏せた。


「いや、謝らなくてもいいんだけどさ」

「……」


 しばらく沈黙が走る。


「私、不安なんですよ。このまま飛べないんじゃないかって。飛ばなきゃいけないのに、いつまでこんな状態で居るんだろうって。そして、そんな状態で今帰ったら、何が起こるのかって」

「……まあそれは、そうだね」

「――それに、今だってスイルさんに嫌われてしまってないかって不安なんです」

「そんな! ……確かにちょっと疲れたけど、嫌いにはならないよ」

「分かってます。分かってますよ。だけど、不安になるんです――あなたがくれているものを、私は返せるのかって思うんです。翼があるくせして、何もできない私に」


 カノンの言葉に、スイルは考え込む。


「……僕さ、気づいたんだよね」

「何に、ですか」

「正直、ずっと君は凄くいい環境に居ると思ってたんだ。才能も沢山あるように見えたし。嫉妬はなかったけど、僕も同じになれたらなっていう憧れはあった――だけど、そうじゃないんだって気づいたんだよ」

「……そうですかね。私は、良いことばっかりなのに何もできていないだけだと思いますが」

「ネガティブだなぁ……まあそれでさ、僕は普通に育ててもらえる環境――努力できる環境はあったけど、絵を教えてもらう環境はなかったんだ」


 苦笑いを浮かべながら彼は説明した。


「だから、あんなに教えてって言ってたんですか?」

「うん。知ってる人に付きっきりで教えてもらうには効果的だと思ったからね。それと、単純にカノンさんの絵に感動したから――あとはまあ、下心も、ないわけじゃない……かな?」


 彼は頭を掻きながら曖昧に答えた。


「……こういうときは、素直なんですね」


 最後の言葉に対してだけカノンはぽつり、と反応した。


「う、うるさい。そこはどうでもいいんだよ。だから、僕らは才能のあるなしで言うと真逆に見えるけどさ、結局同じなんじゃないかって思ったんだよ」

「同じって……何がでしょうか?」


 怪訝そうに訊くカノン。


「できるようになりたくて、頑張ってるはずなのに、何か壁があって結局できないってこと――やっぱり僕ら、どっちも才能ないみたいだね」

「……私、頑張ってますかね」


 不安げに呟いた。


「そりゃ、こんなになるまでやってるんだから頑張ってるでしょ」

「そう……なら、よかったです」


 カノンは微笑んだ。

 さらにスイルは顔が熱くなるが、バレないように顔をそらした。


 そうやって顔をそらしたスイルは、もう雨が止んでいることに気がついた。

 案外、止むのは早かったようだ。


「雨、止んできたね」

「ええ、そうですね」


 カノンも、同じ空を見つめて呟いた。


「あの綺麗な空にさ、届いてみたいよね」


 まだ少し曇っている空に、手を伸ばす。


「……私には、無理です」


 カノンは目を伏せた。


「そうかなぁ……そうかもね」


 スイルは困ったように笑う。


「私が届いても、あの綺麗な空は汚れてしまうだけですよ」

「――僕は、君の翼だってあの空と同じくらい綺麗だと思うけどね」


 さっ、とカノンの白い羽の先を触って、スイルは言った。

 羽を触られることが好きなセレストはあまり居ないのだが、カノンはその手を払い除けることはなかった。


 カノンはそんなことも忘れて、スイルのそのキラキラしたものを眺めるかのような顔に、釘付けになる。


 スイルのその顔はすぐに真っ赤に変色した。


「あ、いやその、なんかそういう意味じゃなくて、ほら。ね? 言葉の(あや)? みたいな?」


 急にあたふたしながら、特に意味の通ってない言葉を並べながら必死に弁明する彼が面白くて、カノンは思わず笑みが溢れた。


「ふふっ、分かってますよ――やっぱり、可愛いですね」


 膝の上に顔を乗せて、カノンはいたずらっぽく笑う。


「……可愛くないし」


 ぽつり、とスイルは呟いた。


 しばらく眺める空は、当然何かを言ってくれるわけもなく、ただしとしとと弱い雨を降らすのみだった。


 しかし、その長い沈黙を破ったのは、別の人物の声だった。


「おまえたち、一体こんなところで何を――待て。おまえたちは……カノン=レイフィムとスイル=ラークルか?」


 すると、後ろから声が聞こえた。

 それは、彼も、彼女もよく知る教師の声だった。


 白髪混じりの黒髪に、碧眼。

 ラグス=ペタール教師だ。


「あ、あれ? ペタール先生? なんでここに?」

「れは私が聞きたいのだが。一体何をしているのだ――いや、ひとまず家に帰りなさい。体が冷えてしまう。ちゃんとシャワーを浴びて、体を温めなさい」


 厳格そうな顔から放たれる言葉は、案外優しいものだった。

 しかし、怒られたと思ったカノンは萎縮(いしゅく)する。


「っ、あの……いえ、なんでもないです。分かりました」


 彼は、体を小さくするカノンの体を若干抱き寄せた。


 それから、スイルは一つ思いついて、カノンに小声で話しかけた。


「――カノン。この先生に、泊めてもらうってのはどう?」


 もとより、ラグスが度量の広い人間であることをスイルは知っていた。

 ならば、もしかすると泊めてもらえるんじゃないか、と考えたのだ。


 もしスイルの家に泊める以外に手段がないのならそれでもいいのだが、彼の家には他にも人が居るし迷惑が掛かる可能性もある。


「え……だって、そんな、先生に泊めてもらうなんて迷惑だし……」


 困惑気味に返すカノン。

 一方のラグスは何かを理解した様子だ。


「聞こえているぞ、二人共……はぁ、大方は予測が付く。カノン、おまえは家のことで何かあったのだろう? だから帰りたくない、と」


 ラグスは隠す必要もないのだが、と言いたげに訊いた。


「ぁ……その、はい」


 顔を背け、控えめに肯定するカノン。


「え? なんで分かったんですか?」


 一方、スイルは不思議そうだ。


「私はある程度彼女のことを知っているからな。であれば、簡単に予測も付く」


 ラグスは『私からすればついにやったのか、と言いたいくらいだ』と付け足した。


「そうだったんですか……」


 しかし、それなら逆に泊めてもらえる可能性も高いんじゃないかと思った。


「あの、カノンさんは色々あって家に帰りたくないみたいなんです。なので、できれば泊めてもらえないかなと思うのですが――お願いできませんか?」


 スイルは、控えめにお願いをした。


「少し、難しいな。正式な許可を両親から得られなければ、誘拐とみなされてしまう可能性もある。そういったリスクがあるものでな」


 提案に、ラグスは顔をしかめて返す。


「そ、そうですが……じゃあやっぱり家しか――」

「だが、それは私の矜持に反するのでな――さて、私は歩いていたところ、橋の下に妙な少女と少年を見つけたようだ。だがしかし、少女の方は家も分からぬが、このままほうっておくわけにもいかない。現在身元も分からぬ彼女のことは、大人である私が保護するのが最善だろう」


 スイルが言いかけたところで、ラグスはニヤリと笑いながら言い放った。


「それはえっと……つまり?」

「分からぬか。勘の悪い少年(・・)であるな。私が『保護』すると言っている。ただし、私は彼女のことを知らない、という(てい)でな――まあ、これでも完全に問題がないとは言えぬが。教師なら顔を覚えていないのかと問い詰められれば危うくなるであろうしな」


 スッと表情を戻し、ラグスは説明した。


「……スイルは私の家も知らないですし、一応筋は通らないこともない、と思います」


 今度は、カノンが控えめにそう補足した。


「おや、都合がいいな――さて、それでは向かうとするか。助かったぞ少年(・・)。こちらの少女は幸が薄そうで今にも死んでしまいそうだからな」

「さ、幸が薄い……」


 ちら、とカノンの方を見るが、可愛く小首をかしげるばかりで、特に気にした様子はない。


「そ、そうですか……では、お願いします」

「ああ、私は責任を持って『見知らぬ少女』を保護するとしよう」


 彼は肩をすくめた。


 ◇


 結局、彼女はラグスの家に保護されることになった。

 その後、言われた通りにシャワーに入って体を温め、なぜかあった子供用の衣服を借りた。


 しかし、そこまでされても思考は止まらず、なぜ自分がここに居るのか、こんな家出のようなことをしていていいのかと疑問に思ってしまった。


「あの……何かしなくていいんでしょうか。それに、ここに泊めてもらうのもよくないと思うんです」


 ラグスは、話しかけられた時以外は本当に何も話さなかった。

 自室には大量の本があるらしく、さらにリビングにも本棚が一つあった。

 彼は、常にソファーに座って本を読んでいた。歴史やら経済やら思想書やら、とにかく難しいことが書かれている本らしい。


「したい、というなら構わん。とは言っても、今は一人暮らしだ。もう既にやることはなくなっているがな――それと、別にいつ出て行ってもかまわん。そして、同時にここに居ても構わん。焦ることはない」

(彼女が原因で面倒事が舞い込んでくるとしても、守ってやるのが大人というものだろう)


 彼はそう考えていた。


「そうですか……ありがとうございます」


 今度は、少しだけ安心した様子でカノンは頷いた。

 そういえば、スイルにも同じことを言われていた気がする。

 落ち着いて、と。


 だからカノンは、ラグスから使っていいと言われた、余っていたという部屋で寝ることにした。


 まだ九時だから寝るには少し早いけれど、別にそうしたってここでは誰も構やしないのだ。カノンはそう思った。


「……じゃあ、今日はもう寝てもいいんでしょうか?」


 だけど、流石に何も言わないのは良くないような気がして、そう訊いた。


「そうしたいなら、構わん」


 一瞥して、答えた。


「ありがとうございます。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 小さくお辞儀をしてから、カノンはタッタッと小走りで自室に向かった。


 ◇


 窓から差し込むガス灯の光だけが頼りの、少し暗い部屋のベッドに倒れ込んで、机とランプ以外何もない部屋を見渡す。


(……家以外の場所で寝るのって、いつぶりだろ)


 いつもと違うベッドの感触を感じながら、仰向けに寝転がる。

 静かな家の中には、いつもの喧騒は聞こえなくて。


 本当に、自分はあそこから逃げられたんだと実感が伴った。


「あ……」


 すると、はらりと涙が流れた。

 安心して肩の力が抜けてしまったのだろうか。


 彼女は、その雫を裾で拭った。

 今はただ逃げているだけだと分かっている。二人に助けてもらっているだけだということも分かっている。いずれ両親のもとへ戻らなければならないことも分かっている。


 だけど、今は少しだけ、寄りかからせてもらうことにした。


(……でも、スイルにはまだありがとうも言えてないな)


 ラグスにはさっき言ったし、連れて行ってもらったときも言った。

 だが、そういえばまだスイルには言えていない。


 あれだけ助けてもらったのに、それすら言えないのは申し訳ない、と思った。


(でも……優しかったな)


 優しいというか、包容力があるというか、安心感があるというか。

 とにかく、スイルのそばにいると安心できた。


 そして、それが友人に向ける感情とは異なっていることくらいは自覚していた。


「んふふ……まあでも、いいよね」


 若干頬を赤く染めながら枕をぎゅっと抱きしめて、彼女は細かいことは忘れて睡眠欲に身を(ゆだ)ねた。


 ◇


 ――だが、結局はぐっすり熟睡というわけにはいかなかった。

 朝の四時頃。


 外はまだ暗いが、あと一時間もしたら明るくなるだろうか。

 もう寝るにも起きるにも微妙な時間帯だ。


 そんなものだから、彼女は何をするでもなくベランダに出ていた。


 肌を撫でるひんやりとした風を感じながら、あの遠い遠い向こうにある、全てを飲み込んでしまいそうなくらい真っ暗な闇へ手を伸ばす。

 キラキラ光る白星が浮かぶ夜空の中に、今は月は見えなかった。


 何度憧れたかわからないあの空には、未だ届かない。

 けれど、分かったことが一つあった。


「……飛びたい、な」


 保護された時、ラグスに訊かれた。

 『自分に問うてみろ。おまえは、飛びたいのか?』と。

 カノンは考えた。そして、答えは『飛びたい』だった。


 私には、まだ翼があるのだから。

 確かに、翼があるせいで苦しかった。だけど、私には飛ぶ『才能』は確かにあるのだから。

 カノンは思った。


 飛びたくない、と思っていたのは幻想だった。

 自身にあるのは、言葉では表しきれないほどの空への憧憬。


 あの心地よい春風の吹く太陽が輝く空に、少し肌寒い夜風の吹く月の浮かぶ夜空に、飛び立ってみたい。

 だけど、怖くて飛べない。

 それだけの話だった。


 手を引いて、自身の胸に当てる。


(私は……飛びたいんだ)


 そう思うと、この翼にもちょっとくらいは自信が持てるような気がした。

 それに――


「綺麗って、言ってもらったし」


 ふ、と笑って彼女はもう一度リビングに戻ろうとした。


「――ってる? 向こうでテロリスト――」


 だが、その時話し声が聞こえた。

 地面はよく見ていなかったので気づかなかったが、どうやら二人組が居たらしく、話をしているらしい。

 他に人は居ないが、逆にそのせいで話が響いている。


「えぇ⁉」

「――大きい!」

「ごめ――れで?」


 テロリスト、というとこの前母が呟いていた『街中で大量の武器がどうこう』という話があっただろうか。

 少し怖いなぁ、と思いながら彼女は踵を返そうとした。


 しかし。


「市長の息子――人質」


 噂話をしながら、その女性は市長の家のある方角を指差した。そういえば、スイルは市長の息子だと言っていたはず。なら、そこに住んでいる。

 ――つまり、スイルが人質になった可能性がある。


 カノンは背筋が凍った。


 確証はない。ないのだが――


(助けに、行かなきゃ)


 一瞬でも、もしかしたらスイルが人質になってしまっているのかも、と思ってしまった。

 ただの噂でも聞いてしまった以上、居ても立っても居られなくなった。


 急いで一階に降りる。

 この服装だと少し肌寒い気がして、ちょっとタンスの方を見て上着を羽織った。

 一応、こちらも着ていいと言っていたし大丈夫なはずだ。


 玄関から外に出ようとして、視界の端に見えた警棒が目に留まる。鈍色(にびいろ)に輝く縄のマークが入った、その黒い警棒だ。


 それは、いつも勝手に危険な夜中に外に出る私のために、母が買ってきたものだ。

 昨日家から飛び出して来た時、道に落としていたらしい。そして、それをラグスが拾ってきたのだ。別に欲しくはなかったが、護身具であることを考えると、要らないとも言えなかった。


 一瞬躊躇(ためら)ってから、手に取る。

 助けに行って、返り討ちにされては元も子もない。


 扉を開ける。


 一瞬不安になるが、踏み出す。


(――もし本当だとして、助けに行って私に何ができるの?)


 自問する。

 自分は警棒を持っているだけの十五の少女だ。警察よりもずっと弱い。


 だから、行ったところで何もできないはずだ。

 それにそもそも人質は、カノンとは無関係な市長の長男かもしれない。


 だとしたら、行っても意味はない。


(……何してるんだろ。警察が居るんだから、逆に迷惑なくらいなのに)


 けれど、思考とは正反対に歩く足の動きは早くなる。

 助けに行きたい。その一心で。


 ◇


 市長の家の方面に行くに連れ、段々と騒がしくなってきた。

 さらには、遠くから大きな物音のようなものが聞こえる。


 銃声だろうか。


「――なぁ、なんか騒がしくねぇか?」

「なんだ、知らないのか? あっちの方でなんか武装集団が――」


 噂話を聞いて、それらを照合しながら向かう。

 数人から聞いて確証を得られれば、そちらへ向かった。


 どうやら、場所は市長の家からは離れた場所にあるらしい。

 街の外周にずんずんとカノンは向かっていった。


「……どこに、居るのかな」


 ガス灯が照らすだけの薄暗い道を早歩きで進む。

 街の端に近づいてきたからか、家は少なくなっており、ガス灯の数も減ってきた。

 道の端々(はしばし)には、緑色の草なども増えてきており、自然を感じさせる。


 さらに、さっきから物音はするものの、道を歩く人々は誰一人と居らず、声も一切聞こえなかった。


 瞬間、大きな銃声が聞こえた。

 それは反響して夜の街道に響くが、物音はすれども人の声は一切しない。


(そろそろ……この辺りなはず)

「――い! ――めろ! こいつ――」


 すると、男の怒号が聞こえた。


「あっち……!」


 気づいて、カノンは走り出した。


 彼女は家の間を縫って進む。

 道の先からは鉄のような匂いが漂ってきて、顔をしかめる。


 それからしばらく走ると、見えた。


 一人の男と――そして、その腕に抱えられたスイル。


「っ!」

(スイル……!)


 声を殺し、心のなかで驚愕する。


 そして、辺りには数人の男達が倒れ込んでおり、どうやら無力化された『武力集団』とやららしかった。


 そして、血の匂いは彼らや、また右の方に広がっている数人の死体の下にある血溜まりから発せられるものだったようだ。


(っ……! 人が!)


 しかし、それらの死体は武力集団と同じ格好をしているため、警察が撃ち殺したものなのだろう。

 一瞬吐き気がするが、なんとか耐える。


 彼女は物陰に潜みながら、なるべくスイルの方を近づくために左の方から警察にも気づかれないようにして男の方へと近づいた。


「お前は包囲されていると言っているだろう! 早くソイツを離せ!」

「い、嫌だ! 待て、動くなっつってんだろ! そ、そしたらコイツを殺す!」

「クソ野郎が……!」


 警官、犯人共に汚い怒号を飛ばす中、一部の市民はその脇や家の窓から野次馬根性で覗き見をしているようだった。

 一方、スイルは泣きそうな顔でキョロキョロと辺りを見渡していた。


(早く助けなきゃ……! でもどうやって……?)


 必死に考える。今すぐ飛び出たい気持ちはあったが、それをしたところで自分には何もできない。


 ――その時、一人の市民が動いた。

 ダッ、土を踏む音が聞こえて、彼は駆け出した。


「お、俺が英雄になるんだッ!」


 それは、助けに行くというよりは、まるで犯人を突き飛ばそうとしているかのようで。


「――何ッ⁉ や、やめろ!」


 警察が必死で引き留める。


 その愚行は、犯人の意識の隙間をくぐり抜けてしまった。

 そして刹那の後、二人を崖へと突き飛ばした。


 犯人は驚愕と恐怖を浮かべ、スイルは何が起きたかさえ分かっていないように見えた。


 ――それとほぼ同時、カノンは走り出した。

 そこに迷いはなかった。自分が飛べない、なんてことはもう頭になかった。


(行かなきゃ――!)


 驚く警官をよそに、崖へ突き進む。


 大丈夫、何度も練習した。やり方なら、何度も調べた。

 私ならやれるはず。


 あとは、勇気を振り絞るだけ。


 翼を曲げる。


 地を、蹴った。

 手に持った警棒は、既に手から零れ落ちている。

 着ていた上着も、まるで殻を脱ぎ捨てるようにして落ちていった。


 翼を動かし、一瞬ふわりと浮く。慣れない浮遊感と、絶妙に制御できない体に焦りながら、彼女はスイルを視界に捉える。


 翼を動かし、くるりと体を曲げる。

 スイルが見えた。犯人の手からは逃れ、一人下に落ちている。


 凄い速度で下に落ちながら、その息苦しさに困惑する。

 だけど、ただ彼を助けたい。その一心で彼の元へ向かう。


(動いてよっ……! 私の翼!)


 初めての飛行で上手く動かない翼を無理やり動かして、横に加速する。

 あと地上までどれくらいあるのか。そう思って地上をちらりと見るが、この速度で落ちていてはもう一瞬もないように見えた。


 焦りも恐怖も、全て無視して彼女は空を駆けた。


 横へと加速した体は、まるでスイルを横からかっさらうようにして救い出す。


 同時に涙を引き、ぎゅっと瞑っていた彼の瞳が驚いたように見開かれた。


 一度速度を落としてから、今自分の手の中に居るスイルを見つめた。

 興奮と緊張で高潮した顔に、満面の笑みを浮かべてカノンは言った。


「はぁ、はぁ……スイル……助けに来たよっ!」

「あ、え……いや、なんで飛べ……ていうかなんでここに……」


 まだ困惑していて、さらに涙目になっているスイルはしどろもどろになりながら訊いた。


「私が、飛べたから……!」

「え、まあうん……そうだね?」


 困惑しながらも、どこか嬉しそうに彼は笑った。


「ゆ、夢じゃないよね? さっき僕、崖から落ちて、そのまま――」

「違う。私が助けたから、大丈夫。飛べたって行ってるでしょ?」


 カノンは笑った。

 すると、さっきまでこわばっていたスイルの体から力が抜けていくのが分かった。


「あ、ほんとにそうなんだ……良かった。」


 それから、急にその瞳から涙が零れ落ちた。


「ご、ごめん。なんかさ、カノンさんが助けてくれたって思ったら安心して――」


 泣き笑いを浮かべるスイルを見て、カノンは少しくらいでも与えられたものが返せたかな、と嬉しくなった。


 でも、なんだかやっぱりまだ物足りない気がした。

 カノンはもっと上へ、もっと空へ向かいたいと思った。


 スイルも、空に届きたいと願っていたんだから、いいよね? と自問自答する。


「――ねぇ、もっと高い空が見たくない?」

「た、高い空? まあ空は見てみたいような……」


 絶妙にすれ違っている会話。けれど、カノンはそんなことすら認識せずに行動に移した。


 返事もせず、一気に翼に力を込める。

 その体は恐れも心の痛みも、何もかも振り払って上へ上へと飛び上がっていく。


「う、うわぁっ!」


 スイルは驚き、縮こまる。


 気がつけば下にある木々も人々も米粒になるくらい小さくなっていた。

 向こうにある白い霊峰も、ぐんぐんと抜かして空まで進んでいく。


 スイルは、次々と移り変わる周りを見て、思わず息を呑んだ。


 しばらくすると、カノンの体は止まった。

 この誰も居ない高い高い場所には、バサバサという彼女の翼が動く音のみが響いていた。


 雲にも届きそうなこの高い場所では、天を焼くような茜色に染まる水平線がよく見えた。

 きっと、二人はこの夕日を他のアルタストに居る誰よりも先に見ているのだろう。


 風は冷たく、とても寒いはずなのに、体が熱くて、心が熱かった。

 うるさいくらいに心臓の音を感じながら、カノンは肩で息をする。


「綺麗……」


 思わず、スイルはつぶやく。


「空――届いたでしょ?」


 嬉しそうに笑いかけた。


「うん、そうだね――そうだ」


 同じく少し紅潮した顔を向け、噛みしめるようにスイルは繰り返す。

 届かないと思っていた空に届いた。


 そしてこの景色を見ていると、なんだか自分の才能がどうとかすらどうでもよくなっていくような気がした。


 カノンはふぅ、一息ついた。


「――ありがとう、スイル。昨日、私を助けてくれて」

「いや――ていうか、今僕が助けてもらってる最中でしょ」


 くすくす、と彼は笑う。


「あははっ、そういえばそうだね。じゃあ、これでお返しだね!」

「うん……うん? まあ、そうだね」


 スイルは一瞬困惑しながらも返す。


「――ねぇ、スイル。私あなたのこと好きかも」

「へっ? ……それはその……異性的な意味で?」


 思わぬ言葉に、疑問の声を漏らす。


「えへへっ、どうだろうね。どんな意味でもいいよ。スイルが好き」


 カノンは紅潮(こうちょう)したまま少しいたずらっぽく笑ってみせた。


「そういうのは……ダメでしょ」


 今度は興奮とは別の感情で顔を赤くしたスイルが顔をそらした。


 カノンは、再度目の前に広がる空に目を向けた。

 何度も憧れてやまなかった空、その上に自分は居る。


 肌に当たる寒い風が、すぐ上に広がる雲が、紅く染まった水平線が、まだ少しだけ暗い空が、その憧れていた全てを今、手にしている。

 そう考えると、どうしようもないくらい嬉しかった。


 確かに翼があるから、諦めきれなかった。翼があるから、期待された。

 だけど、今ついに自分はそこに辿り着いた。


「私――飛べたよ」


 ◇


 それから、二人は地面へ降り立った。

 警察には事情聴取をされたが、カノンが家を飛び出していること以外はやましいこともないし、全てを説明した。


 スイルは後の処理はあるだろうが非はないためそのまま釈放。カノンは危険な行動だったために厳重注意はされたがすぐに釈放となった。

 その他犯罪集団は全員刑務所行きとなり、あの突き飛ばした市民は殺人未遂として刑務所行きだった。どうやらパニックになっていたらしく、その時は自分がやらなければみんな死ぬ、なんて考えていたらしい。


 そして、しばらくしてスイルとカノンの両親が来た。

 スイルは家族と抱擁し、無事を喜んだ。そして、助けてくれたというカノンにも深く感謝していた。


 カノンの両親は出ていったことを心配していたらしく、無事を喜んではくれた。だが、危険な行動をしたとしてカノンを(はた)いて、母が説教を始めた。

 ブローチも警棒もそこそこ値段がしたらしく、それについても問い詰められた。


 父は何も言わない上に、母はどんどんとヒートアップしていくものだから、途中で警察とスイルの両親が間に入って止めることになった。


 そして、その時カノンが飛べるようになったことを知り、カノンの両親は本当に心の底から喜んだ。

 だが、それは我が子の成長を喜ぶ両親というよりも、使えない錆びた道具がピカピカになって戻ってきたかのような喜び方だった。


 そんなものだから、カノンも素直に喜ぶことができないまま帰ることになった。


 ――まあでも、ちょっとくらいは晴れ晴れしたかな、とカノンは考えていた。

 関係が改善することはないのかもしれないけれど、少なくとももう出ていったりするほど思い詰めることはないだろう。


 そしてその日、しばらくすると、家にラグスがやってきた。

 ちょっと前に初めて事件のことを知ったらしく、とても慌てた様子だったが、カノンの顔を見ると落ち着いた様子で話をした。


 その時、ラグスが掛けた言葉。


『――そうか、飛べるようになったか。良かったな』


 カノンの頭をくしゃくしゃと撫でながら放ったその言葉は、特別な言葉ではなかったけれど、カノンにとって一番嬉しい言葉だった。

 まるで、本当の父親のようだと彼女は感じた。


 上着はなくなってしまったけれど、それについて訊いても特に気にしていなかった。奥で埃被っていただけだし問題ない、と。

 他にも向こうの家にあった服なんかも、両親にはバレないように受け渡すことにした。

 なんだか悪いことをしているような気がして落ち着かなかったけれど、バレたら面倒だろうししょうがない。


 そんな風に諸事を済ませた後――


「――それでさぁ。感慨に耽っているところ悪いんだけど。アレどうするの?」


 スイルが訊いた。

 今いる場所は学校のバルコニー。質素だけれど、風にも当たれるし、そこそこ人気の場所だ。

 カノンは普段人が多いから近づかないのだけれど。


「あ、ごめん……」


 後ろを向くと、バルコニーと校内を分けるガラス越しにソワソワした様子の男子生徒数人と、女子生徒が裏でコソコソと話をしていた。

 バルコニーの椅子に座っている生徒も、たまにチラりとこちらを見ている。


 まあなんというか、噂になったのだ。

 父親の働く新聞社では、カノンに関する記事が刊行された。


「なんだっけ? 『飛ぶことができなかったセレストの少女、恋の力で飛び立ち、男子生徒を窮地から救う』だっけ? ほんとにバカバカしい……」


 恥ずかしげに顔をそらして、学校の敷地内にある質素なバルコニーの向こうの景色を眺めた。


「何? 恥ずかしいの?」

「うるさい! っていうかなんで急に敬語も外れた上にそんな生意気な感じになったのさ!」


 スイルは耳を赤くして叫んだ。


「私は……もとからあんまり変わらないけど」


 普段通り返すカノン。


「うっ、思えば確かに片鱗はあった……」

「まあ私も、注目されるのは嫌だけど」


 眉を寄せる。

 そもそも、父親の働く新聞社なのだから、少しくらい止めて欲しいものだとカノンは思った。


「だよねぇ……飛べるようになっても、あんまりいいことばっかりじゃないね」

「そうかもしれないけど――いいことの方が、沢山あったかな。空を見れたし、私もちょっとだけ、自信もてるようになったから」


 ふ、といつもよりちょっぴり優しげな笑みで彼女は笑う。


「まあ、それは良かった」


 同じく、優しげにスイルが笑った。


「ていうか、結局絵教えてもらってないじゃん」


 彼は、思い出したようにけらけらと笑った。


「あ、そういえば……」

「すっごい引き伸ばしちゃってるね。ていうか、もうどうでもいい感じするけど」


 面白そうに彼は話す。


「じゃあ、せっかくだし明日にでも教えようか?」


 カノンは髪をかきあげ、若干上目遣いで訊いた。


「っ、うん。まあ、じゃあ、お願いしようかな――いやでも! 僕全然ダメだし。ずっと教えてもらうのも、よくないと思うんだ!」


 一瞬身じろいでから、スイルは決意を表明するように叫んだ。


「私が根気よく教えてあげる。スイルくんも、私を根気よく元気づけてくれたでしょ? それのお返し」

「えぇ、あれはまあ、もしかしたら、そういうことになるのかも……ね?」


 頭を掻きながら困ったように笑う。


「じゃあ決まり! 明日の放課後、よろしくね!」


 カノンは肩をトン、と叩いて走り去る。


 同時に『キャー!』という黄色い悲鳴が女性陣から上がる。

 昔はカノンに興味なんてなかったくせに、どうやらこうなるとちょうどよい話の種らしい。


「あっ、もう……どけてください!」


 カノンは若干耳を赤く染めながら彼ら彼女らを押しのけた。


「……こんな人目のつく場所で言わなきゃいいのに」


 ぽつり、と残されたスイルは呟いた。


(まあでも、悪くはないかな)


 恥ずかしいけれど、なんだかやっぱり楽しくて。

 手すりにもたれながら、少しニヤついてしまう。


 これからずっと上手くいく保証があるわけではない。

 けれど、今くらいはちょっと浮かれたって怒られないだろう。

 スイルはそう思った。


 〜完〜

最後までお読みいただき本当にありがとうございます。

面白い、と思っていただけたら、ぜひ下の星からしていただける評価や、感想レビューなどくださると非常に嬉しい限りです。

また、近況ノートの方に私からの感想、制作秘話のような話もしておりますので、ご興味ある方は見ていただければなと思います。


ここまでのご愛読ありがとうございます。

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[良い点]  翼があるから空を諦めきれず、飛べない自身への落胆、両親からのプレッシャー。追い詰められたカノンの心境が、彼女を心の底から心配した教師の言葉まで叱責に感じてしまう場面にとてもよく現れていま…
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