『私』にとっての、『好き』について
それは、胸が高鳴るような気持ちでも、切ないような気持ちでも、焦がれるような気持ちでも、なかったけれど。
きっと、確かに、“好き”だった。
それを理解するのは遅すぎたのかも知れないし、理解できただけマシだったのかも知れない――。
高二の夏休み前のことだった。
その男子は、私を音楽室へ呼び出し、弾き語りで自作のラブソングを披露した。
私は、それが恐らくは自分に対する告白なのだろうな、とは思いつつも、そういうものをロマンティックだとは思わない人間だから、ただ「ギター、上手だね」という感想を伝えた。
その感想の何がツボに入ったのか、彼はひとしきり大笑いした後。
「やっぱり俺、そんな鈴木さんのことが好きです。俺とお付き合いして下さい」
と言った。
若干“普通”とはズレている自覚のあった私は、見た目とかではなく、“そんな私”を好きだ、という点が気に入って、その申し出を受け容れることにした。
正直に言えば、彼が私の何をどこまで知っているというのか、とも思ったし、そんな彼を試してやろう、という意地悪な気持ちも、その時にはあったけれど。
ただ、いくら私がズレているとはいえ、「あの歌、要らなかったよね」とは思っても、口に出さないだけの良識くらいは、ちゃんと持っていた。
私達の交際は多分、“普通”だった。
外から見れば「初々しい」と評価するかも知れないくらい、彼は私に対して不躾に欲望を向けたりはしなかったし、言い換えれば十分に紳士的だった。
彼は、注意深く、慎重に、段階的に、私に対して“恋愛的”なものを求めてきたように思う。
初めて手を繋いだのは付き合い始めてからちょうど一ヶ月が経った時だったし、初めてキスを求められたのは三ヶ月が経った時だった。
はっきり言って、私からしたらその程度なら、もう少し早く求められても応えたのだけれど、彼には彼なりのこだわりのようなもの、若しくは理想のようなものがあったのかも知れない。それは、彼なりの計画性、と言い換えても良いけれど、その計画に引きずられてしまうようなところ、言わば、臨機応変さに欠ける、そんな面でもあった。彼のそういった変に律儀、または誠実、もっと言えば不器用ともとれる性格は、でも、私にとっては好ましい点と言えた。
逆に私から彼に求めたのは、友人にも求めるような、ほんの些事ばかりで、“恋愛的”なことを求めるのはいつも彼だった。だから今でも、私が彼に向けていた好意は、恋とか、愛とか、そういった言葉で表現していいのかは、わからない。
“気持ち良いこと”だって、その最中は気持ち良いけれど、ただそれだけのことだと感じていた。それは特別でも何でもなくて、ただそういった生理現象でしかない、そんな認識。
勿論それは、誰にでも身体を許すという意味じゃない。でも、彼が特別だからとか、そういうことをするから特別だとか、身体を重ねることで生まれる特別な絆のようなもの、なんて信じられなかったし、“それ”に特別を求めること自体が、俗物的というか、何か、関係性を無性に貧しいものにしてしまうような、嫌悪感にも似た感情があった。
例えば、私にも“むずむず”することはあって、だけど、だからという理由で“して”満足する、というのは、彼を何か、道具のように扱うみたいで、それは寂しいというか、悲しいことだと思うし、そんな悲しいことでしか認められない関係ということを、心が“貧しい”と感じるのかも知れない、なんて思う。
そんな点は、もしかしたら私が“恋愛”というものに対して、無自覚にロマンティシストなのかも知れないし、あるいは潔癖症なのかも知れない、とも思う。
ただ、彼も、私がそういう気分じゃない時は無理に迫ったりはしなかったし、そういう部分もまた、私が彼を好ましく思っていた点の一つだった。
そう、それが、恋じゃなくても、愛じゃなくても。彼との間柄を貧しいものにはしたくない、と思う程度には、その関係性に私は満足していた。
彼には、夢があった。
それを、「音楽で食べていけるようになる」ことだと、彼は語った。
バンドを組んでいたわけではなかった。その理由を彼は、自分の求めるものから外れる音楽がどうしても受け容れられないから、だと言っていた。もっと音楽に対して身軽でいたい、とも。
私に対して理想の恋人像みたいなものを求めてくるわけではなかったから、そういったこだわりは音楽に対してだけ向けられているのかと思っていたけれど、彼は自分自身に理想の彼氏像(それは多分、恋人に対して寛容な男、といったところか)を求めていただけなのかも知れないと、今は思う。
でも、彼はソロでも、地道に練習を重ね、ストリートやネット配信でその成果を披露して認められようとしていた。デモテープを送ったりもしていたようだし、少なくとも彼は根拠のない自信だけでその夢を語っているわけではなかった。そういう点も、私が好ましいと思っていた彼の一面だった。
特にこれといった夢の無かった私は、大学の経済学部を選び、進学した。
彼が一人で音楽活動をしていくことを目指すなら、その上で、彼がそういうことを学ぶ方向を選ばなかったから、私がそれを学ぶことが、一番彼の助けになるのではないかと思ったからだ。
だけど、そんな青写真があっさりと意味を失ったのは、入学後最初の年からだった。
私が参加したゼミのテーマとして先輩が興したベンチャー企業。それが、先輩が曰く「たまたまバズった」。
『貴女のパーソナリティをユニークなブランドとして確立するコンプリヘンシヴ・エフォーツ』なる、ぱっと見ではまるで意味不明なその事業は、ファッションやコスメ、エクササイズのような外的な取り組みを始め、ソーシャルやフォーマルのマナー、更には心理学なんかまで、私自身、新たに学ぶべき事はとても多かったけれど、クライアントの女性達が自信に満ち、輝いてゆくのを目の当たりにする仕事は、思いの外やりがいを感じるものだった。
先輩がたの計らいで一、二年次は学業に軸足を置いて取れるだけの単位を取った(取らされた)けれど、三年次からは仕事が占める割合が増えていった。この事業の成功が研究成果として認められなければ、卒業は出来なかっただろうと思う。
在学中から、新卒の平均時給を随分と上回る額の給料に、名目上のもの程度とはいえ役員報酬まで上乗せされた額を受け取り、それを使う暇もない日々。金銭的な余裕ができた私は、殆ど大学へ行かなくなった四年次から、通勤の便を優先した、それなりに広いマンションに引っ越し、同時に、彼との同棲を始めた。
同じ屋根の下で暮らしても、彼との関係に劇的な変化があったわけじゃない。彼は相変わらず誠実に私と恋人でいようとしていたし、私もそれまで同様、それに甘えることなく、でも私なりに深い親しみを持って彼に接していた。
そんな日々は、ささやかな衝突なんかはありつつも、ほぼ平穏に、三年ほども続いた。
そしてそれは、彼の二十五歳の誕生日だった。
その冬の日の夕方、福岡への出張から急いで帰った私を迎えたのは、他の彼の痕跡全てと引き換えに残された、書き置きと、その上に置かれた合鍵だった。
『夢を諦めることに決めました。今までありがとう。さようなら。これからは、あなたを尊敬する一人の人間として、あなたの幸せを祈っています』
彼が音楽の夢を諦めることと、私達の関係が終わることに、何の関連があるのか。それとも、彼の言う『夢』というのは、私との生活のことなのか――それは、もう、きっと、わからない。
わかるほどに彼を知ろうとしなかったことが、この状況を招いたのかも知れない。ただ、今までよりも少しだけ殺風景に見える部屋の中で、独り、立ち尽くしながら、もう彼はいないのだと、その事実だけは、思いの外あっさりと心の中に、すぽっ、と収まった感じがした。
私の出張が彼の誕生日に重なったのは偶然だけど、彼は彼なりの計画性で、以前からこうすることを決めていたのだろう。
それを理解しつつも、やっぱり、何の相談もなかったことは、寂しいと思う。
私の彼への想いは、恋でも、愛でも、きっとなくて。それは例えば、ペットに向ける愛着のような“好き”でしかなかったのかも知れない。
でも、例え、そうだとしても。
つうっ――と。
別れに、涙が頬を伝う程度には“好き”だったんだと、ようやく自覚した。
それからの日々は、最初の内こそ、なんとないもの寂しさを、不意に感じることがあった。
だけど忙しい日々は、そんな感情をあっさりと置き去りにしてしまうように過ぎて。
でも、私に寂しさを感じさせなかったのは、決して忙しさばかりでもなかった。
「麻恵乃せんぱいっ!」
他にも社内に鈴木がいるからと、私を苗字でなく名前で呼ぶその女子は、この春の新入社員だった。
事前研修も含めて丸ひと月以上、私が付きっきりで指導したせいか、彼女はとても私に懐いてくれた。
そんな彼女の様子は、どこか小動物のような愛嬌を感じさせて、他の人よりも近い私との距離感にも、不思議と不快感を感じない。
母の旧姓の読みを当てて「古い因習や常識に囚われない女性に育って欲しい」なんて由来をこじつけた、私が大人になっても好きになれない下の名前も、屈託のない笑顔を浮かべる彼女の口から発せられると、それがそれほど悪いものでも無いような気がする。――そんな風に思えるくらいに、いつの間にやら私は、この、私を慕ってくれる彼女に、親しみを覚えていた。
仲の良い先輩と後輩。そんな関係になるまでに、それほどの時間は掛からなかったけれど、そのスピードは衰えることなく、更に二人の関係性を変えていった。
「由香里、大丈夫?」
「……すみません……」
夏の魔の手がすぐそばまで来ていることを予感させていたその日。仕事終わりに、初めて二人きりで飲みに行った日。羽目を外しすぎたのか、真っ直ぐ歩くこともできないほど酔っ払った彼女を、私の家に運んで介抱していた。
急な暑さに辟易していた私が、二人で飲みにでも行こうか、と誘った瞬間、もの凄く嬉しそうな顔を見せた彼女は、店に着いてからも上機嫌のまま、結構なハイペースで飲んでいた。
窘めるべきか、とは思いつつも、楽しそうな彼女を見れば、つい、まあいいか、なんて思ってしまって、いつの間にやら彼女が自棄酒のような飲み方をしているのに気付いた時にはもう遅かった。
「……何か、嫌なことでもあった?」
水を飲ませ、ソファで休ませて、少し落ち着いた様子を見せたところで、隣に座って、そう聞いてみた。
「嫌なはずないじゃないですか……」
それは即答だったけれど、どこか力ない感じで、私はそれをどう判断すれば良いか、判らなかった。でもその答えは、すぐに彼女の口から語られた。
「嫌じゃないから、辛いんです……。私は……私は、麻恵乃先輩が、好きです。恋愛の、好きなんです! でも! でも……!」
酔っ払いの戯言、ではないだろう。むしろ、酔いのせいで、本音を内に留めておけなかった。そんな言葉。
好きな人と過ごす時間なのに、相手にはその気が全く無い。嬉しいはずなのに、それが、辛い――たぶん、そんな感情なのかな、と、私にはその言葉を、自分の感覚としてではなく、今まで触れてきた物語などからの知識から、そう想像することしかできない。
でもそれは、それほど的外れでもなかったのだろうと思う。
彼女の震える声に、その辛さが、心が感じているだろう痛さが、ありありと伝わってくるようで。
次の瞬間、私は、彼女の頭を、腕の中にそっと、抱きしめていた。
そうして直に触れてみれば。驚きと、緊張と、戸惑いと。そんな、彼女の動揺が文字通り、手に取るように分かってしまって。
「……ふふっ」
思わず笑ってしまった。
「……何で笑うんですかぁ……」
「ごめん、ごめん」
泣きそうな声を上げる彼女に、慌てて謝る。そして、考えながら、その考えがまとまらないまま、自分の気持ちを口にしてみる。
「……私が、由香里の気持ちに応えられるかは分からないけどね……、でも……うん、他でもない由香里から、好きって言ってもらえることは、嬉しい。だから、辛そうな由香里は見たくなくて、つい抱きしめちゃったけど……」
けど、何だろう?
でも、こんな感情に、全く覚えが無いでも無い。――それはきっと、恋でも、愛でも、ないけれど。
彼女は私の腕の中で、身体を強張らせながら、私の言葉を待っている。
「……由香里、ここで一緒に暮らしてみる?」
「…………へっ?」
思わず私の方を見上げた彼女の、素っ頓狂とでも言うべきその顔は、私が初めて見る彼女の表情だった。
由香里とのルームシェア、あるいは同棲が始まってから、まだ一月も経たない頃、会社まで私個人への来客があった。
「娘がお世話になっております」
対面するなり、そう丁寧に頭を下げてくれたのは、由香里の母親だった。
パッと見た目はそれほど似ている印象はなかったけれど、ちょっとした仕草というか、全体的な雰囲気というか、話すうちに感じた印象は、確かに二人が親子なのだと思わせた。
最初は、この仕事のこと、そして、職場での由香里の様子など、当たり障りのない会話が続いた。
そういったことが気になっていたことも事実なのだろうけれど、本題はそれじゃないのだろう、と思っていたら、母君は意を決したように姿勢を正し、切り出した。
「……あの子は、“ああ”でしょう? 鈴木さんがどういうつもりであの子と、その……お付き合いをしているのか、聞かせていただけますか?」
少し意外な気がして、聞いてみた。そういえば、あの子は自分の家族のことは、まだ話してくれたことはなかった。
「ご家族は、由香里さんの……傾向というか……御存知なんですね」
「いえ、知っているのは私と、あれの姉だけです。男連中は暢気なもので」
そう言って母君は苦笑を見せる。
「連中、ということは、お父様の他に……弟さんが?」
「ええ、そうです、弟が。あの子から、私どもの話なども聞いて?」
「いえ、彼女から家族の話は聞きませんが、その、由香里さんは意外……といったら失礼ですが、しっかりしているところがあるので、下に妹さんか弟さんがいらっしゃるのかと」
「ええ、そうなんです。……流石に、あの子のこと、よく御存知なんですね」
「いえ……短くても一緒に暮らせば、それくらいは。でも……由香里さんのこと、まだそれほどよく分かっているとは思っていません」
正直、まだ自分自身、彼女のことをどう考えているのか、明確に解っているわけじゃない。それでも、この場、この人の前では、変に取り繕ったりしたくないと思ったから、解らないなりに正直に話してみようと思った。
「先ほどの質問の答えにもなりますが、私は、私にはっきりと好意を伝えてくれた由香里さんのことを、もっとよく知った上で、自分の立場を決めたいと思います。もしかしたらそれは、結果的には彼女にとって酷なことになるのかも知れませんが、それが私なりの誠意というか、ちゃんと彼女と向き合いたい、と思うくらいには、由香里さんのことを大切に想っているつもりです」
母君は、私の言葉を噛みしめるように目を閉じた後、ふわりと微笑んで、言った。
「あの子のことを、よろしくお願いします」
その時の表情は、それまでで一番、ふたりが親子なのだと強く感じさせるものだった。
「勿論、あの子のことを幸せにしてくれ、なんて言いませんよ? 恋愛なんて、報われないことの方が多いでしょう。ましてや、同姓を好きになってしまうあの子なら。それでも、貴女が悪意を持って由香里を傷つけるような方ではないと信じられましたから、結果がどうなろうと、お任せしたいと思います」
「それは……ありがとうございます」
母君の言葉は、素直に嬉しいと思った。同時に、なんとなく緊張感も伴うものでもあった。多分それは、期待に応えたい、応えなければ、と、無意識に感じたからなのだろう。
「ところで……」
母君がこちらを窺うように、口を開いた。
「こちらでお世話になれば、鈴木さんのように素敵になれるのかしら?」
なるほど、と。私は意識を切り替え、営業スマイルを浮かべて、言った。
「私のようにはなれないかも知れませんが、今よりもっと素敵なお母様になられることは、お約束します」
――そんなことがあったよ、と、由香里に話したところ。
おそらくは、恥ずかしさが一番なのだろう。でも、不服そうな、嬉しそうな、そんな感情も入り交じって、えもいわれぬ、あるいは、筆舌に尽くしがたい、大げさに言えばそんな、複雑な表情を見せてくれた。
そして、そんな表情もかわいいと思うくらいには――それが、恋でも、愛でも、なくっても――彼女のことを“好き”なんだと、あらためて思った。
それから。日々は少しずつ過ぎて、私達の仲もまた少しずつ深まって――。
その夜。彼女の気持ちに、それまでよりももう少し、応えた夜。
「先輩は、なんて言うか……、やっぱり、違う、って感じですね……」
彼女は、そんなことを確かめるように呟く。
私がそれを、そういうものなのか、なんて思っていたら、彼女は今度ははっきり、私に問いを投げかけてきた。
「どうして麻恵乃先輩は……私を受け容れてくれたんですか?」
難しい質問だ、と思う。だって、私は私の事なんて、考えれば考えるほど、絶対に解らないような気持ちになるのだから。
それでも。やっぱりこの子には、誠実に向き合いたいから、飾らない言葉で応えたい。
「由香里のこと、それくらいには好きだから、っていうのは……前提だよ。でも、由香里が聞きたいのは、その、好き、のレベルっていうか……さっき由香里が、違う、って言ったけど、それなのにどうして? ってことだよね?」
「そう……ですね、そんな感じです」
「……私は……、恋愛ができない人間なのかも知れないし、恋愛感情が希薄なだけかも知れない。誰も本当には好きになれないのかも知れないし、誰でも好きになれるのかも知れない。もしかしたら……これから先、本当の恋を知って、由香里を泣かせてしまうかも知れない」
由香里が抱いている私の腕から、由香里の身体が緊張したのが伝わってくる。
不安にさせてしまうのは申し訳ないけれど、そんな由香里のことをかわいいと思う気持ちがあるのも確かだ。
この気持ちが、恋なのだろうか?
やっぱり、違う気がする。
そして、こうも思う。
――別に、恋愛感情じゃなくたって良いじゃん。
そう。逆に、これが私なりの恋愛感情なのだとしても、それはそれでいい。結局、人それぞれ、ということなのだろうし、絶対的な正解が無い以上、他人と比べたところで、ナンセンスだ。
つまるところ、私が由香里を受け容れても良いと思うのは――。
隣に目を遣れば、由香里はじっと、私の言葉の続きを待っている。
それを見て、ふと、頭に浮かんだ言葉があった。
「……幸せ、なのかな……」
「幸せ?」
言葉にしてみて、すごくしっくりとくる感覚があった。
「うん、そうだ。由香里が嬉しそうだと、私も嬉しい。由香里が幸せだと思ってくれるなら、それは私にとって、幸せなことなんだ」
世の中に蔓延る“恋愛賛歌”に、共感できない自分を苦しく思ったことが無いわけじゃない。だけどこの考えは、そんな自分を楽にしてくれるような気がした。
「……それってきっと、世の中の恋人達がそうありたいって思うことなんじゃないですか?」
「そうかもね。でも、恋人じゃなきゃ、恋愛感情を持っていなきゃ、そう思っちゃいけないなんて理由も無いし。家族とかでもきっと、そう思っている人達はいるよ」
「それは……そうですけど」
「私のは、無償の愛とか、そんな立派なものじゃないけど。でも、由香里が幸せに思ってくれたら良いなって思うし、その、由香里の幸せの条件の中に、私が幸せってことが含まれていたら……。うん、それは、嬉しいことだなって、思う」
「それは私だって、先輩が私といて幸せだって思ってくれるなら、すごく嬉しいです」
「じゃあそれが、別に恋愛じゃなくったって、一緒にいる理由、相手が望むことを叶えてあげる理由になっても、いいんじゃない?」
「……先輩はそのために、無理はしてませんか?」
「してない。そう感じた?」
「いいえ……私を強く求めてくれはしなかったけど、大切にしてくれてた、って思います」
「そんな風に思ってたんだ……。でもまあ、そうだね。……それに私、嫌なら嫌って、ちゃんと言うし?」
「……そうですね。先輩なら、そうです。そういうところ、かっこよくて好きです」
「かっこいいって……私も一応、女なんだけど。それ、褒めてる?」
「最大級に」
「最大かぁ……。ならまあ、良しとするか」
そんなやり取りをして、クスクスと笑い合う。
それは確かに、幸せな瞬間だと思えた。
不意に。
彼は、他に好きな女性ができたから私の元から去って行ったのかも知れない――という考えが脳裏に浮かんだ。
彼の、融通の利かない几帳面さや不器用な誠実さを思えば、その考えは、なんだか納得のいくものだった。
もちろん、事実はどうだったか、今となってはもう分からない。だけど。
――彼も、今、幸せならいいな。
それが、今、私の心の中にある、確かな想いだった。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。
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