第2話 桜の下には
新学期が始まり、陸はますます憂鬱だった。今年の桜は開花が遅れ、ようやく散り始めたところだと言うのに、それを見上げる彼女がいない。桜の意味、ねぇじゃん。陸は乱暴にいつものドアにもたれ直す。すると昨日の担任の先生の言い分が思い出された。
『本橋の成績じゃ、この志望校は厚かましいぞ』
ずっとこの成績が続くと思ってるわけ? 僕だって多少は勉強するぜ。行きたいとこ書けって言ったから書いただけじゃねぇか。文句言うなら書かせんなよ。
あーうぜぇ。
『間もなく小竹、小竹です。出口は左側です』
ふう。何気に外を見た陸はその瞬間、文字通り飛び上がった。
いる! 桜を見上げてる!
一瞬通り過ぎた窓の外には、私服の彼女が1年前と同じように、桜の木を見上げて立っていた。陸は小竹駅で飛び降りた。行かないで! そこにいて!
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桜の木までの数百メートル、陸は痛めた足を憚ることなく、全力でダッシュした。ちらほらと歩いている藤丸高生が、怪訝な顔で陸の制服を見送る。構やしない。はぁはぁ、なんでこれしきの距離で息が上がるんだ。2年前まで陸上部のスプリンターだったのに。
はぁはぁ…。
桜の木の下で息を荒げ、膝に両手をついた陸を、彼女は目を丸くして見た。
「だ、大丈夫?…ですか」
「はぁ、はい…あの、えっと、なんで、なんで今日は…、いるん…ですか…」
「は?」
彼女が戸惑うのは無理もない。初対面なのだ。陸は息が落ち着き始め、一気に言った。
「あの、突然すみません。僕は、えっと浦風学院の本橋って言います」
「はい…。本橋君? あたし、知ってましたっけ?」
「えっと、初めて会うので知らない筈です。僕は、キミ、いやあなたの名前も知らないし、でも1年間ずっと毎朝電車からあなたを見てて、それで、えっと、一度話したいと思ってたら、いなくなって、えっと、なんだろ」
彼女は陸の話を聞きながら、ふんふんと頷き、ちょうど通りがかった電車を見た。
「キミが毎朝、あの電車の中からあたしを見てたってこと?」
「そ、そうです」
「なんで?」
「いや、なんでって言われても、なんかこう、桜を見てるあなたがいい感じで、素敵と言うか、可愛いと言うか、毎日見てるから友だちみたいに勝手に思っちゃったというか」
藤丸高生がまた怪訝な面持ちでジロジロ見ながら通り過ぎる。
「桜…」
「はい、初めて見かけたのが丁度1年前の桜の頃で、ここであなたがこの木を見上げてたんです」
「ふうん」
「それで僕はちょっとなんだろ、ドキドキしてそれから毎朝見るようになって」
「なるほど」
「勉強しながら歩いているところも、雪で滑ってこけそうになったところも、見てました」
「あちゃ」
「すみません」
「いいえ、大体のところは判ったわ。そういうことが現実にもあるわけね…。ラノベみたいだけど」
彼女はリュックを背負い直した。
「まあ、今日はなんでいるのかって言われると、藤高は卒業したから本当はもう来ない筈なんだけど、バイト先で高校の成績証明書貰ってきてって言われてね。丁度今日なら空いてるから貰いに来たのよ」
陸は驚いた。
「成績ってバイトにまで影響するんですか?」
「あはは、塾の先生のバイトだからよ。ほら学歴詐称ってのがあるから念のためって言ってた。キミは何年生?」
「えっと3年です」
「そっか。1コ違いなのか」
「あ、やっぱ、大学生なんですね…」
「そうよ。静水大学の1年。山沢 奏って言うの」
静水大学…。現在の陸の成績では歯が立たない難関校だった。
「奏さん…。可愛い上に頭いいんですね。ま、藤高ならそうですよね」
奏は少し顔を赤らめた。
「そんな風に言われると照れちゃうけど嬉しいな」
陸はその表情に一瞬で魂を抜かれた。か、かわいい…、マジ神…、ヴィーナス…、クレオパトラ…。
奏が陸の顔を覗き込む。あ、そんな目で見ないでくれ。陸は慌てた。
「それで花が、あ、桜が好きなんですね。きれいですもんねこの木、大きいし」
「あー、本当はこの木を見てたんじゃないのよ」
「え?」
奏は『売土地』の看板のある空き地の端っこを静かに指さした。