第1話 車窓の四季
本橋 陸は、ぼーっと外を見ていた。
毎朝乗る7時10分発の急行電車。前から4両目の2番目の左扉。そこが陸の指定席だ。アキレス腱を痛め、高校入学以来1年間続けていた部活を辞めた陸は、2年生進級とともに家を出る時間も遅くなった。かと言ってあんまりギリギリは性に合わない。陸が教室に着くころにはクラスメイトが数名、それくらいの時間の電車を適当に選んだのだ。だからそれは本当に偶然の出来事だった。
『間もなく小竹、小竹です。出口は左側です』
アナウンスが流れる。その瞬間、窓の外に桜の木を見上げる少女が見えた。一瞬見えた白くてどこか儚げな首すじ。ふんわりしたセミロングの髪。顔までは判らない。だけどその一瞬の造形、散り始めた桜の花びらを見上げる姿が、まるでヴィーナスだった。
あの制服は多分藤丸高校。県内でも進学校と言われる高校で、と言うことは才媛なのかも知れない。ぽーっとなった陸を乗せたまま、電車は小竹駅を発車する。学校までの残り2駅は、もはやオマケみたいなものだった。
翌朝も陸は小竹駅の手前で窓の外を見た。
今日もいる。また桜の木を見上げている。朝日と桜吹雪が彼女の髪に、肩に降りかかっている。男子校に通う無味な日々の中で、その一瞬は、一日の中で着色された唯一の光景。多分、淡い水彩絵の具で。
それ以来、陸は毎朝、小竹駅の手前で窓の外を見つめるようになった。
藤丸高校はあの桜の木から5分とかからない。こんな時間に登校して何をしているのだろう。朝練かも知れない。何部だろう。何年生だろう。知りたいけど知りたくない。知った瞬間に、いや、このことを誰かに喋った瞬間に覚めてしまう夢のように、陸は恐々と毎朝のその一瞬を心の中に積み重ねていた。
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若葉が眩しい5月。もう彼女は桜の木を見上げることはない。薫風の中を歩いている。まるで印象派の絵のようだ。
梅雨入り。水色の傘をさして歩く彼女は髪も隠れてしまう。一度だけ、沿道の紫陽花に足を止めていた。やはり花が好きなのだろう。女の子だもんな。
もはや真夏の暑さの7月。彼女は参考書だかを読みながら歩いていた。きっと期末試験なんだ。
夏休み。彼女に会えない。陸は1度だけ、いつもの電車に乗ってみた。いつもと雰囲気が違う車内。彼女は見えなかった。気のせいか、桜の木もいつもと違う木に見えた。
2学期が始まった。良かった…。彼女は無事だ。何だか僕はストーカーになっている。車窓からその姿を追うこともストーカーと呼ぶのなら。
秋。落ち葉を踏んで彼女は歩く。俯き加減が気になる。何を悩んでいるのだろう。進路?それとも…。 嫌な予感が頭を横切る。何を一人で嫉妬に駆られているのだろうか。僕はバカだ。
冬が来て彼女はマフラーを巻いている。淡いグレーのふんわりとしたマフラー。可愛い。横顔しか見えないけど。
雪がうっすら積もった。電車は徐行。彼女はコートを着て恐る恐る歩いている。あっ、危ない!
2月になると彼女を見かけることが少なくなった。もしや…受験生?
と言うことは…。
3月。彼女がいない車窓の風景はモチーフの抜けた絵画のようだ。春になるというのに気が沈んだ。
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1年間、車窓から彼女を見守り続けて、そして陸は3年生になった。
彼女はきっと…卒業した。