第1話 張り出しの草花
夕暮れである。
工藤麻美は介護施設・たけのこ荘の自室の窓から、庭園の向こうの林を見ていた。夕方の林にはカラスがあちらこちらから飛んでくる。きっとあそこにカラスたちのお家があるのだろう。ブルーとオレンジが混ざったような空に、カァーカァーと声が響いている。
このところ、認知症の症状が酷くなっていると自分でも思う。人の名前を思い出せないことも増えたし、過去の事実を、自分が望む思い込みにすり替えてしまう事もある。その上、自分が誰で、どこから来たかさえ、ふわっーと忘れてしまう事があるのだ。
今の子の言葉では、ヤバいと言うのかしらね。ああ、担当のケアマネさんの名前すら出てこない。
青田さんだっけ、白井さんだっけ…?
思い出そうとするが思考は白井さんと青田さんの間でぐるぐる回る。もう、やあね。顔を見れば思い出すでしょ。
「それにしても…」
麻美は呟く。たけのこ荘に入居以来、しばし、自室の窓の外側の張り出しに花が届くのだ。花と言っても雑草と言ってもよいような、ほんの草花。それも必ず一輪だけ。
麻美は毎朝7時に起きる。もっと朝早い人も多いが、麻美は夜更かしの方で、7時と言うのがもう長らくのお決まりの時間だった。起き上がるとまずドレープカーテンを開ける。するとレースのカーテン越しに置かれた花が見える。勿論毎朝ではないが、三日と空けず届いている。麻美は窓を開け周囲を見渡す。麻美の部屋から見渡せる庭園には、誰もいない。
最初は散歩の入居者かと思った。しかし、最近入居した麻美には知り合いが少なく、ましてや朝から草花を摘みそうな人はいない。
誰かしらね、こんな可愛い事するのは。
事務所のスタッフに聞いてみたが判らなかった。お世話をしてくれる介護士に聞いても判らなかった。毎朝清掃してくれる人に聞いても判らなかった。中には、狐か狸じゃない?と茶化す人もいた。私は狐でも狸でもいいんだけど…。
「でもね、ちゃんと取ってあるからね」
麻美は届く草花を、ドライフラワーにしながら編んでいたのだ。1本1本をきちんと養生しながらベースになるワイヤーに丁寧に括り付けてゆく。一輪ずつ増えてゆく花冠。それはもはや麻美のライフワークになっていた。もうすぐ出来上がる。麻美は狐だか狸だかの頭にその花冠を載せるところを想像してみた。うん、悪くないかも。
「もしやあれで私を化かしているつもりなのかしら。ふふ」
麻美は微笑みを漏らした。
「あ、そろそろお食事の時間だ」
麻美は鏡をのぞき、顔に笑みを湛えたまま、シルバーの髪を軽くまとめると部屋を出て、食堂へと向かった。




