第8話 プチ家出
その日の夜、閉店時間を過ぎて、瑠菜は店内で伝票の整理をしていた。看板照明は落としてあり、ドアのプレートも『Closed』になっている。
コンコン
ガラスを叩く音がする。瑠菜は花たちの間から表を覗いた。 え?
慌てて扉の鍵を回しそっと開ける。そこには頬に涙の痕を幾筋も付けた結が立っていた。
「ど、どうしたの?」
「すみません。他に知ってるところがなくて、少しここにいてもいいですか」
「いいけど。あ、まあ入って」
瑠菜は結を店内に招き入れ、椅子を引っ張ってきて勧める。
「新しいお母さんが来るんじゃなかったっけ?」
「はい。来ました」
結は小さな声で答えた。
「嫌だったの?」
「いえ、ってか結構いい人でした」
「じゃ、どうしたの?」
結は黙り込む。
「まあいいや、ちょっとそのまま待ってて」
瑠菜は奥へ引っ込み、少ししてマグカップを手にして戻って来た。 トン。 結の前の作業台にマグを置く。
「ホットミルクだから、飲んで。飲んでちょっと落ち着こう」
「有難うございます」
消え入るような声だ。結は遠慮がちに手を伸ばし、両手で包み込むようにマグを持つと、そっとミルクを飲んだ。
「あの、本当にすみません」
「ううん、ウチはいいんだけどさ、結ちゃんがここにいるってお父さんたち、知ってるのかな?」
結は首を横に振る。
「黙って来ちゃったの?」
今度は首を縦に振った。
「家出だから…」
「家出? 家出なのこれ?」
「少し隠れてていいですか?」
「まあウチはいいんだけど、お父さんたち、良くないんじゃないの?」
一旦黙り込んだ結だったが、か細い声で話し始めた。
「思ったより若くてきれいな人で、きっといい人…なんだけど」
「うん」
「お父さんと仲良く喋ってるのを見ると、なんか胸がきゅーっとなって、見ていられなくて、私にも話しかけてくれるんだけど、私も上手く答えられなくて、こんなのがずっと続くって耐えられない…って思って…」
「そうなんだ」
結はまた一口、ホットミルクを飲む。
「あの、瑠菜さん、お母さんとずっと一緒にいるって緊張とかしないんですか? 子どもが中学生とか高校生とかになっても心配したりお世話焼いたりするものなんですか? 子どもが大人になっても、やっぱりお母さんっぽいんですか? 私、お母さんって初めてだから全然判んなくて」
瑠菜は微笑んだ。
「それね、私も実は半分くらいしか判らない。高1までしか判らないな」
「え?」
「私もね、母を亡くしたの。高1の時。その時にね、ショックだったけどここの前の店長さんに助けてもらってね、だから大学生になってここでバイト始めて、結局そのまま就職しちゃったのよ」
「えー!」
「はは。だからあんま参考にならないよ。ましてや新しいお母さんなんて経験ないしね。私の父はそんなにモテなかったからね」
「そうなんですか…」
「だからさ、結ちゃんがちっちゃい頃、ここにカーネーション買いに来た時ね、結ちゃんの気持ちが解ったような気がしてね、いやでも結ちゃんの方がずっと早くにお母さんを亡くしてるからそうでもないかな」
瑠菜は手を伸ばして、結の髪をそっと撫でた。ずっと頑張ってたんだね。よしよし・・・。
「だけど、きっとお母さんは一生お母さんのままだと思うよ。結ちゃんが幾ら大きくなっても、ずっと小さな結ちゃんのまま。だって、今の私だって結ちゃんのこと、そう思ってるもん。一所懸命10円玉を握りしめて、お母さんが亡くなったことを頑なに認めてなくて、それで赤いカーネーションが欲しかった結ちゃん」
結は涙をポロポロ零した。
「私、赤いカーネーションが欲しかったんですか?」
「どっちかって言うと、白いカーネーションは嫌って思ってたみたい。だからピンクのカーネーションに納得してくれたの。あの日の結ちゃんは」
「それでウチ、ずっとピンクなんだ」
「お父さんも同じように思われてね。だってさ、お父さんも辛かったと思うよ。悔しかったと思うよ。小さな娘を残して逝った奥様の気持ちも解るだろうし、そもそも愛する奥様を亡くしたわけだし。普通は絶望するよ。だけどちっちゃな結ちゃんがいるからそんなこと言ってらんない」
結はハンカチを出して涙を拭った。
「ですよね。そうですよね…」
お父さん、よく頑張ったんだ…。本当に頑張ったんだ…。結の目に、また涙が溢れた。
結は涙の奥から作業台の横の桶に入っているカーネーションを見つめた。




