第8話 合格発表
年が明け、陸が奏を初めて見かけてから三度目の春になっていた。
陸は取り憑かれたように勉強を重ね、静水大学を受験した。担任の先生の期待通りの頑張りだったのだ。そして本日、合格発表の日を迎えている。
陸は朝からコザクラの鉢植えを覗き込んだ。ハレの日に相応しい天気。朝日がサンルームに置かれた鉢植えに柔らかく注いでいる。その小さな枝には一輪の、気の早い桜の花が咲いていた。
うわ、やっぱ咲いちゃった。蕾、どんどん大きくなってたからなあ。
背後から母がのぞき込んだ。
「あらあら、咲いてるじゃない! すごいね、陸。発表見る前に『サクラサク』見ちゃったね。お父さーん、あのねぇー」
母ちゃん燥いでるけど、これで僕が落ちてたら、マジ、シャレになんねえな。頼むよコザクラ、連れてったげるからさ。僕が落ちてたとしても、おまえは静水大学に入学だ。いい場所があればいいけどな。
陸はコザクラの鉢植えを大きな紙袋に入れ、1年前に工事のオッサンがやってくれたように、PPテープで枝をまとめた。花は、花はこのままにしておこう。持って行くとき、ぶつけないよう気をつけなきゃ。
「あれ、陸、それどうするの?」
「返しに行くんだよ」
「発表なのに?」
「うん。方向が同じだから。二回行くの面倒だし」
「ふうん」
母親の不審げな顔を後に、陸はコザクラの鉢植えを抱えて合格発表に出掛けた。
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陸は合格していた。鉢植えを抱えた陸は怪訝な顔に囲まれていたが、それでも合格は合格だ。
自分の受験番号の数字を見た途端、陸は全身の力が抜けた。あー良かった。これで、これで奏さんと同じ門に立てる。やっと入口なんだ。頭に浮かんだのは大変だった受験勉強より、奏のことだった。
スマホで親に合格を知らせると、陸はコザクラの鉢を抱えたまま、発表を見に来る受験生の群れをかき分けた。
そのまま勝手を知らないキャンパス内をウロウロする。幾ら大学でも適当に穴掘って木を植えてもいいもんだろうか。少なくとも庭園として整備された場所には拙かろう。桜があればその脇にでも植えられるのだが、奏さんが気付きやすくないと意味がない。
キャンパスでは、早くもサークルの勧誘だろうか、静水大学生らしきが何人もチラシを持って、発表を見に来た受験生に声を掛けている。しかし陸は鉢植えを抱えているせいか見向きもされない。受験生には見えないよな。
陸はボヤキながら歩き回った。そしてようやく目ぼしい場所を見つけた。きっと誰もが通るであろう校門から少し入ったところ。何本も立派な木が立っている。校門脇の守衛室からは、木で死角になっている場所。上空に枝は無く、日当たりは問題なさそうだ。いつの間にか桜が植わっていたとしても、きっと『前からあったっけ? あったような気がするな』で済まされそうな場所だ。
一緒に持ってきた園芸用のシャベルで草をかき分け、穴を掘りながら、ホームセンターでシャベルを買った時のことを思い出した。店の人が教えてくれたのだ。
『関西ではこれをスコップって言うんですって』
大きいスコップをシャベルと呼ぶのだそうだ。
「不思議だよな。どこに呼び方の境界線があるんだろな」
陸は話しかけながら、コザクラを植木鉢から出す。根が切れないように慎重に持ち上げる。根が絡まっている。一旦、隣の太い木にもたれさせ、手で根を解してゆく。指はすぐに土塗れになった。細い根っこは土の中から養分を取り入れる大事な部分なのだが、土と一体になっていて解しきれず、千切れてしまう。
「昨日やっとけば良かったな。ごめんよ。また、根っこ生やしてくれよな」
コザクラに謝りながら、一輪だけ咲いた花を太陽の向きに揃えて、陸は穴にそーっとコザクラを据えた。
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その頃、奏は目に涙を浮かべながら、大学に向かっていた。心の中で何度も『ごめんね』と謝る。
ニュースで桜の開花予想が取り沙汰されるのを聞いて、奏は小竹駅の近くの、あの大きな桜の木を見に行ってきたのだ。昨年の秋、瀟洒な家のマダムらしきが切りたいと言っていた大きな桜の木。幹に、『切らないで』とメモを下げておこうと思った。
市役所は予算がないとか、あのセレブな住人が言っていたのだから、市役所の人が様子を見に来るのは、桜の花が終わってからだろう。ちょうどその時に、市役所の人の目につくように、小さな透明ソフトケースに入れたメモを忍ばせて見に行ったのだ。
電車が小竹駅に近づいたとき、奏は車窓から外を見て、あっと思った。
木がない? なかったように思う。 え?
奏はいつかの陸のように、小竹駅からダッシュした。桜の木まで数百メートル。
そして見た。歩道に残された切断跡を。真新しい切り株を。日当たりが良くなった剝き出しのカーポートには、昨秋見たのとは異なる、平べったい真っ赤なスポーツカーが停まっていた。
なんで? なんでもう?
今年も綺麗に咲くはずだったのに、あんまりだよ。奏は涙を堪えることが出来なかった。あの小さい桜はこの土地の中にあったから仕方ないかも知れない。でも大きな桜の木は歩道にあった。みんなのものじゃないの?
奏は悲しかった。単に憐れむだけではない。桜は葉っぱも落ちるだろう、ケムシもつくだろう。でも桜ってそういうものでしょ。あたしたちだけが生きているわけじゃない。桜だって、ケムシだって生きてるじゃない…。
奏は切り株に手を合わせ、何回も『ごめんね』と謝った。そして肩を落とし、また小竹駅に向かって歩き出した。
ブォーーン、ププーッ!
背後からけたたましいクラクションが聞こえ、驚いて立ち止まった奏の脇を、真っ赤なスポーツカーが走り抜けた。そして、半年前と同じように、ブレーキランプをピカピカさせると、派手なタイヤ音とともに角を曲がっていった。
やるせなさが奏の全身を覆った。
そのまま幽霊のように電車に乗り、そして今、静水大学の校門までトボトボと歩いてきたのだ。




