ふるものや
初めての投稿になります。拙い文章ですがよろしくお願いします。
2022/3/1 加筆訂正しました。
今日も1日が終わった。事務仕事を終えて疲れた足取りで商店街を進む。
この商店街も寂れたものだな。
圭太はそんなことを思いながら周りを見回す。圭太が子供の頃、この商店街は活気があった。『今日はイワシが安いよ!新鮮だよ!』魚屋の親父が威勢良く声を張り上げたかと思えば、それに応えるように『新しいお菓子が入ったよ!』と、駄菓子屋のおばちゃんの声が響く。
夕方にもなると惣菜屋や定食屋から旨そうな匂いが漂ってきて、もう少し遅くなると、会社帰りのサラリーマンが一杯引っ掛け、陽気な笑い声が大方の店がシャッターを下ろした後のアーケード街に反響する。
そんな活気のある姿も今は昔。
魚屋の親父は何年も前に亡くなり、丸めた背中で店先に座っていた駄菓子屋のおばちゃんもその少し後に施設に入った。サラリーマンの憩いの場であった飲み屋は、一軒、また一軒とシャッターを開けることはなくなり、今はもう古ぼけたスナックが一軒だけ煤けた看板に灯りを灯している。
何気なくそのスナックの明かりに目をやった圭太はおやっと思った。
スナックの隣のシャッターの前に小さなテーブルの上に唐草模様の風呂敷を置き、そこに商品を並べた露天商が立っていた。あかりも珍しいことに金属の古ぼけたランタンが一つ。商品を売る気がないとしか思えないほど存在感を主張しない店だった。店主は店主で古ぼけたニット帽に丸メガネをかけ、いつかの駄菓子屋のおばちゃんのようにすっかり曲がった背中をこれでもかと丸めて、杖を両手で持ち、手の上に顎を乗せるようにして座っていた。男だか女だかわからないがはっきりと老人とだけはわかる。
店を閉めたどこかの店主が何かの気まぐれであまり物を売っているのだろう。こういう店主は話が欲しいだけだ、関わらないのに限る。そう思いつつ、その前を通り過ぎようとした時、ちらりとそちらに目をやるとずいぶん立派な一枚板に、ミミズのようにぐにゃりとした、なんとも言えない字で『ふるものや』と彫ってあるものがテーブルに立てかけるように置いてあった。
チラッと視線の隅に見えた店主の顔は真っ白な髪に隠れて男だか女だかわからない。それどころか起きているのか寝ているのかすらわからなかった。
通り過ぎたあとチラッと振り返って見てみたが、店主は微動だにしない。
本当に寝てるのではなかろうか。そんなことを思いつつ、圭太はそろそろ肌寒くなってきた夜道を急いだ。
それからなんとなく気になってスナックの脇をちらりと見たが例の店はない。やはりアレはどこかの店の元店主が道楽でやってみただけだったのだろう。そう思って見るのをやめようと思ったある日のこと。
スナックの脇を通り過ぎようとした時、見覚えのある一枚板の看板が目に移る。
『ふるものや』。見覚えのある看板に思わず顔をあげ、圭太は思わず声をあげそうになった。
店主は今日は明らかに男とわかる格好だった。だがこのやや肌寒い時期に老人だというのに半袖からシミやシワの目立つ老人の割にはやや逞しい腕を出して、頭に鉢巻きを巻いている。若い圭太でも今日は肌寒くコートを羽織っている。なのに目の前の老人はまるで寒さなど感じないかのように、その腕を無防備に晒している。
ちがう。この間の店主と、今の店主はちがう。圭太の動揺を知ってから知らずか、店主は明らかに客が目の前に立ち止まったというのに、声をかけようともしない。おそるおそる店主の姿を下から上まで見た。
真っ黒いゴム長靴、丈夫そうな帆布を藍色に染めた前掛け。真ん中には白い丸に囲まれた魚の文字が白く抜かれている。
これは…この格好は…。身体中の毛が逆立つような感覚がする。肌寒いくらいなのに、耳のそばを生温かいものが伝うのを感じる。ヨレヨレの所々落ちなくなった茶色いシミから生臭い魚の匂いがする。少し視線を自分の手元に戻すと、テーブルの上にザルが見える。ザルの上には白い紙に黒い油性ペンで書かれた見覚えのある『イワシ 1盛 200円』の勢いのいい文字が見える。だが、それだけだった。他は何もない。
そういえば、この間の店は何を売っていただろうか…あの腰の曲がった老人は…おばあちゃんは…。
圭太はそこで一度ギュッと目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶ。同じようにあの時このテーブルの上には確かに木のケースがあった。古ぼけた木のケース、木の枠にガラスを貼った蓋をつけたケース。今思うと、あれは駄菓子屋のショーケースだった。
圭太はゆっくり目を開けて顔を上げた。視界がゆっくりと上へ上がっていく。使い古したヨレヨレのTシャツ。そこから覗くシワだらけの首の上には記憶よりもシワシワになった顔がそこにある。
いつも家では仏頂面だった。学校から帰るといつも仏頂面で「おう。」しか言わなかったし、言葉を交わした記憶もあまりない。子供心に寂しくて、小学生のころはよく向かいの駄菓子屋に入り浸っていた。
駄菓子屋のおばちゃんにかわいがってもらった。ころころと変わる好きなお菓子をちゃんと覚えていてくれて、父親に叱られて泣いて飛び出したりしたときは店から飛び出してきて、そっとそれらを握らせてくれたものだった。
父親とは年齢が上がるごとにいさかいが絶えなくなり、とうとう高校の時、進路を決めるときになって、家を継ぐ、継がないという話から大喧嘩をした。そのまま、ろくに口を聞くことなく、卒業後、逃げるように都会へ出た。
一人残された父親は最期まで魚屋を続け、ある日店先で倒れてそのままだった。都会に出て10年ほどした頃だった。
父1人子1人だった圭太は葬式を出すために戻ってきた。意地を張って居場所も伝えず、死に目にも会えなかった後悔が都会に戻る気力を奪っていた。結局、そのまま、ここに住み着いた。慣れない事務仕事が大変で、バタバタしているうちに気づいたら駄菓子屋がしまっていて、人伝におばちゃんは施設に入ったのだと聞いた。
母親のいない圭太を気にかけてくれていたおばちゃんは、葬式の後も、何度か声をかけてきてくれた気がする。あの時、誰の声もあまりちゃんと耳に入っていなかった。何しろ父親と最後に交わした言葉は、「2度と帰ってくるな!」「こんなふるぼけた店になんか帰ってこねぇよ!クソ親父!」だったのだから。あれが最後になるだなんて。そればかりを思い出し、悔やんでばかりいた。
「おう。」
記憶にある声が耳に届いた気がした。目の前の棺の中で久しぶりに見たらすっかり老人然とした顔になってしまっていた親父の顔。その時と同じ顔がにかっと笑った。
「男だったらしゃんとしろ!しゃんと!」
それが親父の口癖だったか。それをいう時だけが唯一仏頂面じゃなくなる時だった。耳元でその言葉がかつての大きな声で聞こえた気がした。
それから、はっと我にかえると『ふるぼけや』は消えていたが不思議と怖いと思わなかった。
そして商店街の端っこの元魚屋の我が家に帰って愕然とした。この家はこんなに散らかっていただろうか。
キッチンには食べ終わって腐臭を放つ弁当ガラやカップ麺のカップ。そこには虫が集っている。床もゴミで足の踏み場もないし、使っていた布団はゴミに埋もれて黄ばむどころか所々茶色い。ゴミもゴミ袋に入れてまとめて壁に積んだままになっていた。最後にゴミを出したのはいつだっただろうか。よく見るとゴミ袋や台所を中心に羽虫が至る所に飛んでいた。
なぜ今まで気づかなかったのか。圭太は愕然とした。すぐに散らかり放題の我が家を片付けた。片付けながらここに来てからの生活を考える。ここで住み始めて、仕事して、家にかえって、コンビニ弁当を食べて、寝る。そればかりで、きちんと生活をしていなかった自分に今更気づく。そういえば、自分を雇ってくれた同級生も何か色々言っていた気がする。大袈裟な、と思っていたがどうも違ったらしい。
きっと世話を焼いてくれていた駄菓子屋のおばちゃんも、葬式の時から様子のおかしかった圭太を気にかけてくれて天国から親父を引っ張って来てくれたのかもしれない。
気づかないうちに自分で自分を追い詰めていたらしかった。そういえば親父の葬式のために帰って来た時、男の一人暮らしだったのに部屋は掃除されていたし、店もきれいだった。しゃんとしていた。
翌日、休みの連絡を入れ、1日をかけて家中を片付けた。それから、毎日親父がやっていたように商店街の一角を掃除して回る圭太の姿が見られたのだった。