第一章1 『異世界にトラブルは付き物』
今、私は酒場にいる。
複数の丸テーブルとカウンターには料理やら酒やら色々置いてあって、煙草の煙があちらこちらからプカプカと出ています。
ここ、異世界らしい。
いや確かに、私の住んでた世界の居酒屋とか食事処みたいな感じではない。
ゲームやアニメなんかで見る、大柄の男たちが顔を真っ赤にしながらガヤガヤしていて、器量の良い看板娘さんが頭に三角巾巻いて料理運んでるような酒場。
THE・酒場とでも言えば良いのだろうか。
私の隣にはミルクの入ったコップを両手で持ってクピクピ飲むユーリちゃんと、腕を組みながら注文した料理を待つナナシさん。
二次元の中に迷い込んでしまった感覚の私は、姿勢を正して黙っているだけだ。
ふう、まずは落ち着くために私たちがここに居る経緯をまとめておくとしよう。
えっと、あれはほんの数刻前のことーー。
「転生者狩り……ってなんですか?」
聞き覚えのない言葉を神様から言われ、戸惑う私。
全く聞いたことのないものを仕事と言われたら、大なり小なり不安になる。私は大いに不安だった。
「異世界転生って、分かる?」
今度は知っている言葉が出てきた。
元々二次元的な趣味を持っていた私だ、当然聞いたことがある。
「私の知識で良いのであれば分かります。アニメとか小説とかの創作物で使われてたりするので」
「なるほど。エルの知ってる異世界転生ってどんな感じ?」
「死んだ人間が異世界で新たな人生を過ごすって感じです。私の世界の創作物では、転生する時に色々な力を与えられることが多いですかね」
「よし、ウチらの認識には相違無し。まんまそれがウチの言ってる異世界転生だ。一つ違うとしたら、エルにとっては創作かもしれないが……ウチらにとってそれは現実にあることだ」
私は驚かない。
もうこの程度では驚かなくなってきた、人の順応って凄い。
現実にあることだと言われても、そうだろうなと納得することが出来る理由は簡単だ。
だって、私も言ってしまえば異世界転生者。
私以外にそういう者が居ても、何らおかしなことではない。
「その転生者を狩るのがナナシ。そんで、エルはそのサポートをする。それだけ」
「そ、それだけって言われても。まずなんで狩るんです? 狩るって、つまり殺すってことですよね? せっかく転生した人をわざわざ殺すなんて……」
「……エル、君の世界の転生者の物語ってさ、結末はどうなるの?」
「え……? だ、大体は与えられた力で世界を救うとか、大切な人たちと平穏に暮らすとかで終わりますけど」
「じゃあ、その後はどうなると思う? 物語のその後なんて考えても仕方ないけど、それは現実にあることだ。転生者たちが世界を救って、その後は?」
神様の声のトーンが下がり、少しだけ目が鋭くなる。
その後、その後って?
世界を救って、大切な人たちと一緒になって、その後?
「穏やかに過ごして寿命を迎える、そういう者もいる。だけどね、転生者の中には凄まじい力が増し続けてしまい、手に負えなくなる場合がある」
「神様、エルちゃんにそんなこと言っても」
「エルがこれからやる仕事だ。説明しないわけにはいかんよ」
ミカさんの制止を神様が視線で黙らせる。
まだ何か言いたそうにするミカさんだが、上手い言葉が出てこないようだった。
神様は私に向き直ると続けた。
「元はその世界の神が転生者に力を与える。世界を問題なく救えるような力を。だがその力が成長し、転生者自体が力を与えた神を超える場合が稀にあるんだ」
「神様を……超える?」
「神ってのは無限に広がる世界の管理や改変を可能とするレベルだ。人間には過ぎた力、持ってはいけない禁忌の力」
「ご、ごめんなさい。もう言ってる意味が少し分からないです……」
「つまりは転生者が世界そのものを好きに創り変える力に達してしまう。でも人がその力を好きに使ったら、世界は終わる。自分の理想だけを反映する世界なんかに未来はない」
人間が世界を好きに創り変える……。
なんでも思いのまま、全てが自分の都合の良いように物事が運び、世界は自分を中心に廻る。
それだけ聞けば魅力的だが、それって他の人たちの意思はどうなる?
人は、人と過ごし、人に影響され、人を影響する。
それが、自分の理想のみを反映するとなると、自分の気にいらないことは起こり得ない。
いやむしろ、自分の知らないところでは何も起きないのか?
「世界を好きに改変した場合、改変者以外は傀儡のようなもの。全ての事象が無意識に管理されていて、そこには誰の意思も無い。もっと分かりやすくハッキリ言おうか?」
神様の瞳は、私を串刺しにする。
額に汗がにじむ、唾液が足りない。
「ーー世界全てが、死んでしまう」
「世界が……死ぬ…………」
「神に匹敵する力を持っても、人は神じゃない。力に溺れ、自分の都合の良いように世界を書き換えてしまえば、当然破滅する。それがもしその世界だけでなく、別世界にまで及んだら? たった一人の人間のエゴで、全世界が終了する」
私の知っている異世界転生物語、それの本当の結末が世界そのものの終了?
世界を救う力が、世界を終わらせてしまう可能性があるなんて考えもしなかった。
でも、不思議ではない。
むしろ当然だ、それが至極真っ当なんだ。
誰にも負けない力、世界自体を救ってしまうような超人的な力。
それはつまり、誰にも縛られない、誰にも指図されないことでもある。
間違っていることを、間違っていると誰にも言わせないだけの力さえあれば……世界は自分の思いのまま。
それに気がついた人間が正しく在り続ける保証なんて、どこにもないんだ。
「世界の絶対権力者にして最強の力を持つ神を超えるということは、止めるものがいないってこと。やがて世界を滅ぼし、また別の世界を死滅させる……そうなる前に、転生者を始末するのが」
「転生者狩りってことですか……」
私はナナシさんを横目で見る。
ナナシさんは……転生者を殺す仕事をしている人……。
「そういうこと。そして、君はそのサポートをしてもらうことになる」
「わ、私がそんなこと出来るわけ……」
「転生者を始末するのはナナシだ。エルがするのは、記録役と異世界での諸々のサポートだけ。実際にやってみれば難しいことは何もない」
そう言うと神様は何もない空間から一枚の紙を作り出した。
瞬間、ミカさんの目の色が変わる。
「神様……まさか今すぐに行かせるってわけじゃないわよね?」
「すぐに行かせる。依頼が来ているんだ、行ってもらう必要がある」
「例えナナシさんのサポートをさせるとしても、心の整理が出来る時間くらいは! その依頼は私がやる、エルちゃんは行かせないわ」
声を荒げるミカさん。
ユーリちゃんが私のところに走ってくると、そのまま腰辺りに抱きつく。見上げるその瞳は、私を心配していた。
「決定事項だ、エルは行かせる。ミカ、お前には別任務がある」
「神様! ナナシさんからも何か言ってください! こんなの賛成出来ないわ!」
ナナシさんは苦笑いすると、ミカさんの頭を優しく撫でた。
「ま、落ち着けよミカ。神様、とりあえず仕事内容を見せてくれるか?」
「ほいほい、これだよん」
ナナシさんは神様から紙を受け取ると素早く目を通す。なるほど、あれが仕事内容ってことか。依頼書みたいなものなのかな?
目を通してる途中、ナナシさんの表情が一瞬だけ曇った。
「……これ、依頼者生きてんの?」
「死んだ場合にのみ依頼するよう言われてる。依頼者ではどうにもならなかったってことだ」
「なるほど。お前の意図が分からんわけでもないが、良い方法だとは思えないぞ」
「でも決めたことだから」
「エルちゃんの意見も聞いてやれよ。一番大切なところだろ?」
「むぅ……それは、そうだね」
ナナシさんは神様を優しく窘めると、私を見た。
やっぱりナナシさんに見つめられると不思議とドキドキする、恋愛感情なんかではない。でも、ただの緊張というわけでもない。
「エルちゃん、どうする? 俺と一緒に仕事行くか?」
「えっと、私は……」
「嫌なら言うべきだよ。俺の仕事は言い換えれば殺し屋だ、それのサポートなんてしたくないって思うのは変じゃない」
ナナシさんの言葉に、ユーリちゃんとミカさんが凄い勢いで反論した。
殺し屋だなんて誰も思ってない、そんなことを言うなと異常な剣幕で力説する彼女らにナナシさんはたじたじだ。
分かってる、ナナシさんのやっていることは殺し屋ではない。説明を聞いただけで判断するなら、世界を救うことのはずだ。
それを手伝えるというのなら、私に任せたいと言ってくれるのならば。
決めたじゃないか、やれることをやれるだけ。私なりに精一杯やってみせると。
私は、新米天使エルは……誇りを持ってナナシさんのサポートをしたい。
「私、やります。ナナシさんのサポート、やってみせます!」
なんてことがあって、今こうして酒場にいるわけだ。
転生してからの初仕事。
ユーリちゃんに関しては、どうしても付き添うと言って聞かなかった。
きっと私を心配してくれてのことだろうが、神様が泣き出すんじゃないかと言うくらい詰め寄る姿は、ほんのちょっとだけ怖かった。てか神様も実際ちょっと泣いてた。
幼女同士の喧嘩と見れば微笑ましいのだけれど、少なくともその場に立ち会って笑って見ることは不可能だろう。
神様もユーリちゃんも、見た目より遥かに凄みがある。真剣な表情をしてると少し恐いくらいだ。
「お待たせしました! ご注文の料理でございます!」
私とあまり歳が変わらなそうな可愛らしい女性店員さんが近付いて来て、器用に手に持っていた数枚の大皿をテーブルに置く。皿の上の料理はとても美味しそうなステーキや新鮮なサラダ、薄紅色のスープ。匂いも良く、私の食欲は掻き立てられた。
「ありがとう。お嬢さん、若いのに随分と仕事慣れしてるね」
ナナシさんが気さくに店員さんに話しかける。私からすれば、知らない人に話しかけること自体が凄まじいことだ。まずやらない、というか出来ない。
「えへへ、一応八歳の時からだからもう十年くらい手伝ってるんです。慣れもしますよ!」
店員さんが可愛らしくはにかみながら答えてくれる。
「このお店は、私の両親のお店なんです。今は二人共亡くなっちゃったけど……私と二人のお姉ちゃんで何とか続けてます!」
「姉妹で切り盛りしてるんだ、凄いね。若いのにしっかりしてる」
「私なんかよりもお姉ちゃんたちの方が凄いです! 一番上のお姉ちゃんは私の六つ上ですけど、何でも出来て! 二番目のお姉ちゃんもすっごく頭が良くて!」
「自慢のお姉さんなんだ。そんで、お嬢さんも自慢の妹さんなわけだ」
「え、私はそんな……」
「働き者で明るくて自分のことを大好きでいてくれる妹が自慢じゃないわけないさ。あと、美人だしね」
「も、もう! お兄さんたら冗談がお上手なんですから!」
「あはは、とにかくありがとう。美味しくいただかせてもらうよ」
「はい! ごゆっくりどうぞ!」
店員さんとナナシさんの会話をボーっと見つめる私。割り込もうとすら微塵も思わなかった。
初対面の人とこんなに話せる? 絶対に無理。しかも相手のことを褒めまくる。
コミュニケーション能力が化け物クラス、しかもナナシさんは容姿が良い。私の世界に居たらモテまくるタイプだ、ミカさんの好意も頷ける。
「どしたエルちゃん? 初めての異世界で緊張してる?」
「あ、いえ……ナナシさんって凄いなぁと。私だったら初対面の人とあんな風に話せませんし」
「俺こう見えても凄い長生きしてるからなぁ。エルちゃんくらいの年齢の時は、知らん人と話すことなんて有り得なかったし」
「そ、そうなんですか?」
「むしろエルちゃんの方が俺やユーリと普通に会話してるし凄いと思うけど。ミカだって初めて会ってから二週間くらい、はいって言葉しか言ってくれなかったよ」
あのミカさんが……想像も出来ない。
そっか、みんな最初はそんな感じだったんだ。ちょっとだけ安心した。
よく考えてみれば、見た目で年が分からない天界の人たちと比較しても仕方ないのかもしれない。
見た目通り十九歳の私とは、経験値がまるで違うわけだし。
「ナナシ、昔はもっとぶっきらぼうでムスッとした人だった。今でもたまにそういう時ある」
「なんだよユーリ、バラすなって。まだエルちゃんの中では俺は凄いんだぞ」
「別に批判じゃないもん。今のナナシも昔のナナシもユーリは好き、根っこは変わらない。でも少なくとも昔のナナシは、女の子に気軽に美人とか言ってなかった」
「いやでも、あの子美人だろうよ。嘘は言ってない」
「ナナシ、軽い、チャラい、虫唾が走る」
「え、なにごめん。そんな言う? ごめんて」
ユーリちゃん強い。神様に対しても強く出てたし、ユーリちゃんってかなり偉い天使さんなのかな?
ただ、今はそれよりも気になった点が一つ。
「あの、チャラいとか虫唾が走るって天界でも使うんですか?」
そう、言葉。
少なくとも私の世界で使ってた言葉をみんな使ってるし、言語も日本語だ。チャラいなんて、元は正式にある言葉でもないし。
「天界に住む者は、全ての言語が自分に分かるように伝わるんだ。実は俺が話してる言葉とエルちゃんの話してる言葉は全く違うかもしれないが、伝わるように自動で変換されてる」
「え、そうなんですか?」
「そもそも異世界を行き来する俺みたいなのもいるんだ。本来は異世界毎に言葉をマスターする必要も出てくるけど、そんなこと一々やってられないでしょ?」
「なるほど……それもそうですね」
「勿論知らない言葉も出てくるかもしれない。転生者狩りなんて聞いたことなかったでしょ? でも意味が通じるように、エルちゃんの知ってる言葉からチョイスされてるはずだよ」
「はぇ……凄いです。私の世界では住んでる国によって違う言葉を使うこともあったのに」
「天界に住む者は一般的な人間と比較すると上位種。神の下に位置するからね。言葉の違いとか、老化とか、そういった心配はしなくて良いんだ」
人間の時に心配していた多くのことが問題にならないということか。言葉の勉強や、若さを保つための努力、見た目を良くするための時間のかかる化粧なんかも必要ない。
天界内では移動ですら空間転移、衣食住が全て揃い、お金が無くても物が手に入る。
改めて考えると凄まじい世界だ。
「あ、お金!」
「どうしたの、エル」
「ユーリちゃん! ここの支払いとかってどうすれば……天界ではお金が必要ないわけだし、この世界の通貨なんて……」
「ああ、そういうこと。ちょっと見てて」
ユーリちゃんが右の手のひらを開くと、その瞬間に小さめの財布のようなものが現れた。
「天使専用のお財布、天使が念じれば出せる。この財布があれば、今居る世界の通貨を無限に創造出来る」
「む、無限に……」
「天使なら無駄遣いはしないって信頼があるからね。支払いとかはこれで行うの」
異世界での金銭面の不安も必要ないということか。まさに至れり尽くせりだ。
「ちなみに天使専用とは言っても、ナナシも出せるよ」
「え、その言い方だとナナシさんって天使じゃないんですか?」
「天使と同じように老けないし言葉の心配もないけど、厳密に言うと天使とは別の存在」
「そうだったんでーー」
私の言葉は突然の大きな音にかき消された。出入口の扉が乱暴に開けられる音に。
「なんだぁ、こんなとこに酒場があったのか!」
見るからに粗暴な男たちがゾロゾロ入ってくる、全部で八人。最初に声を出した一際大きな筋骨隆々とした男がリーダーなのか、他の七人はそのリーダーの後ろをニヤニヤしながら着いて行く。
乱暴に開けられた扉は壊れかけてしまい、店の客たちも連中から目を背ける。確かに関わり合いになりたくない。
私も目を背け、肩をすぼめる。ああいう人は苦手だ。
「リーダー! めっちゃ上玉の女がいますよ!」
「お、本当じゃねぇか!」
男たちはさっきの店員さん、さらにそのお姉さんであろう二人を舐め回すように見ている。嫌な感じだ。
「おい、姉ちゃん。ちょっと奥で俺らの相手してくんねぇか?」
「お客様、私たちはそういうサービスを提供してはいません。どうかご理解を」
一番大人の雰囲気な女性が丁寧に対応をする。多分、あの人がさっきの店員さんが言ってた長女の人。
リーダー格の男は、長女さんの手首を掴む。
「まあ、そう言うなよ。ほんの二、三時間で良いんだ」
「お姉ちゃんを離してください!」
さっきの末っ子の店員さんと、もう一人の女性店員さんが駆け寄る。だが他の取り巻きたちに二人も掴まれて、満足に身動きが取れなくされてしまった。
下卑た笑みを浮かべる男たち。店内にいた活気のあった客も今は静まり返り、顔を伏せる人がほとんど。
私はこのままじゃマズいと理解しているが、身体が動かないし、声も出せない。恐い、ただ恐い。
助けを求めるようにナナシさんとユーリちゃんの方を見ると、二人は既に席に座っていなかった。
「は、離してください!」
「リーダー、三人共凄い美人ですよ! こりゃ久々に楽しめそうだ!」
私がユーリちゃんたちがいないことに気がつき、男たちの方に視線を向ける。
するとユーリちゃんは空になったコップを手に持ち、末っ子の店員さんの元へと歩いていた。
「ねぇねぇ」
「あ、なんだこのガキ?」
「さ、さっきの席の女の子……! 危ないから逃げて!」
自分よりもユーリちゃんを心配する末っ子店員さん。それに比べて私は、座ったまま未だに動けもしない。
「おいガキ、すっこんでろ。怪我したくなければな」
ユーリちゃんはリーダー格の男に睨まれる、全く臆さない。チラッとだけ横目で見てから無視して、末っ子店員さんの服のすそをクイクイと引っ張った。
「ミルクのおかわりください」
「テメェ! クソガキが!」
無視されたリーダー格の男は長女さんから手を離し、怒号をあげながらユーリちゃんに殴りかかる。
だが「危ない、逃げて」という言葉を私が言う前に、男の手は止められた。
「……子供だぞ、なにしてんだ?」
ナナシさんが、リーダー格の男の手首を掴んで止めていた。
ナナシさんも体格はかなり良い方だが、リーダー格の男は二メートル近い巨体に筋肉で膨れ上がった私の腰よりも太い腕。
なのに、片手で掴まれ動きを制止されたことに対して驚きを見せていた。
「なんだこいつ……! テメェなにもんだ!」
「質問は外で聞いてやる……よ!」
ナナシさんは勢いを付けて男の腹部を殴りつけると、男が吹き飛ぶ。漫画みたいに大男が宙を舞う。
そのまま壊れかけてた扉を完全に破壊し、外に放り出されるリーダー格の男。
「ごめんね、扉は後で直しーー」
「ナナシさん危ない!」
やっと出た私の言葉も遅く、振り返ったナナシさんの頭部に取り巻きの男の一人が瓶を思い切り叩きつける。木っ端微塵に砕ける瓶、飛び散る酒、末っ子店員さんの甲高い悲鳴。
「ざまぁみーー」
取り巻きの男が最後まで喋ることはなかった。頭から結構な量の血を流しながらも、フラつきすらしなかったナナシさんの掌底が顎を思い切り叩く。脳が揺れたのか、男は言葉も発せず倒れ込んだ。
「はー、いってぇな」
全く変わらない声色で痛いと口にするナナシさんは、倒れた男の懐をまさぐり財布を奪い取る。それを長女の店員さんに放り、髪をかきあげながら血を拭うと笑って見せた。
「それ、お酒の弁償代ってことで。床汚してごめんね」
長女の店員さんは目を丸くしながら口をパクパクしている。無理もない、私も同じだ。
「おい、残りの。俺は外でお前らの大将ボコボコにするから、手助けでもしてやんな」
他の取り巻き連中も驚きのあまり身動きが取れていなかったけど、ナナシさんが外に出た後に全員が雄叫びをあげながら店の外へと出た。
どうやら先程吹き飛ばしたリーダーもダウンから復帰していたようで、外で男たちの怒声が飛び交っている。
「ねぇ、ミルクおかわりください」
ユーリちゃんは全く焦った様子もなく、末っ子店員さんにミルクをねだっている。混乱が抜け切らないながらも、コップを受け取りミルクを注いでくれたようで、ぺこりと一礼してからテーブルにユーリちゃんが戻ってきた。
そのまま特に何か言うわけでもなく、小皿に分けた料理を食べながら二杯目のミルクをまたクピクピと両手で飲む。
「ゆ、ユーリちゃん! ナナシさん大丈夫なの!?」
私の言葉を合図に、三姉妹の店員さんがこちらに駆け付けてくる。
まとまらないながらも言葉を色々と言い放つ私たち四人に対して、ユーリちゃんは無表情を崩さない。
「心配なら応援してあげれば? アイツら弱いから、ナナシも危ないかもね」
「え? よ、弱いから危ない? どういうこと?」
「言葉通りの意味。お姉さんたちは危ないから外出ちゃダメだよ」
店員さんたちにだけ忠告すると、ユーリちゃんはまた料理を食べ始めた。なんでこうも冷静でいられるのだろうか。
だが、ユーリちゃんに質問攻めをしていた間に、外の大きな声がほとんど消えていた。
あまり時間は経っていないはずだけど。
私が状況を確認しようと席を立った瞬間、壊れて閉じるものの無くなった出入口からナナシさんが店内に飛び込んで来た。
あちらこちらボロボロで、拭ったはずの出血も初めより増えている。見るからに満身創痍なのに、ケロっとした表情で再び立ち上がるナナシさん。
ついさっきまで扉があったはずの空間を睨みつけていて、そこからリーダーの男がフラフラと入ってきた。あちらはナナシさん以上にボロボロだ。
「タフだねぇ、根性あるよ」
「このバケモンが……」
「ダサいことすんなよ。根性あっても、根が腐ってちゃ意味ないだろ? 力は相手を従わせるためにあるんじゃない、力に屈しないために使うもんだ」
「うるせぇな……やめたやめた。俺の負けだ」
リーダーの男はそう言い残すと、懐からパンパンの袋を取り出した。
「今ある分全部だよ、店直すのに使ってくれ。……俺らも虫の居所が悪くて、なんてのは言い訳だな。騒がせて悪かった」
リーダーの男は店員さんたちに謝罪の言葉を述べると、店内で倒れた男を担ぎ上げて店を出た。
その際私もチラリと外を見ると、取り巻きの六人も完全に意識を失っていた。
「待て」
ナナシさんがリーダーの男を呼び止める。
「なんだよ?」
「ユーリに殴りかかったのは許してないからな。だから、これでチャラだ」
そう言ってナナシさんはリーダーの男に近付くと、顔に思い切り拳を叩き込んだ。ばたりと倒れて、動かなくなるがどうやら意識はあるみたいだった。
「動けるようになったら、さっさとどっか行け。心入れ替えろよ、タフガイ」
「……お前、案外容赦ないな」
リーダーの男は最後にニヤリと笑うと、そのまま意識を手放したようだ。ナナシさんは男たち八人全員を道の端へと移動させ、壁にもたれるように座らせた。
一連の作業を終えたナナシさんは、気怠そうな表情で店の中へと戻る。
「ナナシ、おつかれ」
「話の分かる奴で良かったよ。ま、少なくとも取り巻きの連中が慕うだけの人間だからな」
「結局気絶させてるけどね」
「お前を殴ろうとしたのは別問題だ」
小さく「いてて」と言いながらナナシさんは席に着くと、テーブルの料理を口に運ぶ。
「ちょっと冷めちゃったな、あとめっちゃ血の味する」
「それはナナシの口の中が切れてるだけでしょ」
「飯前の喧嘩はよろしくないな、ろくに味わえない」
食事を続けるナナシさんに、三姉妹の店員さんが頭を深く下げる。末っ子と次女の人はよほど恐かったのか、涙を流していた。
「ありがとうございます! なんてお礼を言えば良いか……」
長女の店員さんが頭を上げると、ナナシさんの手を握りお礼を述べた。
ナナシさんは顔の近さに驚き目を泳がせる。長女さんはそれに気がついたのか、顔を赤くして手をパッと離した。
「あ、すいません! あの、私たちに何かお礼をさせてください!」
「今のがお礼でいいよ。美人に手を握られながら感謝される、満足だよ」
「そういうわけにも! 私たちに出来ることなら何でも言ってください! 貴方は恩人、何でも言うこと聞きますから!」
「気持ちはありがたいけど、男に向かって女の子が何でも頼みを聞くなんて言うもんじゃないな。俺が君らの身体目当てで恩を着せた可能性もある」
「……例え、それでも構いません。それくらい感謝しているんです」
真っ直ぐな視線を向ける長女さん。二人の妹さんも同じ覚悟みたいで、真剣な表情をしている。
ナナシさんは少し目を瞑り考えると、ユーリちゃんを見た。
「ユーリ、ミルクのおかわりは?」
「欲しい」
「んじゃ、お礼はそれで」
三姉妹はキョトンとしてナナシさんとユーリちゃんを見ている。ユーリちゃんは空のコップを長女さんに手渡すと、優しく笑った。
「ナナシは一度言ったこと、中々撤回しないよ。それともお姉さんたち、ナナシに抱かれたかった?」
「ユーリ、変なこと言うな。てかお前の見た目で抱くとか言うと犯罪臭が……」
和やかに会話をする二人。長女さんは首を振ると、今度は私に視線を向ける。
「な、何かお礼をさせてくれると……」
もはや礼が出来ないことに対して少し困ってすらいるようだった。でも私に言われても困る、私は何もしていないんだもん。
助けを求めるようにナナシさんに視線を向ける。ナナシさんにとっては終わった話なので、向けられても困るだろうが、私も困っている。
出来れば助けて欲しい。
ナナシさんは私の視線に気がつくと、苦笑いして立ち上がった。
血が付着している手と口をハンカチで拭うと、長女さんの前髪をふわりと優しく上げる。
そのまま顔を近づけて、額に唇を触れさせた。
「お礼はこれで」
「ひ、ひゃいっ!」
長女さんは顔を真っ赤にして伏せると、もう何も言ってこなくなった。妹さん二人も、私も顔は赤くなっている。
なんだこれ。
「ミルクのおかわり、持ってきてくれる? お礼は貰ったから普通に注文として」
「い、いえ! ミルクくらい何杯でも飲んでください! 今すぐに持って来ますから!」
長女さんは勢いよく頭を下げると、店の奥へと消えていった。その後を妹さん二人も追う。今すぐにとは言っていたが、ミルクが提供されるまで少し時間がかかるかもしれない。
少なくとも、心が落ち着くまでは出てこないんじゃないかな。
私もドキドキを落ち着けるために料理を口に運ぶ、額にキスくらいでこんなに取り乱すなんて私は小学生か。
私が気まぐれにユーリちゃんを見ると、彼女はジトっとした目でナナシさんを見ていた。
「ナナシ」
「なんだよ?」
「軽い、チャラい、虫唾が走る」
「ごめんて」